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巻二百 列伝第一百二十五つづき



【啖助伝】
  啖助は、字は叔佐で、趙州の人で、後に関中に遷った。経術に該博であった。天宝年間(742-756)末、臨海県の尉・丹楊県の主簿に任じられた。任期満了すると引退して、野菜や乾燥穀物で満足した。

  『春秋』をよくし、三伝の長短を考え、遺漏を収集して、『集伝』と名付け、およそ十年で完成し、またその綱条をとって、例統とした。孔子が『春秋』を修めた理由について、次のように考えた。「夏の政治は忠であるが、忠の弊害は粗野なことである。商(殷)の人はこれを受けて政治は敬を以て行った。敬の弊害は鬼神への尊崇である。周の人はこれを受けて政治は文を以て行った。文の弊は不誠実である。不誠実を救うには忠を以てするにこしたことがない。文というは、忠の末である。この教えを根本に持ってくれば、その弊害もまた末である。教えを末に持ってくれば、弊害はどうであろうか。武王・周公は商(殷)の弊害を受けたが、仕方なくこれを用いた。周公が没すると、改めなければならない理由はわからなくなった。そのため弊害は二代(夏・殷)よりもひどいことになった。孔子は悲しんで、「虞・夏の二王朝の政治は、簡素で人民に恨みを抱かせることが少なかったが、商・周の二王朝の政治は煩雑で、人民がその欠陥に苦しむこととなった(『礼記』表記)」といい、だから、「後世にいかなる明君が出たとしても、虞帝(舜)に及ぶことはできなかったであろう(『礼記』表記)」思うに唐・虞の感化は、末世に行うのが難ければ、夏の忠道は変じて行なうべきであるが、末世に行なうのが難しく、夏の忠は、変わるべくしてやってきたのだ。そのため『春秋』は権力によって政治を助け、誠を以て礼を裁き、忠道原情という。空虚な名声に執着せず、堅苦しいものも重んじず、乱れを正すために適切な方法を用い、時代に合わせて官吏の昇格や降格を行う。古語に、「商は夏を変え、周は商を変え、春秋は周を変えた」と言い、公羊子はまた、「楽の道は尭・舜の道で、これによって後聖を擬える(『春秋公羊伝』哀公十四年伝)」と言い、これによって『春秋』は二帝・三王の法を用い、夏を根本とし、周の法に厳密に従ったわけではないことを示している。」 また次のように述べた。「幽王・厲王は衰えたとはいえ、常に衰退の風とはなっていなかった。平王が東遷すると、人々は残っていた風潮を習い、善悪があれば周法で正すべきであった。そこで平王の末期から断絶し、隠公から始めたのは、弱きを救い善をうながし、周の弊害を救い、礼の失を改めるためであった。」啖助は公羊伝・穀梁伝の二家を愛したが、その理由はまた『論語』で孔子が引用している文献は、前時代の人の老彭・伯夷といった者によるもので、同時代のものではないからであるとした。「左丘明はこれを恥じた。孔子もまたこれを恥じた(『論語』公冶長)」とあり、丘明は、思うに史佚(尹逸)・遅任(殷代の賢人)のような者であろう。また『春秋左氏伝』・『国語』は、構成が整わず、順序も一貫していないことから、一人の人物が書いたものではないことがわかる。思うに、左氏は諸国史を集めて『春秋』を説いたから、後の人が左氏のことを、左丘明と著したのは間違いである、と。啖助の解釈の多くがこのような類である。

  啖助の門人では趙匡陸質がその高第である。啖助が卒した時、年四十七歳であった。陸質はその子の啖異と共に、啖助のつくった『春秋集註総例』を編集し、趙匡に訂正を願い、陸質は編纂・整理し、『纂例』と名付けた。趙匡は、字は伯循で、河東の人で、洋州刺史に任じられ、陸質に趙夫子と呼ばれた。

  大暦年間(766-779)、啖助趙匡陸質が『春秋』によって、施士匄は『詩』によって、仲子陵・袁彝・韋彤・韋茝が『礼』によって、蔡広成は『易』によって、強蒙は『論語』によって、いずれも自らその学で名声があり、施士匄・仲子陵は最も卓越した。


【附、施士匄伝】
  施士匄は、呉の人で、『詩』と兼ねて『春秋左氏伝』をよくし、二経によって教授となった。四門助教から博士となり、任期満了のため去ろうとしたが、生徒たちが書簡で残留を願い、およそ十九年、在官中に卒した。弟子が共に葬った。施士匄は『春秋伝』を撰述したが、伝えられなかった。後に文宗が経術を喜び、宰相の李石はそこで施士匄の春秋を読むべきであると申し上げた。は、「朕はこれを見たことがある。重箱の隅を突くような学問で、執拗に異同が書かれているものだ。しかし学者は井戸を浚渫する人のようなもので、良い水さえ見つけられればよいのであって、どうして必ず労苦して遠くまで探し求め、その後に得られるというのだろうか」と答えた。


【附、仲子陵伝】
  仲子陵は、蜀の人で、古学を好み、峨眉山に住んだ。賢良方正科に及第し、太常博士に抜擢され、后蒼(前漢の学者)・大小の戴礼(礼記)に通じた。役人が太祖を東向きの位座にただし、献祖懿祖の二神主(位牌)を遷すよう願い出た。仲子陵は神主を徳明興聖廟に収めるよう意見を述べ、その発言は典雅で正しいものであった。後に異論が紛糾し、また理解の難しさを諸儒に示したが、諸儒は退けることができなかった。しばらくして、典黔中選補となり、駅伝に乗って家を通り過ぎたから、西人はこれを栄とした。司門員外郎で終わった。仲子陵は文章によって自らをたのみ、没すると、その家にあったのは、ただ図書と酒数斛があるだけであった。


【賛】
  賛にいわく、『春秋』・『詩』・『易』・『書』があり、孔子の当時の師弟子によって相伝された。秦の暴政があったが、断たれずに糸のように繋がった。漢が興ると、書籍を刻み剥がされ、儒者は自由に講義を行い、経典は次第に栄えた。左氏は孔子と同時期の人で、魯史によって『春秋』に伝が作られ、公羊高・穀梁赤はいずれも子夏の門人の出である。三家は経(『春秋』)について述べているところに、それぞれ誤りを抱えているが、それでも詳しいところまで根本は聖人に由来しており、長所と短所は思うに十中の五であり、書かれた義は誤りであっても、先儒たちは聖人を畏み、あえて容易く改めなかった。啖助は唐の中で、『春秋』を修めて名声があり、三家を取捨し、受け継がれてきたものを根本とせず、自ら学派の説を用い、自分の憶測により、尊んで「孔子の意図である」とし、趙匡陸質も従ってこの説を唱え、遂に当時有名となった。嗚呼、孔子が没して数千年、啖助が推測して著したものは果して孔子の意図であったのだろうか。それは不確かなことである。不確かなことを主張することは、頑迷なことである。一個人の頑迷さを世間に広めることは、欺瞞である。欺瞞と頑迷は、君子にとって許されないことである。啖助は果たして優れているといれるのだろうか。いたずらに後世に詭弁を弄し、先人を批判し、定説を捨て、混乱を招いたのは、啖助自らが生み出したものである。


