アットウィキロゴ

巻一百九十 列伝第一百一十五

唐書巻一百九十

列伝第一百十五

劉建鋒 成汭 杜洪 鍾伝 劉漢宏 張雄 王潮 審邽 劉知謙 盧光稠



劉建鋒伝】
  劉建鋒は、字は鋭端で、蔡州朗山県の人である。忠武軍の部将となり、孫儒馬殷と共に同じく秦宗権に仕えた。孫儒が敗れると、劉建鋒・馬殷は散り散りとなった兵士を集めて、転進して江西に侵攻し、軍勢は七千となり、軍は劉建鋒を推して主とし、馬殷は前鋒となり、張佶を謀主とし、洪州・虔州など数州を掠奪し、軍は遂に十万以上となった。乾寧元年(894)、潭州を奪取し、武安節度使の鄧処訥を殺し、自ら節度留後と称し、上表文を京師に奉り、詔によって検校尚書左僕射・武安軍節度使を拝命した。

  劉建鋒は自分の思い通りとなると、酒を好んで政務を怠るようになった。新息県の小史の陳贍が劉建鋒の御者となったが、妻が美しくかつ魅力的であったから、劉建鋒は陳贍の妻と私通した。陳贍は怒り、袖から鉄槌を出して劉建鋒を撃って殺し、その喉を切り裂いた。軍は張佶を推して軍帥としようとしたが、張佶は固辞し、馬が張佶の左腿を蹴って負傷させたから、張佶は下令して、「私は主となるような者ではない」と言った。その当時、馬殷は邵州を攻めたがまだ勝てず、ここに人を派遣して馬殷を迎え、陳贍を市場で磔にした。


【附、馬殷伝】
  馬殷が到着すると、張佶は座してその拝謁を受けた。後に将官・官吏を率いて馬殷を推して留後とした。詔によって検校太傅・潭州刺史に任命された。馬殷は成汭楊行密劉隠が優秀な人材を採用・支援して覇権を企てているのを見て、部下の高郁に向かって、「私は手厚い贈り物を近隣周辺に捧げて国境を固めたいと思う。どのようにすればよいか」と尋ねた。高郁は、「荊南は愚かで気力の弱く、どうして我らの心配事となりましょうか。淮南は我らの敵です。頑なに我らを援けることはありません。がもし邸宅を京師に設置し、天子に貢物を捧げるなら、天子の使者がやってきて命令を与えるから、四方は畏服するでしょう。その後に兵を整えて朝廷に服従しない者を討伐すれば、霸業はなるでしょう」と言ったから、馬殷は悟り、厚く宣武軍の朱全忠と結び、これによって朝廷に願い出て、湖南節度兵馬留後を拝命した。高郁はまた馬殷に鉛銭・鉄銭を鋳造し、その貨幣十枚で銅銭一枚に相当するよう教えた。民間では自ら山で茶を摘んで税を納めていたから、富裕者を募集して倉庫に茶を収め、「八床主人」と号した。歳入は数十万を数え、支出も膨大となった。

  ここに邵州・衡州・永州・道州・郴州・連州の六州を収め、桂州に侵攻し、留後の劉士政を捕らえた。諸城は馬殷軍を見ただけで潰走し、昭州・賀州・梧州・象州・柳州・宜州・蒙州などの州を獲得した。また容管を攻撃し、寧遠節度使の龐巨曦を捕らえ、その軍・財宝を鹵獲した。昭宗が鳳翔にいるとき、しばしば脅威に直面したから、宦官を派遣して間道から朱書を賜い、馬殷と楊行密に密詔して汴州を攻撃させようとしたが、馬殷の軍は出兵しなかった。


【附、馬賨伝】
  馬殷の弟の馬賨は、勇猛沈着で経書や歴史に詳しく、孫儒に従って盗となり、後に楊行密に仕えて黒雲軍使となった。銭鏐と戦い、しばしば功績があった。夜寝ていると、常に怪しい光があった。楊行密はこのことを知って、「私は今、お前を兄のもとに返そう」と言った。馬賨は辞退して、「賨は一人の敗残の兵士にすぎませんが、公が命を助けてくれたので死なずにすみました。湖南は兄の領するところで、朝に失えば夕には滅びます。ただあなたを見捨てるのに忍びないのです」と言った。楊行密は贈り物を持たせて送り出して、「お前が還ったら、兄と共に湘・楚の禄を食むだろう。しかしどうよって私に報いてくれるのかな」と言った。馬賨は「二国の好みを通じ、商売で互いに助け合わせたいです」と答えると、楊行密は喜んだ。到着すると、馬殷は上表して自身の副官とした。事あるごとに馬殷と楊行密の連合に努めたが、馬殷は朱全忠を恐れたから、結局失敗に終わった。

