閔頊 びんきょく
?-886
晩唐の群雄。閔勖とも。字は公謹。江西の人。秋に国境防備のため秋安南に向かった。
中和元年(881)に帰還し、潭州を通過すると、湖南観察使の
李裕を追放し、諸州防衛の将校を呼び寄せて留後とし、朝廷に願い出た。
僖宗から撫州刺史
鐘伝と争わせるべく、再度鎮南軍を設置し、閔頊を節度使に抜擢したが、閔頊は任命を受けなかった。改めて検校尚書右僕射・欽化軍節度使となり、
鄧処訥を邵州刺史とした。刺史を追放された
徐顥が窮地に陥ったことを哀れみ、兵を率いて収容した。
向瓌は梅山の十峒獠を呼び寄せて邵州の道を絶ち、閔頊はその陣営を奇襲した。
周岳は弱軍で戦いに誘い込み、閔頊は伏兵に引っ掛かり、そのため大敗した。淮西の将の黄皓が閔頊を殺害した。
向瓌が梅山の十峒獠を呼び寄せて邵州の道を絶つと、閔頊はその陣営を奇襲したが、援軍の
周岳の伏兵のため大敗。淮西の将の黄皓に殺害された。
列伝
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最終更新:2026年08月23日 02:57