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巻一百二十二 列伝第四十七

唐書巻一百二十二

列伝第四十七

魏元忠 韋安石 陟 斌 叔夏 縚 抗 郭元振



【魏元忠伝】
  魏元忠は、宋州宋城県の人である。太学生となり、些細なことにはこだわらず、長らく任命されなかった。盩厔県の人である江融は兵法に明るく、魏元忠は彼に従って学び、教えられたことのすべてを学んだ。儀鳳年間(676-679)、吐蕃がしばしば辺境を略奪すると、魏元忠は洛陽宮に意見封事し、将軍の指揮と用兵の要点を以下のように述べた。

    「天下の権力は二つあり、文と武のみです。しかし勝利を制して人を操るのには、その道は一つだけです。今、武というものはまずは騎射のことを言い、戦略を軽視しています。文というものは文章を最初にみて、国家の大事を治めることを考えておりません。臣が見たところ、魏・晋・斉・梁の時代には才能あるものはもとより乏しかったわけではありませんが、しかしながら乱を治めるのに何の益がありましたでしょうか。養由基(春秋・楚の弓の名手)は射れば甲冑の小札を射抜くことができましたが、鄢陵の敗走を止められませんでした。陸機(西晋の人)は『弁亡論』を著せるほとでしたが、河橋の敗北を救うことはできませんでした。これは彼らの限界を如実に示しています。

    さて、才能は世に生まれ、世は真に才能を必要としています。どうして世に才能が生まれないことがあったでしょうか。どうして才能が世を助けないことがあったでしょうか。そのため物は求められないことがあっても、いままで物が存在しなかった時代はありません。士が用いられないことがあっても、いままで士がいなかった時代はありません。志のある士は富貴にあっても賎貧と共にし、皆功名を立てて、これによって後世に伝えられることを願いますが、しかしながら己を知る者に出会うのが難しく、英哲に出会うのが稀なのです。士が優れた文章を刻んで後世に残そうと思いながらも卑賤の境地になってしまい、棟梁の地位になることを心に抱きながら困窮して野垂れ死んでしまう者がおり、悠々たる流れにあって、人が直接この士の貧賤を見たところで、どうしてその方略がわかるのでしょうか。そのため漢は韓信を任用すると、軍をあげて驚き笑いました。蜀が魏延を用いると、群臣は不安にかられました。これは富貴の者が善いことを行なうことは簡単ですが、貧賤の者が功績をあげることは難しいのです。昔、漢の文帝が魏尚の賢人ぶりを知らずに投獄し、李広の才能を知りながらも登用せず、そのためその生まれが時代に合わなかったことを嘆きました。李広の才能を用いれば天下無双であったのに、当時、毎年匈奴と事を構えていたのに、ついに任じられませんでした。そのため身近な魏尚や李広の賢人ぶりを知らず、遠い時代の廉頗・李牧を思っていたので、馮唐が魏尚の有能ぶりを知っていたのに、用いることができませんでした。これはその身を当時の君主が知っていたのに、その才能を尽くすことができなかったのです。晋の羊祜は呉を攻略しようと謀りましたが、賈充・荀勗が反対しました。羊祜は嘆いて、「天下の事はいつも十中七・八は思い通りにならない」と言い、二人の性格は合わなかったので、ついに呉を攻略できなかったのです。これは功績をあげる場がありながらも、その志を広げることができなかったのです。平民が心に奇策を抱き、朝に奏じて夕に召喚されることを望んだところで、どうして簡単に得られるでしょうか。臣が願うところは、文武官の五品以上の中から、智は羊祜のように、武は李広のようにあって、その才能を発揮できない者がいなくなるよう探し出せないものでしょうか。それぞれがその志を述べさせ、長らく失職させることがなくなりますように。」

  また次のように述べた。

    「人間には常の習慣はなく、政治には治と乱があります。軍に常勝はなく、将には出来不出来があります。軍事は王者の大事であり、存亡に繋がりますから、将軍にその人物ではない者を任命すると、民は滅亡し国は敗れるのです。斉の段孝玄(段孝言)は「大軍を率いるのは水の入った盆を運ぶようなものだ。少しでもつまづいたら、どうして止められようか」と発言し、周亜夫(前漢の将軍)は陣を堅くして呉・楚を挫き、司馬懿は陣営に閉じこもって諸葛亮を困らせましたが、これはいずれも軍を全うして勝利を制し、戦わずして敵を退けたのです。このことは大将が敵に臨むには、智謀によって根本をなすことを示しています。今、人を登用するのは、将軍の家の子や、あるいは戦死した者の孤児の類で、才幹や計略によって昇進したわけではないので、全力を尽くし、忠誠を尽くしたところで、敗北は免れず、一体何の役に立つというのでしょうか。また功績を立てた者は、成し遂げたことを言うのであって、出身を言うことはありません。その能力を言うのであって、出自を言うのではありません。陳湯(前漢の将軍)・呂蒙・馬隆(魏・西晋の将軍)・孟観(西晋の将軍)は全員貧賤の出でしたが、戦争での勲功は非常に高く、またその家は代々将軍の家として有名にはならなかったのです。そのため陰陽が調和しなければ、兵士から選んで将軍とします。蛮貊が服属しなければ、士官から選んで将軍とします。今、広大な国土と億兆にもおよぶ多くの民を抱えているのですから、どうして卓越した士がいないということがありましょうか。臣が恐れることは、まだこのことが考慮されていないのではないかということです。

    また褒賞は礼の根源であり、刑罰は法の根本です。礼が崇ればはかりごとに口出す人がその能力を尽くし、賞罰が厚ければ、義士は死を軽んじ、刑が正ければ君子はその心を高ぶらせ、罰が重ければ小人が過ちに懲りるのです。賞罰は軍事と国政の指針であり、政治と教育の治療法です。吐蕃もとより強敵でなかったのですが、薛仁貴郭待封は甲冑を脱ぎ捨てて軍を喪失し、単身脱出して命を免れるとなってしまいました。国家の寛大な政策により、罪は止められて官位を削られて封を除かれるにとどまり、重大な罪を犯した者が逃げられるほど緩い法が、どうしてこれを以上のことがありましょうか。陛下はその後に努力して功績を収めるであろうことを顧みたとはいえ、しかし朝廷に人物が少ないというということなら、どうしてこのようなのが一人・二人といないというのでしょうか。そもそも賞を勧めないのを止善と言います。罰して懲しめないのを、縦悪といいます。臣は真に卑賤の身で、権限外の事について干渉しましたが、このようなことをしたところで、どうして陛下の君臣の間に不和を生じさせようと思っているでしょうか。まさに刑賞が一つでも欠くなら、百年たっても戻ることはありません。そのため国に賞罰なければ、尭・舜だからといっても何もすることはできません。今刑罰は行われず、褒賞も同じく信じ難く、そのため意見する者は皆、「この頃の征伐は、中身のない空約束の賞罰に過ぎない」と言います。思いますに心ある臣を忘れ、勲功をもたらすことで国庫が尽きることを恐れ、意を僅かな事柄を思って、これによって国に益するとは、いわゆる、もとで毫釐ほどのわずかな違いを惜しんで、末では千里の差となるという例です。また平民で最も些末な者であっても騙されることはありません。どうして信用できない令がありながら、偽りの褒賞を設ける格などありましょうか。蘇定方が遼東を平定し、李勣が平壌を破ってから、褒賞は行われず、勲功もまた軽視され、歳月は過ぎ去り、真偽は入り乱れています。臣は、役人が法を遵守せず、勝手に京師から、偽りの勲功によっているのは、責任者の過失で、つまりは遠くではなく、近くは尚書省の中に責任があると思っています。しかし今まで一人の台郎が斬刑されたとか、一人の令史が誅戮されたなどして全国に知らしめさせるとは聞いたことがありません。陛下はどうして遠い過去に目を向け、近い将来を見ようとなされないのでしょうか。神州たる我が国の根幹は、文が栄えるのが政治の根本で、治と乱はそこにかかっています。臣はそのためあえて死の危険をおかして申し上げるのです。澄んだ鏡は現実を映し出し、過去は現在を照らします。分かりやすくするために、臣に何卒最近の例を挙げて説明させてください。貞観年間(623-649)、万年尉の司馬玄景は華麗なる文章で、迎合して人の物を奪おうとしましたが、太宗によって都の市で処刑されて晒し者にされました。後に高麗を征伐すると、総管の張君乂は賊に攻撃されて進撃せず、旗下で斬られました。臣は功績を偽る罪は、司馬玄景の罪よりも大きいと思います。薛仁貴らの敗北は、張君乂の罪よりも重いと思います。速やかに誅殺させるなら、諸将はどうして再び敗北できたでしょうか。慈愛深い父親からは敗北する息子が出来がちですが、厳格な家からは敵にむざむざ捕虜となる者はいません。さらに、君主の問題は野心の欠如であり、大臣の問題は倹約の欠如です。陛下の野心の欠如は、慈愛深い父親に起因しているのではないかと心配しています。これはまるで日食と月食のようです。

    また現在、将軍や役人は貪欲かつ横暴で、所轄する人・馬で利財しており、臣は戎狄が平定されることが朝夕といった速やかになることを期待できないと恐れています。およそ人々には遥かな将来を見通した計略を建てるだけの思慮を持ち合わせていないことはわかっており、皆が吐蕃との戦いについて、前隊が全滅してから後隊が前進し、重武装で騎兵は多く、しかも山には瘴気があり、官軍が遠くまで侵入しても、前方には得るところがなく、穀物は数百万も蓄えられず、大規模作戦を実施するだけの資材がないと言います。臣が思いますに、吐蕃が望んでいるのは中国であり、孤星が太陽に対するようなもので、自然の大小があり、明暗をかけることを疑いようがありません。夷狄は禽獣のようであるとはいえ、また命を大事にすることを知っており、どうして前軍が全滅してから後軍が進撃することをよしとしましょうか。そのため残虐行為が彼らに迫ることは望むものではありません。その戦い方が必ず死を顧みないようなものであったとしたら、兵法は敵がよく戦うのを許すことになるので、智謀や計略によって攻略すべきであるので、どうして勝てないと心配することがありましょうか。今後、将軍に敵を殺させるなら、死体は横たわって野を覆い、その頸級を埋葬して京観をつくるなら、敵は官軍の鐘や太鼓を聞いて、はるかかなたに進軍する塵が立ち上るのを見て逃げ出すので、どうして前隊が全滅する余裕がありましょうか。薛仁貴らが軍を全滅させ士気を失ったから、敵は山谷を跳梁跋扈できるようになったのです。