  馬殷劉建鋒は同里の人で、秦宗権の党で離散して盗賊となった者は皆、残忍さで知られ、当時の人々は「蔡賊」と呼んでいたという。


【成汭伝】
  成汭は、青州の人である。若くして行いがなく、酒のせいで人を殺し、逃亡して僧侶となった。後に蔡賊の中に入り、賊帥の仮子となり、姓名を改めて郭禹とした。江陵を防衛しようとしたが、逃亡して盗賊となり、火門山を根拠とした。後に荊南節度使の陳儒のもとに降伏し、副官に任じられた。しばらくして、張瓌が陳儒を捕らえると、郭禹が凶悪で剽悍であるから、殺そうと思った。郭禹は千人と結託して逃亡して山峽に入ると、夜に蛇がとぐろを巻いているところがあり、「運命があるのなら、死ぬ者もいれば生き残る者もいよう」と祈ると、後で蛇が死んだ。郭禹は帰州を襲撃して入城し、刺史を自称した。流浪した者を招いて戻し、兵士を訓練し、精兵三千を得て、秦宗権の元将軍である許存が郭禹の元に亡命すると、郭禹は青州の剽悍な兵三百を与え、荊南の部将の牟権を清江で討伐し、牟権を捕らえ、その軍を併合した。郭禹はまた荊南の将の王建肇を破り、王建肇は黔州に逃走した。昭宗は郭禹に荊南節度留後を拝命し、始めて名を汭と改め、もとの姓に復した。

  秦宗権の余党の常厚は夔州を攻撃した。この当時、西川節度使の王建が将軍を派遣して忠州に駐屯し、夔州刺史の毛湘とは唇と歯のように互いに近接し、常厚は白帝に駐屯した。成汭は許存を率いて二軍の間に乗じて攻撃すると、二軍の使者は成汭を辱罵し、中でも韓楚言は最も激しく、成汭は恥じて「賊を捕らえるようなことがあったが、身体をバラバラにして鬱憤を晴らしてやる」と言った。ちょうど許存は夜に常厚の軍営に斬り込みの襲撃をかけ、撃破し、常厚は万州に逃走したが、刺史の張造に拒まれたため、綿州に逃走した。許存は夔州に入った。韓楚言の妻の李氏は夫に向かって「あなたは常に軍を辱めたので、身体をバラバラにされようとしています。その前に死んだ方がましではありませんか」と語ったが、韓楚言は決断しなかった。李氏は刀を研いで席の下に隠し、共に食事をしようとし、またこの事について語ると、夫は「まだどうなるかわからない」と言ったから、李氏は刀を取り出して夫の首を斬り、一緒に三人の子を殺し、そこで自剄した。成汭はその烈しさを恐れ、礼によって葬り、石の表に「烈女」と刻んだ。そこで司馬の劉昌美に夔州を守らせ、許存を率いて長江を遡って雲安郡を攻略し、王建の将軍は皆逃亡した。許存は兵を渝州で休ませ、長江沿いの州県をことごとく制圧した。

  当時、王建肇は黔州を根拠として自ら守り、は王建肇を武泰軍節度使とした。成汭は将軍の趙武を派遣し、許存を率いて黔州を攻撃し、王建肇は逃走し、成汭は趙武を留後とし、許存を万州刺史とした。許存は思い通りにならず、成汭は客人を派遣して様子を伺うと、自ら蹴鞠しており、成汭は「許存は必ず叛くだろう。自らその力を試しているのだ」と言い、将軍を派遣して許存を襲撃した。許存は夜に側近を率いて垣根を越えて逃走し、王建肇と共に王建に投降した。

  成汭は非常に行政手腕に精通しており、囚人の案件を審理する際に事情を徹底的に調査した。墊江県の賊が密かに県令を殺すと、墊江県の主簿は下級役人が賊を誘引したのだと疑い、尋問したが事実を認めなかった。処刑に臨んで、「私はあの世で訴えてやる」と言い、翌月、主簿が突然死した。成汭はこのことを聞いて、ますます疑獄の調査に慎重を期するようになった。州を統治し始めた頃、戸籍に登録された民はほとんどいなかったが、二年もしないうちに、自ら戸籍の登録を行う者が一万人以上に達した。はしばしば詔して石に功績を刻んで頌功碑を建てようとしたが、たちまちに固辞した。当時、鎮国節度使の韓建もまた統治で有名であり、「北韓南郭」と称えられた。成汭は累進して検校太尉・中書令・上谷郡王となった。雲安郡は塩の専売があり、もとは塩鉄使に隷属していたが、成汭は勝手に奪取し、そのため兵五万を蓄えることができた。当初、賀隠を任命した。賀隠は賢者で、そのため成汭に推薦された者たちは過ちが少なかった。晚年に妻を得てその父にこれを任じると、子供たちを讒言したから、成汭は全員を手ずから殺してしまい、後継ぎが絶えてしまった。澧州・朗州はもと荊南の属州であったが、雷満に占領され、別に節度使となり、成汭はしばしば朝廷に対応を願い出たが、宰相の徐彦若は許さなかった。徐彦若が宰相を罷免され、江陵に派遣される道すがら、成汭は出てきて怨み言を述べると、徐彦若は「公は一地方を専断し、自らを斉の桓公・晋の文公のようだと思っているようだが、一賊すら平定できないのに、朝廷を怨むのか」と言うと、成汭は大いに恥じ入った。晚年術士を喜び、薬を服用して死にかけたが蘇生した。

