唐書
巻一百八十九
列伝第一百十四
高仁厚 趙犫 昶 珝 田頵 朱延寿
【
高仁厚伝】
高仁厚は、その系譜・出自は失われている。はじめ剣南西川節度使の
陳敬瑄に仕えて営使となった。
黄巣が京師を陥落させると、
天子は京師を出て成都におり、陳敬瑄は黄頭軍の部将の
李鋋・鞏咸を派遣して兵一万五千で興平を守備し、しばしば黄巣軍を破った。賊は蜀兵を号して「鵶児」と呼び、戦うごとに、「鴉児と闘ってはならん」と戒め、陳敬瑄は兵士の能力に満足し、さらに兵士二千を選び、高仁厚を将として東へ向かわせた。
これより以前、京師に無頼者がおり、皆畳帯をつけて棍棒を振り回し、町で狼藉し、「閑子」と呼ばれた。京兆尹が政務を始めると、たちまちひと際だった者を殺してその他の者を恐れさせた。
竇潏が京兆尹となると、数百十人を殺し、ようやく恐れて武器を収めた。
黄巣は京師に入ると、人々の多くが宝鶏に避難し、閑子は彼らを掠奪し、役人は抑えることができなかった。高仁厚は素性を知っていたから、部下に村々に入って攻撃すると布告させた。軍が入ると、閑子は集まって嘲笑したから、数千人を殺し、坊門を閉ざし、逃亡しようとしてもできないようにさせたから、全員が死に、これより町は安全となった。
その時、邛州の賊の
阡能が軍数万で各地の県を攻略し、防塁を数十築き、涪州刺史の
韓秀昇らは峡中を乱し、韓求は蜀州で叛き、諸将は平定することができなかった。
陳敬瑄は高仁厚を召還し、兵を率いて四方の討伐を行わせ、永安に駐屯した。阡能は間諜を送って軍の中に入れ、役人は間諜を捕らえて引き出し、間諜は父母妻子が賊に捕らえられており、軍の情報を得られなければ殺されると言った。高仁厚は憐れんで、「戻って賊に伝えよ。明日、我らは戦うが、甲冑を脱いで我を迎える者が、背中に「帰順」と書いていれば、全員農業に戻ることができる」と言い、間諜を釈放し、諸将に命じて柵を破壊させ、鼓を打って前進した。賊長の羅渾擎は伏兵を設けて偽って降伏したが、高仁厚は将軍を派遣して兵を同行させずその軍に入って説諭すると、全員が本当に降伏した。羅渾擎は偽計が失敗して逃走したが、役人に捕らえられた。高仁厚は「愚か者にいう言葉はない」と言い、降伏してきた者を登録し、全員の命を助け、そこで防塁に「大軍がやってきた」と言わせた。賊帥の句胡僧は大いに驚き、この者を斬ったが、止めることができず、軍は句胡僧を取られて降伏した。韓求は大賊がすでに捕らえられたのを知って、防塁に「外に出る者は斬る」と布告したが、軍に罵られ、韓求は水辺に行って死んだが、軍は死体を引き上げて、斬って晒し、他の防塁柵はすべて降った。高仁厚は馬で賊の砦を視察し、役人が砦を燃やすとう要請したが、高仁厚は財産・兵糧を運び上げてから放火し、賊の死体を成都に送った。高仁厚が帰還すると、
天子は門楼に出御して軍を労い、高仁厚に検校尚書左僕射・眉州刺史を授けた。
陳敬瑄は高仁厚と謀って、「
韓秀昇はまだ捕らえられておらず、貢納は絶え、百官に俸禄が行き届かず、民は塩を食することができない。公が賊を破ることができれば、東川の地は公に委ねよう」と言うと、高仁厚は承諾し、た。詔によって行軍司馬を拝命した。高仁厚は物資、捕らえた子女を屯営に蓄えていることを知り、そこで精兵に長江沿岸に行かせ、木を切り倒して水に投げ入れて舟の道を塞ぎ、岸を背後に布陣した。遊軍を賊に迫らせたが、しばらく戦わず、夜になって兵士千人に短刀・強弩を持たせて直ちに敵の屯営に迫り、放火して騒ぎ立てた。韓秀昇は舟兵を率いて消化にあたったが、高仁厚は水に潜らせて舟底に穴をあけて、すべて沈め、敵軍は恐れ、多くが潰走した。韓秀昇は潰走する兵を斬って、脅して留めようとしたが、軍は怒って、韓秀昇を捕らえて降伏した。高仁厚が尋問すると、「天子が亡命を余儀なくされている。叛いたのは私一人だけというのか」と答えた。高仁厚は韓秀昇を檻車で行在へ送り、市で斬った。
