唐書巻一百九十二
列伝第一百一十七
忠義中
顔杲卿 春卿 賈循 隠林 張巡 許遠 南霽雲 雷万春 姚誾
顔杲卿は、字は昕で、
顔真卿とは五世の祖が同じであり、文章・儒教を代々家業とした。父の
顔元孫は名声があり、垂拱年間(685-688)、濠州刺史となった。顔杲卿は蔭位によって遂州司法参軍に調任された。性格は剛直で、事務を処理しては聡明で練られていた。かつて刺史となって詰問叱責し、正しく明らかであり、屈することはなかった。開元年間(713-741)、兄の
顔春卿・弟の顔曜卿とともに一緒に書判抜萃科を優秀な成績を修め、吏部侍郎の
席豫は嘆息して推薦の報告を行なった。再び最優秀の成績によって范陽戸曹参軍に遷った。
安禄山はその名声を聞いて、上表して営田判官となり、常山太守に任じられた。
安禄山が叛くと、顔杲卿および長史の
袁履謙が路上において安禄山に謁し、顔杲卿に紫袍を、袁履謙に緋袍を賜い、仮子の
李欽湊とともに兵七千で土門に駐屯させた。顔杲卿が賜った衣を指さして袁履謙に向かって、「君と一緒にこのようなものを身に着けてられようか」と言ったから、袁履謙は悟り、そこで真定県令の
賈深・内丘県令の
張通幽と共に賊に対する陰謀計略を定めた。顔杲卿は病気と称して政務を見ず、子の
顔泉明を往復して計略を謀り、密かに太原尹の
王承業も応じて、平盧節度副使の
賈循に幽州を奪取させようとした。謀は漏洩し、安禄山は賈循を殺害し、
向潤客・
牛廷玠に守らせた。顔杲卿は表向き謀事に当たらず、政務を袁履謙に委ね、密かに処士の権渙・郭仲邕と策略を定めた。当時、
顔真卿が平原にいて、もとより賊が謀反を企てているのを聞いており、密かに決死の兵士を養って守備する計略をしていた。
李憕らが死ぬと、賊は段子光に首級を伝送して諸郡に晒したが、顔真卿は段子光を斬り、甥の
盧逖を常山に派遣して挙兵を約束し、賊とその根拠地の北方との道を遮断しようとした。顔杲卿は大いに喜び、これによって兵で挟撃して賊の西進する先鋒を挫こうとした。そこで賊命と偽って李欽湊に計略があるとして呼び寄せ、李欽湊は夜に帰ろうとしたが、顔杲卿が城門は夜になると開かないと伝え、外の小屋に宿泊させた。袁履謙および参軍の
馮虔・郡豪の
翟万徳ら数人と慰労の宴会をさせ、泥酔すると、李欽湊を斬り、その将の潘惟慎も殺し、賊党を殲滅し、死体を滹沱水に投棄した。袁履謙は首級を顔杲卿に見せ、喜んで涙を流した。
これより以前、
安禄山は将の
高邈を派遣して兵を范陽で募集させたがまだ帰還しておらず、顔杲卿は藁城県の尉の
崔安石に計略を練らせた。高邈が満城にやってくると、
馮虔・
翟万徳が皆駅舎に集まり、崔安石は偽って宴会するとし、高邈が馬から降りると、馮虔は役人を怒鳴りつけて捕縛した。しかも賊将の
何千年が趙からやってくると、馮虔は同じく捕らえた。日が南中しないうちに、二人の賊を送り出すことにした。顔杲卿はそこで翟万徳・
賈深・
張通幽を派遣して李欽湊の首級を伝送し、手械で二人の賊を京師に送り、
顔泉明が同行した。太原に到着すると、
王承業は自分の功績にしたいと思い、厚く顔泉明をもてなし、密かに壮士の翟喬に道中に賊を奪わせようとした。翟喬は不平を持ち、そのことを密告したから、免れた。
玄宗は王承業を抜擢して大将軍とし、伝送した役人は全員が報償された。後に事実が明るみになり、そこで顔杲卿は衛尉卿兼御史中丞を、
袁履謙は常山太守を、賈深は司馬を拝命した。そこで檄文を河北に伝送し、王師二十万が土門に入ったと言い、郭仲邕を派遣して百騎を率いて先鋒とし、南に駆けさせ、柴を曳いて塵を舞い上がらせ、見る者は大軍が来たと言った。日中、数百里に伝わった。賊の
張献誠は饒陽を包囲するところであったが、甲冑を脱ぎ捨てて逃走した。ここに趙・鉅鹿・広平・河間ではすべて偽刺史が斬られ、首級は常山に送られた。楽安・博陵・上谷・文安・信都・魏・鄴の諸郡はすべて自ら固く守った。顔杲卿の兄弟の兵は大いに勢力を振った。
安禄山が陝州に到着したとき、顔杲卿の兵が興ったことを聞いて、大いに恐れた。
史思明らに平盧軍の兵を率いて黄河を渡って常山を攻撃させ、
蔡希徳は懐州から軍を合流させた。十日もしないうちに、賊は城を猛攻した。兵は少なく、守りを固める算段ができる前で、河東に救援を求めたが、
王承業は前に賊を殺した功績を払いのけられたから、兵を出さなかった。顔杲卿は昼も夜も戦ったが、井戸水は無くなり、兵糧・矢も尽きて、六日で陥落し、
袁履謙と共に捕らえられた。賊は降伏させるよう脅したが、応じなかった。少子の
顔季明に刃を首上に当てて、「我々に降伏せよ。子を生かしてやろう」と言われたが、顔杲卿は答えなかった。遂に
盧逖と共に顔季明は殺された。顔杲卿は洛陽に到着すると、安禄山は怒って、「私がお前を太守に抜擢したのに、どうして裏切って背いたのか」と言うと、顔杲卿は目を怒らせて「お前は営州の羊飼いの夷狄だろ。ただならぬ恩寵に預かり、
天子は何事もお前を頼りにしていたのに、どうして叛いたのか。私は代々唐の臣で、忠義を守ってきた。お前を斬って
お上に申し上げることができなかったのは残念だが、お前に叛いたと言われる筋合いはない」と罵った。安禄山は怒りに堪えられず、顔杲卿を