  天復三年(903)は淮南節度使の楊行密に詔して鄂州を包囲させ、朱全忠韓勍に救援させ、成汭に仄めかして馬殷雷彦威と共に挟撃させた。成汭は自ら将を率いたが、部下は成汭が楊行密と対抗することができないことを知りながら、あえて諌めることはなく、ただ親吏の楊師厚だけが出兵を勧めた。成汭は巨艦をつくり、気勢は盛大で準備万端であった。出発して公安県に到着すると、卜占に不吉と出たから、帰還しようとしたが、楊師厚は、「公は全軍を挙げたのに、途中で帰還したのなら、百姓はどう思うでしょうか」と言ったから、成汭はそこで行軍を続けた。雷彦威は秘密裏に出兵して本拠地江陵を攻略してしまい、成汭の諸将は自分の事だけを思って、戦意がなかった。淮南の将軍の李神福が沙橋に立てこもっていたが、成汭の軍を見て、「戦艦は盛大であるとはいえ、陣形は伸びきって連携を欠いている。撃破できるぞ」と言い、成汭を君山で攻撃して破り、軍船に放火し、軍は大いに潰滅し、成汭は長江に身を投じて死に、軍民は全員雷彦威に奪われた。韓勍は逃げて帰還した。王建は遂に夔州・施州・忠州・万州の四州を奪取した。天祐年間(904-907)、朱全忠は、成汭が国事に死んだことを上表し、成汭と杜洪の二人の廟を立てることを願い出た。


【杜洪伝】
  杜洪は、鄂州の人である。地元の芸人であった。乾符年間(874-879)末、黄巣が江南の地を荒廃させると、永興の民は皆流亡して盗賊となった。刺史の崔紹が民で強壮な者を募って土団軍(民間防衛隊)としたから、賊はあえて侵入しようとせず、ここに人々は軍事に長ずるようになった。杭州刺史の路審中董昌に追われ、黄州に逃れた。中和年間(881-885)末、崔紹が卒したことを聞いて、兵士三千を募って鄂州に入って守備した。杜洪は州の将となり、功績をあげた。また岳州刺史を追い出して岳州に居座った。光啓二年(886)、安陸県の賊の周通が兵を率いて路審中を攻撃し、路審中は逃亡すると、杜洪は虚に乗じて鄂州に入り、自ら節度留後となり、僖宗はそこで同軍の節度使に任命した。

  この当時、永興の民の呉討が黄州を根拠地とし、駱殷が永興県を根拠地とし、二人とも土団(民兵)の指揮官であり、軍は非常に剽悍であった。杜洪は節度使の職を得ていたとはいえ、朱全忠に従っており、東南への貢路は途絶していた。乾寧年間(894-898)初頭、自ら軍を率いての討伐に乗り出し、援軍を淮南に願い出たから、楊行密朱延寿を派遣して援軍とした。杜洪が引き返すと、朱延寿は黄州を陥落させ、捕虜を京師に献上した。駱殷は永興県を棄てて逃亡し、楊行密は永興県の地を奪取した。杜洪は駱殷を捕らえると、自らの腹心として頼り、しばらくして永興を奪取して守備した。

  朱全忠が鳳翔を包囲しようとすると、昭宗は救援を求める使者を東に向けて送り出したが、武昌軍節度使の地を通過すると、杜洪は使者を皆殺しにした。当時、楊行密は光州を攻略しており、杜洪に出兵の詔をし、忠義軍の趙匡凝・武安軍の馬殷と共に安州を襲撃した。楊行密は李神福劉存に水軍一万人を率いて杜洪を討伐させ、駱殷は永興県を棄てて逃亡し、永興県の民の方詔は守備して命令を待っていた。李神福は方詔を得ると、大いに喜び、永興県が大県であり、補給上の要衝で、永興県を得たなら、鄂州を半ば得たのと同様であったから、遂に進撃して鄂州を包囲した。