    また行軍には馬の力が必要ですが、数は十万に足りず、敵と戦おうにも足りません。臣が願うところは、何卒、天下の王公から斉の名族まで、人々に百銭を税となされますように。また天下の馬に関する禁令を緩め、民に大馬に乗らせ、数に制限を加えず、官はすべてを記録し隠蔽させることがないようにします。三年もせずして、民間で飼われる馬は五十万にもなるでしょう、そこで州県に詔して税金で馬を買い、もし王師に大規模作戦がおこれば、一朝に用いるべきです。また敵の騎兵が強力であるので、もしすべて人々に乗らせるのなら、市で優れた馬を購入し、これによって中国に益し、敵兵の勢力を次第に損耗させることができ、国家の利となるのです。」

  高宗は上奏をよしとし、秘書省正字を授け、中書省にあたらせ、仗内供奉とした。

  監察御史に遷った。はかつておもむろに、「外では朕のことをどのような主であると言っているか」と尋ねると、「周の成王・康王、漢の文帝・景帝です」と答えた。「では残念に思ったことはあるか」と尋ねると、「ございます。王義方は一代の豪英でしたが、民間で死にました。意見する者は陛下が賢人を用いることができないと言っています」と答えた。帝は、「私が登用しようと思ったときに、彼の死を聞いたのだ。手遅れだったのだ」と言うと、魏元忠は、「劉蔵器の行ないに才幹があったことを、陛下はご存知のはずです。今七十歳で尚書郎となっています。いたずらに彼がまた棄てられて嘆くでしょうか」と言うと、帝は黙って恥じ入るばかりであった。

  殿中侍御史に遷った。徐敬業が挙兵すると、魏元忠に詔して李孝逸の監軍となった。臨淮に到着すると、偏将の雷仁智が賊に敗北し、李孝逸は敵の勢いを恐れ、兵を停止して前進しなかった。魏元忠は、「公は宗室であるから将軍となり、天下の安全・危険は公の手にかかっています。海内は長いこと平和であったのに、突然狂乱を聞き、耳や心を傾けて李孝逸の誅殺を待っているのです。今、軍は前進せず、遠近は失望し、万が一朝廷が他の将軍で公と交替したら、またどう言い逃れするのですか」と言うと、李孝逸はそうだと思い、そこで部下を分進して討伐した。当時、徐敬業は下阿鶏に留まり、弟の徐敬猷は淮陰に屯し、全員が「先ず下阿鶏を攻撃すれば、下阿鶏は敗れ、淮陰は自然と崩壊します。淮陰は救援を要請するでしょうから、徐敬業は必ず救援に向かうので、これによって敵が腹背同時にいることになります」と言った。魏元忠は「そうではありません。賊の強兵はすべて下阿鶏を防衛しており、利は即決した方にあり、負けてしまえば、大事は去ってしまいます。徐敬猷は博徒で戦いを知らず、またその兵は少なく動揺しやすい。大軍で臨めば、勢いで勝つでしょう。徐敬業は直接江都を叩くことを恐れており、必ず我らを中路で迎撃してくるであろうから、我らが勝利に乗じて進撃し、速攻によって敵の疲弊したところを攻撃すれば、必ず破ることができます。これは獣を追うのに例えるなら、弱いものを先に捕まえるということです。今弱い敵を捨てて、走って強力な難敵にあたるということは、考慮してはなりません」と述べた。李孝逸はそこで兵を率いて淮陰を攻撃し、徐敬猷は脱出して単身逃れ、遂に徐敬業に進撃し、平定した。帰還すると司刑正を授けられた。

  洛陽県令に遷った。周興の獄に陥れられて死ぬ所であったが、揚州・楚州平定の功績によって、配流ですんだ。一年ほどして御史中丞となったが、また来俊臣に囚獄された。処刑を目前に控えても、顔色は変わらず、前に処刑された宗室三十人以上の死体が眼前に積み重なっていた。魏元忠はこれを見て、「男子たるものがいるべきところだ」と言った。にわかに鳳閣舎人の王隠客に勅によって騎馬で馳せて死刑を免れ、伝声が市にまで聞こえ、囚人たちが歓喜の叫びをあげたが、魏元忠は一人座ったままだった。左右の者が立ち上がるように命じたが、魏元忠は「まだどうだかわからんぞ」と言い、王隠客が到着し、詔を宣り給い終わると、そこでおもむろに謝し、また顔色は変わらなかった。費州に配流された。戻って中丞となった。一年ほどして侯思止に陥れられて囚獄し、そこで嶺南に流された。酷吏が誅殺されると、人々が魏元忠の冤罪を申し上げたから、京師に召されてもとの官に戻った。そこで宴会に参加すると、武后が「卿は何度も非難されてきたが、どうしてか」と尋ねると、「臣は鹿のようなもので、人の罪状を告発することを任とする役人は猟師のようなものです。臣の肉を汁物とするだけでいいのです。彼は臣を殺して昇進しようとしているので、臣に何の罪がありましょうか」と答えた。

  聖暦二年(699)、鳳閣侍郎、同鳳閣鸞台平章事(宰相)となり、にわかに検校并州長史、天兵軍大総管となり、突厥に備えた。左粛政台御史大夫、兼検校洛州長史に遷り、統治には威明を轟かせた。張易之の家奴が百姓に横暴を働くこと甚だしく、魏元忠は家奴を笞殺したから、権勢ある家は憚り従った。にわかに隴右諸軍大使となり、吐蕃を討伐した。また霊武道行軍大総管となって突厥を防いだ。魏元忠は軍を率いるのに慎重で、赫々たる武功はなかったとはいえ、今まで敗れたことがなかった。

  中宗が東宮であった時、検校左庶子となった。当時、二張(張易之張昌宗)の権勢が朝廷を傾けており、魏元忠はかつて「臣は先帝の恩顧を受け、また陛下の厚恩を受けましたが、忠誠を尽くすことができず、小人を君側に近づけさせているのは、臣の罪です」と上奏したから、張易之らは恨み怒り、そこで武后が病気となると、ただちに魏元忠と司礼丞の高戩のことを、皇太子を巻き込んで友人にしようと謀っていると謗り、遂に制獄に下された。皇太子・相王および宰相に詔し、魏元忠らを法廷に引き出して弁明させたが、判決することができなかった。張昌宗はそこで張説を召集して証人とした。張説は当初偽って証人となると言っていたが、真実を明かすよう迫られると答えず、武后がまた発言を促すと、張説は「臣は聞いておりません」と言ったから、張易之らはにわかに「張説は謀反人の共犯者です。張説はかつて魏元忠のことを伊尹・周公に喩えました。伊尹は太甲を放逐し、周公は王位をとりました。これは叛いていることは非常に明白です」と言ったから、張説は、「張易之・張昌宗なんかがどうして伊尹・周公を知っておりましょうか。臣はよく伊尹・周公が古代の忠臣であることを知っておりますとも。陛下が伊尹・周公について学ばせなければ、後世どうなるでしょうか」と言い、張説はまた「臣は張易之に従えばすぐさま宰相になれ、魏元忠に従えばただちに族滅されることはわかっています。今面と向かって欺かないのは、魏元忠が冤罪となってしまうのを恐れるからです」と言った。武后は讒言であることを悟り、そこで張易之の主張を何度も退け、そこで魏元忠を高要県の尉に貶した。

  中宗が復位すると、召喚されて衛尉卿、同中書門下三品(宰相)となった。十日もしないうちに兵部尚書に遷り、侍中に昇進した。武后が崩ずると、は喪に服したから、軍事を魏元忠の裁可に委ね、中書令を拝命し、斉国公に封ぜられた。神龍二年(706)、尚書右僕射、知兵部尚書となり、当時の朝廷の政権を掌握し、群臣で羨望しない者はいなかった。陵に告祭するために謁見すると、宰相・諸司長官に詔して上東門に見送りし、錦袍を賜り、千騎・四人の侍を給付され、銀千両を賜った。魏元忠が家に到着したが、親戚に大盤振る舞いするようなことはなかった。帰還すると、帝は彼のために白馬寺に行幸して出迎えた。

  安楽公主が密かに皇太子を廃位するよう願い、自身を皇太女とするよう求めると、はこのことについて魏元忠に諮問した。魏元忠は、「公主を皇太女となさるのでしたら、駙馬都尉はなんど呼べばよいのでしょうか」と答えたから、安楽公主は怒って、「山東の朴訥人なんかがどうして礼を知っていようか。阿母子を尚んで天子とするなら、私はどうしてなれないのか」と言った。宮中では武后のことを阿母子と言い、そのため安楽公主はそう言ったのである。魏元忠は厳しく不可を言い、これによって沙汰止みとなった。

  武三思が政権を掌握すると、京兆の韋月将、渤海の高軫は上書してその悪事を申し上げたが、は彼らを榜殺したから、その後であえて申し上げる者はいなくなった。王同皎が武三思を誅殺しようとしたが失敗し、一族は誅殺された。魏元忠はその間要職にありながら、ためらって目立った意思を述べなかった。当初、魏元忠は武后の宰相となり、清廉かつ実直という名声があったから、宰相になると天下の声望を一身に集め、王室の根幹を正すものと望まれたが、しかし皇帝の寵愛を受ける君側を憚り、善を賞して悪を罰することが出来ず、名誉や声望は大きく失墜した。陳郡の男子である袁楚客なる者が書簡によって以下のように戒めた。

    「現在、皇帝は新たに徳を積んだばかりで、官吏を任命する際には賢才を考慮し、側近にはただその人を選び、そこで大いに教化することを布告し、古代からの理を守り、天下を正されています。閣下はどうしてただ黙っているのでしょうか。社稷に利することであれば、結構なことです。さて、天下を安定させるにはその根本を正さなければなりません。根本を正すことは天下を固めることで、国の興亡に繋がるのです。皇太子は天下の根本で、例えるなら大樹のようなもので、根本がなければ枝葉は衰え、国に皇太子がいなければ、朝野は不安となります。儲君は次の時代に影響があり、そのため師保が君人の道を教え、徳を培うので、天下に重んじられるのです。今皇子はすでに成長していますがまだ嫡嗣が定まっておらず、これは天下に根本がないということになります。天下に根本がなければ、樹に根がなくなったようなもので、枝葉はどうして存在しましょうか。閣下に願うところは、宴席の間にでもお上に申し上げて、賢人を選んで立てられるなら、天下の道は安んじましょう。無駄に日を送って皇太子を置かなければ、朝廷はすべてを失うでしょう。