天津橋の柱に縛り、手足をバラバラにして肉を喰らわせたが、罵倒することを止めなかったから、賊は鉤で顔杲卿の舌を断ち切り、「これでもまだほざくつもりか」と言うと、顔杲卿は何かを言おうとしたが絶命した。年六十五歳。袁履謙はすでに手足を断たれていたが、
何千年の弟がちょうどその側を通り過ぎると、血を口に含んでその顔に吹きかけたから、賊は袁履謙を切り刻み、見る者は涙を流した。顔杲卿の子・近親者は全員殺害された。顔杲卿が捕らえられると、諸郡は再び賊が守ることとなった。
張通幽は兄が賊に通じており、顔杲卿を
楊国忠に謗ったから、加贈されなかった。
粛宗が鳳翔にいると、
顔真卿は張通幽が顔杲卿の功績を歪めていたことを上表したから、ちょうどその時、張通幽は普安太守となっていたが、
上皇が張通幽を杖殺した。
李光弼・
郭子儀が常山を奪還すると、顔杲卿・
袁履謙の二家の親族数百人を獄から出し、厚く贈り物をし、葬儀を行わせた。乾元年間(758-760)初頭、顔杲卿に太子太保を追贈し、諡を忠節といい、その妻の崔氏を清河郡夫人に封じた。それより以前、博士の
裴郁は、顔杲卿が宰相ではないから、ただ諡を忠とのみにするとしたが、議する者は不満を漏らし、そのため特別に二字の諡となった。
盧逖・
顔季明および宗族の子ら全員に五品官を贈った。建中年間(780-783)、また顔杲卿に司徒を追贈した。それより以前、顔杲卿が殺されると、首級を街なかに晒され、あえて回収する者がいなかった。張湊なる者が、顔杲卿の髪を得て、持って上皇に拝謁した。その晩、夢にみた
帝が目覚めると、祭祀を行なった。後に張湊が髪を顔杲卿の妻のところに持って行ったが、妻が疑うと、髪は動いているようであったという。後に
顔泉明が遺体を購って埋葬しようとすると、処刑した者が、「死んだ時、片方の足の先は切断され、袁履謙と同じ穴に埋めた」と言い、その場所を指さしたから遺体を発見し、長安の鳳栖原に葬った。顔季明・盧逖も同じく埋葬した。
顔泉明は、孝行で節度があり、人の危機に喜んで助けに赴いた。
王承業のところに派遣され、まだ常山が陥落しておらず、そのため寿陽に滞在した。
史思明が
李光弼を包囲すると、顔泉明は捕らえられ、革で包まれて幽州に送られたが、関所を突破して免れた。史思明は唐に帰順し、
顔真卿が蒲州刺史に任命されると、顔泉明に河北に行って親族を探し求めさせた。それより以前、一人娘と姑の娘が二人とも賊中で行方不明となったが、ここに二人とも発見できた。全財産三万銭で姑の娘を買い戻して戻り、財産をとって再び戻ったが、自分の娘は再び行方不明になってしまった。
袁履謙および
父の元将軍の妻子・奴隸が三百人以上になろうとしており、他の場所に移り住んで自分たちでは生活することができず、顔泉明は力を尽くして給付し、多いところから分けて少ないところに分配し、互いに支え合えるようにして黄河を渡って顔真卿に託した。顔真卿は行きたい所に旅費を与えて送った。顔泉明が父の葬儀を行なうと、袁履謙と棺を分け、護送して長安に帰ったが、袁履謙の妻は葬具が質素であったから疑い、発いて見てみると、顔杲卿らのと同じであったから、そのため泣きながら足を踏み鳴らし、顔泉明を父のように扱った。
粛宗は顔泉明を郫県令に任命し、政務は清明となり、匪賊を誅殺し、人々はの心は一つになった。成都尹はその考課を第一であると推薦したから、彭州司馬に遷った。家は貧しく、官にあっては清廉で、孤児百人を養い、粥すら給されないこともあったが、怨みごとを言うものはいなかった。母を喪い、悲しみのあまり体が痩せ細った。その行いや義を、世間の人々は行なうことが難しいことだと思った。
顔春卿は才気が衆人よりはるかにすぐれ、容貌・仕草が美しく、世務に通じた。十六歳で明経化・書判抜萃科に推挙されて優秀な成績で及第し、犀浦県の主簿に調任された。かつて徒刑衆を州に送り出したが、その帳簿を失くしてしまったが、役所にやって来ると、記憶のみ口述で探し出し、約千人は少しも違うところはなかった。長史の
陸象先は優れた人物だと思い、推薦によって蜀県の尉に遷った。
蘇頲が代って長史となると、讒言されて獄に繋がれたが、顔春卿は「椶櫚賦」で自らの境地を託すと、蘇頲はにわかに顔春卿を出獄させた。
魏徴の遠孫の
魏瞻の罪が死罪に相当したが、顔春卿は彼のために
玉真公主に願い出たから、死なずにすみ、当時の人々はその節義を高いものとした。官は偃師県の丞で終わった。臨終に際して、
顔真卿の肘を掴んで、「お前が我が一族を大きくするのだ。私を振り返ってはならない。諸子をお前に託す」と言い、後に顔真卿は顔氏諸子の結婚を取り仕切った。
沈盈は、同じく
顔杲卿の甥で、節義の行いがあり、黄老の学に明るかった。はじめて官についたのは博野県の尉であったが、顔杲卿と共に国難に死に、大理正を追贈され、官をその二子の沈遥・沈達に与えられた。
賈循は、京兆華原県の人で、その先祖の家は常山郡であった。父の
賈会は、節義にあつく、かつて病と称して
辟署に応じず、郷里の人々は「一龍」と号した。親がなくなると、土を背負って墓をつくり、その傍らを家とし、手づから松・柏を植え、当時の人は「関中曾子」と号した。卒すると、県の人は私諡して広孝徴君という。