  杜洪は城を包囲され、救援をに求めたから、朱全忠は兵五万を率いて霍丘に駐屯した。楊行密はこれを防ぎ、汴兵は不利となり、撤退したから、別将の呉章に三千兵を率いて解囲させようとしたが、李神福が迎撃されて破った。その当時、朱全忠は河東軍との激戦の最中にあり、そのため杜洪を救援することができなかった。杜洪はそこで救援を馬殷にもとめたが、馬殷からの返答はなかった。杜洪はどうすることもできず、再び朱全忠の元に救援依頼の使者を走らせ、朱全忠は曹延祚を派遣して呉章の兵と合わせた一万三千で杜洪を救援させた。淮南の将の劉存が壕を浚渫して付城とした。駱殷は杜洪のために謀して、「淮南の兵は深く侵入していますが、これは永興県の兵糧を頼っています。もし奇襲して永興県を奪取すれば、賊は戦わずして潰滅するでしょう」と言い、杜洪は精兵を以て汴軍と合わせて間道から永興県の不意を襲おうとしたが、三十里ほどで停止した。劉存は方詔苗璘にあたらせた。汴軍の脱走兵が淮南軍の陣地に逃げ込み、軍のあれこれを語って、「鄆州の軍は臆病で打ち破れるだろうが、開道の軍とは戦うべきではない」と言ったが、苗璘は、「強い方を殺せば弱い者は動揺する」と言い、そこで自ら開道の軍を攻撃して打ち破り、汴兵三百人を捕虜にし、城下に晒した。杜洪の軍は意気消沈し、劉存は弁舌に優れた者を城に接近させて説いたが、杜洪は汴軍が強いを頼って、降伏する意思はなかった。ある者が劉存に援軍を急襲すれば、城は自然と陥落するだろうと言ったが、劉存は、「援軍を攻撃して賊の城に入ったなら、城の防備は固まるだろう。もし遁走するままに任せるなら、城は奪取できるだろう」と言うと、にわかに汴軍は逃走し、この日城は陥落し、杜洪と曹延祚は捕らえられ、その他は全員斬殺した。楊行密は杜洪に面会すると、「お前は逆賊を弑逆したのに同心し、私の仇敵となった。我が軍が撤退すると、戻ってきて賊となって背後から攻撃してきた。今更何と言い訳するつもりか」と責めたが、杜洪は「朱公を裏切るのはしのびない」と答えたから、曹延祚と二人とも揚州の市で斬った。劉存に鄂州を守備させた。楊行密が死ぬと、馬殷が遂にその地を奪取した。


【鍾伝伝】
  鍾伝は、洪州高安県の人である。商売を行って生計を立てていたが、ある者が盗賊となると必ず大成功すると勧めた。当時、王仙芝が暴れまわり、江南は大乱となり、人々は鍾伝を推して長とし、そこで蛮族を集め、山を根拠として防御とすると、一万人が集まり、高安鎮撫使を自称した。王仙芝が柳彦璋を派遣して撫州を攻略すると、守ることができず、鍾伝は入ってここを根拠とした。朝廷に言上すると、詔によって刺史を拝命した。中和二年(882)、江西観察使の高茂卿を追放して、遂に洪州を領有した。撫州の民の危全諷が鍾伝との関係が悪化して去り、撫州を奪取して叛乱し、弟の危仔昌を派遣して信州を根拠地とさせた。僖宗は鍾伝を江西団練使に抜擢し、にわかに鎮南節度使・検校太保・中書令を拝命し、潁川郡王に封ぜられ、また南平王に遷った。

  鍾伝は兵を率いて撫州を包囲すると、雷によって城内で火災が発生し、民衆は騒乱状態になったから、諸将は即刻攻撃するよう促した。鍾伝は、「人の危険に乗じるのは許されない」と言い、そこで「危全諷の罪です。民を害されることがありませんように」と祈ると、火はただちに消えた。危全諷はこのことを聞いて、謝罪して命を許され、娘を鍾伝の子の鍾匡時に嫁がせた。鍾伝は鍾匡時を袁州刺史とし、馬殷を攻撃させた。また彭玕を吉州刺史とした。彭玕は勇敢な将軍で、鍾伝は頼って重んじた。

  広明年間(880-881)後半、州県では郷貢をしておらず、ただ鍾伝は毎年士を推薦し、郷にて飲酒の礼を行い、部下の官吏を率いて飲酒の礼を観覧し、資財を提供し、衣服を贈って礼に従ったから、そのため士は千里の道も遠きとせずに鍾伝の幕府のもとに集った。鍾伝は若い頃から狩猟をし、酔って虎と遭遇したから闘い、虎は鍾伝の肩に飛び掛かり、鍾伝も虎を押さえつけて動かないようにし、ちょうど人が虎を斬ったから、命が助かった。貴くなると後悔し、子供たちを戒めて、「士は世の中との関わりにおいて、智と謀を貴ぶのであり、私のように虎と戦うような真似をしてはならん」と言った。そこで虎と戦っている姿を描いて子孫に示した。軍が出兵して交戦するたびに、必ず仏寺で祈り、供物の餅を積み上げて犀や象のようにし、高さは数尋に及んだ。晚年重税を課し、商人は財貨を棄てて去った。天祐三年(906)卒した。

