許存 きょそん
864-923
唐末・五代の武将。字は昌遠。汝陽の人。
秦宗権の元将軍。郭禹(後の
成汭)の元に身を投じ、牟権を清江で討伐して捕らえ、その軍を併合した。
常厚が夔州を攻撃すると、成汭と共に常厚・
王建二軍の間に乗じて攻撃し、許存は夜に常厚の軍営に斬り込みの襲撃をかけ撃破した。さらに長江を遡って雲安郡を攻略したから、
王建の将軍は全員逃亡し、長江沿いの州県をことごとく制圧した。武泰軍節度使の
王建肇を成汭と共に攻撃、撃破し、許存は万州刺史となった。しかし成汭に疑われて襲撃され、
王建に投降した。王建は当初許存を殺そうとしたが、周囲が優れた人物であるとしたから、かえって養子とし、王宗播の名を授けた。王万宏討伐に際して先鋒となり、金牛・黒水・西具・褒城の四寨を破り、勝利に乗じて城を陥落させた。漢州刺史、検校太保に任じられた。王建が即位すると、金吾衛上将軍、彭州団練使に任じられた。
李茂貞の将の
劉知俊が西県を包囲すると、西面招討馬歩使に任じられて救援に向かい、撃破した。武信軍節度使に任じられ、中書令、三招討となり、李継岌を降伏させた。病になると王建が見舞いに訪れ、手をとって「北面が開拓できたのは公の力である」と称えた。『九国志』に伝がある。
列伝・史料
外部リンク
最終更新:2026年07月06日 02:27