賈循には優れた智慧と謀があり、礼部尚書の
蘇頲は賈循のことを「今頗牧(戦国趙の名将の廉頗・李牧)」と言い、益州刺史となると、上表して列将に
辟署した。吐蕃を西山に破ると、三度転任して静塞軍営田使となった。
張守珪が北伐した時、灤河に到着すると、川の流れの凍結が溶けており、渡ろうとしても橋がなかった。賈循は川幅の広狭を計測して橋をつくって渡り、敵を破って帰還し、功績によって游撃将軍・楡関守捉使に抜擢された。楡関の地は、南は海に迫り、北は長城が連なり、林は生い茂って、敵が隠れて伏兵していた。賈循には兵士に行かせて木を切って道を開くと、賊は遁走した。范陽節度使の
李適之が推薦して安東副大都護となった。
安禄山が平盧節度使を兼任すると、安禄山の上表によって副官となり、博陵太守に遷った。安禄山が奚・契丹を攻撃しようとし、再び上奏して賈循を光禄卿とし自らの副官とし、留後を司らせた。九姓鉄勒が叛くと、安禄山は河東節度使を兼任し、賈循はまた鴈門太守を兼任して副官となった。母が亡くなり埋葬しようとすると、家にあった桑が枯れ、一晩で再生し、芝が社殿の北壁の下に出たから、人々は瑞兆とした。
玄宗が賈循に功績があるから、詔してその
父に常山太守を追贈した。
安禄山が叛くと、賈循に幽州を守らせたから、そのため
顔杲卿に招かれ、賊の巣穴を傾けるよう促され、賈循は許可した。
向潤客等らにその謀を発かれ、賊は賈循を絞殺した。建中二年(781)、太尉を追贈され、諡を忠という。
従子の
賈隠林は、賈循が追贈されたから永平兵馬使となった。宮中に入衛しようとすると、ちょうどその時
朱泚の兵乱にあい、衆を率いて行在に扈従した。
徳宗が賈隠林に会うと、その容貌が優れていたから、家や先祖について尋ねると、「故范陽節度副使の
賈循は、臣の従父であります」と答えたから、
帝は優れた人物だと思い、引き入れて寝所にいたり、板を手にして地に描いて攻守の計略を述べ、奏上して「臣は以前、日が墜ち、首で受け取った夢をみました」と言うと、帝が「それは朕のことではないのか」と言い、そこで行在を糾察させ、検校右散騎常侍に遷り、武威郡王に封ぜられた。
賊の包囲は激しくなり、賈隠林は
侯仲荘と共に矢石の中を死闘し。包囲が解囲されると、従臣たちは慶賀したが、賈隠林は涙を流して、「
朱泚は逃亡し、城を守ってきた臣下は帝室の宗社が無限の幸いとなったことを大喜びしました。しかし陛下の性格は性急で、隠し事を受け入れることができません。もし性格を改めなければ、今賊が亡びたとしても、心配は留まることがありません」と言ったが、
帝は逆らっているとはみなさず、神策統軍に任じた。卒すると、帝は質朴剛直さを思い出し、尚書左僕射を追贈し、実戸三百をその家に封じた。
張巡は、字も巡で、鄧州南陽県の人である。諸書に広く通じ、戦闘の陣法に詳しかった。志は高邁で、細かな決まり事は省略し、交友を持った者は大人長者とし、凡庸な者とは共にせず、当時の人々は図り難い人物とした。開元年間(713-741)末、進士に及第した。当時、兄の張暁は監察御史になっており、二人とも名声によって時勢に重んじられたのだと称えた。張巡は太子通事舎人より、京師から出されて清河令となり、治世の成績は最も優れ、節義によって、ある者が困窮すれば、財貨を傾けて支援して惜しむことがなかった。任期満了して都に戻った。この時、
楊国忠が国家を専横し、権勢は燃え上がるかのようであった。ある者が一度面会すれば重用されるだろうと言ったが、「これは国の怪しい兆しとなるだろう。朝臣はなるべきではない」と答え、真源県令に遷任された。土地は権勢・狡猾の者が多く、大役人の華南金が威を立てて好き勝手にしており、村中では「南金の口は役所の手である」と語っていたが、張巡が真源県に到着して下車すると、法によって華南金を誅殺し、他の連中は赦したから、行ないが改まらない者はおらず改善した。政務は簡潔で、民は非常によいものとした。
安禄山が叛くと、天宝十五載(756)正月、賊酋の
張通晤が宋州・曹州等の州を陥落させ、譙郡太守の楊万石が賊に降伏し、張巡に賊の長史となって、西に向かって賊軍を迎えるよう迫った。張巡は役人を率いて玄元皇帝祠(老子祠)に哭礼し、遂に兵を挙兵して賊を討伐することとし、従う者は千人以上となった。それより以前、霊昌太守の嗣呉王
李祗が詔を受けて河南の兵を統合して安禄山の攻撃を防ぐと、単父県の尉の
賈賁なる者がいて、閬州刺史の賈璿の子で、役人を率いて嗣呉王の兵を自称し、宋州を攻撃した。張通晤は襄邑に逃走し、頓丘県令の
盧韺に殺害された。賈賁は軍を率いて雍丘に進軍し、張巡と合流して、軍は二千人となった。この時、雍丘県令の
令狐潮が雍丘県ごと賊に従い、遂に自ら将となって東進して淮陽の兵を破り、その軍を捕虜にし、手を後ろ手に縛って役所の庭に引き出し、殺そうとしたが、しばらく巡察に出た。淮陽の囚人は縛めを解いて、決起して守備兵を殺害し、賈賁らを迎え入れた。令狐潮は帰還することができず、張巡はそこで令狐潮の妻子を皆殺しにし、城の上に磔にした。李祗はこのことを聞いて、皇帝に代わって賈賁を監察御史に任じた。令狐潮は賈賁を怨み、戻って雍丘を攻撃し、賈賁は門から出撃して、乱戦の中戦死した。張巡は騎兵を馳せて決戦し、身体に傷を負っても顧みず、兵士はそこで張巡を指揮官とした。間道から朝廷に上表し、手紙を李祗の幕府に伝送し、李祗はそこで兗州以東を張巡の経略に委ねた。