  鍾匡時は自立して節度観察留後となった。次子の鍾匡範は江州刺史となったが、兄が継いだのを怨んで、江州を引っ提げて淮南にしたがい、そこで兄が汴人と結託して揚州を陥れようとしていると述べた。楊渥秦裴に鍾匡時を攻撃させ、洪州を包囲した。鍾匡時は城を守って立て籠もることおよそ三ヶ月、城は陥落して、淮南軍は大いに掠奪すること三日で止み、鍾匡時および司馬の陳象を捕らえて揚州に帰還した。楊渥は厳しく責め立てたが、鍾匡時は頓首して死罪を懇願した。楊渥は憐れんで赦したが、陳象を市場で斬った。

  彭玕は援軍を失ってしまうと、厚く馬殷と結んだが、また情勢を観察した。使者が戻ると、「馬殷の将校は和らぎ親しみあっており、まだ計略を行う時ではありません」と言ったから、遂に帰順した。彭玕は『春秋左氏伝』に通暁し、かつて長安に「石経」を求め、厚く金を賜った。揚州の人々は互いに「十金で一筆が得られ、百金で一篇が買える。ましてや士を得られるのではないか」と言い、そのため士人の多くは行って彭玕を頼った。

  当初、危全諷鍾匡時が後を継いだことを聞いて喜び、「鍾君が節度使となって三年がたったなら、私自ら奪い取ってやろう」と言ったが、楊渥の兵が強大になると、救援に出ることができず、密かに楊渥を攻撃する謀を練った。その時、淮南の亡命した将軍の王茂章が撫州を通過した際に、「聞けば公は大作戦を企図されていると窺いました。将軍たちの能力を見せていただけませんか」と言ったから、危全諷は軍十万を集め、王茂章を迎えて見させたところ、「揚州では兵士の能力を三等に分けていますが、公の軍はまさにその下に当たります。どうして向上しようとしないのですか」と答えたが、危全諷は返答することができなかった。後に楊氏によって併合された。


劉漢宏伝】
  劉漢宏は、もとは兗州の下級役人であったが、大将に従って王仙芝を討伐するところ、補給物資を奪って叛いて逃走した。乾符年間(874-879)末、江陵を攻略し、民家を焼き払い、店で建物が無事だったものはなかった。ここに都統の王鐸が将軍の崔鍇を派遣して降伏させ、上表して宿州刺史としたが、劉漢宏は賞が少ないことを怨み、不満をあらわにしていた。ちょうど、浙東観察使の柳瑫が罰せられ、そこで劉漢宏に観察使を授け、代任とした。僖宗が蜀にいると、貢物を駅伝で逓送して西に運んだから、は喜び、その軍を寵遇して義勝軍とし、ただちに節度使を授けた。劉漢宏はすでに七州を有して傲慢となり、たちまち「天下は乱れている。卯金刀が私でなければ誰だというのか」と言った。カラスが庭で騒いだため、樹を伐るように命じた。ある者が「巨木なので伐ってはなりません」と言うと、怒って、「私は白蛇を斬ることができる。どうして一本の木なぞ恐れようか」と言った。

  中和二年(882)、弟の劉漢宥を派遣し、諸将を率いて杭州を攻撃させ、西陵に陣を敷いたが、董昌に敗れた。また兵七万を派遣して長江沿いに駐屯したが、董昌は銭鏐を派遣して夜に渡河・襲撃して破った。翌年、劉漢宏は黄嶺に駐屯し、洞獠を派遣して同時に董昌を攻撃したが、銭鏐は富陽に出て諸陣営を攻撃し、多くは潰滅して撤退した。劉漢宏は大いにひるんで、全軍十万で艦を西陵に並べ、夜に渡河して董昌を襲撃しようと謀った。長江で祈祷したところ、一矢が目の前に落ち、これを憎んだ。にわかに銭鏐と遭遇戦となり、銭鏐は首級五千を得て、劉漢宏は粗末な服で逃走し、ある者に捕らえられたが、縄が緩んで逃れた。翌日、再度闘い、銭鏐は劉漢宏の弟の劉漢容・将軍の辛約を斬った。当時、鍾季文が明州を、盧約が処州を、蒋瓖が婺州を、杜雄が台州を、朱褒が温州を守った。朱褒の兵が最強で、そのため劉漢宏は朱褒に大艦での演習を行わせ、史恵・施堅実・韓公汶はその将軍となった。は杭州・越州で交戦が行われているのを聞いて、宦官を、宦官の焦居璠を派遣して節を持たせて詔によって誼を通じさせようとしたが、誰も詔を奉らなかった。