【韋彤伝】
  韋彤は、京兆の人である。四世の従祖の韋方質武后の時に宰相となった。韋彤は優れた治世で名声を得て、徳宗の時代に太常博士となった。

  これより以前、天宝年間(742-756)、尚食局に詔して朔望に食事を太廟に捧げさせたが、天子は宦官を祠に侍らせ、役人には参与させなかった。貞元十二年(796)、は始めて詔して朔望の御供物について、宗正寺・太常寺に一緒に供物を捧げさせた。ここに韋彤は博士の裴堪と共に以下のように議した。「礼では、宗廟では朔・望日に祭らず、園寝で実施します。貞観・開元年間(623-741)、礼・令の通りで、あえて古例を変えませんでした。天宝年間(742-756)、始めて食事を進ることがあり、王璵はまるで生きている者に仕えるかのように死んだ者に仕え、酒器や汚れた神饌を用い、礼薦を侮り、遠ざかることを示すことができなかった。伝に「祭は外より至るものではなく、中より出、心に生じるものである(『礼記』祭統)」とあり、そのため聖人らは牲牢(犠牲)、籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)を並べ、昆虫・草木といったお供えに相応しい供物では、すべてが揃っており、これによって宗廟を享り、神明と交わり、孝敬を全うするのです。清らかなご馳走、八珍を百品もの柔らかく甘い美味しい料理は、清らかな味と言い、宴会で賓客をもてなすのに用い、人々と交流したり、慈悲を示したりするために用いられました。このように、供物と宴会は聖人は区別して二つを別物としており、混同してはなりません。今調理された食べ物を供えるのは、珍しいものによって尊重の意を表すためではありません。さらに供物は頻繁すぎても少なすぎてもよくなく、季節に応じて節度を保って行なうのです。現在、園寝での月二度の祭は少ないわけではなく、廟での年五度の祭は多いわけではありません。官吏はつつしんで職務を全うすることで、恭敬の心を尽くすことができます。もし朔日・望日に盛大な宴を加えるならば、それは礼儀に反し、恭敬の心を尽くすことができないでしょう。そこで君主は古代の例を鑑みて、孝行をつくす心によって礼で溢れさせることはなく、肴の品数の多さで増やすことはありません。何卒、天宝年間(742-756)で増やした園寝の珍味、宗廟を奉るの礼をやめられ、両方とも適宜とされますように。」 帝は「この礼は先帝が裁定されたもので、にわかに変更したのなら、先帝は朕のことを何と言われるだろうか。おもむろに議論するがよいだろう」と言い、朔日・望日の食はついに廃止されなかった。

  昭陵の寝宮が野火の延焼で焼失し、仮に瑤台寺で祭った。またもとの宮は山の上にあり、水泉が乏しく、造営にあたる者は非常に労苦し、行宮を寝としたいと思い、宰相に詔して百官に議論させた。吏部員外郎の楊於陵は以下のように意見を述べた。「園寝は三代(夏・殷・周)の制度ではありません。秦・漢より以来、陵に付属して寝が置かれ、ある時は遠かったのか、もしくは近かったのかは聞いたことはありません。韋玄成(前漢の丞相)らが園陵について議論し、興廃については適切な説明がありません。なおかつ寝宮は陵墓の中を占め、陵から遠くなく、諸陵の寝とはいずれも区画があり、そのため遷すことができないのです。もし陵墓の中に留めようにも、寝はすでに焼けており、行宮はすで造営されたから長いこと経過しており、ですから改築しても問題はないでしょう。ある者が「太宗は創業の帝であるから、寝宮はたやすく変えてはならない」と言っていますが、そうではありません。陵域は霊魂の住処であり、霊魂は本来静かな場所にいます。現在大規模な復旧工事、周囲の喧騒によって、陵墓は安らぎの場所ではありません。移転させるのがよいでしょう。」 韋彤は次のように述べた。「先王は都を構える際に、不利な状況であれば移転しましたが、ましてや理由があるのならどうでしょうか。現在、寝に災いがあり、遷してこれを宮としましたが、理由がないわけではありません。霊魂は遷して安置し、そのため寝を建立することは、礼に合致しています。また他陵はいずれも陵墓内にあるので、臨機応変に営造すれば、他の陵墓の兆域を超えることはなく、労力を省略して容易になるでしょう。」 は改めて先帝の制を重んじ、宮を山頂に戻した。

  韋彤が卒して後、武宗の会昌五年(845)、詔して群臣が京城に私廟をつくることを許さなかった。宰相の李徳裕らが韋彤の議論を引用して、「古代の制度では、廟は必ず中門の外にあり、吉凶を宣告し、親族を尊ぶので、自分勝手にしてはなりません。今、京師の外に廟を建立させるのは、礼にそぐいません。宮の南の朱雀門街沿いの南北九坊・東西三坊の囲外の坊は、その左(東)は荒れ地で、廟を立てるのに問題はありません。他の六坊は禁じるべきです」と述べた。詔があって許されなかったが、古例に準じて住居に廟を立てることを聴した。


【陳京伝】
  陳京は、字は慶復で、陳の宜都王である陳叔明の五世の孫である。父の陳兼は、右補闕・翰林学士となった。陳京は文章に優れ、常袞はこれを称えて、常袞の兄の子を妻とした。進士に及第し、累進して太常博士に遷った。

  徳宗が奉天にいるとき、段秀実が賊に殺害されたのを聞いて、七日間聴朝しなかった。宰相は「多難な時に、多くの事柄を抱え込むのは賢明ではありません。天下はなんと思うでしょうか」と上奏すると、陳京は「丞相の発言は誤りです。高潔な人々を称え、賢臣に憐れみを示すことは、天下の安定の礎です。ましてや並外れた功績を挙げた人であればなおさらです」と述べたから、は「よろしい」と答えた。京師に帰還すると、左補闕に抜擢された。帝は盧𣏌を饒州刺史としたが、陳京は趙需裴佶宇文炫盧景亮張薦と共に弾劾し、「盧𣏌は宰相の要職にありながら、大臣は一ヶ月以上たってもの朝廷に行くことができず、百官の恐れようは常に武器が喉元に突きつけられているかのようです。陛下が再び用いられるのでしたら、奸賊は簡単に復帰するのです」と述べたが、は聴さなかった。陳京らは激しく反論し、帝は大いに怒り、左右の者はうんざりし、諌める者はしばらく退いた。陳京は顔色を正して、「趙需たちよ、ここで退いてはならん」と言い、厳しく不可を述べ、死を賭して要請し、盧𣏌は遂に廃された。帝は即位すると、太后を探させたが、なかなか見つからず、ついには困り果てた。陳京は密かに「弟は使者を派遣して捜索させています」と報告すると、帝は大いに悟り、二度と派遣しなかった。