令狐潮は賊軍四万とともに城に迫り、人々は大いに恐れた。張巡は諸将に「賊は城中のあらゆる虚実を知っていて、我々を軽んじる心がある。今不意をつけば驚いて潰滅し、これに乗じれば、賊の勢は必ず折れるだろう」と諭したから、諸将は「よい考えです」と言い、張巡はそこで千人を分けて城壁の上に立たせ、数隊を出撃させ、自身は先頭に立って、直接令狐潮の軍に迫ったが、令狐潮の軍の守りに阻まれた。翌日、賊は攻城を開始し、百もの攻城楼を設けたが、張巡は城の上に柵をつくり、藁を束ねて油を注いで火を放ったから、賊はあえて向かって来ず、張巡は隙を伺って攻城楼を攻撃した。六十日にもなり、大小数百の戦いで、兵士は甲冑のまま食事をし、傷を包んで戦い、令狐潮は遂に敗走したから、追撃すると寸前のところで捕虜とするところであった。令狐潮は怒り、再び軍を率いて来攻した。しかし普段から張巡と親しく、城下に至ると、張巡に情のこもった言葉で、「我が国は危機に瀕しており、兵は関を出ることができず、天下の事はすでに去ったのだ。足下は弱兵で城を守り、忠義は立つところがない。一緒に従って富貴になってはどうか」と言ったが、張巡は、「古では父は君主のために死んでも、義は報いられなかった。あなたは妻子の怨みを抱き、力を賊に借りて謀をなそうとしているが、私は君の頭が街道に晒されて、百代の笑いものとなっているようにみえる。どうか」と言うと、令狐潮は恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして去った。
この時にあたって、王命は通じず、大将六人が張巡に対して、勢力は敵対することができず、また
お上は存亡を知ることがないから、降伏するのにこしたことがないと延べた。六人は、全員が官は開府・特進であった。張巡は表向き許諾し、翌日、堂の上に天子の画像を設け、軍の朝臣を率い、人々は全員泣いた。張巡は六将を引き立てて、大義によって責め、斬った。兵士の士気はますます上がった。
ちょうどその時、兵糧が乏しくなり、
令狐潮は賊の塩米数百艘を送って再びやって来た。張巡は夜に城の南に陣を敷き、令狐潮は全軍で襲来を防ごうとしたが、張巡は勇士を送り込んで馬に枚を含ませて川岸に出撃させ、塩・米千斛を奪い、その他に火を放って帰還した。城中の矢が尽きて、張巡は藁を縛って人形をつくること千体以上、黒い服を着せ、夜に城下に下ろすと、令狐潮の兵は競ってこれを射た。しばらくして藁の人を戻すと、矢を数十万得られた。その後再び夜に人を下ろすと、賊は笑って、備えを怠った。そこで決死隊五百人で令狐潮の陣営を破壊し、軍は大混乱となり、陣幕を焼き払い、追撃すること十里以上であった。賊は恥じ、兵を増加して包囲した。薪や水は枯渇し、張巡は令狐潮を偽って、軍を率いて撤退したいから、令狐潮の軍を二舎(60里)退き、自分らを逃がすよう要望した。令狐潮はその謀を知らず、許諾した。遂に城を空けて四方から出ること三十里、家を毀して木を引っこ抜いて帰還して防備とした。令狐潮は怒り、再び包囲した。張巡は令狐潮に向かっておもむろに「君はこの城がほしいのだろう。馬三十匹をくれれば、私は馬で逃げられる。君が城を取ったら秘密にしてくれ」と言ったから、令狐潮は馬を与えたが、張巡は全馬を勇敢な将に与え、「賊が来たら、一人一将を捕らえよ」と約束した。翌日、令狐潮は張巡に約束を履行していないと責めたが、「私は去りたいのだが、将兵が従わないのだ。どうしたらよいのか」と答えた。令狐潮は怒って戦おうとしたが、布陣がまだ整わないうちに、三十騎が突撃してきて、将十四人を捕らえ、百人の首級を斬り、武器・牛馬を奪った。令狐潮は陳留に逃げ帰り、再び出撃してくることはなかった。七月、令狐潮は賊将の瞿伯玉を率いて城を攻め、偽使者四人を派遣して賊命を伝えて張巡を招いたが、張巡は斬って晒し、他に捕縛した者は
李祗のもとに送った。包囲されること約四か月、賊は常に数万で、張巡の軍はわずか千人ほどであったが、戦うたびにたちまち勝利を収めた。ここに河南節度使の嗣虢王
李巨が彭城に駐屯して、張巡を先鋒に任じた。
にわかに魯郡・東平郡が賊郡に陥落させられ、済陰太守の高承義が済陰郡もろとも叛き、
李巨は兵を率いて東は臨淮に逃走した。賊将の
楊朝宗が謀って寧陵に急行し、張巡の補給路を遮断した。張巡は外部では李巨の援助を失ったから、軍を率いて寧陵を保つべく、馬三百頭、兵三千を連れ立った。睢陽に到着すると、睢陽太守の
許遠・城父県令の
姚誾らと合流した。そこで将軍の
雷万春・
南霽雲らを派遣して兵を率いて寧陵の北で戦わせ、賊将二十人を斬り、一万人以上を殺し、死体を汴水に投棄したから流れなくなった。楊朝宗は夜に撤退した。詔があって張巡は主客郎中、副河南節度使に任じられた。張巡は将兵で功績がある者を記録して李巨に報償を願い出たが、李巨はわずかに折衝・果毅の官職を授けるだけであった。張巡は「宗社はなおも危うく、御陵は疎遠であるのに、どうして賞与財貨を惜しむべきでしょうか」と諌めたが、李巨は聞き入れなかった。