  光啓二年(886)銭鏐は諸将を率いて越州を攻撃し、自ら導山を走って、韓公汶を曹娥埭で破った。朱褒と戦い、その艦を焼き払い、進撃して豊山に駐屯した。施堅実は銭鏐の元に詣でて降り、劉漢宏は麾下六百人を率いて台州に逃亡し、銭鏐は劉漢宏の母と妻を屯営で斬った。杜雄は劉漢宏の軍をもてなし、全員が酔ったところで、劉漢宏を捕らえて董昌に面会した。劉漢宏は「古えより滅びなかった国があっただろうか」と言った。董昌は市場で斬らせることとしたが、処刑執行人に向かって「私は節度使だ。凡人に殺されてよい人間ではない。私は昔、金を持った者が私を殺した夢をみたが、それは銭鏐に違いない」と𠮟りつけたから、董昌は銭鏐に命じて斬らせた。


【張雄伝】
  張雄は、泗州漣水県の人である。里人の馮弘鐸と共にいずれも武寧軍の偏将であった。馮弘鐸は官吏に辱められ、張雄は彼のために弁論したから、二人とも節度使の時溥に疑われた。二人は災いを恐れ、兵三百を合わせて長江を渡り、白下に立て籠もり、蘇州を奪取して根拠地とした。次第に人が集まり、戦艦千隻以上、兵五万で、そこで自ら「天成軍」と号した。

  鎮海節度使の周宝が失脚すると、常州に逃げ、高駢の将軍の徐約の兵が非常に精兵なのを聞いて、徐約を誘って張雄を攻撃させ、徐約に蘇州を与えた。張雄は軍を海上に隠し、別将の趙暉に上元を根拠地とさせ、舟と武器を供給した。周宝の兵は散り散りとなり、多くが趙暉に降伏し、軍数万となった。張雄はそこで上元を西州とした。自分の才能に自身があり、居城を府にしたいと思い、軍旗や衣服は王者のものを僭称した。

  楊行密は揚州を包囲すると、畢師鐸は厚く宝物や金銭をもたらし、張雄と同盟した。張雄は軍を率いて海に浮かんで東塘に駐屯した。この当時、揚州は包囲されてから長く、皮袋や革帯すら食べて余すところがなく、軍中では人を殺して食糧の代わりとしており、その価値はわずか千銭ほどにすぎなかった。張雄が到着したのを聞いて、間道から携えて軍から走り、銀二斤で一斗の米と交換し、脱穀後の籾殻ですら価値ごとに値段をつけるよう願った。張雄の軍は望み以上の富を得たから、そこで戦わずして去った。趙暉は長江の河川道を何度も襲撃したから、張雄は趙暉を撃ち殺し、その軍を穴埋めにし、自ら上元に駐屯した。大順年間(890-891)初頭、上元を昇州とし、詔によって張雄に刺史を授けた。しばらくもしないうちに卒した。張雄は軍の統率に優れ、人々は張雄を慕い、彼のために廟を立てた。馮弘鐸が代わって刺史となった。


【附、馮弘鐸伝】
  馮弘鐸は騎射を得意とし、信念を曲げずに堂々と自分の考えを述べることは儒者のようであった。楊行密が淮南を獲得すると、馮弘鐸は誼を納めた。しかし軍艦が完全に有利であることを頼り、潤州を奪取しようと謀り、客人の尚公迺を派遣して楊行密の説得にあたったが、楊行密は従わなかった。客が「公はお聞き入れになられませんが、どれだけの楼船があるのかご存じなのですか」と言った。当時、楊行密の大将の田頵は宣州にいて、密かに馮弘鐸を攻撃しようとしており、工人を募って軍艦を建造していた。工人は「上元では舟をつくるのに、遠方の木材を調達します。頑丈で何十年の使用にも耐えられるのです」と言ったが、田頵は、「私は舟を一つの目的のためにつくっている。その寿命など考えていない。木は領内で取れればよいのだ」と言った。馮弘鐸は宣州・揚州の間で孤立し、自らを安心させることができず、しかも州ではしばしば怪異が起こった。天復二年(902)、大風が家を破壊し、巨木が飛び舞い、州の人は驚いて、「州で主が変わろうとしている」と言い、大将の馮暉らが馮弘鐸に全軍を南に向け、鍾伝を討伐すると宣言しておいて、実は田頵を襲撃しよう勧めた。楊行密はこの事を知って、客を派遣して止めようと説得させたが、聞き入れなかった。田頵は曷山で迎撃し、馮弘鐸は大敗し、敗残兵を収容して海に出ようとした。楊行密は再度強勢になるのを恐れ、人を派遣して東塘に迎え労い、なだめて「戦争には勝ち負けがある。今軍はまだ精強であるのに、自ら海に棄てるのはどうしてなのか。我が府は狭いとはいえ、それでも住む場所はある。もし揚州を欲するのなら、私は公に譲ろうではないか」と言い、馮弘鐸は全軍と共に泣いた。楊行密は飛艫(軽船)を引っ提げて、兵を伴わずにその軍に入り、馮弘鐸の手をとって慰め励まし、遂に帰順し、上表して淮南節度副使とした。尚公迺に面会して、「馮公のために潤州を求めたことを覚えているか。どうしてそんな苦労をしたのか」と言うと、「臣は主君のためにしたので、遂げられなかったのを残念に思います」と言うと、楊行密は笑って、「私はその主君を得たのだから、どうして心配することがあろうか」と言った。