    女には家の中にだけで適用される規則があり、男は外で教育を受けます。どうして互いに乱すことがあってよいでしょうか。幕府は男子の職です。今公主は二人とも開府して役人を設置しており、女が男の職にいるので、所謂陰を長くして陽を抑えるというもので、陰陽を調和させ、風雨が時宜に適うなど、どうして期待できましょう。これが朝廷の二つめの失政です。

    今、出家得度する人が多く、僧侶は修行の道半ばで、本来の業を行わず、専ら財宝を権門に付与するのに、皆定まった値があります。昔の売官では、銭を公府に入れていますが、今の得度の売買では、銭を私家に入れています。これによって出家の道とするのは、いたずらに食を無駄にすることになります。これが朝廷の三つめの失政です。

    名と才能は、他人に貸してはなりません。そのため「天がなさること、人間が代わってやっている(『書経』虞書 皐陶謨)」というのです。さて天に代わって任命するのですから、人材ではないのを任命してはなりません。その人ではないのに代えると、必ず天意を失うことになります。天意を失って患いや禍いがなかった例は今までにありません。今俳優といった輩が耳目を喜ばせるのを理由として、遂に官を授けられることは、朝廷を軽んじて正法を乱すことにはならないでしょうか。君主は天下を私用にすることなく、私用すれば天が怒って物に災いします。私用で賞として財を費やすのなら、どうして人を私用の目的に官に就かせるのでしょうか。これが朝廷の四つめの失政です。

    賢者は国家の光で、賢者を任用すれば政治はおさまり、賢者を棄てれば乱が生じます。近頃、詔して広く多くの士を求めていますが、賢人を好むという名声があがったとはいえ、賢者を実際に得られてはいません。思いますに、役人が士を選んだのは、賄賂でなければ権勢によるのであって、上は天の心を失い、下は人望に違い、官のために役人を選ぶのではなく、人のために官を選んでいるのです。葛洪(東晋の著述家)は「秀才に推挙された者は儒教の書を知らなかった。孝廉で名高いと推挙された者は、実際には道徳的に泥のように濁った者であった。優れた成績を修めた賢良と呼ばれた者は蛙のように貪欲だった」と言っています。これは朝廷の五つ目の失政です。

    閹豎(宦官)は、宮廷の奥向の掃除を仕事としており、古代では奴隸として扱われてきました。中古以来、大義は失われ、先哲賢人は疎んじられ、近習を近づけ、そこで彼らに委ねて政治をおこない、彼らに権力を授けたのです。そのため豎刁(春秋時代・斉の自宮宦官。桓公の佞臣)は斉を乱し、伊戻(春秋・宋の宦官。太子に冤罪を着せた)は宋を混乱させました。君側の人は、多くが恐れるところなのです。所謂、鷹の頭についた蝿、廟垣の鼠ともいうべきものです。後漢の時に政務に干渉すること最も甚しく、末期にはついに天下を乱しました。今大君が中興なされましたが、ただ閹豎が昇進するだけであって、正規の欠員があるわけではないのに、にわかに員外の官を授けられ者は千人にも溢れ、青紫をつなぎ、府蔵を消耗させました。過去の教訓は後の時代の教訓となります。これが朝廷の六つ目の失政です。

    古代では、茅葺き屋根の小屋や簡素な住居を、倹約によって子孫に残したのは、努力を愛したのが理由なのです。現在、公主への褒美で庫府は傾き、造営はすべて官費で賄われ、東屋や池の建築では壮麗さが尊ばれ、山には本来の石はなく、木は近隣から産出されたものではなく、造営には限りなく、永遠と続けられています。そもそも君主の仕事は民衆を養うためであって、人々を害するものではないのです。現在、外戚は人々を養うのを助けず、かえって害しています。これは君主を天下の誹謗を受ける原因となるのです。これが朝廷の七つ目の失政です。

    官吏は人々を安ずるためにいるのであって、人々を害するためにいるのではありません。先王たちは人々を治めようと思えば、必ず優れた人材を選び、人々を安んじようと思えば、必ず費用の縮小をしました。これは真に天下の憂いと同じくしていたからなのです。「人々に楽しみがあれば、君主はこれを共にし、君主に楽しみがあれば、人々はそのことを喜ぶ(『孟子』梁恵王章句下)」というのは、同じく楽しむことをいうのです。このようであれば、上下に間隙なく、君臣均しく一体となるのです。今、天下は因窮し、州牧・県宰は優れた才能によって選ばれた人物ではなく、搾取して利己的であり、人々を苦しめています。これは下は苦しんでいるのに上に心配もしないということになります。しかもさらに員外の官を増やすことは、悪人を助けることではないでしょうか。そもそも人の情として自身が員外の役人の場合、部下が自分を尊重しないのではいかと恐れ、必ず法を厳しくして自身を恐れさせるものです。財力によって自分を捧げないのではないかと恐れ、必ず道を曲げて奪うものです。法や道を乱さないように思ったところで、得られるでしょうか。古語にいう十羊九牧(十頭の羊に九人の羊飼い。人口の割に役人が多すぎることのたとえ)では、羊は食を得られず、人もまた休むことができないといいます。『書』に「この官は必ずしも員数を揃えなければならなくともよい。ただ適わしい人でなければならぬ(『書経』周書 周官)」とあるのは、正規の官員であっても揃えることは難しいのであって、ましてや員外などなおさらではないでしょうか。これは朝廷の八つ目の失政です。

    政治に多数の権力の源から出ることは、大乱の始まりです。近頃、夫人に封ぜられた者の多くは、皆先帝の宮嬪です。彼女ら宮廷内の職の者を外廷に関与させるべきではありません。宮廷内の職の者で充てず、宮廷の外から任用すべきです。後宮を出入りさせると、内々の言が必ず流出し、外での言が必ず宮廷内に入ることになり、これはもとより君主を弄ぼうとする法であり、勝手気ままにさせて禁止しなければ、宗廟を重んじて国家を固めることにはなりません。孔子は「婦人の口だ、急いで出よう。婦人と会うなら、負けて死ぬ(『史記』孔子世家)」と言っています。これが朝廷の九つ目の失政です。

    道によって君主に仕えない者は、天下を危うくする原因となります。天下を危うくする臣は追放すべきで、天下を安んずる臣を任じるべきです。現在、鬼神を召喚し、左道によって君主を惑わす者、鬼神に託して理由のわからないことをし、欺瞞によって才能に見合わない地位につき、不当な禄を受ける者がいますが、これは国盗というものです。『伝』に、「国が興るときには民意に順い、亡びるときは神意をあてにする(『春秋左氏伝』荘公三十二年伝)」とありますが、現在、どれほど神意をあてにしたのでしょうか。これが朝廷の十の失政です。

    閣下が正さなければ、一体誰が正すというのでしょうか。」

  魏元忠は書簡を受け取ると、ますます恥じ入った。武三思が専権していると考え、誅殺しようと思うようになった。ちょうど、節愍太子が挙兵し、その謀を耳にした。太子が武三思を誅殺すると、兵を率いて宮中を走り、魏元忠の子で太僕少卿の魏昇と永安門で遭遇し、皇太子は魏昇を無理やり戦いに従わせたが、後に殺された。朝廷の議論では謀反はそうでないかの区別がつかず、魏元忠は「すでに賊を誅殺して天下に謝した以上、釜茹での刑で死んだところとしても満足だ。ただ皇太子を亡くしたのが残念なだけだ」と声高に言ったが、は魏元忠にはかつて功績があり、また高宗武后から敬意を受けていたから、捨て置いて不問とした。宗楚客紀処訥は大いに怒り、強くその一族を皆殺しにするよう求めたが、聴されなかった。魏元忠は不安となり、政治上の意見および国に関する封事を上奏し、詔によって特進、斉国公によって致仕し、朔日・望日に朝廷に詣ることとした。宗楚客らは右衛郎将の姚廷筠を引き立てて御史中丞とし、にわかに謀反したとの嫌疑を上奏させ、これにより渠州司馬に貶された。楊再思李嶠は二人とも宗楚客に従おうと思い、魏元忠の罪を付会したが、ただ蕭至忠のみは議して赦免すべきと述べた。宗楚客はまた楊再思と冉祖雍を派遣して、魏元忠が謀反に連座して罰を得たのだから内地にいるのはよろしくないとし、監察御史の袁守一は強く魏元忠の誅殺を願ったから、遂に務川県の尉に貶された。袁守一はまた弾劾して、「天后が不豫になった時、狄仁傑は陛下を監国にするよう願いましたが、魏元忠は止めました。この時に反逆の芽が長らく萌えたのです」と言ったが、帝は楊再思に向かって、「守一は間違っている。君主に仕える者は心を一つにしなければならない。どうしてお上が少し病んだだけで突然考えを変えられようか。朕は元忠の過ちだとは思っていない」と言った。

  魏元忠は涪陵に到着すると卒した。年七十余歳であった。景龍四年(710)、尚書左僕射、斉国公、本州刺史を追贈した。睿宗は詔して定陵に陪葬し、実封百五十戸をその子の魏晃に賜った。開元六年(718)、諡を貞という。

  魏元忠は初名を魏真宰といい、諸生となって高宗に謁見した。高宗は慰労すると、謝礼を知らずにすぐに退出してしまったが、威厳に満ちて落ち着きがあった。は見送ると薛元超に向かって、「この子はまだ朝廷の儀礼を知らないが、しかし名前は偽りではないと言うべきで、真の宰相となるだろう」と言った。武后の諱を避けて、今の名に改めた。


【韋安石伝】
  韋安石は、京兆万年県の人である。曽祖父の韋孝寛は、周の大司空、鄖国公となった。祖父の韋津は、隋の大業年間(605-618)末に民部侍郎となり、元文都らと共に洛陽留守となり、李密から防衛し、上東門で戦ったが、李密の捕虜となった。後王世充が元文都を殺したが、韋津は一人死を免れ、李密が敗北すると、また洛陽に帰った。王世充が平定されると、高祖は平素から韋津と親しかったから、諌議大夫、検校黄門侍郎、陵州刺史を授け、卒した。父の韋琬は、仕えて成州刺史となった。