  それより以前、玄宗粛宗を室に併せ祀り、献祖懿祖を西の合祀室(夾室)に遷し、太祖の神位(位牌)を引いて東向きとした。礼儀使の于休烈は議して、「献祖懿祖の二祖は太祖の父祖なので、もし並べ祀れば、太祖の神位は正しい位置を得られなくなります。何卒、献祖懿祖の二祖の神主を納め、太宗中宗睿宗粛宗世祖より南向きとし、高宗玄宗高祖より北向きとなされますように」と述べ、禘祭祫祭献祖懿祖の二祖に実施せずに十八年たった。建中年間(780-783)初頭、代宗は喪があけると、大祫しようとした。陳京は太常博士となっており、以下のように上奏した。「『春秋』では、毀廟(毎日の食事の供えなど通常の礼を絶やされた廟)の神主(位牌)は太祖に並べ、まだ毀廟していない神主は祖に並べ祭りますが、毀廟され神主を遷された神主は祭ってはならないという文言はありません。唐家の祀制は周とは異なっており、周は后稷を始封の祖としていますが、毀廟された神主は皆后稷の世代の下となっており、そのため太祖は東向きで、常に太祖の父祖を統べています。司馬氏の晋は高皇(曹操の祖父の曹騰。魏晋の記述の誤り)・太皇(曹操の父の曹嵩。魏晋の記述の誤り)、征西・四府君(司馬懿の高祖父の司馬鈞、司馬懿の曽祖父の司馬量、祖父の司馬儁、父の司馬防)を別廟とし、大禘では正面に太祖(司馬昭)の神位が安置され、曲げられることはありません。別廟に高皇・太祖以降を祭るのは、親属であることを表明するためです。唐家は別に献祖懿祖の二祖の廟を建立し、禘・祫では祭り、太祖を東向きに位座させます。徳明皇帝(皋陶)・興聖皇帝の二帝は、すでにがありますから、納めて二祖に併せ祀るのがよろしいかと思います。」

  百官に詔してあまねく議論させた。礼儀使・太子少師の顔真卿は次のように述べた。「今、議する者の意見は三つあります。一つは、献祖懿祖は親属が遠いから遷し、すべきではなく、神主(位牌)を西室に納めるべきだと言います。二つは、献祖懿祖の二祖はに神位を安置し、太祖と共に昭穆に並べ、東向きの位座をあけておくと言います。三つは、献祖懿祖に引いて、そこで太祖をその始祖として全うすることできないので、献祖懿祖の二祖の神主を徳明皇帝廟に併せ祀ると言います。だからといって人・神にとって十分とはいえません。景皇帝は受命・始封の君であるから百代不遷の主です。また天に配侑し、父祖は並び立つものはなく、の時には、昭穆を調整して孝を表明して先祖に敬意を表すものであり、これは実に明神の意で、天下に孝を教導する理由です。ましてや晋の蔡謨らがなした議は、根拠がないので、実施してはならないのです。何卒、大祫の享(まつ)りにて献祖の神主を奉って東向きにし、懿祖の神主を昭に居らせ、景皇帝の神主を穆に居らせ、根本を守り、従順を尊び、万代の法としてください。「」というのは「合」の意味です。あたかも徳明皇帝(皋陶)を別に享(まつ)るように、分けて祀り、一緒に祀るべきではありません」 当時の議する者は挙ってそうだと思い、ここに献祖懿祖の神主を戻して廟にすることは、顔真卿の発議の通りとした。

  貞元七年(791)、太常卿の裴郁が次のように上言した。「商・周は卨・后稷を祖としており、世代のさらに上には他の父祖はおらず、そのため一緒に祀るのに序列があるのです。漢が天命を受けると、高皇帝(高祖)を祖とし、そのため太上皇(高祖の父劉太公)は昭穆と一緒に祀りませんでした。魏は武帝(曹操)を祖とし、晋は宣帝(司馬懿)を祖とし、そのため高皇(曹操の祖父の曹騰。魏晋の記述の誤り)・処士(曹操の曽祖父曹萌。魏晋の記述誤り)・征西(司馬懿の高祖父の司馬鈞)らの君は、同じく昭穆に併せ祀りませんでした。景皇帝は始めて唐に封ぜられたから、唐は祖に推したのであり、献祖懿祖は親疎が尽きて廟は遷りましたが、それでも東向きにおり、非礼の祀りで、神は享らないところです。願わくば群臣に議を下されますように」 ここに太子左庶子の李嶸らが以下のように上言した。「謹んで晋の孫欽が議しました、「太祖以前は、神主があるとはいえ、で祀るには及ばない。祀るに及ばない者は、太祖の後裔で毀廟されておらず、昇って二祧の昭穆に納めた者は、百代たっても祀る」というのを考察してみますと、献祖懿祖は始封以前であって、親疎が尽きて神主を遷し、上は三代(夏・殷・周)に倣おうとするなら、では祀る必要はありません。太祖以下、世祖のように、つまりは『春秋』でいうところの「太祖に並べる(『春秋公羊伝』文公二年伝)」ということです。漢で郡国の廟を罷めんと議し、丞相の韋玄成が議して、「太上皇・孝恵帝の廟はいずれも親が尽きておりますから毀つべきであります。太上廟の神主は寝園に埋めるべきであり、孝恵帝の神主は高廟に遷すのがよろしい(『漢書』韋玄成伝)」と述べており、太上皇は太祖の前の世代で、神主は寝園に埋められて、に祀られないのは、献祖懿祖と比べられましょう。恵帝を高廟に遷すのは、太祖の後裔であって、で祀られるので、世祖と比べられましょう。魏の明帝は処士(曹操の曽祖父曹萌)の神主を遷して、園邑に置き、時節の祀りに令丞によって供物を捧げました。東晋は征西(司馬懿の高祖父の司馬鈞)らが祖であるから遷して西除に入れ、同じくこれを祧(遷廟)といい、いずれも祀られませんでした。そのため唐初から下って開元年間(713-741)まで、ではなおも東向きの位座は空白となっていました。九廟が設立されると、追って献祖懿祖を祖としましたが、しかし祝文では三祖に対して臣と称しませんでした。至徳年間(756-758)、また九廟を設立しましたが、遂に弘農府君の神主はつくられず、そのため祀る必要がありませんでした。広徳年間(763-764)、始めて景皇帝が東向に位座することとなりましたが、献祖懿祖の神主は親疎が尽きたので、を罷めて納められました。顔真卿は蔡謨の議を引用して、再び献祖を奉って東向きとし、懿祖を昭、景皇帝を穆としました。蔡謨の意思は晋では今まで用いられたことがないので記されておらず、それを唐の王法として受け入れてよいものでしょうか。臣らは嘗祭・禘祭・郊祭・社祭に二尊はおらず、埋納・毀廟・遷祧・蔵納は、それぞれ意味に従って判断されると考えております。景皇帝はすでに東向きなので、ある日突然変えることは、礼というべきではありません。再び献祖懿祖の二神主を西室に納めるべきで、これは「祭法」の「遠廟の二祧は、去祧に祭る先祖よるももっと遠い先祖を祭るには壇を用い、それよりもっと遠い先祖を祭るには墠を用いる。壇と墠は、ある先祖に対して特に祈るべきことがあれば、臨時にその先祖を祭るのである。祈る必要がなければ壇と墠を祭ることはやめるのである(『礼記』祭法)」の意味によるものです。太祖が正しい位置になければ、祭るのはやめるべきです。」

