鄭叔則 ていしゅくそく
722-792
中唐の官人。鄭老莱に子。成人前に明経化に及第。検校秘書少監、兼御史中丞、充天平軍節度副使であったが、建中二年(781)五月、東都畿観察使に任じられた。河南尹となり、建中四年(783)に
李希烈の軍が洛陽に迫ったため、西苑に立て籠もったが、李希烈はそれ以上進まなかった。
顔真卿が
盧𣏌に貶められて李希烈の説諭使となった時、李希烈が叛いたことは明白であるとして、顔真卿に行くことを止めさせようとしたが、かなわなかった。太常卿となるも、貞元二年(786)
昭徳皇后の崩御にともなう服喪規定の論争に敗れて太常卿を罷免された。京兆尹となり、宰相
李泌の信任を受けたが、
裴延齢と論争した際に、李泌を憎む
竇参が裴延齢を支援し、結果貞元五年(789)二月に左遷されて永州長史となった。その後信州刺史となり、貞元七年(791)福建観察使に任じられた。
列伝・史料
外部リンク
最終更新:2025年07月29日 23:36