東川節度使の
楊師立は、もとは神策軍に属し、累進して検校司空・同中書門下平章事となった。
陳敬瑄が高仁厚を自分に代わらせようとしていると聞いて、不満を表明した。陳敬瑄は
帝を唆して楊師立を召還して本官兼尚書右僕射にしとうとしたが、楊師立はますます怒り、檄文を送って陳敬瑄の十の罪を数え上げ、監軍の田絵を殺し、涪城に駐屯し、兵を派遣して綿州を攻撃したが勝てなかった。また剣州刺史の姚卓文に檄文を送り、共に成都を攻撃した。姚卓文を指揮応接使に任じたが、姚卓文は応じなかった。帝はそこで詔を下して官爵を削った。陳敬瑄はただちに上表して高仁厚を東川節度留後とし、楊茂言を行軍副使に、楊棠を諸軍都虞候とし、兵三万を率いて討伐させた。楊師立は大将の張士安・
鄭君雄を派遣して鹿頭関を守らせた。高仁厚は漢州に行き、前軍は徳陽で戦い、楊師立は城に籠城し、四十日後、夜に兵を出して北柵を攪乱させたが、高仁厚は両翼に伏兵を設け、柵門を開いて篝火を並べると、賊は進むことができず、伏兵があらわれ、攻撃して敗走させた。楊茂言は高仁厚が敗れたと思い、兵を率いて逃走していたが、しばらくして戻ってきた。翌日、諸将と会うと、高仁厚は「副使は死を以て天子に報いるべきだ」と言い、斬って晒した。ここに張士安は出撃できず、楊師立は自ら兵士を督戦し、十度戦ったがすべて敗北した。高仁厚は城中に向かって悪者を斬首すると賞があると約束し、鄭君雄は軍に向かって、「天子が討伐されるのは反逆者だけだ。我らに何の関係があろうか」と叫び、そこで張士安と共に騒ぎ立てて進軍し、高仁厚の書簡を楊師立に示して「死んで償ってください」と言うと、自ら池に沈んで死んだ。鄭君雄はその家族を全員誅殺し、首級を天子に献上した。高仁厚は府に入ると、繋がれた囚人を釈放し、貧民に施しをした。詔によって剣南東川節度使を拝命した。
光啓二年(886)、遂に梓州を根拠地として、
陳敬瑄と絶縁した。
鄭君雄も当時遂州刺史であったが、同じく漢州を陥落させ、成都を攻撃した。陳敬瑄は部将の李順之に反撃させ、鄭君雄は死んだ。また維州・茂州の羌軍を進発して高仁厚を攻撃し、高仁厚を斬った。乾寧年間(894-898)、二人とも司徒を追贈された。
【趙犨伝】
趙犨は、陳州宛丘県の人で、代々忠武軍の牙将となった。趙犨は警戒心が強く意思が強い人物で、子供の時、陣営・行列をつくるのを好み、自ら号令・指図し、他の子供たちは乱そうとする者はいなかった。父の趙叔文はこれを見て、「この子は我が家を偉大なものにするだろう」と言った。成長すると書物を好み、剣術を学び、弓射をよくした。会昌年間(841-846)、潞州征伐に従い、天井関を占領し、また蛮を征討するのに従い、忠武軍で功績が多く、上級将校へ遷った。
黄巣が長安に入ると、各地で盗賊がおこり、陳の人は節度府にやって来て、趙犨を刺史とするよう願い出ると、節度府は朝廷に上表して、刺史を授けられた。着任すると、部下に向かって「黄巣がもし長安で死ななければ、必ず東に向かって関を出るから、確実に陳州を通るだろう」と計り、そこで城を拡大して塹壕を通し、倉庫を満たし、藁や薪を山のようにし、守備の備えとした。民で財産のある者は全員内に入れ、甲冑を修繕し、勇敢な者を募集し、自らの子弟に兵を率いさせた。黄巣が敗れると、やはり東に逃げた。賊将の
