唐書巻二百
列伝第一百二十五
儒学下
褚无量 徐安貞 元行沖 陳貞節 施敬本 盧履冰 王仲丘 康子元 侯行果 趙冬曦 尹愔 陸堅 鄭欽説 盧僎 啖助 韋彤 陳京 暢当 林蘊 韋公粛 許康佐
【褚无量伝】
褚无量は、字は弘度で、杭州塩官県の人である。幼くして経典を沈子正・曹福に授けられ、墳典の研究を志した。家は臨平湖に近く、龍が出現したと言って、人々は皆走って見に行ったが、褚无量はまだ幼かったにも関わらず、読書して聞いていないかのようであったから、大勢の者が優れた人物だと思った。最も『礼』・司馬遷の『史記』に精通した。明経科に及第し、国子博士に任命され、司業兼修文館学士に遷った。
中宗が南郊に祀りしようとし、詔して儀典を定めた。当時、
祝欽明・
郭山惲が建言して
皇后を亜献としようとしたが、褚无量は太常博士の
唐紹・
蒋欽緒と共に強く諌め、上奏した。「郊祀は、国の大事で、そのどっちつかずさは『周礼』の通りではありません。『周礼』では冬至に
円丘で天を祭り、地に配侑を用いず、ただ始祖を神主とし、また后妣を配侑とはしませんので、皇后に祭祀を関わらせるべきではないのです。また「大宗伯」に「凡そ大祭祀があって、もし王后に事故があって参与できぬ場合には、王后の行礼を代理して、豆・籩の進献と撤去をなす(『周礼』大宗伯)」とあるように、これは王后が助祭をすべきではないのです。また「内宰職」に「大祭祀に王后が祼(酒を地に注ぐ祭祀)を行なうのを賛助する。献の礼に尸(かたしろ)に酒を献ずる時、瑤爵を以てする時もやはり同様にする(『周礼』内宰)」とあり、天を祀るのに祼はなく、これが宗廟の祭りであることがわかるのです。巾車(公車の政令を司る官)・内司服は、后の六服と五路(王・后の乗る五種の車)を掌りますが、后の祭天の服と路(車)がないので、このことから皇后は天を祭るのを助けないのです。ただ漢には天地の合祭があり、皇后が享(まつり)の事に参加しましたが、漢も末代となって神々を冒涜しており、その行為は信頼できず、模範とすることはできません」 当時の左僕射の
韋巨源は祝欽明を助け、そのため褚无量の議を阻んだ。母が老いているとして解官された。
玄宗が太子となると、再び国子司業兼侍読を拝命し、『翼善記』を撰述して進上し、あつく礼遇された。太子が
国学で釈奠すると、講経をさせ、両端樹立の意味について説き、博学明敏に弁説し、銀青光禄大夫に昇進し、賜い物は手厚かった。玄宗が即位すると、左散騎常侍兼国子祭酒に遷り、舒国公に封ぜられた。母の喪で解官し、州刺史の薛瑩に詔して弔祭して、賜い物を賜った。墓の左を家とし、鹿が墓に植えた松柏を犯すと、褚无量は泣いて訴え、「山林は乏しくないのに、私の墓の樹を犯すのか」と言い、これより鹿たちは馴れて騒ぎ、再び軒先に触れることはなく、褚无量も終身鹿肉を食べなかった。喪があけると、召されてもとの官に戻った。耆老となり、仗によって徐行して歩くことを聴され、また腰輿に乗って殿中に入ることを許された。しきりに上書して政治上の得失について述べた。
開元五年(717)、
帝が東都に行幸しようとすると
太廟が壊れ、
姚崇は、廟はもと苻堅の故殿であるから、行幸を中止すべきであるとした。褚无量は建言して姚崇の言を戯言とし、聴く必要がないと思い、そこで以下のように上疏した。「王者の陰気が盛んになって陽気が弱まると、先祖は変化します。今後宮が行幸しなければ陽気が明るくなり、変異に応じて、徳と誠実さを求め、奢侈や浪費を抑え、賦税を軽くし、刑罰を慎しみ、諌言を受け入れ、阿諛追従を察し、断絶した系譜を継がせるなら、天人は和会し、災異は治まるのです」と述べ、帝はこの語を尊び、車駕は東に向かった。褚无量はまた上言して、「昔、虞舜が巡狩すると、山川を秩し、群神をあまねく祭りました。漢の孝景帝は黄帝を橋山で祠り、孝武帝は舜を九疑山を祠り、漢の高祖は魏を通過すると信陵君の墓を祭り、趙を通過すると楽毅の後裔を封じ後、孝章帝は桓譚の墓を祭りました。何卒、陛下は通過した名山・大川・丘陵・墳衍や、古えの帝王・賢臣で祀典がある者を、あわせて詔して祭られますように。古えから天命を受けた君主は、必ず滅びた者を復興し、断絶した後嗣の祭祀を継続させ、徳を崇び功績に報いてきました。そのため人が国にいることは、人を災いから救うことよりも重要です。人の後嗣を立てることは、人の墓を封ずるよりも重要です。何卒、東都に着きましたら、唐初から今までの功臣で世代が断絶していて庶流がいる者を収めて、全員に襲封されますように」 帝はその言を受け入れ、詔して褚无量に尭を平陽で祠らせ、
宋璟に舜を蒲坂で祠らせ、
蘇頲に禹を安邑で祀らせ、所在の刺史は参献させた。また武徳以来の勲臣の末裔を探して、その封の継承を引き継がせた。
それより以前、内府の旧書は、
高宗の時から宮中に収め、あれこれ雑然とし、褚无量は建言して記録を修繕して補い、秘籍を拡充するよう願った。
天子は詔して東都
乾元殿の東廂で分類・整理させ、褚无量を使とした。そこで上表して聞喜県の尉の
盧僎・江陽県の尉の
陸去泰・左監門率府冑曹参軍の
王択従・武陟県の尉の
徐楚璧に部ごとに校合させた。衛尉は帷幄を設置し、光禄寺は食を給付した。また秘書省・司経局・
昭文館・
崇文館に詔してさらにそれぞれ互いに校閲させ、天下の遺書を探して欠文に増補した。数年もせずして、四庫は完備した。帝は群臣に詔して書を見させ、褚无量らに帛を賜うこと等級によった。褚无量はまた「貞観の御書はすべて宰相の署名が末尾にありましたが、臣の官位は低いので侮られます。宰相と連名で跋に入れられますように」と上言したが、受け入れられなかった。帝が西に戻ると、書を
麗正殿に遷し、さらに修書学士を麗正殿直学士とし、京官と並んで朝会に参加した。また褚无量に詔して麗正殿で前の仕事を引き継がせた。
皇太子と四王はまだ就学しておらず、褚无量が『孝経』・『論語』のそれぞれ五本づつを帝に献上した。帝は「朕は知ってるぞ」と言い、そこで郗常亨・郭謙光・潘元祚らを太子・諸王の侍読とした。開元七年(719)、皇太子は