  吏部郎中の柳冕ら十二人が議して、次のように述べた。「天子は受命の君であるから太祖とし、諸侯は始封の主であるから祖とします。そのため太祖から祖以下、親疎が尽きれば次第に毀廟されます。秦の時代になると学は滅び、漢は礼する暇無く、晋は失い宋はそれにより、そのため王廟を連ねる制度がありながらも、太祖の位座を虚しくしてきたのです。また昭穆を並べなければ、秩序があるとはいいません。次第に毀廟を行わなければ、減らすとはいいません。王廟を連ねるのなら、別があるとはいいません。太祖の位座を空白にすれば、一尊とはいいません。これが礼が廃れる理由なのです。伝に「父は士の身分であったが、子は天子となったなら、父を祭るには天子の礼を用いるが、葬では士の身分とする(『礼記』喪服小記)」とありますが、今献祖懿祖の二祖は、唐がまだ天命を受けていない時には、ただの士の身分にすぎませんでした。そのため高祖太宗が天子の礼で祭りましたが、あえて東向きの位座に奉らなかったのです。今これを変えるのでしたら、先帝の秩序を乱すことになるのはないでしょうか。周が天下をとると、王太王(古公亶父)・王季(季歴)を追尊して天子の礼で祭りました。その祭りは、親疎が尽きると毀廟されました。漢が天下をとると、太上皇を尊んで天子の礼によりました。その祭りは、親疎が尽きると毀廟されました。唐家では献祖懿祖の二祖を追尊して天子の礼としました。その祭りは、親疎が尽きて毀廟されるのに、またどうして疑うことがありましょうか。『周官(周礼)』に「先公先王の廟祧(『周礼』守祧)」があります。「先公の遷廟の主は后稷の廟に蔵め(『鄭玄周礼注』守祧)」と言いますが、周がまだ天命を受けていないのに廟祧というのでしょうか。「先王の遷廟の主は文王・武王の廟に蔵め(『鄭玄周礼注』守祧)」と言いますが、周がすでに天命を受けているのに廟祧というのでしょうか。そのため昭穆の二祧があるのは、廟を区別するからなのです。今、献祖より下は、先公のようなものです。景皇帝より下は、先王のようなものです。何卒、別廟によって二祖を居らせますように。そうすれば周の道は行われ、古の制度が復活するのでよいでしょう。」

  工部郎中張薦らが献祖から下の世代を降し、すべて昭穆に入れ、東向きの位座を空白にするよう願った。司勲員外郎の裴枢が次のように述べた。「『礼』に「親縁が近いほど親しく、従って、親縁の発生する厳選として祖先を尊び、従って祖先の直系たる宗子を敬い、従ってわが親族をよく収め和合させて宗子に仕えるのである。宗子が敬われるからこそ、宗子の祭る宗廟で尊厳なのであり、従って宗廟の安泰を欲するが故に、社稷を尊重して国家の平安を祈る(『礼記』大伝)」とあり、太祖より上の世代は、同じく追尊すると、尊祖の義に背くのです。太廟の外に、別個に廟を立てて祭ると、社稷が重んじられなくなります。漢の韋玄成が神主を園庭に埋めるよう要請し、晋の虞喜が廟を二つの階段の間に埋めるよう要請しました。虞喜は『春秋左氏伝』を根拠にして自説を、「歴代の王は毎日祖・考を祭り、毎月曾祖父・高祖父を祭り、時節に二祧昭穆で祭り、毎年および壇と墠を祭り、最後にして郊・宗の石室に及ぶ。これを郊宗の祖という」と述べており、虞喜は合祀室の中に石室をつくってここに居らせるよう要請しましたが、これはそうではありません。なぜでしょうか。合祀室は太祖の世代の下の神主の場所であって、太祖の上の世代の神主を隠すものではありません。下位のものを正・尊の傍らに置く前例はありません。もし石室を園寝に建立し、神主を遷して安置し、漢・晋の旧例を採用し、を一祭にまとめるなら、『春秋』の改変が正しいものになるのではないでしょうか。」

  この時、陳京は考功員外郎として、また、「興聖皇帝献祖の曽祖父で、懿祖の高祖父です。曽孫を曽祖父・高祖父の廟に併せ祭るのは、人の情として大いに順うのです」と述べた。京兆少尹の韋武は、「は大いに合い集うことであり、は昭穆祧廟の序列です。を実施すべき年に、常に献祖を東向きとし、懿祖を率いて後は昭穆によって親縁が近いほど親しいよう極めるのです。を実施するときに、太祖を西の筵に安置し、多くの神主を左右に列べるなら、太祖は降とはならず、献祖は嫌がることがないでしょう」と述べた。当時の儒者たちは、『左氏伝』に「いかに子が明聖であっても、祭祀が父よりも上位になるようなことは、昔からありえない(『春秋左氏伝』文公二年伝)」とあるから、献祖の神主(位牌)を迎えて仮に東向きとし、太祖はしばらく穆の位座に戻るよう要請した。同官県の尉の仲子陵は次のように述べた。「いわゆる「祭祀が父よりも上位になるようなことは、昔からありえない(『春秋左氏伝』文公二年伝)」というのは、左丘明が文公の逆祀を正したものです。儒者はどうして夏后の世代がまだ充足していない時に、禹が鯀よりも上位になったことを知っているのでしょうか。魏・晋は始祖が卑近であり、始祖の上は皆神主を遷しました。「閟宮詩」を引用して、長く閟(門を閉ざす)のをよしとしました。そこで虞喜は、神主を園に埋めることをよしとしました。遠祧であるから、宮を築くのがよいのです。太祖は実際には天子ではないので、位座を空白にするのがよいでしょう。しかし長く門を閉ざして園庭に埋めることは、臣下を不安にさせます。もし正位を空白にするなら、太祖の尊厳は永遠に守られません。そこで何卒献祖懿祖の二祖を奉って徳明興聖廟に遷すか、あるいは二祖を別廟として、併せ祭りませんように。また徳明興聖廟の年に、全員を祭献しているのに、二廟は分けて祭っています。どうして献祖懿祖のみを問題視する必要がありましょうか。」