至徳二載(757)、
安禄山が死に、
安慶緒がその部下の
尹子琦を派遣し、同羅(トンラ)・突厥・奚の強兵を率いて
楊朝宗と合流し、約十万以上で睢陽を攻略した。張巡は兵士を励まして固く守り、日中二十戦したが、士気は衰えなかった。
許遠が自分の能力が張巡に及ばないと思い、軍事は張巡が引き受けて自分はその部下とするよう願い出ると、張巡は受けて辞退せず、許遠は専ら軍の兵糧・兵器の管理につとめた。これより以前、許遠の将の李滔が東平郡の救援に向かったが、遂に叛いて賊に入り、大将の田秀栄が密かに李滔と内通していた。ある者が許遠に密告して、「明朝出戦するのに、青い帽子を被っているからわかります」と言い、見てみるとその通りで、その軍の全員が被っていた。帰還して「私が奴を誘い出しましょう」と言い、精兵の騎兵で行くことを願い、錦の帽子に変えたから、許遠はこのことを張巡に報告した。張巡は田秀栄を呼び寄せて城壁の上に登らせ、詰り、斬首して賊に見せしめにした。そこで出撃して戦って肉薄し、尹子琦は敗れ、車・馬・牛・羊を鹵獲し、すべて兵士に分け与え、わずかでも自分の家に入れなかった。詔があって張巡は御史中丞を、許遠は侍御史を、
姚誾は吏部郎中を拝命した。
張巡は勝利に乗じて陳留を攻撃しようとしたが、
尹子琦はこのことを聞いて、再び城を包囲した。張巡はその部下に向かって「私は天子の恩を受けているから、賊がもし再び来たのなら、まさに死あるのみだ。諸君は身を捨てて奉仕しているのに、賞は勲功を与えられない。これは痛恨の至りだ」と語り、聞く者は感極まった。そこで牛を撃ち殺して大宴会をし、全軍で戦った。賊は兵が少ないのを遠望して大笑いした。張巡・
許遠は自ら太鼓を叩き、賊は潰滅し、数十里追撃した。その年の五月、賊は麦を刈り、そこで渡河した。張巡は夜に太鼓を鳴らして軍を厳かにし、夜襲出撃しているかのようにみせかけたから、賊は警戒した。にわかに太鼓の音が止んだから、賊は城の上を見てみると兵は休憩しており、そこで防備を緩めた。張巡は
南霽雲らに門を開いて真っ直ぐ尹子琦のところに突撃させ、将を斬って旗を抜いた。蕃の大酋がいて甲冑を着けており、拓羯兵を千騎率いて旗を靡かせ城にやって来て張巡を招いた。張巡は密かに勇士数十人を下ろして塹壕の中に入れ、鉤・陌刀(唐代の斬馬刀)・強弩を装備し、「太鼓の音を聞いたら奮闘せよ」と伝え、大酋は軍の多さをたのんで備えをしておらず、城の上が騒がしくなると、伏兵を発して大酋を捕らえ、弩が外に向かって矢を注ぎ、賊軍は兵を救おうにも前で何が起こっているかわからなかった。にわかに兵士が再び城壁の上に釣り上げられたから、賊の皆は驚いて目を見張り、そのため駐屯していた賊兵は出撃しなくなった。張巡は尹子琦を射倒したいと思ったが、尹子琦を判別することができなかったから、そこで藁を尖らせて矢をつくった。当たった者は喜び、張巡の矢が尽きたと言って、走って尹子琦に報告しようとしたから、尹子琦を判別できた。南霽雲に射させると、一発が左目にあたり、賊は撤退した。七月、再び城は包囲された。
当初、睢陽には穀が六万斛あり、一年間持ちこたえられたが、
李巨はその半分を徴発して濮陽・済陰に運送し、
許遠は強く諌めたが、聞き入れられなかった。済陰は兵糧を得ると直ちに叛いた。これにいたって兵糧は枯渇し、兵士は一日に米一勺(1合)を与えられるだけで、木の皮を噛り、紙を煮て食べたが、わずか千人ほどとなり、全員が疲弊して弓を引き絞ることができず、救援軍はやって来なかった。賊はこのことを知り、雲梯で城壁に迫ったが、張巡は鉤爪を出して雲梯を抑えつけたから進むことができず、篝火で雲梯を焼き払い、賊は鉤車・木馬で進撃してきたが、張巡はたちまちこれらを破壊した。賊はそのような事態となり、再び攻撃せず、壕を掘って柵を立てて防衛した。張巡の兵士の多くが餓死し、残った者は全員が負傷して士気が乏しかった。張巡は愛妾を出して「諸君が長いこと食が乏しいのに、忠義は少しも衰えない。私は我が身を割いて軍に食べさせられないのを恨む。どうして一人の妾を惜しんで兵士が飢えるのを座して見ることができようか」と言い、そこで妾を殺して大宴会の料とし、出席した者は全員泣いた。張巡はむりやり妾を食べさせ、許遠もまた奴僮をころして兵士に食べさせたが、雀を捕まえ鼠を掘り出し、鎧や弩を煮て食べる有り様であった。
賊将の李懐忠が城下を通過すると、張巡が「君は奴らに仕えてどれくらいなったか」と問いかけた。「二年だ」と答えると、張巡は、「君の祖父や父は官人だったか」と尋ね、「そうだ」と返答があった。「君は代々官を受けてきた。天子の粟を食んでいたのに、どうして賊に従っているのか。本当に我々に弓を引くのか」と尋ねた。李懐忠は、「そうではない。私は昔将軍となって、しばしば死に物狂いで戦い、ついに賊の手に落ちた。これは天のお決めになったことなのだろう」と答えた。張巡は、「昔から逆賊は最終的に皆殺しになり、一日で平定されるのが習いだが、君の父母妻子は全員誅殺されるのに、どうして忍んで賊に仕えるのか」と言ったから、李懐忠は涙を覆って去り、にわかにその党派数十人が降った。張巡はその前後で説得して賊将を降伏させることが非常に多く、全員がその死力を尽くした。