孟楷率いる一万人が項城に侵入すると、趙犨は攻撃して捕虜とした。
僖宗はその功績をよしとし、累進して検校司空に遷った。黄巣は孟楷が死んだのを聞いて、驚きかつ怒り、全軍で溵水を根拠地とし、
秦宗権と合流して兵数十万となり、長い壕を巡らせること五周、あちこちから攻撃してきた。陳州の人々は大いに恐れたが、趙犨は「兵士が貴ぶことは功績や名節を立てることである。今は衆寡敵せずとはいえ、男子たる者死地に生を求めるべきで、いたずらに恐れるのは無益である。国のために死んだ方が、生きて賊の為になるよりましではないのか。我が家は陳州の俸禄を受けてきた。賊を破って陳州を守ることを誓う。異議ある者は斬る」と号令し、軍は命令を聞いた。精兵を引き連れて出て戦い、しばしば賊を破った。黄巣はますます怒り、必ず皆殺しにしようとし、そこで八仙営を陳州の東に設置し、九電を僭称し、百官を並べて役人を任命し、兵糧を蓄えて持久戦を図った。秦宗権は甲冑や武器を運び入れ、賊はますます盛況となった。趙犨は大小数百も戦い、戦況は一進一退であったが、そのため人心は固まり、間道から援軍を
朱全忠に要請した。しばらくもしないうちに、汴軍が到着し、西北に陣を敷き、陳州の人々は奮起し、趙犨は兵を率いて賊を急襲し、これを破った。包囲されることおよそ三百日にして解囲された。
中和五年(885)、彰義軍節度使に抜擢された。
黄巣は敗れたとはいえ、
秦宗権の勢力は拡大し、地を侵略すること数千里、二十州以上の民を虐殺したが、ただ陳州は趙犨を頼ってただ完うし、功績によって検校司徒となり、泰寧・浙西両節度使を加えられ、いずれも陳州にあってこれを領有した。龍紀年間初頭(889)、同中書門下平章事・忠武軍節度使に昇進し、陳州を治め、流浪した民は相次いで帰還した。弟の
趙昶とは友愛があり、後に老いると、すべての軍事を弟に委ねて卒した。太尉を追贈された。
趙犨は忠義を尽くして孤城で賊に抵抗し、黄巣はついに敗亡した。しかし
朱全忠に従属し、またその力を頼って再び強勢となり、そのため兵糧や物資を供給して朱全忠を助けることは、常に他の藩鎮に先んじたという。
【附、趙昶伝】
趙昶は、字は大東で、風采は卓越し、内面は落ち着いて穏やかで、礼節にかなっていた。
孟楷を破るのに功績が多かった。
黄巣が包囲すると、趙昶は夜に軍を見回り、疲れて寝ると、神がいて加護しているかのようであった。黎明に決戦となると、兵士は決死に戦い、賊酋を数人捕らえ、首級を斬ること千以上であった。
趙犨が泰寧軍を領すると、趙昶を陳州刺史・検校尚書右僕射とした。当時、方鎮の中で忠義かつ優れた統治の者について、趙犨・趙昶をあげる者が多かった。趙犨が老いると、留後を授けられ、忠武節度使となり、また陳州に留まった。検校司徒に昇進した。農業や養蚕を勧め、人々に恩恵を与えた。同中書門下平章事を加えられた。
乾寧二年(895)卒した。年五十三歳。太尉を追贈された。
【附、趙珝】
趙犨の子の
趙珝は、字は有節である。勇敢かつ果断な人物で書籍を好み、騎射をよくした。
黄巣が襲来すると、麾下を激励し、全員が死を以て戦うことを誓い合った。父の墓が賊に近く、荒らされるのを恐れ、そこで夜に決死隊を城壁から下ろして柩を回収して城内に入った。倉庫に巨大な弩があったが、機械装置は壊れており、弓を張ることができなかった。趙珝は装置を調べて修理し、矢は五百歩にも届き、人も馬もすべて大穴があき、賊は恐れて近づこうとしなかった。功績によって検校尚書右僕射となり、処州刺史を遥任した。
