王行瑜

王行瑜

?-895
唐末の群雄・藩鎮。邠州(陝西省邠県)の人。唐末の混乱に乗じて従軍し、 同郷人朱玫の列校となり、黄巣討伐に戦功をあげた。光啓二年(886)朱玫らが嗣襄王熅を帝としたとき、天平軍節度使を授けられた。僖宗のあとを追ったが大唐峰で敗れ、かえって朱玫を長安に襲って斬り、帰朝して静難節度使となった。以後、李茂貞韓建と結び、唐朝をはさんで勢力の拡大につとめた。大順元年(890)に侍中、景福元年(892)さらに中書令を兼ねた。翌年尚書令になることをのぞんで許されず、 尚父の号および鉄券を賜わった。乾寧二年(895)河中節度使の任命に関して河東の李克用と対立するようになり、弟の王行約(匡国軍節度使)、王行実(左軍指揮使)らとともに戦ったが敗れ官爵を奪われた。また、 梨園、竜泉両寨の戦いにも敗れて子の知進らも捕われ、邠州にのがれ降伏を願ったが許されず、再びのがれたが慶州で部下に殺された。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。

列伝

『新唐書』巻二百二十四下 列伝第一百四十九下 叛臣下 王行瑜
『旧唐書』巻一百七十五 列伝第一百二十五 憲宗至昭宗諸子 王行瑜

参考文献

『アジア歴史事典』2(平凡社,1959)

外部リンク

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 王行瑜
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E8%A1%8C%E7%91%9C

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最終更新:2023年02月21日 23:46
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