劉訓 りゅうくん
?-934
唐末・五代の武将。字は遵範。隰州永和県(山西省臨汾市)の人。軍中で身を立て、当初、
李克用に仕えて馬軍隊長となり、しばらくして散将となった。河中節度使の王氏の内紛では、
史儼に従って陝州を攻めた。
王行瑜討伐では前鋒となり、後に河中節度使
王珂に属し、隰州防禦都将となった。王珂が
朱全忠に降伏すると、居場所を失い、陝州刺史を殺し、
李存勗に帰順。瀛州刺史、後に襄州節度使となる。洛陽で兵乱が起こると、私怨により節度副使の胡装とその家族を皆殺しにした。荊南の高季興の攻撃に失敗し、檀州刺史に左遷された。再度起用されて龍武大将軍、建雄軍節度使となった。『旧五代史』に伝がある。
列伝
『旧五代史』巻六十一 唐書三十七 列伝第十三 劉訓
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最終更新:2026年07月29日 01:07