御史大夫の
賀蘭進明が
李巨に代わって節度使となり、臨淮に駐屯し、
許叔冀・
尚衡が彭城に行ったが、全員が見ているだけであえて救援しなかった。張巡が
南霽雲が許叔冀の元に行って救援を要請したが、応じず、布数千端を贈るだけであった。南霽雲は馬上から漫罵して、決戦するよう要求したが、許叔冀は応じなかった。張巡は再び臨淮に派遣して緊急事態を告げ、精鋭の騎兵三十騎を率いて囲みを突破し、賊軍一万人が遮ったが、南霽雲は左右を射たから、勢いを恐れてなびき伏せた。賀蘭進明に面会すると、賀蘭進明は、「睢陽の存亡はすでに決した。兵を出して何の益があろうか」と言ったから、南霽雲は、「城はまだ降っていません。もしすでに降っていたのなら、死を以て
大夫に謝ります」と言った。許叔冀は、賀蘭進明の麾下であったが、
房琯が賀蘭進明を牽制しようと、また御史大夫を兼任させ、勢力は賀蘭進明と互いに等しく、しかも精兵であった。賀蘭進明は軍を出して許叔冀に襲撃されるのを恐れ、また張巡の名声を嫌い、成功するのを恐れ、はじめから救援軍を出す意志はなかった。また南霽雲が壮士であるのを気に入り、自陣に留めようと思った。大宴会を開き、音楽を奏でると、南霽雲は泣いて、「昨日睢陽を出た時、将兵は一粒たりも食べないことはすでに一か月になっていました。今大夫の兵が出撃せず、盛大に音楽を催しているのには、義として一人だけ享受するのに忍びありません。食べても喉を通らないのです。今主将の命が届いていないので、霽雲は指一本を置いて信を示させてください。帰って
中丞に報告します」と言い、そこで佩刀を抜いて指を切断したから、満座の者は大いに驚き、涙を流した。ついに食べずに去った。矢を抜いて仏寺の塔に向かって射て、矢は煉瓦に命中した。「私が賊を打ち破って戻ったなら、必ず賀蘭を滅ぼす。この矢は決意だ」と言い、真源県に到着し、李賁から馬百頭を贈られた。寧陵に行き、城使の
廉坦の兵三千を得て、夜に包囲を冒して突入しようとした。賊に発覚して防がれ、戦っては引き、兵の多くが戦死し、城に到着した時にはわずか千人であった。ちょうどその時深い霧となり、張巡が戦いの声を聞いて、「これは霽雲たちの声だぞ」と言い、そこで門を開き、賊の牛数百頭とともに入城し、将兵は互いに泣きあった。
賊は外部の援軍が途絶えたのを知って、包囲はますます厳しくなった。軍の中には睢陽を放棄して東に逃げるよう主張する者もいたが、張巡・
許遠は、睢陽があるから江・淮の地が安全なのであって、もし睢陽を放棄すれば、賊は勝ちに乗じて南に進軍し、江・淮は必ず滅び、また軍が餓えているから行ったところで、必ず逃げられないだろうと主張した。十月癸丑、賊は城を攻撃したが、兵士は病のため戦うことができなかった。張巡は西に向かって拝礼し、「孤城で備蓄は尽き、全うすることができませんでした。臣は生きて陛下に報いることができませんでしたが、死んで鬼となって賊を呪います」と行った。城は遂に陥落し、許遠と一緒に捕らえられた。張巡の軍は捕らえられたのを見て、立ち上がって慟哭したが、張巡は「恐れるな。死は私の運命だ」と言ったが、軍は仰視することができなかった。
尹子琦は張巡に向かって、「公が督戦するのに、大声で叫んで眼と顔は血走っており、歯で食いしばってすべてが砕けていたと聞いている。どうしてそのようなことをしたのか」と尋ねた。「私は気で逆賊を飲み込もうと思ったが、力が足りなかったまでよ」と答え、尹子琦は怒って、刀でその口をこじ開けてみると、残った歯は三・四本だけであった。張巡は「私は君主のために死ぬのに、お前は賊に従っているから、犬や豚だ。どうして長らえようか」と罵ったが、尹子琦はその忠義に感服し、許そうとした。ある者が「彼は忠義を守っているのに、どうして我らの用になることを受け入れましょうか。軍の心を掴んでいるから、生かしておくべきではありません」と言ったから、刃で降伏するよう脅したが、張巡は屈しなかった。また南霽雲にも降伏させようとしたが、応じず、張巡が「
南八よ。男児たるもの死ぬのみだ。不義に屈してはならんぞ」と叫ぶと、南霽雲は笑って、「今こそ役立つ時がきましたぞ。公は私の事を知っているのに、どうして死なないのですか」と言い、同じく降伏をよしとしなかった。そこで
姚誾・
雷万春ら三十六人とともに殺害された。張巡の年は四十九歳であった。それより以前、尹子琦は一人を生かして
安慶緒の所に送ることを議論すると、ある者が「兵を用いて防衛した者は張巡です」と言ったから、そこで
許遠を洛陽に送ったが、偃師県に到着すると、同じく屈しなかったから死んだ。
李巨が臨淮に逃げると、張巡の兄嫁の陸氏が、
嗣虢王を遮って臨淮に行かないよう勧めたが、受け入れられず、かえって百反の縑(かとり)を賜ったが、陸氏は受け取らず、張巡のために行軍の間縫い仕事をし、軍中では「陸家姑」と呼ばれたが、張巡に先んじて殺害された。
張巡の身長は七尺(約210cm)で、髭は怒るたびにすべて張った。読書すれば三度も読まないうちに一生忘れることはなかった。文章をつくるのに草稿しなかった。睢陽を守備すると、兵士や住人で、一度会って姓名を尋ねると、その後は忘れることがなかった。
