韋縚 いとう
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盛唐の官人。雍州万年県(陝西省西安市長安区)の人。名門の京兆韋氏の傍系である鄖公房の出身。北周の大司空の韋孝寛の玄孫で、その世系は韋孝寛→韋津→韋琬→
韋叔夏→韋縚である。衛尉少卿となり、開元十一年(724)
玄宗が円丘を享ると、中書令
張説とともに礼儀使となった。開元十二年(724)『封禅儀注』の編纂に関与し、太常少卿となると開元二十四年(726)奏上して太廟署を廃止し、少卿一人に太廟の事を司らせるべきとした。開元年間(713-741)末、名山を祭り、ついでに隠れた民を訪れた。天宝元年(742)
太清宮が完成すると、「景雲曲」・「九真曲」・「紫極曲」・「小長寿曲」・「承天曲」・「順天楽」の六曲をつくり、また商調(異なる調の小曲を組み合わせて)で「君臣相遇楽曲」をつくった。官は太子少師で終わった。娘は棣王
李琰の妃となった。『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2025年08月29日 18:45