趙昶が忠武軍節度使となると、趙珝は行軍司馬に遷った。趙昶が亡くなると、忠武軍留後となり、その統治は簡潔で、身分の上下問わず安定した。
朱全忠は上表して忠武軍節度使とした。陳州の土はもろく壊れやすかったから、趙珝は煉瓦で城壁をつくり、ついに心配事がなくなった。検校太保を加えられた。
光化三年(900)、同中書門下平章事となり、兼侍中に昇進し、天水郡公に封ぜられた。鄧艾の古跡を調べ、翟王渠から稲田に灌漑して農業に役立てた。一家で三人の節度使が相継いで二十年以上であったのは、陳州の人々が善政を評価したからである。
天復年間(901-904)初頭、
韓建が忠武軍節度使となり、趙珝を同州節度留後とした。
昭宗が長安に帰還すると、詔によって入朝し、「迎鑾功臣」の号を賜った。検校太傅によって右金吾衛上将軍となり、東への遷都に従った。一年ほどして、病のため辞職した。卒した時、年五十五歳であった。侍中を追贈され、陳州の人々は彼のために市を閉じて悼んだ。
【田頵伝】
田頵は、字は徳臣で、廬州合肥県の人である。ほぼ経典・史書に通暁し、沈着果断で大志があった。
楊行密と同郷で、兄弟の契りを結んだ。州の募兵に応じて辺境に駐屯し、主将となった。楊行密が廬州を根拠地として自立すると、田頵は彼のために謀を多くした。
趙鍠を宣州で攻撃すると、趙鍠は東渓に逃れ、暴流に乗って逃れ、水のため甲冑を脱ぎ、騎兵が追撃してくることができないと考えた。しかし田頵は軽舟に乗って追撃し、趙鍠は驚き、遂に捕虜となった。楊行密は上表して田頵を馬歩軍都虞候とした。
沙陀の叛将の
安仁義が淮南に亡命し、
楊行密は大いに喜び、騎兵を配下にさせ、田頵の右翼に置き、両人の名声は軍中で冠たるものがあり、共に常州を攻撃し、刺史の
杜稜を殺害した。
銭鏐は潤州に駐屯していたが、一夜で潰走した。ちょうど
孫儒が南に侵略してきたから、田頵らは丹陽に駐屯すると、孫儒は揚州に放火し、広徳に陣を敷いた。田頵は孫儒の陣を破り、戦闘となったが、田頵は敗走した。楊行密は怒り、田頵の兵を奪った。ある者が楊行密を「強敵が陣を固めています。田頵でなければどうすることもできません」と諌めたから楊行密は田頵を将軍に復帰させた。孫儒は書簡を安仁義に送って誼を通じ、楊行密を疑わせようとしたが、楊行密はかえって待遇をますます厚くし、行軍副使に任じ、ついにこの二人を用いて孫儒を捕らえる功績をあげた。そこで上表して安仁義を潤州刺史とし、田頵を寧国軍節度使とした。累進して検校太保・同中書門下平章事となった。安仁義は検校太保となった。
田頵が
馮弘鐸を平定すると、揚州にやって来て
楊行密に挨拶した。左右の者が金銭をひたすらに要求し、獄吏もまた要求したから、田頵は「役人どもは私を投獄したいのか」と怒った。また池州・歙州を属州にするよう願い出たが、楊行密は許さなかった。田頵は始めて怨んだ。帰還しようとすると、府門を指さして、「私は二度とここには入らない」と言った。
この当時、
銭鏐の部将の
徐綰が叛き、銭鏐が杭州に入って徐綰を駆逐すると、徐綰は霊隠山に駐屯して田頵を迎えた。
田頵は客人の何暁を派遣して
銭鏐に面会し「
王は東の会稽を保つべきで、無為に兵士や民衆を殺してはなりません」と言わせたが、銭鏐は「軍中での小さな反逆なぞよくあることだ。
