鄧処訥 とうしょとつ
?-893
晩唐の群雄。字は沖韞。邵州龍潭県の人。邵州の兵士で、軍功を積んで将校となった。
閔頊に従い、
中和元年(881)閔頊が潭州観察使
李裕を追放すると邵州刺史に任命された。
光啓二年(886)閔頊が黄皓に殺害され、
周岳が潭州を奪うと復讐を誓い、景福二年(893)、
雷満と共同で周岳を攻めて斬殺し、湖南節度兵馬留後を自称。乾寧元年(894)二月、朝廷より全権節度使に任命された。間もなく
劉建鋒の攻撃を受け、
蒋勛・鄧継崇を派遣して防御したものの、兵士は逃走した。遺棄された旗と鎧を用いて潭州に侵入され、酒宴をしているところを捕らえられて殺害された。『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2026年08月23日 11:46