国学で歯冑し、褚无量に詔して講座に昇って講義させ、百官は礼して見て、賜い物はあつかった。卒した時、年七十五歳であった。病が重くなると、人に向かって麗正院での書がまだ完成していないことを残念に思うと語った。帝は聞いて悲しみ、宰相に勅して、「褚无量は朕の師だ。今永逝したが、優遇しなさい」と述べ、ここに礼部尚書を追贈され、諡を文といい、葬儀には官給を賜った。撰述した書籍は百篇以上であった。歿後、書殿にて講義した『史記』・『至言』十二篇を奉り、帝は歎息して、絹五百匹をその家に賜った。
当初、褚无量は
馬懐素と共に侍読となり、後に秘書少監の
康子元・国子博士の
侯行果が共にその選を踏襲したが、賞や賜い物はしばしば加えられたが、礼遇は前任者よりも衰えた。
【附、陸去泰伝】
陸去泰は、左右補闕内供奉に任命された。
【附、陸去泰伝】
王択従は、京兆の人で、汜水県令で終わった。
【附、徐楚璧伝】
徐楚璧は、初め制挙に応じ、三たび甲科に登り、開元年間(713-741)中書舎人・
集賢院学士に任じられ、
帝は文章をつくるのに多く草稿を書かせた。中書侍郎、東海県子で終わった。長らく中書省にいて、この当時
李林甫が政権を掌握すると、計略によって議論の奏上に際して多くを助けた。後に名を徐安貞と改めた。
【元行沖伝】
元澹は、字は行沖で、字によって世間で有名になり、後魏の常山王の元素連の後裔である。幼くして父を失い、外祖父の司農卿の
韋機に養われた。成長すると、博学で、非常に典故に通じた。進士に及第し、累進して通事舎人に遷った。
狄仁傑は優れた人物だとした。かつて狄仁傑に向かって、「部下が上司に仕えるのは、富裕な家が自分のために財産を蓄えるようなものです。干し肉・塩漬け野菜・動物の肝臓は滋養豊かな食事に、高麗人参・枸杞子・胡麻・シナモンは病気予防に用いられます。門下は既に美味しいものに満ち溢れていますが、私から薬草を差し上げたいのですが、よろしいでしょうか」と言うと、狄仁傑は「君はまさに我が薬籠の中の物だな。一日も欠くことができない」と笑って言った。
景雲年間(710-712)、太常少卿を授けられた。元行沖は世系が拓拔氏から出ているから、史書に編年のものがないのを残念に思い、そこで『魏典』三十篇を撰述し、事実は詳しく文章は簡約であったから、学者は評価した。それより以前、魏の明帝の時、河西柳谷から石が出て、「牛は馬を継ぐ」とのきざしがあった。魏収(『魏書』の編纂者)は、晋の元帝が牛氏の子でありながら司馬氏を冒したことを、石符が予言したと著した。元行沖は昭成皇帝(代の王。北魏の道武帝の祖父)の諱は犍といい、晋を継承して天命を受けており、このことを言っているとすべきだ思った。ある人が古墓を壊して銅器を入手したが、琵琶に似ており、身は正円であったが、人々は何かわからなかった。元行沖は、「これは阮咸がつくった楽器である」と言い、命じて木に替え、絃を張ると、その音は明るく雅やかで、楽家は遂にこれを「
阮咸」と呼んだ。
開元年間(713-741)初頭、太子詹事を罷免されて、京師から出されて岐州刺史となり、関内按察使を兼任した。自分は書生であるから、統治する才能がないとして固辞した。京師に入って右散騎常侍・東都副留守となった。嗣彭王子
李志謙は仇に謀反を告発されて罪とされ、尋問により自らの偽って罪を認め、芋づる式に数十人の関与が明らかになったが、元行沖はそれが偽りであると察し、奏上して許された。四たび遷って大理卿となったが、法家を嫌い、強く現在の官職のままでいることを願い、左散騎常侍に改められ、常山県公に封ぜられた。検校集賢に任じられ、再び太子賓客・
弘文館学士に遷った。これより以前、
馬懐素が書志を撰述し、
褚无量が『麗正四部書』を刊行しようとしたが、完成以前に卒してしまい、相次いで亡くなった。元行沖に詔して二つとも代行した。
玄宗は自ら『孝経』の註釈書をつくり、詔して元行沖に疏をつくらせ、学官に立てた。老齢のため麗正校書事を罷免された。
初、魏光乗が
魏徴の『類礼』を採用して経に列するよう願い、
帝は元行沖に命じて儒者たちと義を集めて疏をつくらせ、これを学に立てようとし、そこで国子博士の
范行恭・四門助教の
施敬本を引き連れて集められた文章は五十篇となり、官に奉った。ここに右丞相の
張説が建言して、「戴聖(現行の『礼記』四十九篇の編者)が編纂したものは、すでに千年になろうとしており、経と共に並び立っているので、廃止することはできません。魏の孫炎が始めて旧書によって比較検討し、抄出のようなものであるとしましたが、儒者たちは共に非難しました。魏徴は整理し、そこで訓注をつくりましたが、役に立たないのではないでしょうか」と言い、帝はそうだと思い、書籍は留めて出さなかった。元行沖は儒者たちが自分を批判しているのではないかと思い、そこで自らを弁護するために論を著し、『釈疑』と名付けた。以下にいう。
「客が主人に尋ねた。「小戴(『礼記』)の学、康成(鄭玄)の注、
魏氏の改訂版のうち、どちらが優れているか」 主人は答えた。「小戴の礼は漢末に行われ、馬融が注釈をつくり、盧植が二十九篇を合わせて解説をつくりましたが、世間では伝えられていません。鉤党の獄がおこり、康成は逃れ隠れている中で、典籍中の混乱をおさめました。探究したとはいえ、相談しようにも相手がいませんでした。鄭玄の著作は百以上ありますが、章句を研究する連中は目を通すことさえしませんでした。王粛はこれによりましたが、ある時は鄭玄の説に対する糾弾の方が多かったのです。鄭玄の学派に孫炎がいて、鄭玄を支持しながらも、条目を細分化し、章句を増やして百篇に改めました。
魏氏は様々な説が煩雑だと感じ、多くの説を詳細にとって採用し、加筆・修正しまし、書き終わると上奏し、
太宗にお褒めの詞を賜り、これによって以前の学を継承することとしました。陛下の編纂事業は、この範に従うべきで、そこで儒者たちに制書して、古い法を審査させました。章句を学ぶ者が古来の言説を堅持し、抑圧して申し上げず、新たな説を疑って、結局もとの通りとすることがどうしてわかるのでしょうか。」