公は人の上に立つ者であるのに、どうして反逆を助けるのか」と答えたから、田頵は北門を攻撃した。銭鏐は城壁の上に登って共に語り、弓を射て田頵の麾下に命中させた。田頵は防塁を築いて往来する道を遮断させ、銭鏐を悩ませ、銭鏐は金銭十輿を出して、地を奪うことができる者を募った。
陳璋は決死隊三百人で、甲冑を脱いで突撃し、その地を奪い、銭鏐は陳璋に衢州刺史を授けた。田頵は城を攻撃したが勝つことができず、長江を渡って西陵を遮断しようとしたが、銭鏐の将軍のために撃退され、包囲戦はますます激しさを増した。
これより先、
楊行密は
銭鏐の子に娘を娶せたいと思い、銭鏐は緊急事態であったから、
銭元璙を派遣して楊行密の娘を迎え、また楊行密に向かって「田頵の思い通りにさせるなら、必ず大きな災いとなるでしょう。子を人質としますから、田頵を召還してください」と告げたから、楊行密は人を派遣して田頵に向かって、「帰ってこなかったら、私は代わりの人を派遣して宣州の守備をさせる」と言わせたが、田頵は従わなかった。銭鏐は銭二百万緡を送って軍を労い、田頵もまた銭鏐の子の
銭元瓘を人質に出すよう要求し、そこで
徐綰と共に兵を引き上げて帰還した。しかし心の中では楊行密と銭鏐を怨み、書簡を送って「侯や王は地方を守って天子にお仕えするものであり、たとえ百もの川が海に合流しないかのように地方が朝廷に帰順しなければ、急流となってあふれても、ついには涸土となってしまう。流れにまかせた方がましなのである。東南は広大で、刀や金や玉が丘のように積まれており、公は天子に貢納を奉っていただきたい。田頵はすべての備蓄と共に、車一台に載って一緒に従おう」と述べたが、楊行密は「貢賦は
汴から届けられるが、ちょうど
敵を助けるのに十分になってしまうだけだ」と答えた。ここに田頵は楊行密と絶縁し、大いに兵を募集した。
李神福は楊行密に向かって、「田頵は必ず叛きます。先手を打つべきです」と言ったが、楊行密は「田頵には大功がある。叛いたかどうかわからないのに殺してしまえば、他の将軍たちを用いることができなくなる」と言った。田頵は部下の
杜荀鶴を派遣して汴に派遣して誼を通じ、
朱全忠は喜び、宿州に駐屯して変事を待った。楊行密は
康儒が田頵の所にいるから、そこで廬州刺史を授けて離間させようとした。田頵は怒り、康儒の一族を皆殺しにし、康儒は「公は私の謀を用いなければ、死後行くところはない」と言った。
田頵は
安仁義と同盟を結んで昇州を攻撃し、刺史の
李神福の妻子を奪って手厚く養った。李神福は
劉存と共に鄂州を攻めようとしていたが、
楊行密に召還された。李神福は将軍たちに向かって、「田頵が叛いたが、これは心臓や内臓の病気のようなもので、速やかに攻撃しなければならない」と言い、田頵は李臯を派遣して書簡を李神福に送った。その文章には「
公の家族はここにいます。私に従うなら、地を分けて王とするでしょう」と書かれていたが、「私は一兵卒として呉王に従い、上位の将軍に任じられるようになった。妻子の事を考えて志を変えるようなことはない」と答え、そこで李臯を斬り、田頵の兵を曷山で破った。それより以前、田頵は
王壇らを率いて水軍で李神福の背後を追跡したが、吉陽磯に到着しても戦わなかった。日暮れになると、王壇は李神福の軍が長江を半ば渡ったところを掩撃したが、李神福は舟を引き返して下流から急襲し、大いに打ち破り、そこで放火すると兵士の多くが死んだ。翌日、王壇は再び戦ったが、皖口で敗れ、田頵はそこで自ら軍を率いて戦った。李神福は、「賊が城を棄ててやってきた。これは天が賊を滅ぼそうとしているのだ」と言い、そこで水際に陣地を固めて出撃せず、楊行密に兵で田頵の逃走路を塞ぐよう要請した。
