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楊師立

楊師立 ようしりつ

834-884
晩唐の武将・藩陳。神策軍の将であったが、乾符四年(877)僖宗が行った撃球(ポロ)の試合の結果により、参加した四人の中で最も成績のよかった陳敬瑄は剣南西川節度使に、残る楊師立・牛勗・羅元杲がそれぞれ残る剣南東川節度使、山南西道節度使、河陽節度使を順任された。検校司空・同中書門下平章事を兼任した。中和四年(884)陳敬瑄高仁厚を自分に代わらせようとしていると聞いて怒り、檄文を送って陳敬瑄の十の罪を数え上げ、監軍の田絵を殺し、涪城に駐屯し、兵を派遣して綿州を攻撃したが勝てなかった。剣州刺史の姚卓文と共に成都を攻撃したが、失敗した。大将の張士安・鄭君雄を派遣して鹿頭関を守らせたが、高仁厚に敗れ、鄭君雄に自決を強要された。残った家族は皆殺しにされた。

本紀・列伝・史料

『新唐書』巻九 本紀第九 僖宗 中和四年三月甲子条、五月癸酉条、七月辛酉条
『新唐書』巻一百八十九 列伝第一百一十四 高仁厚
『資治通鑑』巻二百五十三 唐紀六十九 僖宗上之下 乾符四年三月庚午条
『資治通鑑』巻二百五十六 唐紀七十二 僖宗下之上 中和四年六月壬辰条

外部リンク

維基百科,自由的百科全書 楊師立(中文)
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最終更新:2026年07月17日 17:29
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