  国子四門博士の韓愈は衆議を質し、自説を以下のように述べた。「第一は、献祖懿祖の神主(位牌)は、合祀室のなかに永久にお納めになるがよいという意見です。わたくしはそれはいけないと存じます。では霊廟をこわされた神主は、合わせてお供物がささげられるべきであります。の時になると、太廟で、お供物をささげないわけにいきますまい。二祖が祭りにあずかれなかったら、「合わす」というわけにいきますまい。第二は、献祖懿祖の神主(位牌)は、こわして埋めるがよろしいという意見でございます。わたくしはそれもいけないと存じます。『礼記』を調べてみますのに、「天子は七つの廟と、一つの祭壇と一つのくぼ地の祭場をこしらえる(『礼記』祭法)」とあります。霊廟をこわされた位牌は、みな合祀のための霊廟に納めて、永久にこわさず、祫の祭りのときは、太廟に並べて、お供物をささげるのでございます。魏・晋以後、はじめてこわして埋めるという意見ができました。そのことは経典にもとづくことではないので、けっきょくは実行できませんでした。いま、わが国家は九つの霊廟をおつくりになりました。周の制度から推定しましても、献祖・懿祖のお二方は、なお祭壇や祭場でお祭りされる位置にございます。まして、こわして埋めて、の祭りをしないことなど、とんでもないことでございます。第三は、献祖懿祖の神主は、それぞれの御陵にお遷しするがよろしいと申す意見でございます。わたくしはそれもいけないと存じます。お二方が太廟に並べられておりますことは、二百年になります。いま、にわかにそれをお遷ししたら、人のうわさにとやかくいわれるばかりでなく、おそらくは、お二方の神霊も、都に心のこりが多くぐずぐずされるのではないかと思われます。第四は、献祖懿祖の神主は、興聖廟にあずけての祭りをしないがよろしいという意見でございます。わたくしはそれもいけないと存じます。経典にも、「祭るにはそこにいるようにする(『論語』八佾)」とあります。景皇帝は、太祖ではございますが、その血縁関係からいえば、献祖の御孫、懿祖の御子でございます。いまその子を東向きの位置に正しくおいて、その父の大祭を廃止しようとするのは、もちろん、常法とできることではございません。第五は、献祖懿祖のお二方に、別に都に廟を立てるがよいという意見でございます。わたくしはそれもいけないと存じます。およそ礼にはだんだんと程度を下げ、人情にはだんだんと薄くするところがあるものでございます。こういうわけで、廟から合祀室とし、合祀室から祭壇とし、祭壇から祭場とし、祭場から一般の霊鬼とします。だんだん遠くなればなるほど、お祭りもだんだん稀になります。むかし魯が先祖の煬公のお社を立てたら、『春秋』はこれを非難しています。思うに、こわしてしまった廟と、納めてしまった神主を取り出し、ふたたびお社を建てて祭ってはならないのであります。いまの意見は、ちょうどこれと同じでございます。古代、殷は玄王(契)を太祖とし、周は后稷を太祖とし、太祖より上は、みなそれぞれ帝であり、その上、世代が遠いので、祭っておりません。景皇帝太祖ではありますが、献祖懿祖からすれば、 御子孫でございます。の祭りの時には、献祖皇帝が東向きの位置を占めるがよく、景皇帝は左右昭穆の列にお並びになるのがよいと存じます。 祖父は孫のために尊く、孫は祖父のために遠慮するのは、神霊についていっても、人の感情からかけ離れた処置ではございますまい。そのうえ、 日常の祭りはたいへん多く、合同の祭りはたいへん少ないので、太祖皇帝が遠慮されて位置をゆずられる祭りは極めて少なく、上位で祭られる祭りが極めて多く、孫の尊さを上位に置き、祖父の祭りを廃止するよりも、無理がないのではありますまいか。」

  柳冕はまた『禘祫義証』十四篇を撰上し、は尚書省に詔して百官・国子の儒官を集め、可否を判断させた。左司郎中の陸淳が以下のように奏上した。「礼および儒者たちの議を調べてみますに、太祖の位座を復するというのは正しいことです。太祖の位座が正ければ、献祖懿祖の二神主も安置すべきです。今議する者には四つの意見があり、合祀室に納めるというもの、別廟に安置するというもの、それぞれ園に遷すというもの、興聖廟の廟に併せ祭るというものがあります。臣が思いますに、合祀室に納めるというのは、享献は際限無く行われ、周の人の定めた昭穆二祧の法に反することになります。別廟を設置するというのは、論自体は曹魏に始まりましたが、礼は所伝がなく、司馬氏の晋では議して用いませんでした。諸園に遷せば、宗廟の制を乱すことになります。ただ興聖廟に併せ祭り、もしくはで一祭すれば、礼法を得たようなものです」 は意見の一致を見ないから決定しなかった。

  貞元十九年(803)、禘祭を実施しようとすると、陳京は再び禘祭にて大いに祖宗を合わせ、必ず太祖の神位を奉って、昭穆を正すことを奏上し、百官に詔して議論するよう願い出た。尚書左僕射の姚南仲らが献祖懿祖の神主(位牌)を奉って徳明興聖廟に併せ祭るよう願い出た。鴻臚卿の王権はこれを解釈して、以下のように述べた。「周の人の祖は文王で、宗は武王なので、そのため『詩』の「清廟」の章に、「文王を祀る(『詩経』周頌 清廟之什 清廟)」とあるのは、どうして太王(古公亶父)・王季(季歴)のことを言わないのでしょうか。それは太王・王季は世代が上ですが、いずれも后稷に併せ祭り、そのため「清廟」に「文王を祀る」と言っているのです。太王・王季を尊ぶことは、私礼なのです。后稷の廟に併せ祭り、あえて私礼によって公的な礼を奪うことはしません。古代は先王の神位を廟に遷し、昭穆によって合わせて祖廟に納めるのです。献祖懿祖の神主を興聖廟に併せ祭るべきで、つまり太祖を東向きにして尊とし、献祖・懿祖の神主をその場所に安置すべきなのです」 この当時、興聖皇廟に併せ祭るよう提案した者は十人中七・八人いて、天子は依然として躊躇して決断を下せなかった。すると群臣は発言し始め、「二祖は追崇されていますが、受命開国の基礎ではありません。また王権が根拠として詩や礼を引用した通りで明白です」と述べた。帝は疑念が解消し、ここに二祖を興聖皇廟に遷し、で一度お供えするよう定めた。詔して興聖皇廟の二室を増設した。ちょうど祭祀の日が迫っていたが、廟の増設はまだ完成しておらず、繒(かとり)で部屋をつくり、神主を廟の垣間に入れて、興聖・徳明皇帝(皋陶)の神主をここに居らせた。廟の増設が完成すると併せ祭った。これより景皇帝は遂に東向きとなった。