安仁義は東塘で戦艦を焼き払い、夜に常州を攻撃したが勝てず、転戦して夾岡に到着すると、二つの幟を立て、甲冑を解いて休んだが、追撃の兵は接近することはなかった。田頵は舟を蕪湖に並べた。
楊行密は将軍の
王茂章が潤州を攻撃した。安仁義は弓射をよくすること軍中で冠たるものがあり、当時、
朱瑾の槊(槍)、
米志誠の弩を、皆が第一とした。安仁義は常に、「米志誠の弩は十あっても、朱瑾の槊の一にはあたらない。朱瑾の槊は十あっても、私の弓の一にはあたらない」と言っており、人々はそうだと思った。また軍を統治するのに厳格で、よく兵士の心をつかんだ。戦闘では兵数百のみで、濠や橋を壊さず、門を開いて戦い、まず弓で狙っているところを告げてから射た。王茂章らは戦うことができなかった。楊行密は使者を派遣して、「私は公の功績を忘れたことがない。自ら帰順するなら、再び行軍副使を授けるが、ただし兵の指揮を任せるわけにはいかない」と言った。安仁義は降伏しようとしたが、その子は強く諌めたから、ついに沙汰止みとなった。
楊行密はその将軍の
台濛を呼び寄せて、泣いて「人々は田頵が必ず叛くと言っていたが、私は人を裏切るのにしのびず、田頵はやはり私を裏切った。私は将軍となるべき者は公をおいてはいないと思っている」と語り、台濛は頓首して挨拶し、騎兵を率いて長江を渡り、陣を築いてから出発した。兵士はその臆病さを笑ったが、台濛は「田頵は宿将で謀が多い。これに備えたところで何の害があろうか」と言い、
王壇らと広徳で戦い、台濛は楊行密の書簡を王壇の諸将に送ったから、皆再拝して気を削がれた。台濛は兵を率いて攻撃すると、王壇は敗走した。
李神福は戦わずして田頵を窮地に陥らせ、田頵は偽って母の病だと言って、帰還して蕪湖に到着した。王壇が敗れたのを聞いて、精兵二万を留めて郭行琮に率いさせ、自らは城を逃れた。台濛が行軍すると、狭い軍営と小さな小屋をつくり、見た者はわずかに二千人が入る程度だと思い、田頵は軽んじ、兵を召し戻さなかった。田頵と台濛は黄池で戦い、矢や石が飛び交うと台濛は逃走にかかり、田頵の兵は争って追撃したが、伏兵に遭遇し、田頵は大敗し、蕪湖の兵を呼び寄せたが、入ることができなかった。郭行琮および王壇はいずれも楊行密に帰順すると、田頵は怒り、自ら決死隊数百を率いて、「爪牙都」と号し、自ら肉薄して戦った。台濛は軍を退かせて弱兵であると見せかけたから、兵士は塹壕を超えたが、台濛はとくに必死に戦ったから、田頵の軍は潰滅した。田頵は城に逃れたが、橋が崩落し、乱兵に殺された。年四十六歳。その部下はなおも戦ったが、田頵の首級を見せられると、潰滅した。
田頵は当初、
銭元瓘を連れ帰ったが、戦いに勝てなくなり、たちまち銭元瓘を殺そうとしたが、田頵の母が守ったから死を免れた。
銭鏐が
楊行密と同盟を結ぶと、田頵は「今日勝てなければ、必ず銭元瓘を殺す」と言った。後に田頵が死ぬと、首級は淮南に到着し、楊行密は涙を流し、庶人の礼で葬り、また
康儒も葬った。銭元瓘を杭州に返した。
田頵は統治に優れ、性格は寛大で、商売に通じて利益を出したから、民に敬愛された。士を処遇し、
楊夔・
康軿・夏侯淑・
殷文圭・王希羽らはいずれも上客とした。殷文圭は名声があり、
朱全忠・
銭鏐はそれぞれ
