沙吒忠義
?-707
初唐の武将。百済の人。
黒歯常之とともに唐の侵攻軍を苦しめて彼とともに唐に帰順した沙吒相如の子、ないしは本人と考えられている。右武衛将軍となる。万歳通天二年(697)五月に清辺中道前軍総管となって契丹の孫万栄を諸将とともに討伐し、勝利を得た。聖暦元年(698)八月、天兵西道前軍総管に任じられ、九月には河北道前軍総管に任じられたが、神龍三年(707)十月、突厥の黙啜可汗が鳴沙に襲撃したため、霊武軍大総管として迎撃したが、敗北して戦死者一万の損害を受けた。神龍三年(707)七月、皇太子
李重俊が叛すると従って
武三思・
武崇訓、その郎党十余人を殺害した。乱は失敗し、
李多祚・
李承況・
独孤禕之とともに玄武門の楼下で斬られた。
本紀・列伝・史料
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最終更新:2024年01月13日 22:59