【附、徐約伝】
  徐約は、曹州の人である。蘇州を得ると、詔によって刺史を授けられた。銭鏐は弟の銭銶を派遣して攻撃したから、徐約は民を動員して入れ墨で「南都で戦うことを願う」と入れさせたが、ある役人は「都とは、国のことを言っているが、杭州はいずれ国になるのか」と言った。徐約は後に次第に苦境に立たされ、その部下と哭泣して別れ、海に入って死んだ。銭鏐は沈粲に蘇州を守らせた。徐約の軍は潤州の阮結に降伏したが、阮結は軍を抑えることができなかった。銭鏐は成及に討伐させ、その軍を皆殺しにした。


【王潮伝】
  王潮は、字は信臣で、光州固始県の人である。五代の祖である王曄は固始県令となり、民はその仁政を慕って留めたから、ここを家とした。代々富裕として有名であった。僖宗が蜀に入ると、盗賊が江・淮の地におこり、寿春からの亡命者である王緒・劉行全は群盗を合わせて寿州を占領した。しばらくもしないうちに、軍は一万以上となり、将軍を自称し、また光州を奪取し、有力者を強引に軍に組み入れ、王潮も県の役人から軍正に任命され、兵糧の管理を司り、兵士から信任された。王緒は二州の戸籍を引っ提げて秦宗権に従った。ある日、貢賦が期限通りに納められず、秦宗権に厳しく責められ、王緒は恐れて、劉行全と共に軍を引き抜いて南に逃走し、潯陽・贛水を掠奪し、汀州を奪取し、刺史を自称し、漳州に入ったが、いずれの地も確保できなかった。それより以前、兵糧が少なくなり、そのため早足での行軍となり、軍に命じて「老人や子供を連れている者は斬れ」と言ったが、王潮と弟の王審邽王審知は母を連れて行軍しており、王緒は厳しく王潮を責め立てて、「私は軍には軍法があると聞いている。無法の軍は不要である」と言ったが、「人には皆母がいます。母がいない人など聞いたことがありません」と答えたから、王緒は怒り、その母を斬ろうとしたが、三人の子が同時に「母に仕えることは将軍に仕えるようなものです。その母を殺して、どうしてその子を用いるというのでしょうか」と謝罪したから、王緒は赦した。母が死んだとき、哭泣することができず、夜に道端に埋葬した。

  その時、気を望んで占いする者が軍中ににわかに勃興する者がいるだろうとし、王緒は密かに立派で才能がある者を見て、全員を罪として誅殺したから、軍は恐れた。南安に行くと、王潮は劉行全に向かって、「あなたは髭や眉が美しく、才能は周囲から抜きんでています。私はあなたがどこで死ぬのかわかりません」と語り、劉行全は怪訝に思いながら、不安を感じた。側近数十人と共に草むらの影に伏せ、王緒を縛り上げて見せしめとした。軍は万歳を叫び、劉行全を推して将軍としたが、劉行全は「私は王潮に及ばない。だから主となってください」と辞退し、王潮も強く辞退したがうまくいかず、そこで地を掃いて剣を突き立てて「拝礼して剣が三度動いた者を、私は主とします」と祈り、王審知の番になると、剣は地に踊り出たから、軍は神だと思い、全員が王審知に拝礼した。王審知は王潮に譲って、自らは副官となった。王緒は「私がこの子を殺すことができなかったのは、天の意志ではないのか」と嘆き、王潮は軍に命令して、「天子が危難を被っている。今軍を交州・広州に出し、巴・蜀の地に入り、王室の幹となろう」と言い、ここに全軍で出発しようとしたが、ちょうど泉州刺史の廖彦若が貪欲かつ暴虐で、王潮は軍が収まって軍法があるのを聞いて、そこで泉州の人々は牛酒を奉って王潮を迎えた。そこで城を包囲し、一年ほどして勝利し、廖彦若を殺し、その地を手に入れた。

