魏元忠 ぎげんちゅう
?-707
武周・盛唐の宰相(在任699-703、705-707)。初名は魏真宰。諡は貞。宋州宋城県(河南省商丘県)の人。
武則天の
母の名を避けて元忠に改めた。初め太学生となったが、立身の機会を得ず、ようやく吐蕃の侵入がたびかさなる676年ごろ洛陽に行き、得意の兵学をもってその対策を上言し、
高宗に認められて秘書省正字を授けられた。684年
徐敬業の乱の鎮定に功があり、司刑正に選ばれたが、しばしばざん言をうけて地方に左遷されること3回。699年鳳閣侍郎、同鳳閣鸞台平章事(宰相)となり、いったん
張易之らの怒りにふれて左遷されたが、705年
中宗の即位とともに呼びもどされ、兵部尚書から中書令にすすみ、斉国公に封ぜられ、706年には『則天実録』の編纂にあずかった。同年、尚書右僕射、左僕射と昇進したが、翌年
節愍太子の事件に連座して罪をうけ、流される途中70余才で没した。子に魏昇がいたが、節愍太子の乱で殺害され、卒後の実封はもう一人の子の魏晃が賜った。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典』2(平凡社,1959)
外部リンク
最終更新:2026年01月24日 01:41