客は尋ねた。「当局が混乱していると主張しているから、傍観する者を必ず調べなければならない。どうして疑いを列挙して申し上げないのか」 答えていうに、「章句を改めるには、五つの困難があります。漢の孔安国は『古文尚書』を注釈し、族兄の孔臧は書簡を送って次のように述べました。「あなたは常に俗儒どもが放蕩な言葉と誤った解釈に怒り、混乱を正しく戻したいと思ってもまだできてない。浅薄な学問を守り、古き道に固執するのが常であり、この道が信じられず、自分だけが知っているのに人を責めるようなことがないか心配である。」 これが一つ目です。昔、孔季産は専ら古学を生業としており、孔扶なる者がいて、俗とともに浮沈し、孔季産を戒めるごとに、「今、朝廷では章句内学を率いているが、君だけ一人古義を修学している。古義は章句内学ではないから、身の道を危うくしており、一人善を世の中は受け入れず、君はなんと危ういことだろうか。」 以上が二つ目です。劉歆は『春秋左氏伝』を好み、学官を立てたいと思い、哀帝はこれを受け入れましたが、儒者たちは話し合いを拒みました。劉歆は書簡を送って詰問したものの、博士たちは全員激怒しました。龔勝は当時光禄大夫であり、劉歆の議を見て、そこで辞職を願い出ました。司空の師丹はそのため大いに怒り、劉歆が旧章を改乱し先帝のたてられたものを非難したとされました。劉歆は恐れ、京師から出されて五原太守となりました。君賓(龔勝の字)の学問や公仲(師丹)の博識であっても、それでも同門朋党の議に迫って、ついに子の劉駿は誹謗を受けたのです。これが三つ目です。王粛は鄭玄を数千百条にわたって批判し、鄭玄の学徒の馬昭は王粛の短所を批判しました。詔によって博士の張融が派遣され経典を調査して問いただしました。馬融は是非を判断しようとしましたが、王粛は一年にわたって応酬するのに疲れ果ててしまいました。これが四つ目です。王粲は、「世間では伊水・洛水を東とし、淮水・漢水を北とするのは、康成(鄭玄)一人だけである。皆が先人の儒者には多くの欠点があるが、鄭氏の道は備わっていると言っている」と述べ、王粲は心の中で驚きの溜め息をつき、そして鄭玄の学を調べ、『尚書注』を入手しました。その意味を深く考え、考えをすべて理解し尽くしましたが、疑問に思いまだ説明できないところがあったので、二篇の著作をつくりました。王邵は、「魏・晋は軽薄で、古えの道は失われてから三百年経過し、士大夫は恥じて章句をつくましたが、草が野原に生えるように経典を一人研究して自らを慰めるようなもので、広く研究してよいところに従って選ぶことができず、いたずらに康成(鄭玄)を父とし、子慎(服虔)を兄としようと思い、むしろ孔聖の道を誤っているのに、鄭玄・服虔の誤りである言うのを忌み憚っているのだ」と述べ、だからこそ鄭玄・服虔以外をすべて敵としました。これが五つ目です。物事は極限に達すると変化し、百年後には明哲の君子が現れるでしょうが、私と同じ時代に生まれなかったことを悔いるでしょう。道は時代とともに行われたり廃れたりするのに、その時代に生まれる必要はありましょうか。」 にわかに致仕を願い出た。開元十七年(729)卒し、年七十七歳であった。礼部尚書を追贈され、諡を献という。
【陳貞節伝】
陳貞節は、潁川の人である。開元年間(713-741)初頭、右拾遺となった。それより以前、
隠太子・
章懐太子・
懿徳太子・
節愍太子の四太子にいずれも陵廟を建立し、八つの役所に分け、官職を設置して役人と兵士を配置し、時節ごとに祠官が進饗した。陳貞節はこれが非であると以下のように上奏した。「王は祭祀を執り行うにあたって、功徳ある者であっても親疎が尽きれば毀廟(毎日の食事の供えなど通常の礼を絶やされた廟)されます。四太子の廟はいずれも先祖が別であり、人民に対する功績がないのに、廟廷は時節ごとに供え物をし、役人が守衛するなら、帝と並び等しくなります。鐘を鳴らして音楽を演奏し、堂上に登って詩を歌うのは、功徳を読み上げるからであって、『詩』に「鐘を鳴らし、宴を開こう(『詩経』小雅 南有嘉魚之什 彤弓)」とあるのに、功績がないのに詩を読み上げるのは、舞詠に節度がないといいうべきではないのでしょうか。周の制度では、「始祖は小廟という(『儀礼疏』士喪礼 鄭注)」とあります。四廟というのがわからないのになんと呼べばよいのでしょうか。何卒兵士・役人を罷め、詔して祠官に関与させることをなくし、これによって礼典通りにしていただきますように。古代は家から分離して別子たることを命じられて祖となるから、大宗(継承した家の宗)・小宗(継承した家ではなく血族上の宗)の区別があるのです。もし祭祀を途絶えさせるべきではないというのでしたら、後の子孫に祭祀を委ねることを許すべきなのです」 関係官吏に詔して広く議論させた。駕部員外郎の
裴子余は「四太子はいずれも先帝の後嗣であって、列聖は過去の素晴らしい宗族に属していることを思って祭祀を行います。『春秋』では晋の世子が「晋を秦に与えることになって、秦は私を祀るだろう(『春秋左氏伝』僖公十年伝)」と言ったと書かれているので、祀らないのです。また「神は他族の祀りを受けず、君の祀りは絶えてしまいますよ(『春秋左氏伝』僖公十年伝)」とあるのは、これは廟があるからです。魯の定公元年(508 B.C.)、煬宮を建立しました。煬は、伯禽の子で、季氏の遠祖ですが、遠祖であっても祭祀に限りがなく、ましてや天子が親族を親しんで旁系の親族にまで服するのに、誰がそうだといわないのでしょうか」と述べた。太常博士の段同は、「四太子の陵廟はすべて天子が親族と睦まじくして絶えた一族を継ぐものです。故人には供物を贈り、生きている者のように封ぜられるのです。古代に子弟を封建するのに、皆にどのような功績があったのでしょうか。生きている間は議論がなされず、死んで礼を引き揚げて祭祀を停止されるのでしたら、人々はどう思うでしょうか。
隠太子は
お上にとって、先祖(
曽祖父)の長兄ですから、緦麻(三か月の最も軽い喪)の喪に服します。
章懐太子は伯父なので、服期(小功。五か月の喪)とします。
懿徳太子・
節愍太子は従弟なので大功(九か月の喪)に用います。親疎は尽きておらず、廟は廃するべきではありません」と述べた。礼部尚書の
