張巡 ちょうじゅん
709-757
盛唐の忠臣。字も巡。鄧州南陽県(河南省南陽市)の人。記憶力抜群で、諸書や戦闘の陣法に詳しく、書籍は三度、人は一度会っただけで名前を覚えた。736(開元24)年の進士、太子通事舎人、清河県令、真源県令を歴任した。755(天宝14)年末安史の乱が勃発し、河南地方もたちまち南下軍の怒濤のごとき侵入をうけた。彼は直属長官である譙郡太守の楊万石の降伏命令にもかかわらず、管下の真源県吏民をしたがえ老子廟に誓って義兵をあげた。このとき河南都知兵馬使呉王
李祗の前衛として雍丘に進出してきた
賈賁の軍と合流し、雍丘城にたてこもり、賈賁の戦死後はみずから呉王先鋒使と称して防戦の陣頭に立った。757(至徳2)年小城雍丘にみきりをつけ、出戦して睢陽太守
許遠の軍と合流し睢陽の守りにつき、河南節度副使に拝された。機略縦横大いに攻囲軍を悩ましたが、糧食の欠乏はその極に達し、みずから愛妾を殺して兵士の食に供するのみならず、城内三万の婦人や老弱の者をも食らう惨状を呈した。同年ついに城は陥落し、喰らい尽くされた居民の生き残りはわずか400名であった。斬殺されたが、2年近くにわたり江淮との通路を確保した功は高く評価され、
李翰は『張巡
姚誾伝』2巻を著してその宣揚につとめた。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典6』(平凡社,1960年)
外部リンク
最終更新:2025年08月15日 01:47