  それより以前、黄巣は福州を奪おうとしたが、王師は下すことができなかった。建州の人の陳巌が軍を率いて陥落させ、また観察使の鄭鎰を追い払い、自ら福州を領有し、詔によって刺史を授けられた。しばらくして、陳巌が卒し、その婿の范暉が兵を擁して自ら留後と称した。陳巌の旧将の多くは王潮に帰順し、范暉を捕らえることができると申し上げ、王潮はそこで従弟の王彦復を派遣して兵を率いさせ、王審知に監督させ、福州を攻撃した。王審知は白馬に載って陣を歩き回ったから、望み見た者は圧倒され、「白馬将軍」と号した。范暉は一年守ったが降らず、王潮は「兵が尽きたら兵を増やせ。将が尽きたら将を増やせ。兵も将も尽きたら、私が行こう」と命令し、ここに王彦復は猛攻し、范暉は逃亡して海に入ったが、追撃して斬った。建州・汀州の二州はいずれも戸籍を掲げて命令を聞き、王潮はこうして五州の地をすべて支配下に置いた。

  昭宗は王潮を福建等州団練使に任じ、にわかに観察使に遷った。そこで四門義学をつくり、流亡の民を戻し、税制を定め、役人を派遣して勧農したから、人々に安寧をもたらした。乾寧年間(894-898)、福州を重用して威武軍とし、そこで王潮は節度使・検校尚書左僕射を拝命した。卒すると、司空を追贈された。

  王潮が病むと、王審知を権節度とすると、王審邽に譲ろうとしたが許さなかった。王審知に詔して検校刑部尚書・節度観察留後とした。厚く朱全忠に仕え、朱全忠の推薦によって節度使・同中書門下平章事とした。帝は鳳翔にあって、王審知に朱詔を賜い、三品からは制を承って任命権を与えた。天祐年間(904-907)初頭、瑯邪郡王に進封された。

【附、王審邽伝】
  王審邽は、字は次都である。泉州刺史、検校司徒となる。儒術を喜び、『書』・『春秋』に通暁した。統治能力に優れ、流民で戻ってきた者には牛や犁を貸し与え、家屋を再建した。中原が乱れると、公卿の多くがやって来て頼り、税を振り分けて財とし、楊承休・鄭璘・韓偓・帰伝懿・楊賛図・鄭戩らのように頼って禍いを免れ、王審邽は子の王延彬を派遣して招賢院をつくって礼遇した。


劉知謙伝】
  劉知謙は、寿州上蔡県の人である。戦乱を避けて封州に逃れ、清海軍の牙将となった。節度使の韋宙が兄の娘を劉知謙に娶らせると、皆が反対したが、韋宙は「人相容貌が常人とは異なっている。私は子孫を彼に託そう」と言った。

  黄巣が嶺表から北に戻ると、湖州・湘州の間で群盗が横行し、劉知謙はそこで封州を根拠地とし、詔によって刺史兼賀水鎮使を授けられ、梧州・桂州を鎮圧した。劉知謙は流民を収容し、支出を抑えるのを好み、兵士を養った。しばらくもしないうちに、精兵一万人を得て、多くの戦艦を備え、統治地域は粛然とした。しばらくして病となり、子供たちを呼び寄せて、「今、五嶺では盗賊が跋扈しようとしている。私には優れた甲冑と兵器がある。お前たちは努めて功績をたて、時を逸してはならん」と言った。

  劉知謙が卒すると、共にその子の劉隠を推して後嗣とし、清海軍節度使の劉崇亀が上表して封州刺史とした。嗣薛王李知柔が代わって節度使となったが、到着する前に、牙将の盧琚が叛乱を起こした。劉隠は兵を率いて李知柔を出迎え、ただちに広州に急行し、盧琚を捕らえて献上した。ここに李知柔は上奏し、昭宗は劉隠を本軍行軍司馬に任じ、にわかに副使に遷した。天復年間(901-904)初頭、節度使の徐彦若が死ぬと、劉隠は留後を自称した。


【盧光稠伝】
  虔州の人である盧光稠は、軍数万を率いて、州を根拠地として自ら留後を称し、また韶州を奪取した。劉隠と争い、戦ったが勝てず、全軍で虔州に攻め込んだ。盧光稠は軍を伏せて闘いを挑み、劉隠は真っ直ぐ駆けてきて、伏兵が発覚し、身を挺した働きで敗北を免れた。天祐年間(904-907)初頭、始め劉隠に詔があって権節度留後となったが、そこで使者を派遣して朝廷に入り、朱全忠に重い賄賂を贈って自らの守りとした。この年、盧光稠が死に、子の盧延昌が刺史を自称したが、部下に殺され、改めて李図を推して州の政治を統率させた。李図が死ぬと、鍾伝はその軍を奪い、子の鍾匡時を派遣して守らせようとしたがうまくいかず、州の人が自ら譚全播を立てて刺史とし、朱全忠に付き従ったという。


   前巻     『新唐書』    次巻
巻一百八十九 列伝第一百一十四 『新唐書』巻一百九十 列伝第一百一十五 巻一百九十一 列伝第一百一十六

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2026年07月15日 01:29
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。