鄭惟忠ら二十七人が同じくその発言に付言した。ここに四太子の陵廟は役人・兵士を半減したが、他はもとの通りであった。
太常博士に遷った。
玄宗は
昭成皇后を奉って
睿宗の室に併せ祀り、また
粛明皇后と一緒に昇らせようとした。陳貞節は奏上して次のように述べた。「廟には必ず配があり、一帝に一后は、礼の正しいものです。
昭成皇后は大姒(周の文王の妃)の徳があり、昇らせて睿宗に配すべきです。
粛明皇后の子は貴く(天子に)なりませんでしたから、別廟にいるべきです。周の人が「夷則の音楽を奏し、小呂を歌い、先妣を享(まつ)る(『周礼』大司楽)」としています。先妣とは姜嫄のことで、后稷(周の祖)を生んだので、特別に廟を建立して閟宮といいました。晋の簡文帝の鄭宣皇后(簡文帝の母。追封)は一緒に供物を捧げず、廟を宮の外に築き、時節に享(まつ)りました。粛明皇后を何卒、周の姜嫄・晋の宣皇后に準じて、神主(位牌)を別廟に納め、時節に祀ることを儀の通りとしてください」 ここに神主を
儀坤廟に留め、詔して太廟に属させ、官職を設置しなかった。陳貞節はまた博士の
蘇献とともに次のように上言した。「
睿宗は
孝和の弟です。賀循の説によって考えてみますと、兄弟は互いを後継ぎとはしません。そのため殷の盤庚は陽甲を継がず、その上の父君を継承しました。漢の光武帝(哀帝カ)は孝成帝を継がず、その上の元帝を継ぎました。晋の懐帝は世祖(武帝)を継いで、恵帝を継ぎませんでした。そのため陽甲・孝成帝は、太廟から出て別廟となったのです。」 また次のように述べた。「兄弟は同じく一代で、昭穆の位は同じなので、二廟とも兼ねて毀廟(毎日の食事の供えなど通常の礼を絶やされた廟)すべきではありません。天下にあっては、禰(亡父)より上の七廟に仕えます。尊き者は広い範囲を統べ、そのため遠祖にまで及ぶのです。もし兄弟を受け入れ、上は祖や亡父を毀廟すれば、天子は全うして七世に仕えることができません。何卒、中宗を別廟とし、
大祫のときに
太祖と一緒に供え物をされますように。睿宗は
高宗を継いで、祼(地に酒を注ぐ)・献が永遠に継承されるのです。」 詔して裁可された。そこで中宗を奉って
別廟とし、睿宗を昇らせて第七室とした。
開元五年(717)、
太廟が壊れたため、
天子は神主(位牌)を
太極殿に安置し、新廟を造営し、その間素服で正殿を避け、三百日間朝政を見なかったが、それでも東都に行幸しようとした。伊闕県の男子である
孫平子が以下のように上書した。「正月に太廟が壊れたのは、二帝をともに昇らせた験なのです。「春秋」に「国君が亡くなると、卒哭の礼を挙行し、死者の木主を祖廟に附祭する。新たな死者の木主だけを祀り、烝祭・嘗祭・禘祭は祖廟で他の祖先とあわせて行なう(『春秋左氏伝』僖公三十三年伝)」とありますが、今いずれも違っています。魯の文公二年(625 B.C.)、僖公を閔公より上位に昇らせました。後に太室が壊れると、春秋はその災いを書いて、「僖公は閔公の兄であったとはいえ、かつて閔公の臣であり、臣が君の上位にあるのは、礼を失ったというべきであり、そのため太室が壊れたのだ」と説きました。また兄が弟の臣下であった場合に、昇らせるべきではないのに、弟が兄の臣下であったら、昇らせるべきでしょうか。荘公が薨じて、閔公二年(660 B.C.)に
禘祭しましたが、『春秋』はこのことを非としました。ましてや
大行が夏に崩じているのに、
太廟で冬に
禘祭するのは、なんと慌ただしいことでないのでしょうか。太室は尊ぶ所ですが、もし魯がこれより次第に衰えるのなら、周公の祭祀が損なわれてしまうのです。太廟は今壊れましたが、意味するところは次第に衰えようとすることで、先帝の祀が損なわれるということでしょうか。陛下はまだ
孝和を祭っていないのに、先に
太上皇を祭っていますが、臣下を先んじて君主を後にすることになります。昔、兄を弟の上に昇らせましたが、今は弟が兄に先んじて祭られています。昔太室が壊れましたが、今太廟が壊れたことは『春秋』とまさに同じで、慎重に検討しなければなりません。
武后が国家を簒奪しましたが、
孝和に中興の功績があります。今、廟内の神主を別廟に遷せば、世代に列することができなければ、後に軽んじられることになります。功績は棄てるべきではなく、君は下にすべきではなく、年長者は軽んじるべきではありません。また臣は君を継承することは、子が父を継ぐのに等しいのです。そのため禹は鯀を敬わず、周は不窋(后稷の子)を敬わず、宋・鄭は帝乙・厲王を不相応として敬いませんが、それでも尊んでいるのです。ましてや中興ではどうでしょうか。晋の太康年間(280-289)、宣帝の廟の地が陥没して梁が折れ、また三年して、太廟の後方が陥没して池となり、改めて造営しましたが、梁がまた折れました。天が非を譴責すれば、必ず朽ちたり壊れたりするのです。晋が天の意思を受け取らなかったので、乱となったのです。臣が思いますに
孝和の神主を遷して廟に戻すべきです。どうして礼に違って、魯・晋のように扱う必要がありましょうか」」
帝は孫平子の上言を優れたものだと思い、官吏に詔して再び議論させた。陳貞節・
蘇献は博士の
馮宗とともに正して以下のように述べた。「天子七廟は、三昭三穆で、