  韋安石は明経科に貢挙し、乾封県の尉に調任され、雍州長史の蘇良嗣によって優れた人物だとされた。永昌元年(689)、雍州司兵参軍に遷った。蘇良嗣が宰相となると、韋安石に向かって、「大いなる才能は大いなる仕事に当たるべきだ。徒らに州県で働いてよいのか」と言い、武后に推薦し、膳部員外郎に抜擢され、并州司馬に遷り、善政があったから、武后が手ずからお褒めの制書を書かれ、昇進して徳州・鄭州の二州の刺史を拝命した。韋安石の性格は重厚で、真面目で滅多に笑わず、統治は清廉かつ厳格で、役人や民は尊び畏れた。

  久視年間(700-701)、文昌右丞に遷り、鸞台侍郎同鳳閣鸞台平章事(宰相)、兼太子左庶子となり、そこで侍読となり、ついで知納言事となった。当時、二張(張易之張昌宗)および武三思が寵愛により専横を極め、韋安石はしばしば辱めた。ある時、殿中の宴会に侍ると、張易之が蜀商の宋霸子らを引き連れて武后の前で賭博したから、韋安石が跪いて「商人たちは賎しい身分の者です。殿上で戯れるべきではありません」と奏上し、左右の者に連れ去らせた。座していた者は全員顔色を失ったが、武后は韋安石の言葉が正しいとして、居住まいを正して励ました。鳳閣侍郎の陸元方は自らが及ばないと思い、退席するとある人に向かって、「韋公こそ真の宰相だ」と告げた。武后がかつて興泰宮に行幸すると、走って道を急ぐよう議する者があったが、韋安石は、「この道は版築でつくられており、自然に固まったものではない。富豪の子ですら危険な所に近寄らないよう戒めるが、ましてや万乗の君たる天子が軽々しく乗ってよいのだろうか」と言ったから、武后はそのため輦を引き返した。長安二年(702)、同鳳閣鸞台三品となり、にわかにまた知納言、検校揚州大都督府長史となった。神龍元年(705)宰相を罷免されて、にわかにまた同三品に復し、中書令、兼相王府長史に遷り、鄖国公に封ぜられ、封戸三百戸を賜り、特進を加えられ、侍中となった。中宗韋后とともに正月望日の夜にその邸宅に行幸し、賜物は数え切れないほどであった。はかつて安楽公主の池に行幸し、公主は船の操船するよう頼んだが、韋安石は、「軽々しく舟を操船すると、乗った場合に何がおこるかわかりません。帝王のする事ではありません」と言ったから、沙汰止みとなった。

  睿宗が即位すると、太子少保を授けられ、郇国公に改封され、また侍中、中書令となり、開府儀同三司に昇進した。太平公主に異心の謀があり、韋安石を引き入れようとし、しばしば婿の唐晙を通じて招いたが、拒んで行かなかった。はある日、韋安石を呼び寄せて「朝廷は東宮に支持が集まっているという。卿はどうして知らないのか」と言うと、「太子は慈悲深く孝行なお方で、天下に称えられており、また大功があります。陛下は今どうして亡国の言葉を口にされるのですか。これは必ず太平公主の計略でしょう」と答えたから、帝は驚き慌て、「卿はそんなこと言ってはならん。朕はわかっている」と言ったが、太平公主は密かに耳立てており、そこで変事がおきたと告発し、尋問しようとしたが、郭元振の保護を頼り、免れた。尚書右僕射兼太子賓客、同三品に遷ったが、にわかに宰相を罷免され、東都留守となった。

  その頃、妻の薛氏が婿の婢を怨み、笞殺してしまった、御史中丞の楊茂謙に弾劾され、地方に下されて蒲州刺史に遷り、青州に移された。韋安石は蒲州にいた時、太常卿の姜晈が頼み事したが、拒否した。姜晈の弟の姜晦が御史中丞となり、韋安石が昔中宗の宰相であった時、遺制を受けたが、宗楚客韋温が勝手に相王輔政の語を削ったにも関わらず、韋安石は正すよう建言しなかったから、侍御史の洪子輿を仄めかして弾劾させようとした。しかし洪子輿はまた赦免されるからと従わなかった。監察御史の郭震がこのことを奏上すると、詔によって韋嗣立趙彦昭らと共に全員貶され、韋安石は沔州別駕となった。姜晈はまた韋安石が定陵の造営にあたった時に、横領したと奏上し、詔によってその横領分を収公された。韋安石は「ただ私の死によってのみ終わるのだ」と嘆き、怒りを発して卒した。年六十四歳。開元十七年(729)、蒲州刺史を追贈された。天宝年間(742-756)初頭、加えて左僕射、郇国公を追贈され、諡を貞という。二子があり、韋陟韋斌である。


【附、韋陟伝】
  韋陟は、字は殷卿で、弟の韋斌と共に頭脳明晰で他の童子とは異なっていた。韋安石は晩年に子ができたから、これを愛した。神龍二年(706)、韋安石が中書令となると、韋陟はわずか十歳で、温王府東閣祭酒、朝散大夫を授けられた。風格は整い、文章をよくし、書は楷書の法に優れ、当時、名士に知られ皆と共に遊んだ。開元年間(713-741)喪にあい、父が不遇のまま没したから、韋斌と共に門を閉じて出てこないこと八年に及んだ。親友は何度も行っては学問をするよう教え導き、そこで強いて調任されて洛陽県令となった。宋璟が韋陟と会って「盛徳の遺範は、すべてここにある」と嘆いた。累進して吏部郎中に任じられ、中書令の張九齢に引き立てられて舎人となり、孫逖梁渉とともにあわせて司書命となり、当時の人は才能が得られたと称えた。

  礼部侍郎に遷った。韋陟は真偽善悪の識別に非常に長じた。故事では、一日で行われる試験で成績が決まった。韋陟は詩作の才能を披露させ、まずその能力を試験し、その長所を見極め、これによって見落とされる才能はいなくなった。吏部侍郎に遷り、選人は多くが虚偽で集まり、正式に決まった者と競合した。韋陟は風采があり、白黒を明らかにして屈服しない者はおらず、数百人を排除し、銓選は公平であると称えられた。しかし威厳のままに、ある時は罵倒し、議する者はその厳しさを批判した。また自らが名門の出身で、三公の位にいるから、居住まいは常に簡素で、同僚とあっても傲慢であった。道によって親しい交わりをし、後輩や民間の者であっても礼を等しくした。

  李林甫は韋陟の名声が高いのを憎んで、自分に迫るのではいかと恐れ、京師から出して襄陽太守とし、河南採訪使に遷り、判官の員錫が尋問を得意とし、支使の韋元甫が書奏を巧みとしたから、当時の人々は「員推韋状」と称し、韋陟は二人を頼って任せた。にわかに郇国公を襲封したが、罪とされて鍾離・義陽の太守に貶され、後に河東太守となった。失職したから、心の中は怏々として楽しまず、そこで品行方正であることをやめ、頻繁に権力者に贈り物して結びつこうとした。天宝十二載(753)、京師に入って華清宮にて考課されたが、楊国忠が才能を嫌って、拾遺の呉象之に向かって、「あなたは韋陟の罪を暴くことができるか。私は御史と同意見である」と言い、呉象之はそこで韋陟を贈賄の罪で弾劾し、楊国忠はまた姪の婿の韋元志を証人とさせたから、韋陟は恐れおののき、吉温に賄賂を贈って助けてくれるよう頼み、これによって二人とも罪を得て、韋陟は桂嶺縣の尉に貶されたが、そのままで実際には行くことなく、平楽県に移った。ちょうど、安禄山が洛陽を陥落させ、弟の韋斌が賊の手中に落ちると、楊国忠は韋陟が賊と通じていると問題にしようとし、密かに警備の役人に諭して、韋陟を脅して憂死させようとした。州の豪傑が共に「昔、張説が讒言された時、陳氏が匿って免れた。今、詔書の下った通りにしたら、誰があえて公を庇おうか。どうか公は小舟に乗って逃げてください。事態が収まってから出てくれば、それでよいではありませんか」と説いたが、韋陟は慨然として、「天命は決まっているだけだ。あえて刑罰を逃れられようか」と言い、申し出を断り、堅く臥せて出なかった。

  一年ほどして、粛宗が即位すると、起用されて呉郡太守となったが、使者が派遣される最中、到着する前に、ちょうど永王の反乱が発生し、韋陟に委ねて招諭させ、そこで御史大夫、江東節度使を授けられた。高適来瑱と安州にて合流すると、韋陟は、「今中原はまだ平定されていないのに、江淮では騒動をおきている。もし厳粛に忠誠の誓いを立て、団結と一致協力を周囲に示すことができなければ、何事も成し遂げることは困難だ」と言い、そこで来瑱を推して地主とし、載書(誓盟の内容を書いた盟書)をつくり、祭壇に登って、「淮西節度使の瑱、江東節度使の陟、淮南節度使の適は、国の命を受け、三方を糾合して凶悪を排除し、互いに好悪を同じくし、異なる志をもたない。この盟約を破る者は、命を落として一族は滅び、子孫を失うだろう。皇天・后土、祖宗・明神よ、真にこの言葉を鑑みよ」と言い、言葉は意気盛んで、兵士は全員涙を流した。

  永王が敗れると、は韋陟に鳳翔に赴かせた。それより以前、季広琛は永王の乱に従ったが、本来の謀ではなく、韋陟は上表して季広琛を歴陽太守とし、慰め安堵した。ここに季広琛が後に変事をおこすことを恐れ、そこで馳せて勅諭に往かせて疑いを解き、その後召寄せた。帝は常に韋陟の名声を聞いていたから、頼って宰相にしようと思ったが、遅延したことによって、何か真意があるのではないかと疑い、御史大夫に任命するに留めた。ちょうど、杜甫房琯を弁論したが、文意はまわりくどく傲慢で、帝は韋陟と崔光遠顔真卿に審議させた。韋陟は「杜甫の発言は乱暴ではありますが、諌臣としての体裁を失ってはおりません」と奏じたから、帝はこれより韋陟を疎んじた。富平の人で将軍の王去栄が富平県令を殺すと、帝は赦そうとしたが、韋陟は「昔、漢の高祖が法を簡略化し、人を殺した者は死刑としました。今陛下は人を殺した者を生かされますが、不適切ではないのでしょうか」と述べた。当時、朝廷はまだ刷新されたばかりで、群臣は殿中にあって、宰相が弔哭するような有り様であったから、帝は韋陟が職に不適当であると思い、顔真卿を用いて韋陟と代え、韋陟は改めて吏部尚書を拝命した。しばらくして、一族の者が墓の柏を伐採したから、教導しなかったことを罪とされ、絳州刺史に貶された。京師に戻って太常卿を授けられた。呂諲が宰相となると、推薦されて礼部尚書、東京留守となった。史思明が伊州・洛州に迫ると、李光弼は河陽を防衛するよう議し、韋陟は東京の官吏を率いて関に入って避難し、詔によって吏部尚書を授けられ、永楽保の防衛につき、これによって失地回復を図った。卒した時、年六十五歳で、荊州大都督を追贈された。