辟署したが応じなかった。田頵は田や家を与え、その母を迎え、甥のように殷文圭に仕え、そのため殷文圭は田頵のために尽力した。楊夔は田頵が
楊行密と対抗するほどの力がないと思い、『溺賦』を著して戒めとしたが、田頵は用いなかった。
楊行密は
王茂章に地に穴を掘らせて潤州を奪取したが、
安仁義は一族を城楼に確保していたから、兵で登る者はいなかった。
李徳誠を呼び寄せて、「お前に命を委ねよう」と言い、そこで弓矢で手向かったが捕縛され、父子は揚州の市で斬られた。
【附、台濛伝】
台濛は、字は頂雲で、同じく合肥県の人である。
田頵を破ると、
楊行密は上表して検校太保・宣州観察使とした。天祐年間(904-907)初頭に卒した。
【
朱延寿伝】
朱延寿は、廬州舒城県の人である。
楊行密に仕え、
秦彦・
畢師鐸・
趙鍠・
孫儒を破るのに功績が大きかった。楊行密は寛大さによって人々の心を得ようと思っていたが、朱延寿は敢えて殺戮を行った。当時揚州では盗賊が多く、捕らえられた者は、楊行密はたちまち賜い物をして送り出し、「朱延寿には知られるなよ」と戒めていたが、後で朱延寿には密かに殺害の許可を与えていた。
それより以前、寿州刺史の高彦温は寿州ごと
朱全忠に降伏した。
楊行密は襲撃しようとしたが、将軍たちは城の堅固さと難攻不落を恐れた。朱延寿は鼓舞して、その城を陥落させたから、上表によって淮南節度副使となった。朱全忠はそれでも寿春に駐屯しており、朱延寿は新たに軍を出し、旗五本ごとに伍をつくって列とし、李厚を派遣して十旗で西側を攻撃させたが勝てなかった。斬ろうとすると、李厚は五旗増やすことを願い出て、とくに死力を尽くして戦うと、朱全忠は撤退した。ここに黄州・蘄州・光州の三州を奪取し、功績によって寿州団練使に遷った。
昭宗が鳳翔にいた際、朱延寿に蔡を包囲して
朱全忠の勢力を分断・弱体化するように詔し、奉国軍節度使に抜擢した。朱全忠の兵がやってくるごとに、朱延寿は門を開いて防備を設けなかったが、迫ろうとする者はいなかった。朱延寿は軍を運用する場合、常に寡兵で戦い、敗れて戻った者は全員斬り捨てた。
田頵が
朱全忠に従うと、朱延寿は密かに「公が何かなされるのなら、私に指揮をさせてください」と約束したから、田頵は喜び、二人は
楊行密と絶縁するよう謀した。楊行密は非常に心配し、眼の病気と偽って、柱に触れながら歩いて倒れた。妻は朱延寿の姉で、倒れた楊行密を助け起こすと、楊行密は「私は目が見えなくなってしまった。子供たちは幼いから、舅が私の代わりになってくれれば、心配することはないのに」と泣きながら言い、弁論に優れた者を派遣して朱延寿を呼び寄せた。朱延寿は疑い、行くことをよしとしなかったが、姉が婢を送り出してその理由を述べたから、朱延寿は揚州に急ぎ馳せ参じた。楊行密への拝礼が終わる前に、兵士が朱延寿を捕らえて殺害し、妻の朱氏は廃された。
【賛】
賛にいわく、
朱全忠は唐の盗賊で、
楊行密は張本人を討ち取ろうとしていた。
田頵は軍や賦税を出して楊行密を助けており、楊行密を非難して絶縁したのは、唐への忠義によるものではなかった。従っていた楊行密を棄てて、より勢力の大きい方へと望んだことは、愚かなことである。孔子が「孟公綽は趙氏や魏氏といった大国の有力一族の家老としては優秀だが、滕や薛といった小国の大臣には相応しくない(『論語』憲問第十四)」と言っており、
高仁厚・
田頵・
朱延寿は、
呉・
蜀の家老として相応しい人材ですらなかったのに、天子に仕えることができただろうか。
最終更新:2026年07月21日 09:35