  陳京は博士として建議してから、二十年にもなってから決し、儒者たちはあとから言う者はいなかった。は陳京に緋衣・銀魚を賜った。昭陵の寝殿が山の上にあって、寝殿に仕える宦官は物資が乏しく、山上まで引き上げるのを嫌がり、場所を改めるよう願ったが、宰相は抗弁することができなかった。陳京は、「これは太宗の廟であり、その節倹は後世の模範とするに足るもので、改めるべきではありません」と言うと、議する者は多くが宦官に従ったが、帝は「陳京の議でよい」と言い、ついに遷さなかった。帝は陳京を優れた人物だとし、宰相の才能があると考え、起用したいと思っていた。ちょうどその時、病によって正気を失い、自ら刺したが死なず、また中書舎人の崔邠・御史中丞の李汶が自分のことを謗っていると言い、帝は詰問させたが事実ではなく、それでも考功員外から再び給事中に遷り、いずれも集賢殿学士を兼任した。帝は陳京を嫌っている者から中傷されているのではないかと疑い、宦官を通じて賜い物することが幾度もあった。後に延英殿で対面し、帝は教え諭したが、陳京は恐れ驚いて走り去り、罷免されて秘書少監となって卒した。

  それより以前、李希烈を討伐しようとしたが、財政は尽きており、陳京は戸部侍郎の趙賛と共に民の家屋の架(間口)に税を課し、商人の財力を利用して、一定率によって借受けするよう願い出た。憲宗はかつて宰相の李吉甫に向かって、「私がまだ藩邸にいた時、徳宗が梁・漢のあたりをさまよい、しばらくして戻ったと聞いているが、誰が本当に乱を招いたのか。私のために教えてくれ」と尋ねると、李吉甫は「徳宗が即位した当初、身は慈愛と節倹につとめられ、崔祐甫を宰相に抜擢し、全国は世の中がいたってよく治まることに望みをかけました。崔祐甫が没すると、宰相は人物ではない者が任命され、佞臣が宮廷に巣篭もりし、河北の叛臣を武力で屈服させるべきと言って、甘い言葉で人に先んじて囁き、徳宗を惑わせたのです。しかも陳京・趙賛は帝のために民の家屋の架に税を課し、商人の金を借り受けたので、内外の怨みを買い、自身は大乱に及んだのです。咎は小人を信じたためにおこり、下の者を収奪して上を助ける有様でしたが、天の霊を頼ったので、敗れても滅亡せずに済んだのです」と答えた。は恨み悲しんで、「陳京と趙賛は、真の賊臣だな」と言った。

  陳京には子がなく、従子の陳褒を後嗣とした。陳褒の孫の陳伯宣は、著作佐郎を辞退して任命を受けなかった。

【賛】
  賛にいわく、徳宗の腐敗した政治の中でも、間架税・商銭の借用・宮市が最もひどいものであった。順宗が太子となると、厳しく諌めようと思ったが、王叔文に諌止されて取り止めた。恐れはそれほどのものであった。ましてや一介の臣が、命をかけて説くことは、なんと難しいことであろうか。国を受け継いでから日が浅く、志は民にはなかったのである。憲宗は過酷な課税政策が賊臣の主導で行われたのを聞いて、憤って溜め息をついたが、民衆を愛する証拠である。しかし程异皇甫鎛を任命すると、諌める者の声を聴かなかった。利を興す臣下が君主の徳を失わせることは、なんとひどいことではないか。