  韋陟は早くから名声があったが、李林甫楊国忠に排斥された。粛宗が宰相を選任する際、自ら必ず選ばれると思っていたが、結局用いられなかった。宰相に任じられた者はいずれも新進の者で、仰ぎ見られたものの憚られ、多くは傲慢さを非難した。関に入ったが、京師に入ることは許されなかった。鬱々として思い通りにならず、病気となって卒しようとするときに、「わが道はここに終わった」と嘆いた。性格は放縦かつ奢侈な人物で、衣装や馬を飾ることを喜び、侍児や宦官が左右に列をつくって常に数十人おり、王宮や公主の邸宅に匹敵するほどであった。食事の用意に惜しみなく、肥沃な地を選んで穀物・麦を植え、鳥の羽で米を選び、食事ごとに厨房で捨てられる食材は、その価値は一万銭を下回ることはなく、公侯の家で開かれた宴会に参加した場合、いかに豪華を極めたものでも、箸をつけたことがなかった。常に五色の便箋で書き、侍妾に使わせ、その返事は形式的なものだけであったが、すべて楷書の法にかない、韋陟はただ署名するだけで、自身が書いた「陟」の字は五つの雲のようだと言い、当時の人々はこれを慕い、「郇公五雲体」と称した。しかし家法を守り、子に学問につくよう命じ、夜遅くまで見守り、努力しているようであれば、朝に挨拶して、顔には喜びがみられた。少しでも怠ると堂の下に立って言葉をかけなかった。家僮が数十人いたが、しかし門の賓客の出迎えは、必ず自身が行った。

  永泰元年(765)、尚書左僕射を追贈された。太常博士の程皓が議して「忠孝」と諡したが、顔真卿が国への忠義と親を養うことは両立せず、二行を合わせて諡とすべきではないと上奏し、主客員外郎の帰崇敬もまた論駁して正した。右僕射の郭英乂には学がなく、ついに太常博士の議を用いたという。


【附、韋斌伝】
  韋斌は、が宰相となった時に太子通事舎人を授けられた。若くして家法を修め、文芸を好み、容貌は落ち着いて厳畯であり、大臣の風体があり、韋陟と名声を等しくした。開元年間(713-741)、薛王李業は娘を妻に娶せたから、秘書丞に遷った。天宝年間(742-756)、中書舎人、兼集賢院学士となり、太常少卿に改められた。李林甫韋堅の獄を構えると、韋斌は宗族係累であるから、巴陵太守に貶され、臨汝に遷った。しばらくして、銀青光禄大夫を拝命し、五品に列した。当時、韋陟は河東太守、従兄の韋由は右金吾衛将軍となり、韋縚は太子少師となったから、四邸宅に同時に戟を並べ、衣冠は比較できないほどであった。安禄山が洛陽を陥落させると、韋斌は賊の手に落ち、黄門侍郎を任じられたが、憂憤のうちに卒した。乾元元年(758)、秘書監を追贈された。

  韋斌はもとより温厚で誠実な性格で、朝会のたびに立ち上がったり笑ったり話したりするようなことはなかった。かつて大雪で、朝廷にいる者は全員裾を払って立ったが、韋斌は足を動かさず、雪がひどくなると,しばらくして革の沓をはいたが、また慎みを失わなかった。


【附、韋況伝】
  子の韋況は、若くして王屋山に隠れ、孔述睿に称えられ、孔述睿が諌議大夫となって召し出されると、韋況を推薦して右拾遺としたが、拝命しなかった。しばらくもしないうちに、起居郎となって召し出されたが、半年でたちまち官を棄てて去り、家を龍門に移した。司封員外郎に任じられたが、病気と称して固辞した。元和年間(806-820)初頭、諌議大夫を授けられ、任命を受けたものの、数カ月して辞職を申し出て、太子左庶子となって致仕し、卒した。韋況は代々貴い家柄であったが、志は高遠で隠遁の気概があり、名声や富に左右されることはなく、当時の人々はその品格を重んじた。


【附、韋叔夏伝】
  韋叔夏は、韋安石の兄である。礼家の学に通暁した。叔父の太子詹事の韋琨がかつて、「よく先祖の漢の丞相たちの業を継ぐだろう」と言った。明経科に及第し、太常博士に任じられた。高宗が崩ずると、弔問の礼が欠けていたから、韋叔夏は中書舎人の賈大隠、博士の裴守真と共にその制度を撰定し、春官員外郎に抜擢された。武后が洛陽を訪れ、明堂を享ると、概ねの変更点は、すべて韋叔夏・祝欽明郭山惲らが決定した。提案するごとに、皆受け入れられた。累進して成均司業に遷った。武后はまた詔して、「五礼の儀物について、司礼博士が変更する場合には、韋叔夏・祝欽明らが審査し、その後に報告せよ」と述べた。春官侍郎に昇進した。中宗が復位すると、太常少卿に転じ、建立廟社使となり、銀青光禄大夫に昇進し、累進して沛郡公に封ぜられ、国子祭酒となった。卒すると、兗州都督、修文館学士を追贈され、諡を文という。子に韋縚がいる。


【附、韋縚伝】
  韋縚は、開元年間(713-741)に集賢修撰、光禄卿を歴任し、太常卿に遷った。

  唐が勃興した時、祭祀経典は整っていたものの、制度はしばしば欠点や不備があった。顕慶年間(656-661)になると、許敬宗は次のように建言した。「籩(高坏)や豆(高坏形の青銅盛器)は多いのが貴いものであり、宗廟はすでに天を踰えております。何卒、大祀十二、中祀十、小祀八。大祀、中祀、簠(穀物を盛る方形の祭食器)・簋(脚付きの青銅蓋物)・㽅(食器を盛る古祭器)・俎はいずれも一つずつで、小祀は㽅を用いられませんように。」 詔によって裁可された。開元二十三年(735)、赦令では籩・豆の薦が設けられたが、いままで物が備わったことがなかった。礼官・学士に詔して上奏させた。韋縚は「宗廟では籩・豆をいずれも十二加えます」と言い、また「郊の奠では、爵は一合どまりで、それだけだと粗雑にみえます。もっと増やされますよう」と述べた。

  兵部侍郎の張均、職方郎中の韋述が以下のように意見を述べた。「『礼』では、「天地の力で生まれ育った物で、少しでも神霊に供える価値がある物ならば、すべて供物の品に数えておく(『礼記』祭統)」とあり、聖人は孝子の情の深さと、物の類に限りがないことを知っていたから、これの節度を制定し、物に秩序を、器に数を、貴賤に区別をつけさせ、逸脱させませんでした。周の制では、「王者に供する飲食には、食用の六穀、膳用の六牲、飲用の六清、各種の菜肴百二十種、珍貴美味の八種、醤物の百二十罋(『周礼』膳夫)」があり、四つの籩(高坏)、四つの豆(高坏形の青銅盛器)によって祭祀に備えました。祭祀と賓客は余分と不足を同じにすることはできず、古くからの慣習でした。また同族内での宴会の食事の好みも、時代によって遷り変わり、そのため聖人はすべてのことにおいて古の道に立ち返りました。普段好むことであっても、非礼であればお供えせず、嫌いな物であっても礼に定められていれば外しませんでした。屈建(春秋時代・楚の令尹)は祥祭(親の喪の十三カ月、あるいは二十五カ月の祭祀)で芰(実を食用にする水草)を撤去するよう命じて、「祭祀の定めでは、四季折々の初物を供えず、贅沢品を並べない(『国語』楚語)」と言ったのは、これは礼に定められた以外の食物は、古人は供えなかったことを意味します。今、あらゆる美味しくて豊かな食べ物で祭祀を満たそうとして、一時的に旧制を超えたとすれば、どこを限度とするのでしょうか。籩(高坏)・(高坏形の青銅盛器)を増やしたとしても、すべてを備えられるでしょうか。もし今の珍味を用い、生前好んだ物をであっても神が求めている物ではないのなら、簠(穀物を盛る方形の祭食器)・簋(脚付きの青銅蓋物)は撤去すべきで、盤(たらい)・盂(さかずき)・杯・机を用いるべきです。韶(舜帝の楽)・護(濩。殷の湯王の楽)に相当する場合、箜篌・笛で演奏すべきです。また漢代以来、陵には寝宮があり、毎月朔日(一日)と望日(十五日)があり、お供えは常饌を用いるのは、もとより孝子の心を尽くすべきだからです。宗廟祭祀の法については、古を変えて今の習俗に従うべきではありません。担当官署の申すところによりますと、一升では爵(一升入り)を、五升では散(五升入り)とするとあります。『礼』によると、「宗廟の祭りは、身分の上の人は爵を献じ、下の人は散を献ずる(『礼記』礼器)」とあり、身分において上が小で、下が大なのは、これによって節倹を示しているのです。何卒もとの通りになされますように。」