太祖をあわせて七になります。父は昭で子は穆で、兄弟は一緒にはなりません。殷の成湯(湯王)から帝乙まで十二君で、その父子は六世代です。『易緯』乾鑿度に「殷の帝乙、六世の王」とあり、つまり兄弟は世代としないのです。殷の人は六廟、親廟四で、湯王と併せて六となります。殷の兄弟は四君で、もし世代とするなら、まさに上は四室を毀すことになり、つまりは祖や禰(亡父)がなく、これはそうではないものです。古代は禰から祖まで、毀廟(毎日の食事の供えなど通常の礼を絶やされた廟)や神位の移動を代わる代わるしましたが、三昭穆は今まで欠けたことはありません。礼では、大宗(本家)に子がなければ、支族の子を立てました。また「他人の後継ぎとなる者はその人の子になることになっている(『春秋公羊伝』成公十五年伝)」とあり、兄弟がおらずそれぞれ後継者となる者は、そのため親を捨てて、遠い親族を取るのです。父子の継承を「継」といい、兄弟の継承を「及」といいますが、兄弟はそれぞれ廟に入らないのがよいのです。兄弟で位を継承した場合、祭祀では嗣子や嗣孫と称することができず、そこで伯考・伯祖とするのは、どういった序列なのでしょうか。殷は十二君ですが、ただ三祖・三宗のみで、兄弟は自然別廟としていることが明白なのです。漢の世祖(光武帝)は七廟に列していますが、恵帝は祀られませんでした。文帝・武帝の子孫は繁栄し、文帝は漢の太宗となりました。晋の景帝(司馬師)もまた文帝(司馬昭)の兄で、景帝の世代は絶えて、廟に列さなかった。世祖(武帝)の諡が告祭されると、景帝を従祖と称した。今、晋の武帝がその父を非常に崇拝していたため、廟が破壊されて滅亡してしまいましたが、どうして漢が恵帝を廟から出して世代を長らく祀ることができたのでしょうか。七廟・五廟は、天子・諸侯なのは明白です。父子相続は一統です。昭穆に序列があるのは、重継です。礼では、兄弟が互いに継承すれば、嗣子と称することができません。明らかに
睿宗は
孝和を父とせず、必ず
高宗を継承しているのです。二室を廟にすれば、二穆となり、礼ではよしとすべきでしょうか。礼では不可としているなら、天子に伯考を広く継承させ、自身の親を棄てることが正統なのでしょうか。
孝和は唐を中興しましたから、別に廟を建立し、百世毀廟しなければ、何の議論が必要でしょうか。孫平子は軽率にも僖公の逆祀の例をあげてこのようであるとし、
孝和を新寝に昇らせたのを知らずに、
聖真を廟に併せ祭ろうとしましたが、今まで一日とて上に居らせませんでした」
帝は宰相に語って、
孫平子を召喚して博士と詳しく議論させた。博士は前言を守って、孫平子の意見を打ち砕こうとした。孫平子は経を引用して訴えることは明白であったから、
蘇献らは屈することができなかった。
蘇頲は博士を庇い、そのため孫平子を都城県の尉に貶めた。しかし儒者たちは孫平子がそれでも孤高を保っていたから、礼官に迫られ、不満を募らせた。帝も同じく孫平子が剛直であるのを知って、長らく決めることができなかったが、ついに
中宗を太廟に戻すことはなかった。
翌年(718)、
帝は
明堂にて大享しようとしたが、陳貞節は明堂を
武后が造営したものであることを憎んで、古代で言う所の「木でつくって金属で飾り立てず、土でつくって模様をつけず」の制度ではないから、そこで
馮宗と共に上言した。「明堂は必ず丙巳にあたり、中心的な決まりによって政事を宣揚し、太微上帝のおわすところです。武后は始め
乾元殿が真南の地を占めており、先帝が聴政していたから、乾元殿を毀して明堂をつくりました。乾元殿が解体される日、音が鳴って雷のようであり、庶民は神霊が喜んでいないからだと口汚く騒ぎ立てました。明堂が完成すると、火災がおこりました。武后は徳を修めず、にわかに再度造営し、惜しみなく金を費やして、災いは免れたと詭り、また父祖を上帝に配しようと思いましたが、神はどうして降臨することをよしとしましょうか。また掖廷に近く、人と神が交雑し、祭りによることができなくすると思います。二京と上都は、全国が規範としています。天子が聴政するのに、適切な場所にいなければ、尊いものを群臣に示すことがありません。何卒、明堂を乾元殿に戻されますように。人々にもとに戻ったことを知らしめれば、ましではございませんか」 担当官署に詔して詳細に議論させた。刑部尚書の
王志愔らが全員上奏した。「明堂は怪異かつ不法で、天による火災の焼け残りで、大祭するなど受け入れられません。何卒、旧来によって制にしたがい、
乾元正寝に名称を復していただきたい。正月元旦に天子が朝会に御させますように。大享については、
円丘での実施に戻されますよう」 制によって裁可された。陳貞節は長生きして卒した。
【施敬本伝】
施敬本は、潤州丹陽県の人である。開元年間(713-741)、四門助教となった。
玄宗が封禅しようとし、役人に詔して典儀を講義するよう求めた。旧制では、手洗い、爵を洗うのは、いずれも侍中が司った。詔して天神を祀るのは、太祝が司った。施敬本は以下のように上言した。「周の制度では、「大宗伯」に「鬱人(春官の属。祼器を掌り、祭祀賓客の事に供する)は、下士二(『周礼』春官宗伯)」とあり、地に酒を注ぐことを掌ります。漢では鬱人がおらず、近臣を用いました。漢代の侍中の職は非常に低く、籍孺(高祖の佞臣)・閎孺(恵帝の佞臣)といった寵臣が行っていました。後漢の邵闔は侍中から歩兵校尉に遷り、秩禄は千石で、その職掌は天子の日常生活の面倒を親しくみることから「執虎子(便器係。虎子は便器の意)」と呼ばれていましたので、思うに雑用の臣であったのでしょう。今の侍中の位は宰相で、鬱人の比ではありません。祝は主人の意を神にお供えするので、賎しい職ではありません。古代、二君が会うときには、卿が上位の饗し役でしたから、ましてや天人の際ではどうでしょうか。周では「太祝は下大夫二、上士四(『周礼』春官宗伯)」とありますが、下大夫は現在の郎中・太常丞に相当します。上士は員外郎・博士に相当します。漢の太祝令は秩禄六百石で、今の太祝は下士です。下士を天に折衝させ、大臣を天子に奉らせるのは、軽重として不適切で、非礼です。旧制では、謁者は太尉を率いて壇に登ります。謁者の位は低く、壇に登るのは礼が重いのです。漢の尚書御史の属官に、謁者僕射が一人おり、秩禄は六百石で、銅印青綬でした。謁者は三十五人いて、以郎中で任期以上の者を給事中とし、任期以前の者を謁者としました。光禄勲の属官に謁者があり、賓賛を掌り、定員は七十で、秩禄は六百石でした。つまり古代の謁者は秩禄が異なっており、今の謁者は位が低く、空虚な称号を持ち、実際の職務を忘れており、天に仕えるに値しません。」
帝は中書令の
張説に詔して施敬本を引き連れて詳細に議論させ、そのため侍中・祝・謁者は、儀礼の軽重に応じて、他官が摂領することとなった。
施敬本は太常博士によって
集賢院修撰となった。翌年、右補闕・秘書郎に遷り、卒した。