令狐潮および
尹子琦と、大小四百戦し、将三百人・兵士十万以上を斬った。その用兵は未だかつて古法によらず、大将を抑えて戦いを教え、それぞれが張巡の意から出た。ある者がそのことについて尋ねると、「古は人々が純朴であったから、軍は左右前後あって、大将はその中央にいて、三軍は大将の指揮によって一斉に進退した。現在、胡人は急襲を得意とし、動きは予測困難で、混沌としている。だから私は兵に将の意図を理解させ、将に兵士の感情を理解させ、上下互いに習わせるから、人々は自立して戦うことができるのだ」と答えた。その武器・甲冑は敵から奪い、今まで自分で用意したことはなかった。戦うごとに、自ら行陣に臨まず、退く者がいると、張巡はその場所に立って、「私はここから退かないぞ。私のために戦うんだ」と言うと、兵士はその誠に感じ入って、全員が一騎百戦であった。人を待っては疑うことはなく、賞罰に信があり、軍と甘いも苦しいも寒きも暑きも共にし、雑役の者であっても、必ず衣服を整えて面会し、部下は争って死力を尽くし、そのため少数で大軍を攻撃して、いまだかつて敗れたことはなかった。長期間包囲され、初めは馬を殺して食べていたが、それが尽きると、婦人や老弱の者、およそ三万人を食べた。人々は死ぬであろうことを知っていたが、離反する者はいなかった。城が陥落すると、遺民は四百人がいただけであった。
それより以前、
粛宗は中書侍郎の
張鎬に詔して
賀蘭進明に代わって河南節度使とし、浙東の
李希言・浙西の司空の襲礼・淮南の
高適・青州の
鄧景山の四節度を率いて挟撃して睢陽を救援したが、張巡が死んで三日たってから張鎬が到着し、十日して
広平王が東京を回復した。張鎬は中書舎人の
蕭昕に命じてその行いを誄(しのびごと)させた。当時、「張巡は始め睢陽を守った時、民衆六万いたが、すでに兵糧が尽き、部隊を保持して再生する道を見出さなかった。人を食べるよりは、むしろ人を全うした方がよかったのではないか」と主張する者がいた。ここに張澹・
李紓・董南史・
張建封・
樊晃・
朱巨川・
李翰の全員が、張巡が江・淮を蔽遮し、賊の勢力を阻んだから、天下は滅びなかったのが、その功績であると言った。李翰らは全員有名の士で、ここに天下に異言はなかった。
天子は詔を下して、張巡に揚州大都督を、
許遠に荊州大都督を、
南霽雲に開府儀同三司・再贈揚州大都督を追贈し、あわせてその子孫を寵用した。睢陽・雍丘に徭税三年間の免除を賜った。張巡の子の張亜夫は金吾大将軍を、許遠の子の許玫に婺州司馬を追贈した。全員が廟を睢陽に建立され、毎年に祭祀を行った。
徳宗は至徳年間(756-758)以来の将相で功績が最も顕著な者を次の位とし、
顔杲卿・
袁履謙・
盧弈および張巡・許遠・南霽雲を上とした。また
姚誾に潞州大都督を追贈し、一子に官職を給わった。貞元年間(785-805)、再び張巡の他の子の
張去疾・許遠の子の許峴に官職を給わった。張巡の妻に申国夫人を追贈し、帛百反を給わった。これより
僖宗まで、忠臣の後嗣を求めるも、三人に及ぶ者はいなかった。大中年間(847-860)、張巡・許遠・南霽雲の画像を凌煙閣に描いた。睢陽は今に至るまで祠享(まつり)し、「双廟」と号しているという。
許遠は、右相の
許敬宗の曽孫である。寛容でおだやかな人物で、役人の事務に明るかった。はじめ河西に客人となり、
章仇兼瓊の剣南府に
辟署されたが、子を妻とするよう要請されたが固辞した。章仇兼瓊は怒り、罪とされて弾劾されて高要県の尉に貶された。赦されて京師に帰還した。ちょうどその時、
安禄山が叛き、ある者が許遠を
玄宗に推薦したから、召されて睢陽太守を拝命した。許遠は
張巡と同年であったが張巡が早生まれで年長であったから、そのため張巡を呼んで兄とした。
大暦年間(766-779)、
張巡の子の
張去疾が上書して、「胡どもが南侵すると、父の張巡は睢陽太守の許遠とともにそれぞれ一面を守備しました。城が陥落した時、賊は許遠が守備していた所から侵入しました。
尹子琦は郡の部曲をそれぞれ一方に分け、張巡および将校の三十名以上は全員心臓を割かれて肌を切り裂かれ、むごたらしく傷つけることはすべてを備わってましたが、しかし許遠は麾下とともに無傷でした。張巡は死に際して「ああ、恨まなければならない人がいる」と歎きました。賊は、「公は我々を恨んでいるのか」と尋ねると、「許遠の心が得ることができず、国家の事を誤ったのを恨んでいる。もし死んで出会うことがあったら、地下で赦さないだろう」と答えました。そのため許遠の心が背いていたことは、梁・宋人が皆知っていることなのです。国威を喪失させ、張巡の功績は貶され、許遠は臣にとって不倶戴天で、官爵を追奪し、冤恥を刷新してくだしますよう」と述べたから、詔を尚書省に下して、張去疾をして許峴および百官と議論させた。全員が張去疾の証明・報告によって城が陥落して許遠が一人生きていたことが明らかであるとした。また許遠はもとより睢陽を守り、城が皆殺しとなったのに生きて主将として功績となったことは、許遠が張巡の後に死んでも判断を難しくするのに充分ではない。もし後で死んだ者が賊と一緒になったというのなら、張巡に先んじて死んだ者は、張巡が叛こうとしていたと言うことができようか。この当時張去疾はまだ幼なく、事実を詳細に知らなかった。また国難以来、忠烈がいまだ二人に先んじる者はおらず、事を文書に表し、年月があれこれを妄りにすべきではないとした。議論は止んだ。しかし議論は揉めて同じ見解はでなかった。