【暢当伝】
  暢当は、河東の人である。父の暢璀は、左散騎常侍となり、代宗の時代に、裴冕賈至王延昌と共に集賢院待制となり、戸部尚書で終わった。

  暢当は進士に及第し、貞元年間(785-805)初頭、太常博士となる。昭徳皇后が崩ずると、宮廷の内外で服喪があけ、皇太子・諸王は三年服することとなったが、太常寺に詔して太子の服喪について議論させた。暢当は博士の張薦柳冕李吉甫と共に以下のように述べた。「子は母のために斉衰(しさい。喪服の名)で三年であるのは、思うに一般的な喪なのです。太子が皇后のために喪服を着用するのは、古代では典拠とする文章がありません。晋の元皇后が崩ずると、また太子が喪服を着用したかについて疑問視されました。杜預は、「古えの天子は三年の喪で、葬り終わると服喪があけました。魏も同じく葬り終わると喪の期間が終了しました。皇太子は国家の不可欠な一部で、喪の期間が変更されない限り、東宮の侍臣も同じく衰麻(斬衰の次の段階の喪服で縁が縫った麻布でつくられる)を着て宮殿に出入りするのがよいでしょう」と意見を述べ、太子は遂に卒哭してから喪服を脱ぐこととなった。貞観十年(636)六月、文徳皇后が崩ずると、十一月に葬りましたが、太子の喪服の時期については、国史に書かれていません。翌年正月になると、晋王を并州都督としました。官に命じたということは、すでに喪があけていたとすべきです。今、皇太子は、魏・晋の制のように、葬って虞祭し、虞祭してから卒哭し、卒哭してから喪があけ、心喪を三年とすべきです。」 宰相の劉滋斉映は暢当らを呼び寄せて以下のように尋ねた。「「先生は不幸のあった人との食事では、あまりたべないのだった(『論語』述而)」とあるが、今太子は衰服で膳を侍っているが、葬ってからはどうなのだろうか。『令』に「群臣の斉衰は三十日公除せよ(「仮寧令」)」とあるから、ただちに天下の服喪を解き、この服喪期間を縮めるように」 そこで宋・斉の皇后のように、その父母の喪服の着用を三十日でとき、入謁する時には墨慘(黒色の喪服)を着用し、宮に戻って衰麻を着用するよう要請した。右補闕の穆質は以下のように上疏した。「「子が三年の喪に服することは、天子から庶民に至るまで同様である(『礼記』王制)」とあるように、漢の文帝は宗廟・社稷の重要性を自ら低下させることによって、服喪期間の三年三十六カ月をもって三十六カ月に替え、後世は改めることができませんでした。太子は人臣である以上、君主の制と同じくすることはできず、母の喪を長引かせるべきではありません。ただ晋では葬ると天下の服喪を解き、意見を述べる者が偽りの言葉によって当時の君主をたぶらかしましたが、これは見習うに値しません。今、役人の意見によって、慣習や道徳を腐敗させ、人間の根深い感情を反映しています。政治は徳を基本としており、徳は孝によることが大きいのです。後世の礼儀が失われるのは今から始まるのであり、なんと深刻なことでしょうか。父の存命中に母の喪に服すのは古代の礼です。国家朝廷では三年間の喪に服しますが、臣は三年では長すぎると思います。古来のやり方に従うことによってのみ礼を守ることができるのです。」 徳宗は内常侍の馬欽叙を派遣して穆質に向かって、「太子には撫軍・監国・問安・侍膳の職務があり、役人は三十日で喪があけ、葬ると喪服を脱ぎ、墨衰を着用して喪を終わる。何の疑いがあろうか」と述べると、穆質はまた上疏して次のように述べた。「太子によって陛下は、子の道であり、臣の道です。君臣は義によって撫軍監国しますが、権力を委譲することができます。父子は問安・侍膳することは、もとより服衰とはみなされず、古代より喪服の着用を廃止した例はありません。舒王以下は三年の服喪としたからよいって、問安・侍膳ができないというのでしょうか。太子・舒王はいずれも臣子で、大きな差があってはなりません。また皇后は天下の母ですが、その父母は平民なので、天下の母となっても、平民のように喪服を着ることは許されます。太子は臣子であって也、臣子であるから母のために平民の喪服を着ることは許されるのでしょうか。天下の服喪が解かれるのは古礼ではありません。宮殿の門に入る解きは喪服を替え、今、喪期によって墨慘を着ることはよろしいのです。太子は朝夕のお勤めは、天下の喪服を除くの比ではありません。本来、墨衰の喪服を着させて奪喪(服喪が終わる前に強制的に官に呼び戻されること)することは、戦争に従事させるためです。今、太子は監国撫軍ではないのに、どうして奪喪するのでしょうか。子によって父母は、礼は異にしても情は均しいのです。太子は君父に対する礼儀は日に日に遠くなり、母に報いる日は少なくなっています。どうして名声を失わせることができましょうか。」 そこで宰相に詔して担当官署と更に議論させると、暢当らは次のように述べた。「『礼』では「公門を入るときのみ喪服を脱ぐ(『礼儀』檀弓下)」とあり、『開元礼』では、「皇后の父母は十三か月服喪し、勅によって十三日して喪を解く。皇太子の外祖父母は五か月服喪し、勅に従って五日して喪を解く」とあります。喪服で入侍することは、至尊の意を傷つけるのので、戦争だから奪喪するのでは済まされなくなるのを恐れるのです。太子は天下の喪が解かれると、墨慘で朝廷に参加し、東宮に戻ると衰麻を着用し、変化に応じて制書するのがよいでしょう。」 宰相はそこで太常卿の鄭叔則に草案をつくらせて、「葬・卒哭が終わると、十一か月で小祥、十三か月で大祥、十五か月で禫(父母の喪が終わったあとに行う祭り)とし、宮内での謁見では墨服を着用する」と奏上させた。再び詔があって穆質に尋ねると、穆質は、古礼に従うことはできないとはいえ、それでもなお魏・晋の時代よりははるかに遠いのだと上奏した。宰相はそこで「太子は皇后の喪にあっては、朝廷では悲しみを抑えて恭しく礼を尽くします。実に臣子の振る舞いです。ただ心喪と服喪は、内外とも相応しいものでなくてはなりません。今穆質は、詔を宮外に下し、宮中で墨衰するのに害がないよう願いました。臣は思いますに、言行を宮中の外に、服喪を内にすることは、至誠の行いではなく、徳教にそむくことになります。何卒、明詔をお下しになり鄭叔則の議の通りになされますように」と申し上げ、天子はこの意見に従った。董晋が鄭叔則に代って太常卿となると、帝は「皇太子の服喪期間は、諌官の意見は、当初は朕の思いではなかった。暢当らが魏・晋の故事に習うと上奏したから、これを結論とする」と述べた。

  暢当は果州刺史で卒した。


【林蘊伝】
  林蘊は、字は復夢で、泉州莆田県の人である。父の林披は、字は茂彦で、臨汀県に山鬼の淫祠が多く、民が苦しんでいたため、『無鬼論』を撰した。刺史の樊晃が奏上して臨汀県令に任じ、優れた統治の成績によって別駕に遷った。

  林蘊は代々経に通じ、西川節度使の韋皋は推官に辟署した。劉闢が叛くと、林蘊は正邪を悟らせようとしたが、聞き入れられなかった。再び書簡を送って厳しく諌めたが、劉諫、劉闢は怒り、拘禁・投獄して、殺そうとし、処刑されようとするとき、大声で「「危険な兆候のある国には行かず、既に乱れている国には留まらない(『論語』泰伯)」というが、死んだ方がましだ」と言い、劉闢はその実直さを惜しみ、密かに死刑執行人に剣を抜き、その頸を撫でさせ、これによって脅して服属させようとした。林蘊は「死ぬ時は死ぬんだ。私の首は丈夫だからお前の砥石にでもするというのか」と叱りつけたから、劉闢は服属させることはできないと知り、捨て置いた。退いて唐昌県の尉となった。劉闢が敗れると、林蘊の名声は京師で重んじられた。

  李吉甫李絳武元衡が宰相となると、林蘊は書簡を送って以下のように仄めかした。「国家に西土があり、右肘のようなものです。今この肘は体に繋がっておらず、北は豳の郊外にわたり、西は汧隴に極まり、数百里もせずに外域となります。涇原・鳳翔・邠寧の三鎮はいずれも右肘で、大藩は将軍を擁すること数百数十人にも及びますが、ただ李抱玉だけが河・湟を復帰させることを願いましたが、命じられた将軍は不適任でした。軍隊の長の中から抜擢して、秦・隴を守らせるべきです。王は功績をあげると音楽をつくり、礼の制度を定めます。権臣がいて楽曲をつくることは、自ら服喪する期間を設定します。舜は契に命じて、「百姓たちが仲違いをし、家庭における五つの尊卑の区別がうまく行われなかった時、お前は司徒の官となれ(『詩経』虞書 舜典)」と言いましたが、唐が韋皋杜佑王鍔田季安を司徒としたことは、官は人を選ばなかったことになります。盧従史于皋謨の罪は大きいのに軽い刑を受けただけでした。農桑は百分の一もなく、農夫は一人で百口を給し、蚕婦は一人で百匹を養い、身分が低い者は力を尽くしているのに、飢えて食事を得られず、寒いのに着る者がありません。辺境の兵士は困窮しているのに、将軍たちは好き勝手に財産を蓄えています。普通の者が十戸あっても一人の功績のない兵士を養うには足りず、百人の兵士がいても一人の驕った将を支えるには足りません。」 六つの事柄は当時の政治の重要な欠陥であった。林蘊は韋皋に引き立てられて重んじられたが、その専制を嫌い、憤慨して反対を唱えた。しかし酒を好んで何度も人と争ったから、宰相は捨て置いて用いなかった。

  滄景の程権によって掌書記に辟署された。後に程権は四州を奉って版籍して役人の派遣を願い、しかし軍はこの地に習熟しており、この地を離れて一緒に京師に赴かされるのではないかと畏れ、程権を擁立して命令を拒み、出ることができなかった。林蘊は君臣の大誼を述べ、首将を諭したから、人々は納得し、ここに程権は去ることができた。林蘊は礼部員外郎に遷った。刑部侍郎の劉伯芻は林蘊を朝廷に推薦し、京師から出されて邵州刺史となった。かつて客の陶玄之を杖殺し、死体を江中に投棄し、林藉は陶玄之の妻を倡(音楽や踊りをする人)としたが、また受託収賄を罪とされ、杖刑されて儋州に流されて卒した。