【盧履冰伝】
盧履冰は、幽州范陽県の人で、元魏の都官尚書の盧義僖の五世の孫である。開元五年(717)、仕えて右補闕に任じられた。建言して、「古代、父が存命中に母の期(一年の喪)となると、悲しみに暮れるものでした。
武后は始めて請父と同じく三年の喪にするよう要請しましたが、これはよくないことで、礼に従われますように」と述べると、
玄宗は疑い、また叔父・叔母の服喪も適切に守られていなかったため、この件と併せて百官に下して議論させた。刑部郎中の田再思は、「礼の家を集めることは聚訟(争って定まらない)とでもいうべきです。古来のやり方に従うことが必ずしも正しいとは限らず、今風のことをすることが必ずしも間違っているとも限りません。父が存命中は母の服喪を三年とすることは、
高宗が実行してことで、令に著れてから長い間続いています。どうして必ず先帝の遺志に背いて、人の子たる情をはばみ、一期(一年)の服をその親への悲しみとするのに、伯父・叔母・姉妹と同じにしてしまうのでしょうか。義理の姉妹・叔父・甥の服喪は、
太宗が定めた制なので、百年たっても異論なく、改めるべきではありません」と述べた。盧履冰はそこで次のように申し述べた。「上元年間(674-677)、父が存命中は母の喪を三年とすることは、
武后が要請したこととはいえ、用いられてきませんでした。垂拱年間(685-688)になって始めて行われたのです。祖父母が存命しているのに子孫や婦人が没した際に、再期(二年)の喪に服するのは、適切であるとはいえません。礼は、女子が専らとする道ではないので、そのため「家に二尊なし(『礼記』喪服四制)」とあるのです。父が存命中に母のために一期の喪に服するのは、一尊に統べられているのです。今この誤りを正さなければ、後世また
婦人が
夫を奪った失敗を見ることになるでしょう。よく考えなければなりません。」 書簡は留められて回覧されなかった。盧履冰はそこで厳しく申し述べた。「父が存命中に母のために几筵(供物台)を立てて喪に服すること一期(一年)、喪が終わってもなお心に悲しみを抱いている者には再期(二年)で、父は必ず三年待ってから再婚し、これによって子の志を達成するのです。聖人がどうして生んでくれた情を蔑むことがありましょうか。もとより天下についての考えがあってのことなのです。昔、
武后は密かに簒奪の陰謀を企み、あらかじめ自身を尊いものとし、𪗋(三年の喪)に昇らせて、斬衰(縁を縫っていない最も重い三年の時の喪服)に対抗し、にわかに唐家を汚して乗っ取り、血塗られた階段を開いたのです。
孝和皇帝が辛うじて反正することができましたが、
韋氏がまた出て来て、
天子を毒殺し、ほとんど宗社を滅ぼす寸前であったのです。そのため臣は夫婦の綱を正すだけではなく、母子の間も特別視してはならないのです。議する者はあるいは、「母の服喪を短縮することは、詩でいうところの「罔極(無窮)」ではなく、叔父・叔母・姉妹の喪と同じとなる。また𪗋や斬衰もすでに服喪期間が増えたり減ったりしているのだから、歳月が異なるのを受け入れられない」と主張していますが、これは愚かな田舎儒者が、先王の教えを学んでおらず、どうしてその礼を議論することができましょうか。罔極は、春秋の祭祀で、当時の時代を反映したもので、君子が終身の心配のことで、どうして一期・二期の服喪に限ることがありましょうか。聖人は祭祀において、必ず節度ある制度を確立し、賢人とそうでない不肖者が共に規則を定めさせたのを後世の者が解釈しているのであり、叔父・叔母・姉妹にどうして杖期(一年の喪)の制度があったり、三年もたって喪が終わってもなお心に悲しみを抱いている者がいるでしょうか。母の𪗋と父の斬衰(いずれも三年の喪)は、不変の道理なのです。」 左散騎常侍の
元行沖が議して次のように述べた。「古代では情によって服喪を制度化しました。娘が父を喪い、妻が夫を喪うと、斬衰三年とし、情礼は共に尽くされるのは、心によって極限までの制度を立てたのです。妻の喪は杖期(一年)で、情や礼は共に押し殺し、嫌疑を遠ざけ、正道を貫くためなのです。嫡子が三年の斬衰として官を去らないのは、祖を尊び嫡子を重んじ、その礼を尊び、その情を押し殺すのです。孝の最も偉大なところは父を敬うことで、そのため父が存命中に母のために官を辞し、𪗋(三年)の期で、三年もたって喪が終わってもなお心に悲しみを抱いている者が、情を表明して礼を押し殺すのは、尭・舜・周公・孔子の時代から同じなのです。しかし父親を敬う厳粛さを放棄し、厳格な父親としての法を怠るのは、これを礼と呼べるのでしょうか。叔母が従母の名を兼ね、母の女系の一族であるから、母方の叔父を喪服に加えることは、不当なことではありません。義姉や叔父が服喪しないのは、疑いを遠ざけるためです。何卒、古例によって適切になされますように。」
帝は答えることがなかった。この当時、喪服について、それぞれが所見を熱く語り、意見が混乱していた。開元七年(719)、詔を下して、「服喪の期間はすべて古制を用いよ」と述べた。これより世間では父が存命中に母の服喪となれば、ある者は一期(一年)して禫(父母の喪が終わったあとに行う祭り)し、禫が終わって釈菜し、三年もたって喪が終わってもなお心に悲しみを抱いた。ある者は一期(一年)の喪で禫し、三年で終献とした。ある者は𪗋衰三年の喪とした。
後に盧履冰は在官中に卒した。
【王仲丘伝】
王仲丘は、沂州琅邪県の人である。祖父の
王師順は、
高宗に仕え、漕輸の事を議して当時有名となり、司門郎中で終わった。王仲丘は開元年間(713-741)に左補闕内供奉・集賢院修撰・起居舎人を歴任した。
当時、規則や儀礼が統一されておらず、王仲丘は『貞観礼』・『顕慶令』の二礼を融合させようとし、以下のように述べた。「一旦これを興したら、もう廃することはない(『礼記』曲礼下)」という道理によって上言して、「『貞観礼』では、正月上辛に、
感帝を南郊にて祀るとあります。『顕慶礼』では、昊天上帝を