  太子賓客の崔沔が以下のように申し上げた。「古代では、飲食する場合は、必ず先に荘厳な供え物を捧げました。火を使う前に、毛・血のお供えをしました。発酵させる前に、玄酒(酒の代用とする水)を捧げました。後世の王になると、酒をつくり、犧牲を用い、そのため三牲・八簋・五斉・九献がありました。しかし神は崇高を尊びますので、あるかどうかは計り知れません。祭主は敬い、準備すべきであって廃するべきではありません。思いますに、お供えは新しい物を貴び、味は粗野を尊ばず、準備されていても、節制がなければなりません。鉶(蓋付き鼎)・俎・籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)・簠(穀物を盛る方形の祭食器)・簋(脚付きの青銅蓋物)・尊・樽は周の人の古祭器で、宴会や客をもてなす際に用いられました。周公は毛・血・玄酒と一緒にお供えしました。晋の中郎の盧諶(後趙・冉魏の大臣)の家の祭りでは、すべて晋の日常の食であり、当時の食は祭祀から欠かすことができなかったのです。唐の清廟の四季の享(まつ)りでは、供物は周の法でした。園寝に食を奉り、旬の膳を並べるのは、漢の法です。職貢が祭りを助けるのに、遠方の物をお供えしました。新たなものがあれば必ずお供えするのは、季節の祭りに従っているのです。牧場には自ら収穫物が入っており、狩猟では自ら射て当たったものを用い、すべて適切な物を供え、備えた後で食べるのです。肥えて美味な物や新鮮で美味なものはすべてお供えします。また担当官署に対して勅令に記すべきであり、籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)の数を加える必要はありません。大きい祭器は、物を見るのにすぐれています。そのため大羹(煮ただけの肉汁)は、古代のお供え物で、㽅(食器を盛る古祭器)に盛り付けます。㽅は古代の器です。和羹(肉や野菜を混ぜたスープ)は季節のお供え物で、盛り付けるのに鉶(蓋付き鼎)を用い、鉶は季節の器です。古代のお供え物があったり季節の器を用いたりするように、盤(たらい)に毛・血を、尊に玄酒を盛り付けます。季節のお供えを奉るのに古代の器を用いた例はなく、古代の簡素さと現在の洗練さは相容れないのです。籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)を十二加えたとしても、天下の美を尽くすには足りず、諸廟に安置しても、徒らに奢侈をしているようなもので、非難されます。臣が聞くところによりますと、「墨家者流は、清廟の守から出たもので、この廟で質素倹約を貴ぶ(『漢書』芸文志)」とあるので、奢侈を貴ばないのです。」

  礼部員外郎の楊仲昌、戸部郎中の陽伯成、左衛兵曹参軍の劉秩らが、元の通りに礼を戻すよう願い出た。宰相が申し上げると、玄宗は、「朕は祖先の徳を受け継ぎ、祭祀でお供えするのに、豊かなものを備えている。法にそぐわないようなものがあれば、あえて用いないこととしよう」と述べ、そこで太常寺に詔して、品や料理を選んで増せるものは漸増させた。韋縚がまた「廟の室に籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)がそれぞれ六つで、四季ごとに新しい果物や珍味を盛りますように」と願い出た。制によって裁可された。また詔して、「爵で酒を供える場合、薬器の分量により、古来の慣習に則るように」と述べた。

  開元二十三年(735)、詔して服喪期間中で不明な点については、礼官に学士詳細に議論させることとした。韋縚は上言して、「礼における喪服の規定では、舅の場合は、緦麻で三カ月。従母の場合は、小功(織り目の細かな麻布の喪服での服喪で、期間は五カ月)で五カ月となっており、伝に、「何ゆえに小功に服するのか。母の名があることによって加えられて小功にするのである。本来外親族の服は、皆緦麻である(『儀礼』喪服 子夏伝)」とあるのです。堂姨(母の姉妹)、舅の母は、恩は親には及ばないのです。外祖父母は、小功で五カ月となっており、『伝』に「外親に対する緦麻に過ぎないのに、何ゆえに小功に服するのか。外祖父母は母の父母で、母の至尊であるから、加えて小功(しょうこう)に服するのである(『儀礼』喪服 子夏伝)」とあり、舅は、緦麻の着用での三カ月の服喪で、いずれも親族としての情が次第に疎んじるのです。外祖は正尊で、服喪は従母(母の姉妹)と同様です。姨(妻の姉妹)・舅は同等ですが、程度はそれぞれ異なっています。堂姨・親舅(妻の父)は遠い縁戚ではありませんが、服喪するにはふさわしくありません。親舅(妻の父)の母は同居するにこしたことがありません。それはまた古代の慣習が明確ではないことを示しています。また外祖は小功ですが、これを正尊とし、何卒、進めて大功(粗く織った布の喪服での服喪で、期間は九カ月)となされますように。姨・舅は親に等しいから、服喪は行なうべきで、何卒、舅を進めて小功となされますように。堂姨・堂舅は遠い縁戚であるので、親舅(妻の父)・従母から一等を降した扱いとします。親舅・母の場合、古代では服喪することはありませんが、何卒、袒免(左肩をぬぎ、冠をとる喪中の服装)の通りとなされますように。」

  ここに韋述が以下のように意見を述べた。「高祖父から玄孫および自身を総称して九族と言います。親族関係の遠近に応じて喪装の五服となります。伝に「外親族の服喪は、皆緦麻である(『儀礼』喪服 子夏伝)」とあり、鄭玄は「外親は異姓であるから先王の制礼におけるその正服は緦麻に過ぎない(同鄭注)」と述べており、外祖父母の時に小功(織り目の細かな麻布の喪服での服喪で、期間は五カ月)とするのは、尊崇を加えているからなのです。従母(母の姉妹)の時に小功とするのは、名を加えているからなのです。舅・甥・外孫・中外の昆弟はすべて緦麻とするのは、同類であるからで、外祖は祖であり、舅は伯叔で、父母の恩と同じようなもので、しかもただ家族以外の者を弔うには理由があります。それは「禽獣は母を知っているが父を知らず、そのため田舎者は「父と母を選ぼうか」と言うが、しかし都邑に住んでいるところの士は禰(ちち)を尊ぶことを知っている。大夫は祖を尊ぶことを知っており、諸侯の場合はその太祖までその祭りを及ぼし、天子はその始祖に及ぶ(『儀礼』喪服 子夏伝)」とあるように、聖人は天道を究明して祖・禰(ちち)を厚く尊び、姓族を繋いで子孫を親しむのです。母の家族は本族と比べて、同じではないことは極めて明瞭なのです。家に二尊なく、喪に二の斬衰なく、人が仕えるのに、二心があってはならないのです。子孫が生まれると父母の喪が軽減され、女子が嫁ぐとその家の服喪が軽減されます。生きている者の縁戚関係が遠くなっているのに、気持ちがふさいで晴れないのは私心なのです。もし外祖および舅の喪を一段と加えて、堂舅および姨の服喪が重なると、内外の区別はどれほどになるでしょうか。また五服に父より上に次第に縁戚が薄くなっていくことがあり、伯叔父母の服喪は大功(粗く織った布の喪服での服喪で、期間は九カ月)で、従父昆弟も同じく大功であるのは、その出自が祖父から出ているからであり、祖父以上にすべきではないからなのです。従祖の祖父母、従祖の父母、従祖の昆弟がいずれも小功なのは、その出自が曽祖父から出ているからであり、服喪は曽祖父以上にすべきではないからなのです。族祖の祖父母、族祖の父母、族の昆弟がいずれも緦麻(三カ月の服喪)なのは、その出自が高祖父から出ているからであり、服喪が高祖父以上にすべきではないからなのです。堂姨・堂舅は外曽祖父から出ており、もし彼らのために服喪すれば、外曽祖父の父母、外伯叔の祖父母も同じく服喪すると制定すべきです。外祖父が大功であれば、外曽祖父は小功とし、外高祖父は緦麻となります。この推測を広く敷衍すれば、本族とは何ら変わりありません。血縁親族を捨てて遠縁を受け入れるのは、喜ばしいことであるとはいえません。また服喪とはいずれも生前の恩に報いるものであり、堂甥・外曽孫・姪女(兄弟の娘)の子はいずれも服喪すべきです。聖人はどうして骨肉の恩愛に無関心でしょうか。思いますに公を本とすれば私は末となり、筋道において断絶することになりますが、そうでなければならないのです。仮初めに加えるべきなら、同時に減らさなければならず、このようなら礼は廃れるでしょう。何卒、古代の慣例の通りになされますように。」 楊仲昌はまた次のように申し上げた。「舅の場合に小功に服喪することについて、魏徴はかつて上奏しました。今、奏請されたことは、まさに魏徴の論と同じなのです。堂舅・堂姨・舅の母の場合は、いずれも袒免(左肩をぬぎ、冠をとる喪中の服装)の喪に昇格させ、外祖父母も昇進して大功となりますが、報いを外孫に加えないというのでしょうか。外孫は報いがあるので大功とするなら、本宗の庶孫はどのような喪を用いればよいのでしょうか。」

  は手ずから以下のように勅した。「朕は親の姨・舅の服喪を小功とし、舅の母は舅のために三年の喪とすべきであると考えた。舅より服喪が軽くなることとすべきではなく、緦麻(三カ月の服喪)の喪に服すべきである。堂姨・堂舅の場合、古代では服喪しなかったが、朕はあつく九族が睦まじくあらんと思い、袒免(左肩をぬぎ、冠をとる喪中の服装)とすべきである。古代では同居の場合は緦麻の喪とし、もし堂姨・舅と同居している場合には、すでに厚いことではないのだろうか。伝に「外親族の服喪は、皆緦麻である(『儀礼』喪服 子夏伝)」とあるのは、また堂姨・堂舅を除外するものではない。もしくは喪は本来の喪を超えてはならないとされるが、しかしまた外曽祖父母のために外伯叔父母の服喪を制限するのなら、なんと悲しいことであろうか。すべて親族が親しみ、原則を守ることである。」

  侍中の裴耀卿、中書令の張九齢、礼部尚書の李林甫が奏上して、「外親の服喪では堂を降りることはなく、甥は舅母の服喪を行い、舅母もまたこれに報います。夫の甥もすでに報いており、夫の姨・舅も同じく服喪すべきで、ますます疎んじられるのではないかと恐れています。臣らは愚かで、すべて及ぶところではありません」と申し上げた。詔して、「従服(配偶者に従って一等降して服喪すること)は六あり、これはその一つである。礼を降殺(礼数を漸次減らすこと)に根拠がないから、皆、自身は親族に従って服喪の礼数とするのである。姨・舅との血縁は近く、親族であるからとしてこのことを言うならば、また姑伯(母の姉)に匹敵する。遠縁であるからといって降殺できようか。婦人は夫に従う者であり、夫が姨舅の喪に服しているなら、夫に従って服すのは、これは親愛の情というべきである。卿らはよくよく考えなさい」と述べた。裴耀卿らは奏上して、「舅の母は緦麻(三カ月の服喪)で、堂姨(母の姉妹)・堂舅(母のおじ)は袒免(左肩をぬぎ、冠をとる喪中の服装)とします。何卒、制旨に準じて、我らより規範とし、罷諸儒たちの議論を罷められますように」と申し上げると、制書で「よろしい」と返答した。