元和年間(806-820)、
韓愈が
李翰が書いた
張巡伝を読んで、許遠の事績の記述がないのがよろしくないと思った。そこで次のように述べた。「二人は城を守って共に死に、名声を築いた。しかし二家の子弟には才覚が欠けており、父たちの志を十分に把握できなかった。張家では許遠が死を恐れて敵に降伏したのではないかと疑った。もし許遠が本当に死を恐れていたなら、どうして苦しんでわずかな土地を守り、自分の奴隷を殺して兵士の肉として食わせ、降伏せず敵に抵抗したのだろうか。また外部からの援軍もなく、人々が互いに喰らいあってでも守り、愚か者でさえ彼らの死期を予測できただろうに、だから許遠が死を恐れなかったことは明白なのである」 また次のように述べた。「城が陥落したのが、守る場所が原因にあったとすることは、これは子供の視点と何ら変わらない。人が死ぬときは、必ず内臓のいずれかが必ず病となる。縄を引いて切断したとしても、必ず特定の部位が切断される。人の死や縄の切れ目を見た者は、それを見て特定の臓器や特定の縄の部分を責める。実に理不尽である」韓愈は褒貶に関しては最も慎んでおり、だからここに著したのである。
南霽雲は、魏州頓丘県の人である。若い頃は微賎の身で、雇われて舟を操船していた。
安禄山が叛くと、鉅野県尉の張沼が挙兵して賊を討伐し、抜擢されて将となった。
尚衡が汴州の賊である
李廷望を討つと、先鋒となった。派遣されて睢陽に至り、
張巡と計略を練った。退いてある人に向かって、「張公は心を開いて人と対する。私は本当に仕える場所を得た」と言い、遂に張巡の所に留まった。張巡は強く帰るよう勧めたが、去らなかった。尚衡は金や絹を贈って迎えたが、南霽雲は陳謝して受け取らず、張巡に仕え、張巡はあつく礼遇を加えた。包囲されると、台を築いて万死一生する者を求めたが、数日あえて応じる者はいなかった。突然、怒鳴り声をあげて来た者がいて、それが南霽雲であった。張巡は対面して涙を流した。南霽雲は騎射を得意とし、賊を百歩以内に見るとただちに射て、弦音に応じて斃れない者はいなかった。
子の
南承嗣は、涪州刺史に任じられた。
劉闢が叛くと、備えをしなかったから永州に流謫された。
雷万春は、どこから来た人なのかわからず、
張巡に仕えて偏将となった。
令狐潮が雍丘を包囲すると、雷万春は城の上に立って令狐潮と語ると、伏兵の弩が矢を六発放って顔面に命中したが、雷万春は動じなかった。令狐潮は木に刻んだ人であると疑ったが、間諜からそれが本人であるとの報告を受けると、大いに驚いた。遠くから張巡に向かって、「雷将軍を見て、君の命令が厳なることを知ったぞ」と言った。令狐潮が雍丘の北に陣を敷くと、謀って襄邑・寧陵を襲撃した。張巡は雷万春に騎兵四百を率いて令狐潮に突撃させ、最初は賊に包囲された。張巡がその包囲をつくと、大いに賊は敗れ、令狐潮は逃げ去った。
雷万春の指揮・策略は
南霽雲に及ばなかったが、不屈で命令に従った。戦いとなるたびに、
張巡が雷万春を任用することは南霽雲と等しかった。
姚誾は、開元年間(713-741)の宰相である
姚崇の従孫である。父の姚弇は、楚州刺史である。姚誾の性格は豪胆で放逸で、酒を飲んでは戯れることを好み、楽器演奏をよくした。寿安県の尉に任じられた。平素より
張巡と親しく、城父県令になると、遂に張巡と同じく睢陽を守備した。累進して東平太守を追贈された。
張巡が
南霽雲・
雷万春を派遣して賊を寧陵で破ると、別将二十五人がおり、石承平・李辞・陸元鍠・朱珪・宋若虚・楊振威・耿慶礼・馬日昇・張惟清・
廉坦・張重・孫景趨・
趙連城・王森・喬紹俊・張恭黙・祝忠・李嘉隠・翟良輔・孫廷皎・馮顔は、その後全員が張巡の殉難で死に、四人は姓名が失われた。
賛にいわく、
張巡・
許遠は、烈丈夫というべき人物である。疲弊した兵士数万で、孤城を守り、手に負えない敵に抵抗しようとし、敵の喉の牙の患いとなり、東南に侵食させることをできなくし、頭と尾を抑え込んで、梁・宋の間で撃滅したのである。大小数百戦、力を尽くしたとはいえ死んだが、唐は全うして江・淮の財用を得られ、これによって中興となり、利益を集めて害を償い、百で一万に替えるようなことができたのである。張巡は先に死んだが慌ただしさはなく、許遠が後で死んだが屈することはなかった。張巡が死んで三日にして救援が到着し、十日で賊が滅んだが、天がこれによって忠節を全うした名誉を二人につけ、名を無窮に賜い、生きたままで後に名声を得るような状態にまでは待たせなかった。宋の第三代章聖皇帝(北宋の真宗)が東巡なされ、その廟を通過すると、車駕を留めて歩き回られ、張巡らが強く抜きん出ていたことを嘆かれ、忠節を尽くしたことを金石に刻まれ、彼の忠誠を称えたのである。伯夷・叔斉が西山で餓えて倒れたのを孔子が仁と称えたのと、何の違いがあるといえようか。
最終更新:2025年08月16日 14:01