  林蘊は口述に優れ、かつて崔氏が氏族の名声を憑んでいたから、林蘊は、「崔杼は斉君を弑し、林放は礼の本を尋ねた。どちらに優劣があろうか」と言い、人々は俯いて答えることができなかった。


【韋公粛伝】
  韋公粛は、隋の儀同、観城公の韋約の七世の孫である。元和年間(806-820)初頭、太常博士兼修撰となった。憲宗が藉田を耕しようとすると、韋公粛に詔して儀典の草案をつくらせ、儒家たちはこれを優れたものとした。太子少傅判太常卿事の鄭余慶の廟に二人の祖妣があり、併せ祭ることを疑い、担当官署に照会した。韋公粛は以下のように議した。「古代の諸侯は一度に九人の女を娶りましたが、だからといって廟に二嫡はありません。秦の時代から再婚すれば、最初に娶った者であれ、継室であれ、いずれも嫡(正室)とし、二人を併せ祭ることに異論はありませんでした。晋の驃騎大将軍の衡嶠に継室が三人いて、三人とも夫人とすべきかどうか疑い、そこで太学博士の陳舒に尋ねると、陳舒は、「妻は先に死没したといえ、栄辱は夫と分かち合うのです。『礼』に「婦は、夫の祖母に合祀するが、祖母として扱われる人が三人あるようなときは、舅を生んだ者(夫の父の生母)に合祀する(『礼記』喪服小記)」とあって、これはいずれも夫人なのです。生きているときに正礼をし、没して貶しめるのはよくありません」と答え、ここに陳舒の意見を用いたのです。また古代では嫡室と継室には制度が異なっていましたが、現在は待遇に差はありません。配侑を併せ祭るの決まりは、どうして同じにできましょうか。卿士は寝で二妻を祭るのに、廟の享りで異にすべきでしょうか。古代の継室は媵妾(正室の女性に付き従った同族の姉妹・従妹で、正室が子供を産めなかった場合、その代理として子供を産む役目を負った)がなりましたが、現在は嫡妻であり、一人だけを娶った場合と比較すべきではなく、子孫に祭られなくなるからです。ある者は、「『春秋』に、「魯の恵公の最初の妃は孟子であった。孟子が亡くなると声子が継室となり(『春秋左氏伝』隠公前紀)」とあり、声子は、孟子の姪娣(諸侯へ嫁ぐ女性に従う血縁のある姪や妹)で、恵廟には入れなかった。宋の武公は仲子を生み、魯に嫁ぎ、桓公を生むと恵公が薨じ、宮を立てて奉ったが、恵公に合祀せず、別宮としたのは何故だろうか。父の遺志を継ぐためである。しかしこれを何と比較できるだろうか」と言いました。晋の南昌府君の廟に荀氏・薛氏の両氏があり、景帝(司馬師)廟に夏侯氏・羊氏の両氏があり、唐朝では睿宗の居室に昭成粛明の二后があり、故太師顔真卿の祖室に殷氏・柳氏の両氏がありました。二夫人が二人とも併せ祭られることは、故事に歴然としているのです。」 儒者たちは異論を述べることができなかった。

  それより以前、睿宗の祥月に、太常寺が朔・望に朝廷を止め、尚食は蔬具を進り、音楽を止めるよう奏上した。他日、便殿に御し、供奉仗を整列させた。中書・門下の官は近侍することができたが、他の官は奏事でなければ謁することはなかった。前忌と晦三日・後三日は、いずれも朝廷にて政務をみなかった。忌晦が明けた日、百官は側門を叩いて通慰した。後に常礼となった。ここに韋公粛は以下のように上言した。「『礼』に、「忌日に音楽を催さない(『礼記』檀弓上)」とありますが、『礼』には忌月に関する記載はありません。ただ晋の穆帝が皇后を納れようとした時、康帝の忌月ではないかと疑い、その議を担当官署に下問し、ここに荀納・王洽らが忌時・忌歳を引用してその上言を論破しました。二十五ヶ月の期間、朝廷を廃朝し音楽を停止します。喪があけると礼はあらたまり、王者は私情によって礼節を超えることしないため、禫(父母の喪が終わったあとに行う祭り)の祭りをして喪を除き、翌月から音楽を演奏してよくなり、次第に感情を解き放ち、遠い過去については受け入れませんが、立てられた礼は再び重じられます。今、太常寺が郊廟であるとはいえ、音楽を停止することは、再び重んじていながら神を侮ることとみなされます。担当官署はことごとく内外での音楽の演奏を禁止していますが、これは理由のない停止行為とみなされます。何卒祭儀の原則に従い、この違反を是正されますように。」 中書門下に詔して礼官・学官を招集して議論させると、全員が韋公粛の要請の通りにすべきであるとした。制によって裁可された。在官中、長生きして卒した。


【許康佐伝】
  許康佐は、貞元年間(785-805)、進士・宏辞科に推挙されて合格した。家は貧しさに苦しみ、母は老い、自ら求めて知院官となり、人々は禄のために仕事を選ばなかったのを謗ったが、母の喪に服し、喪があけると、辟署されたにも関わらず応じなかったから、人々は親のために屈していたのだと知り、これによって名声を得た。

  侍御史に遷った。中書舎人によって翰林侍講学士となり、王起と共に文宗に寵遇された。は『春秋』を読んで「閽、呉子余祭を弑す(『春秋』襄公二十九年)」の部分に至り、「閽とは何者か」と尋ねると、許康佐は宦官が強勢であったから、あえて答えず、帝は笑って質問をやめた。後に書を蓬莱殿で観ると、李訓を呼び寄せて尋ねた。「古代の閽寺というのは、今の宦官です。君主は刑臣を近づけてはなりません。これは死を軽んじる道であるからで、孔子が書いて戒めとしたのです」と答えた。帝は、「朕は刑臣を近づけることが多いのだ。心配せずにはいられようか」と言うと、李訓は、「聖人たちは知っていましたが遠ざけることができず、憎んでも遠ざけることもできませんでした。陛下はこれを考慮されたので、宗廟にとって幸いなことです」と言い、ここに密かに宦官を排除しようと謀した。許康佐は帝の意思を知り、そこで病と称して辞職し、罷免されて兵部侍郎となった。礼部尚書に遷った。卒すると、吏部尚書を追贈され、諡を懿という。

  弟たちは皆進士に及第し、許尭佐が最も先達で、また宏辞科に及第し、太子校書郎となった。貞元八年(792)、許康佐が継承し、許尭佐は諌議大夫となった。


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最終更新:2025年12月10日 00:54
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