  それより以前、は詔して毎年公卿を率いて東郊に迎気の祭礼を行った。三時(春・夏・秋)になると、常に孟月(正月・四月・七月)に時令(『礼記』月令)を正寝にて読み上げた。開元二十六年(738)、韋縚に詔して毎月「月令」一篇を奏じさせ、朔日に宣政殿側に榻(ながいす)を設置し、東向きで机を置き、韋縚は座して「月令」を読み上げ、諸司の官長も全員宣政殿に登って拝聴した。一年程して中止となった。

  高宗の上元三年(676)、の享(まつ)りをしようとした。意見をいう者は『礼緯』を根拠として三年で、五年でとした。公羊学の者は五年で二度殷祭(喪が明けて最初の大祭)するとした。二つの学説は異なり、儒者たちは決することができなかった。太学博士の史玄璨は次のように述べた。「『春秋』に、僖公は三十三年十二月に薨じ、文公の二年八月丁卯に大享しています。『春秋公羊伝』では「である」とし、そこで三年の喪が明け、新君の二年にすべきで、翌年を群廟で行なうべきです。また宣公八年(601 B.C.)に僖公を禘祭しています。宣公八年はいずれもが実施され、つまり五年にして再び祭るのです。これはつまり新君が即位してから二年してで、三年して禘祭すると、期間が近くなるのです。五年後再度殷祭すれば、六年して、八年でしようとしました。昭公十年(532 B.C.)、斉君は帰還して薨じました。昭公十三年(529 B.C.)、喪があけての祭りを行なうべきでしたが、平丘の会盟がありました。冬、公は晋に行き、十四年(528 B.C.)になってからし、十五年(527 B.C.)にとしました。『伝』に「武宮に事あり(『春秋左氏伝』昭公十五年経)」とあるのはこれです。十八年(524 B.C.)になって、二十年(522 B.C.)に、二十三年(519 B.C.)に、二十五年(517 B.C.)にしました。昭公二十五年(二十六年の誤り)に「襄宮に事あり(「襄宮に盟す」の誤り)」とあるのはこれです。つまりの後三年で、同じく二年でとするのは、礼に合致しているのです。」 議論は遂に定まった。後に睿宗が服喪し終わると、太廟にてした。開元二十七年(729)になって、祭から五年後に祭から七年後にとした。この年、韋縚は「四月には終わっていますが、孟冬に同じくとなっており、祭祀は煩わしい数になっています。何卒、夏にして大祭の源となされますように」と奏上し、これより順番通りとなり、五年して再び祭りした。

  韋縚は太子少師で終わった。


【附、韋抗伝】
  韋抗は、韋安石の従父兄の子である。弱冠にして明経科に貢挙され、累進して吏部郎中となった。景雲年間(710-712)初頭、永昌県令となり、天子の行列が頻繁に通行したが、韋抗は厳格な刑罰によらずに統治し、前の県令ではここまでの者はいなかった。右御史台中丞に遷り、邑民は宮中に詣でて韋抗を県令に留めようとしたが、聴されず、そこで碑文を立ててその恩恵を著した。開元三年(715)、太子左庶子から益州大都督府長史となり、黄門侍郎を授けられた。河曲の胡である康待賓が叛くと、詔によって持節して慰撫した。韋抗は武略が得意ではなかったから、病と称して逗留し、賊のところまで行かずに引き返した。にわかに王晙に代わって御史大夫となり、按察京畿を兼任した。弟の韋拯も万年県令となり、兄弟揃って本貫を統治したから、当時の人々は栄誉とした。御史に相応しい人物ではない人を推薦したことを罪とされ、安州都督に任じられ、蒲州刺史となった。京師に入って大理卿となり、刑部尚書に昇進し、吏部の銓選を担当し、卒した。韋抗は職務を歴任したが清廉で、理財をなさなかったから、臨終にあたって葬儀の費用がなく、玄宗はこのことを聞いて、特別に槥車(葬送用の車)を給付した。太子少傅を追贈され、諡を貞という。

  韋抗が上表した奉天県の尉の梁昇卿、新豊県の尉の王倕、華原県の尉の王燾は、全員属僚となり、後に全員が人物として有名となった。梁昇卿は学問にわたり書を得意とし、八分書を最も得意とし、広州都督となり、東岳に朝覲碑を封じ、当時の人々が絶筆であるとした。王倕は累進して河西節度使となり、天宝年間、辺境での功績によって有名となった。その他に辟署・推挙した者は、王維王縉・崔殷らのように、全員当時の人々は全員が優れた人材だと言ったという。


【郭元振伝】
  郭震は、字は元振で、魏州貴郷県の人で、字によって世間に通行した。身長は七尺で、髭が美しく、幼くして大志があった。十六歳の時、薛稷趙彦昭と共に同じく太学生となり、家からかつて銭四十万の仕送りがあったが、ちょうど縗服の喪服の者が門を叩き、「私の家は五代にわたって葬られていません。お金をお借りして葬儀費用に充てたいのです」と言うと、少しも惜しむこと無く、名前すら尋ねることなかった。薛稷らは驚き感歎した。

  十八歳で進士に及第し、通泉県の尉となった。任侠の気があり、細かいことにはこだわらず、かつて貨幣の偽造を実施したり、支配下の人民千人以上を人身売買し、これによって賓客をもてなしたから、百姓は苦しみの声をあげた。武后に所業を知られ、召喚されて詰問されるところであったが、共に話してみると優れた人物だと思い、文章をつくるよう求めると、「宝剣篇」を奉り、武后は読んで感歎し、詔して学士の李嶠らに見せ、そこで右武衛鎧曹参軍を授け、奉宸監丞に昇進した。

  吐蕃が講和を願い出ると、吐蕃の大将の論欽陵が安西四鎮(亀茲・于闐・疏勒・砕葉)の兵を撤兵し、十姓(西突厥)部落の地を分割するよう求めたから、そこで郭元振を充使とし、敵情を視察させた。帰還すると、以下のように上疏した。

    「利は害を生み、害は利を生みます。国家の脅威となっているのは、ただ吐蕃と黙啜だけで、現在両方が服属すれば、大いに中国にとっての利となるでしょう。もし計画を慎重に検討しないでおくと、害が及ぶことになります。論欽陵は十姓部落の地を割き、安西四鎮の兵を解体しようとしていますが、これは重大な問題であって、軽視すべきではありません。もし直接的に彼らの意図を抑圧すれば、辺境の問題は必ず以前よりもひどいものとなることを恐れるのです。慎重に検討しなければなりません。外部の脅威となっているのは十姓部落と安西四鎮です。内部の脅威となっているのが、甘州・涼州・瓜州・粛州です。関隴にて軍隊を駐留させてから三十年になろうとし、兵力は疲弊しています。甘州・涼州が一度に攻撃を受けたなら、どうやって大規模動員をし得るでしょうか。

    国をよく統治する者は、まず内政を整えて外敵にあたり、国内を犠牲にしてまで外的な利益を求めてはなりません。そうして平和は保たれるのです。論欽陵は安西四鎮が自分たちに近く、我が方の侵略を恐れており、これが吐蕃にとっての重要事項なのです。しかし青海・吐渾密は蘭州・鄯州に近く、容易に我が方の脅威となり、また国家にとっての重要事項となっています。論欽陵に対して次のように告げるべきです。「四鎮はもともと諸蕃の結集を抑制し、勢力を分散させ、兵力を統合して東へ侵攻できないようにさせている。今、四鎮を委ねれば、諸蕃の力はさらに強大化し、容易に騒乱となるだろう。もし東へ向かう意志がないのなら、吐渾諸部と青海の故地は我が方に帰属し、俟斤部落は吐蕃に返還しよう。」 これで論欽陵を黙らせるのに充分であり、和議は絶えることはありません。また四鎮は長らく我が方に服属し、国家に頼っています。どうして吐蕃などに与えられましょうか。今、利害や実情を知らずに分裂させてしまうことは、諸国の反感を買う可能性があり、賢明な策略とは言えません。」

  武后はこの進言に従った

  また次のように申し上げた。「吐蕃は徭役と軍事が長年にわたっていることに辟易としており、皆が和平を願っています。しかし論欽陵が四鎮を分割して、その国を制圧化に置こうとしており、そのため和平を望んでいません。陛下が毎年和平の使者を派遣されても、論欽陵が常に拒否するので、その部下は必ず怨み、彼らが大規模軍事行動を起こそうとしても、不可能となるでしょう。これが離間の始まりとなるのです。」 武后はその計略を正しいと思った。その後数年して、吐蕃の君臣が互いに猜疑心をもち、ついに論欽陵は誅殺され、その弟の賛婆らが来降し、そこで郭元振と河源軍大使の夫蒙令卿に詔して騎馬を率いて迎えに行かせた。主客郎中を授けられた。

  しばらくして突厥・吐蕃が連合して涼州に侵攻した。武后は洛陽の城門に御して宴しようとしていたが、辺境の急変が告げられると、宴会を中止し、郭元振は涼州都督を拝命し、ただちに派遣された。それより以前、涼州の境界の周囲はわずかに四百里の広さしかなく、敵が襲来すると必ず城下を包囲した。郭元振は赴任すると南の峡谷に和戎城を築城し、北の磧(ゴビ砂漠)に白亭軍を設置し、主要な交通路を制圧し、遂に境界を千五百里にわたって拡張し、これより涼州は敵の脅威から解放された。また甘州刺史の李漢通を派遣して屯田を開き、水陸交通の便をつくし、稻は豊作となって収穫された。もともと涼州では粟一斛は数千で売られたが、この年になって豊作が続き、一匹の縑(かとり)がわずか数十斛にしかならず、倉庫の備蓄を十年にわたって支え、牛や羊は野に放牧された。涼州を統治すること五年、撫育・統御に優れ、漢人も異民族も帰服し、命令は厳格に執行され、誰も見過ごされることはなかった。河西諸郡は生祠を設置し、頌徳碑を立てた。