円丘で祀って豊作祈願するとあります。臣が思いますに、詩に「春夏に上帝を祭り豊作祈願する(『詩経』周頌 臣工之什)」とあり、礼に「上辛に上帝を祭り豊作祈願する(『礼記』月令)」とあります。つまり上帝は昊天とすべきなのです。鄭玄は、「天の五帝は、王は入れ替わり、王は必ず一人の帝に感化されて興る。そのため夏正月の祭に郊に生じ、その先祖を配侑とし、これによって豊作を祈願するのである」と述べており、感生帝の祀りは、貞観礼が採用したのです。これによって豊作祈願の壇には、あまねく五方帝(五方上帝)を祭りいただきますよう。五帝は、五行の精で、九穀の宗です。『貞観礼』『顕慶礼』の二礼を両方とも用いていただきたい。『貞観礼』では、五方上帝・五人帝・五官を南郊で祀って雨乞いをします。『顕慶礼』では、昊天上帝を
円丘で祀ります。臣が思いますに、上帝に雨乞いするのは、多くの穀物のために甘雨を祈るのためで、そのため月令では「大いに帝(天)に対して雨乞いをし、賑やかに音楽を演奏する(『礼記』月令)」とあり、鄭玄は「帝というのは上帝のことであり、すなわち天の別号である。
円丘にて祀り、天位を尊ぶのである」と説いているように、『顕慶礼』が昊天を祀るのは、月令と符合していますが、『貞観礼』では五帝を祀ってきましたので、『貞観礼』『顕慶礼』の二礼を両方用いられますように。『貞観礼』では、季秋に五方帝・五官を明堂に祀っています。『顕慶礼』では、昊天上帝を明堂にて祀っています。臣が思いますに、「周公は郊外の円丘で天を祀るに際して周の始祖の后稷をあわせ祀り、明堂で天帝を祀るに際して文王をあわせ祀った(『孝経』聖治章)」といいます。先賢の儒者たちは天を
感帝とし、太微の五帝を引いて、これを上帝につけ、昊天に属させています。鄭玄は『周官(周礼)』に上帝を旅(まつ)り、五帝を祀るのは、それぞれ独自の文があって礼が異にしており、一つまとめることができないと述べています。そのため『孝経』では天・上帝のことを「上帝もまた天である」として、神に二主なく、ただその場所を異にし、これによって后稷をしりぞけているのです。今『顕慶礼』で上帝を享(まつ)るのは、経典に合致しています。しかし『貞観礼』では五方帝を祀ってきたのです。『貞観礼』『顕慶礼』の二礼を両方用いられますように。」詔して裁可された。
礼部員外郎に遷った。卒すると、秘書少監を追贈された。
【康子元伝】
康子元は、越州会稽県の人である。仕えて
献陵令となった。開元年間(713-741)初頭、中書令の
張説に詔して『易』・『老子・『荘子』を修めることができるものを推挙させ、
集賢院直学士の
侯行果は康子元および平陽の
敬会真を張説に推薦し、張説はよって上奏し、二人とも衣や絹を賜り、侍読に任じられた。康子元は秘書少監となり、敬会真は四門博士となり、にわかに二人とも集賢院侍講学士を兼任した。
玄宗は東の太山に行こうとし、
張説は康子元・
侯行果・
徐堅・
韋縚を引き連れて封禅の儀を検討した。それより以前、
高宗の封では、中書令の
許敬宗が議して、「周人は臭いを尊びましたので、ですから前祭にて燔柴したのです」と述べたが、張説・徐堅・康子元は上奏して、「『周官(周礼)』に、「六回これを奏楽すると、たちどころに天神はすべて降下して神を礼することができる(『周礼』大司楽)」とあるので、燔によったわけではありません。宋・斉以来、いずれもまず福酒を舐めてから、柴を焼いて天を祭りました。何卒、まず祭ってから後で柴を焼き、『貞観礼』の例の通りになされますように」と述べ、
侯行果と
趙冬曦は議して、「まず柴を焼いてから神を降せばよいのです。もし祭ってから柴を焼けば、神は降りられなくなります」と上奏した。康子元は議して一人で譲らなかった。張説は、「康子は一人で車輪の盾を出して、敵の一隊に当たるつもりか」と言った。議では判断できず、張説は決裁を
帝に願い、帝は詔して後で柴を焼くこととした。
乘輿が岱山(泰山)から帰還すると、従官を減らし、まず東都に行くと、ただ康子元・
毋煚・
韋述のみが学士として従った。しばらくして宗正少卿に遷ったが、病のため秘書監を授けられて、致仕した。卒すると、汴州刺史を追贈された。
帝 はかつて制して張説・康子元を称え、画工に命じてその肖像を描かせ、
趙冬曦・
毋煚・
韋述に詔して分けて伝をつくらせた。
【附、侯行果伝】
侯行果は、上谷の人で、国子司業を歴て、侍皇太子読書となった。卒すると、
慶王傅を追贈された。
当初、侯行果・
敬会真および長楽の
馮朝隠は同じく進講となり、馮朝隠は老子・荘子の秘義を探し求めることができ、敬会真も同じく老子を得意とし、書籍を開くたびに、まず盥で手を洗ってから読んだ。帝は、「私は新たに易を得意とするものを求めたいが、しかし侯行果ほどの賢人はいない」と言ったという。馮朝隠は太子右諭徳で終わり、敬会真は太学博士となった。
【趙冬曦伝】
趙冬曦は、定州鼓城県の人である。進士に及第し、左拾遺に任じられた。神龍年間(707-710)初頭、以下のように上書した。「古代の律には千以上の条文がありました。隋の時に悪臣が法をまげ、『律』に、「律に正条なくば、罪に応じて重を挙げ以て軽を明らかにし、罪に入るに軽を挙げ重を明らかにせよ(「名例律」断罪無正条)」としましたが、この一条文で数百もの条文が廃止されました。これより刑の軽重は好き嫌いによって決まり、罰せられる者はその理由を知らず、賈誼がこれを見たならば、慟哭すること必定でしょう。法がわかりやすければ、役人はあえて犯すことなく、落とし穴を避けるでしょう。文章が深遠であれば、役人は利用して付会するでしょう。律・令・格・式は、条目を刊定し、率直にその事を書くべきです。法に加減を加えたり、類似の法と比較して罪を重くするようにしたり、してはならないことをしたりするようなやり方は、すべて用いるべきではありません。無知な人々でさえ犯罪を避けるようになり、罪を犯す者は権力のある者であっても必ず処罰されます。律が明確であれば人々はそれを信じる。法が一貫していれば君主は尊ばれるのです。」 当時の人々はこれを称えた。
開元年間(713-741)初頭、監察御史に遷ったが、事件に連座して岳州に流された。召還されて復官し、秘書少監の
