劉知俊 りゅうちしゅん
?-918
唐末・五代の武将。字は希賢。別名に劉開道。徐州沛の人。
時溥の武将であったが、大順二年(891)
朱全忠との戦いで麾下二千人とともに朱全忠に降伏し、左開道指揮使を授けられた。海・懐・鄭の三州刺史を歴任し、匡国軍節度使となる。邠州の
楊崇本が兵六万で雍州を攻撃してくると、
康懐英らとともに攻撃して、斬首二万の大勝利を得た。太尉兼侍中に任じられ、大彭郡王となったが、軍功が高く、また朱全忠が猜疑心で功臣を殺したから、開平三年(909)恐れて叛乱し、
李茂貞に臣従した。
康懐英・
寇彦卿らが霊武に侵攻してきたが、大いに打ち破り、涇州節度使に任じられたが、今後は李茂貞の左右に讒言されて天復十五年(915)軍権を剥奪され、蜀の
王建のもとに逃亡した。王建は武信軍節度使に任じ、攻撃してきた
李茂貞を撃退して、かえって秦・鳳・階・成の四州を奪ったから待遇は非常にあつくなった。しかしその才能を嫌われ、王建の死後に乗っ取られるのではないかと危惧され、誅殺された。『旧五代史』『新五代史』に伝がある。
列伝
『旧五代史』巻十三 梁書十三 列伝第三 劉知俊
『新五代史』巻四十四 雑伝第三十二 劉知俊
外部リンク
最終更新:2024年05月23日 22:30