  神龍年間(707-710)、左驍衛将軍、安西大都護に遷った。西突厥の酋長の烏質勒の部族が強勢となり、通行して和平を求めてきたから、郭元振はそこで配下と共に計略を練った。ちょうど大いに雪が降り、郭元振は直立不動となり、夜になると寒さに凍えた。烏質勒はすでに老いており、しばしば拝伏したが、寒さに堪えられず、会談後に急死した。その子の娑葛は郭元振が父を殺した謀略をおこなったとし、兵を集めて襲撃しようと謀った。副使の解琬がこのことを知って、郭元振に夜に逃げるよう勧めたが、郭元振は聞き入れず、疑うことなく陣営にとどまった。翌日、素服で弔問に赴き、道中娑葛の兵に出会い、敵は郭元振がやって来るとは思っていなかったから、あえて追い立てることもなく、歓迎して迎え入れた。進んでその帳に入り、弔問と贈り物を捧げ、哭礼して非常に哀しみ、数十日留まって葬儀を助けたから、娑葛は義に感じ入り、再び使者を派遣して馬五千、駱駝二百、牛・羊十万以上を贈った。制詔によって郭元振を金山道行軍大総管とした。

  烏質勒の将の闕啜忠節娑葛は互いに怨みあい、しばしば互いに攻撃し合ったが、闕啜の兵は弱く支えられなかった。郭元振は闕啜を宿衛に入らせ、その部族を遷して瓜州・沙州近辺に移すよう奏請した。詔して許された。闕啜は遂に行った。播仙城に到着すると、経略使の周以悌と会い、周以悌は「国家が秩禄を厚くして君を待遇するのは、部族に兵を有するからだ。今一人だけ行って入朝したところで、一人の旅する胡人というだけだ。どうして自らを全うできようか」と説き、そこで重宝で宰相に賄賂を贈るよう教え、入朝しないこと、安西の兵を発して吐蕃を導いて娑葛を攻撃するよう願うこと、阿史那献を可汗として十姓を招くよう求めること、郭虔瓘に願い出て抜汗那(フェルガナ)に鎧や馬を集めて軍を助けることをすれば、後で復讐でき、部族も尊属できるとした。闕啜はそうだと思い、そこで兵を集めて于闐坎城を攻撃し、落城させた。戦利品を得て、人を間道から派遣して黄金を宗楚客紀処訥にもたらし、謀に従わせた。郭元振はそのことを知って、次のように上疏した。

    「国家が以前、吐蕃と戦わず、十姓・四鎮が辺境で騒乱しなかったのは、思うに強力な泥婆羅(ネパール)等の属国が二心を抱き、そのため賛普が南征して戦死し、国中が大乱となり、嫡子と庶子が争い立ち、将軍や宰相が権力を争い、互いに流血沙汰をおこしました。兵士や家畜は疲れ果て、財力は困窮し、時局を鑑みれば、天の時が調和せず、漢に志を屈したのは、十姓・四鎮を忘れたからではありません。もし力があったなら、後で必ず戦ったでしょう。今、闕啜忠節には国家の大計がなく、吐蕃のために先導し、四鎮の危機はここに始まろうとしています。吐蕃の思い通りになれば、闕啜忠節もまた賊の手中に落ちようとするので、どうして再び我が方に仕えることができましょうか。かつて吐蕃は我が国家の助けや支援がなかったにも関わらず、それでもなお十姓・四鎮を争うとしました。今もし恩恵や助けがあったところで、于闐(ホータン)・疏勒(カシュガル)の分割を望んでいるのですから、どうしてこれを抑制できましょうか。また于闐・疏勒といった国の諸蛮および婆羅門が脅威を感じて、我々の軍事行動への強力を求めています。またどうしてこれを拒否できましょうか。そのため古代の賢人は、夷狄に恣意的に恩恵を与えることを望みませんが、その力を望まなかったからではなく、彼らの飽くなき要求が、中国に更なる負担をかけることを恐れたからです。臣は愚かにも考えますに、吐蕃の力を用いるのは得策ではないと思います。

    また阿史那献を求めたのは、どうして可汗の子孫によって十姓を平定できると考えたからでしょうか。また阿史那斛瑟羅および阿史那懐道と阿史那献の父の阿史那元慶、叔父の阿史那僕羅、兄の阿史那俀子は、共に可汗の子孫です。四鎮に行って十姓の乱を鎮めるのに、阿史那元慶を可汗とすることを願いましたが、ついに説得できず、阿史那元慶は賊の手に落ち、四鎮も陥落するのです。闕啜忠節はまたかつて阿史那斛瑟羅および阿史那懐道を可汗とするよう願い、十姓は服属せず、砕葉(スイアーブ)もほとんど危ういところでした。また吐蕃はかつて阿史那俀子・阿史那僕羅・阿史那抜布を可汗としましたが、また十姓を得ることができず、いずれも自ら滅亡しました。これが他でもない、その子孫に臣下を慈しむ才能がなく、恩義の心が最初から失われていたからです。どうして説得できないばかりか、またかえって四鎮の災いとなったのに、可汗の子孫を冊立して効力を試すようなことをするのでしょうか。阿史那献もまた父兄と遠く離れており、人心はどうやって掴むのでしょうか。もし兵力が十姓を征服できるほどあれば、可汗の子孫は必要ありません。

    また郭虔瓘に兵馬の徴収を抜汗那(フェルガナ)にて行わせると願っています。以前、郭虔瓘は闕啜忠節と共に無断でのその国に入り、臣はその当時疏勒(カシュガル)におりましたが、一領の甲冑、一頭の馬も得られたとは聞いておらず、抜汗那は憤慨して攻め込み、南は吐蕃を誘引し、阿史那俀子を将とし、四鎮を混乱させました。また郭虔瓘は抜汗那国に駐屯しましたが、四方の援軍はなく、空城にいるようなもので、なおも阿史那俀子を引き入れて敗北したのです。ましてや今、北に娑葛がおり、郭虔瓘の西にいることを知り、必ず引き入れて互いの援軍とし、抜汗那は堅城によって内側から抵抗し、突厥は外から伺い待ち受けるので、郭虔瓘らはどうして再び往年のような平和と安全を期待できましょうか。」

  上疏文を奏上したが顧みられなかった。

  宗楚客らはそこで建言して、摂御史中丞の馮嘉賓を派遣して持節して闕啜忠節を安撫させ、御史の呂守素を処置四鎮とし、牛師奨を安西副都護とし、郭元振と交替して甘州・涼州の兵を統轄し、吐蕃を召集して娑葛を攻撃させた。娑葛の使の娑臘は宗楚客の謀を知り、馳せて報告した。娑葛は怒り、直ちに兵を発して安西から出撃し、撥換(バルカン)・焉耆(カラシャール)・疏勒(カシュガル)にそれぞれ五千騎を送り込んだ。ここに闕啜忠節は計舒河(タリム河)にあって馮嘉賓と遭遇していたが、娑葛の兵が突然やって来て、闕啜忠節を捕らえ、馮嘉賓を殺害し、また呂守素を僻城で、牛師奨を火焼城で殺害し、遂に安西は陥落し、四鎮の交通路は遮断された。郭元振は疏勒水上に駐屯し、あえて動かなかった。宗楚客はまた上表し周以悌を郭元振と交替させ、また阿史那献を十姓可汗とし、軍を焉耆に置いて娑葛を奪取しようとした。娑葛は郭元振に書簡を送って、「私は唐に敵意を抱いているわけではないが、宗楚客らが闕啜忠節の金を受け取って、私を攻撃し滅ぼそうとしている。そのため私は死を恐れて戦ったのだ。また宗楚客を斬っていただきたい」と述べており、郭元振はその書簡を奏上した。宗楚客は大いに怒り、郭元振に陰謀があると誣告し、召喚して斬ろうとした。郭元振は子の郭鴻に間道を通らせて奏上させ、西土に留まったままでいるよう願い、あえて京師に帰還しなかった。周以悌はそこで罪を得て、白州に流されたが、娑葛は赦免された。

  睿宗が即位すると、召還されて太僕卿となった。出発しようとすると、安西の酋長が剺面(刀で顔に傷をつけて悲しみを表す北方遊牧民の習俗)して泣いて送り、旗印は玉門関を下り、涼州から八百里も離れていたが、城中では人々が競って酒と料理で歓迎し、都督は感歎して上奏した。景雲二年(711)、同中書門下三品(宰相)に昇進し、吏部尚書に遷り、館陶県男に封ぜられた。先天元年(712)、朔方軍大総管となり、豊安城・定遠城を築城し、兵は兵站貯蔵の場所を得た。翌年、兵部尚書によって同中書門下三品となった。

  玄宗太平公主を誅殺すると、睿宗承天門に出御し、宰相たちは走しって外省に逃れたが、一人郭元振だけは兵を率いて帝に付き従い、事変が平定されると、中書省に宿直して十四日後に休息をとった。代国公に進封され、実封四百戸となり、一子に官を賜り、物千段を賜った。にわかに御史大夫を兼任し、また朔方大総管となり、突厥に備えた。まだ出発する前に、ちょうど玄宗が驪山で講武を行い、何度かの命令の後、は親ら鼓を打ち鳴らしたが、郭元振は突如奏上して儀式の中止を求めたから、帝は軍容が整わないのを怒り、軍旗の下に引き出して斬ろうとした。劉幽求張説は馬にすがりついて諌め、「元振に大功がありますから、罪があったとしても、宥されるべきです」と言ったから、そこで死罪を赦され、新州に流された。開元元年(713)、帝は旧功を思い、起用して饒州司馬としたが、怏々として思い通りにならず、道中に病のため卒した。年五十八歳。開元十年(722)、太子少保を追贈された。

  郭元振は若い頃は野心家であったが、尊くなるにつれ、住居は倹約し、手元に書物を置かず、人々は喜怒哀楽を見たことがなかった。住宅を宣陽里に建て、今まで一度も諸院や厩舎に行ったことがなかった。朝廷から帰って来ると、親と楽しそうに会い、居室に戻ると、端正厳粛であった。国初から仕えて宰相となって両親が健在であった者は、ただ郭元振だけであったという。


【賛】
  賛にいわく、魏元忠韋安石は二人とも感概によって発奮したことは共通している。しかし暗君・君側の間にいながら、好機に直面したにも関わらず、邪悪の謀を鎮圧しようと指一本動かさなかったのは、本当に見下げた行為とすべきである。皇后が不当にも主を脅かすため盛んに誣告をして宗社を揺るがしたが、また従うことをよしとしなかった。古代の所謂「具臣(お役に立つ家来)」というのが真実だろう。郭元振の功績はあらわれ誠実さを全うしたが、一度の失敗から立ち直ることができず、世間はその早死を嘆いたという。


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