賀知章・校書郎の
孫季良・大理評事の
咸廙業と共に入って
集賢院修撰となった。この時、将仕郎の
王嗣琳・四門助教の
范仙廈を校勘とし、翰林供奉の
呂向・
東方顥を校理とした。しばらくもしないうちに、趙冬曦は史官の事務を司り、考功員外郎に遷った。翌年、孫季良・咸廙業・賀知章・呂向と共にいずれも直学士となった。趙冬曦はにわかに中書舎人内供奉に遷り、国子祭酒となって卒した。
趙冬曦の性格は放縦曠達で、世間の事を気にかけなかった。兄の趙夏日、弟の趙和璧・趙安貞・
趙居貞・
趙頤貞・趙彙貞は、いずれも進士に及第した。趙安貞は給事中に、趙居貞は呉郡採訪使に、趙頤貞は安西都護となった。趙居貞の子の
趙昌は、別に
伝がある。
王嗣琳は太子校書郎で罷免された。
東方顥は上書して思し召しに逆らい、高安県丞に左遷された。
咸廙業も同じく事件に連座して余杭県令に左遷された。
范仙廈は講論をよくし、後に道士となった。
【附、尹愔伝】
尹愔は、秦州天水県の人である。父の
尹思貞は、字は季弱である。『春秋』に詳しく、優秀な成績で及第した。かつて国子博士の王道珪より受学し、「私に門人は多くいるが、尹君は測りがたいな」と称賛された。親の喪によって哀しみのあまり体を毀した。喪があけても仕えなかった。左右史の
張説・
尹元凱の推薦によって国子大成となり、釈奠するごとに、三教を講義し、聴く者は全員今まで聞いたことがないようなことを知ることができた。四門助教に遷り、『諸経義枢』・『続史記』を編纂したが、いずれも完成しなかった。夢で天官・麟台に交互に招かれ、目覚めて親族とあってお別れの挨拶をし、二日して卒した。年四十歳。
尹愔は博学で、最も老子の書に通暁した。はじめ道士となり、
玄宗は奥深い言説を尊び、尹愔を推薦する者がいると、召し出して対面し、非常に喜び、厚く礼遇し、諌議大夫・集賢院学士に任じ、修国史を兼任させたが、固辞して職につかなかった。詔によって道士の服で職務にあたらせることとし、そこで職につき、専ら
集賢院・
史館の図書を統轄した。開元年間(713-741)末に卒し、左散騎常侍を追贈された。
【附、陸堅伝】
陸堅は、河南洛陽の人である。初め汝州参事となり、姉妹の夫である
李慈が誅殺されると、涪州参軍に貶され、再び通事舎人に遷った。詔があって起復(喪後の復職)され、宦官を派遣してあつく説諭されたが、職につかなかった。給事中兼学士で用いられた。書をよくした。初名は陸友悌で、
玄宗は剛正さをお褒めになり、改めて名を賜った。泰山を封ずるのに従い、建安県男に封ぜられた。
帝の待遇は非常にあつく、禁中で肖像を描かれ、帝親ら賛文をつくった。秘書監の職によって卒し、年七十一歳であった。吏部尚書を追贈され、諡を懿という。
【附、鄭欽説伝】
鄭欽説は、後魏の濮陽太守の鄭敬叔の八世の孫である。開元年間(713-741)初頭、新津県丞から五経の試に応じて及第し、鞏県県尉・
集賢院校理を授けられた。右補闕内供奉に任じられた。暦術・博物の学に通じた。それより以前、梁の太常の任昉が大同四年(538)七月に鍾山の穴から銘を得て、「亀は土を言い、蓍(めとぎ。筮竹に用いる棒)は水を言い、甸服黄鍾は霊址を啓く。瘞めるに三上庚、堕るに七中巳に遇う。六千三百浹辰交、二九重三四百圮。」とあった。当時の人々は理解できる者はおらず、そこでこれを隠し、子どもたちに「代々銘を使って知識ある者を探し、これを知る者がいれば、私は死んでも悔いはない」と言った。任昉の五世の孫の任升之は、商洛に隠居し、書写して鄭欽説に授けた。鄭欽説が使者として派遣されている中、この意味を長楽駅で知り、敷水の三十里のところで理解して、「卜宅では死んでから葬られた歳月を知り、それから墓が壊れた歳月を知るべきなのである。「甸服」というのは五百のことで、「黄鍾」というのは十一のことであり、大同四年(538)から逆算して漢の建武四年(28)を求めると、だいたい五百十一年になる。葬ったのは三月十日庚寅で、「三上庚(三月上旬庚寅)」である。壊れたのは七月十二日己巳であるから、「七中巳」である。「浹辰」というのは十二のことで、建武四年三月から大同四年七月まで、六千三百十二か月で、月は一交で、だから「六千三百浹辰交」なのである。「二九」は、十八(2×9=18)で、「重三」は、六(2×3=6)である。建武四年(28)三月十日から、大同四年(538)七月十二日までは十八万六千四百日で、だから「二九重三四百圯」というのである」と述べた。任升之は大いに驚き、その智慧に心服した。
鄭欽説は常に
李林甫に憎まれ、
韋堅が死ぬと、鄭欽説は当時殿中侍御史であって、常に韋堅の判官となっていたから、夜郎県尉に貶され、卒した。
子の
鄭克鈞、都官郎中となった。吐蕃が霊州を包囲すると、軍の兵糧が枯渇し、
徳宗は鄭克鈞を霊・夏二州運糧使とし、米を山岳要塞の麓に運び、守備する者は安堵した。
【附、盧僎伝】
盧僎は、吏部尚書の
盧従愿の三従父である。聞喜県の尉から学士となり、吏部員外郎で終わった。
兄の
盧俌は、
中宗の時に右補闕に任じられた。黙啜が侵攻してきたが、
沙吒忠義は敗れてしまい、百官に詔して賊を打ち破る勝策を尋ね、一人盧俌だけが以下のように上疏した。「内政を治めることは外政にも及ぶでしょうから、賞罰は明確にすれば兵士は節を尽くします。鳴沙戦役では、
主将が我先に逃げ、中軍は死力を尽くして戦いました。法を正しく行い功績を記録すれば、軍事行動を推奨できるのです。もし忠義があり、騎兵の将の人材であれば、将軍のような大任を任せるべきではありません。古来の方法によって、人々を募兵して辺境に移し、行役を免除し、居住地を設け、教令を明らかにし、捕虜を獲得すれば褒賞し、戦争が近ければ家を守らせ、戦争が遠ければ家財の利に励ませます。雄弁かつ勇敢な人物を雇い、諸蕃を手を結び、これによって攻略をはかります。辺境の州刺史を選び、粟を備蓄し、烽火台を注意深く見守って防衛に備えるのです。」 中宗はその発言をよしとしたが、実行に移されなかった。盧俌は秘書少監で終わった。
最終更新:2025年12月09日 09:02