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巻一百八十六 列伝第一百一十一

巻一百八十六

列伝第一百十一

周宝  王処存  鄧処訥 雷満 陳儒 劉巨容 馮行襲 趙徳諲 匡凝 楊守亮 楊晟 顧彦朗 彦暉



【周宝伝】
  周宝は、字は上珪で、平州盧龍県の人である。曾祖父の周待選は、魯城県令となり、安禄山が叛くと、県の人を率いて防衛し、戦死した。祖父の周光済は、平盧節度使の侯希逸に仕えて牙将となり、戦うごとに魯城を攻めた者を捕虜とすると、必ず自らの手で殺害した。左賛善大夫を歴任し、李洧に従って徐州と共に天子に帰順した。父の周懐義は、書記の職務に通暁し、検校工部尚書・天徳西城防禦使となり、城を遷す事について宰相の李吉甫の不興を買ったから、憂いて死んだ。

  周宝は蔭位によって千牛備身となった。天平節度使の殷侑は昔周懐義の参軍となっており、周宝は殷侑に従って部将となった。会昌年間(841-846)、方鎮の中から優秀な将校が選ばれて宿衛となり、高駢と共に皆右神策軍に属し、良原鎮使に任命されたが、撃球(ポロ)をよくしたから、二人とも軍将に任じられ、高駢は周宝に兄のように仕えた。周宝は強毅で、人に屈したことがなかった。官が昇進しないでいると、自ら撃球の腕前を見るように願い出て、武宗はその腕前を称え、金吾将軍に抜擢した。撃球のため片目を失明した。検校工部尚書・涇原節度使に昇進した。農業に力を注ぎ、兵糧を二十万斛集め、良将と称えられた。

  黄巣が宣州・歙州に拠ると、周宝を鎮海軍節度兼南面招討使に遷した。黄巣がそのことを聞くと、采石を出て、揚州を攻略した。僖宗が蜀に避難すると、検校司空を加えられた。当時、群盗が各地で横行しており、柳超は常熟県に拠り、王敖は崑山県に拠り、王騰は華亭県に拠り、宋可復は無錫県に拠った。周宝は兵士を訓練して自ら守り、杭州の兵を発して県や鎮を守り、八都に分けた。石鏡都は董昌が長となり、清平都は陳晟が長となり、於潜都は呉文挙が長となり、塩官都は徐及が長となり、新登都は杜稜が長となり、唐山都は饒京が長となり、富春都は文禹が長となり、龍泉都は凌文舉が長となった。

  中和二年(882)、同中書門上平章事(使相)、兼天下租庸副使に昇進し、汝南郡王に封ぜられた。周宝は気前がよく、士と接することを好み、京師が賊に陥落させられると、救援に赴こうと、さらに兵を募集し、「後楼都」と号した。翌年、董昌が杭州に拠って、柳超が常熟から睦州に入ったが、睦州刺史の韋諸に殺された。中和四年(884)、余杭鎮使の陳晟が韋諸を攻撃したが、韋諸は睦州を陳晟に授けた。周宝の子の周璵が後楼都を統括したが、弱々しく軍を制御することができず、部隊は統制が取れなかった。周宝もまた色欲に惑わされて政務を怠り、婿の楊茂実を蘇州刺史に任じ、重税を課したから、人々は口を閉ざした。田令孜趙載を代任としたが、楊茂実は代任の命令を受けず、周宝は楊茂実の留任するよう上表したが、聴されず、そこで官衙を破壊し、垣根を撤去した。詔によって王蘊を趙載の代任としたが、趙載は潤州に留まった。

  それより以前、鎮海の将である張郁は撃球によって周宝に仕えていた。光啓年間(885-888)初頭、匪賊が崑山県で掠奪をしたから、周宝は張郁を派遣して兵三百で海上を守らせたが、張郁は酔って叛乱をおこした。王蘊は州の兵が休暇で戻ってきたのだと思い、特に備えをせず、張郁は遂に大掠奪を行い、王蘊は包囲の中、城を守った。周宝は将軍の拓抜従を派遣して討伐して平定させた。張郁は常熟県を根拠地とし、そこで常州を攻めると、常州刺史の劉革は降伏して出迎えたから、軍は次第に集まってきた。周宝は将軍の丁従実を派遣して攻撃し、張郁は敗走して海陵に逃げ、鎮遏使の高霸のもとに身を寄せ、丁従実は遂に常州に拠った。董昌が義勝軍節度使に遷ると、周宝は朝廷の制勅を承けて杭州都将の銭鏐を抜擢して杭州の政務をとらせた。宣州の賊の李君旺が義興県を陥落させると守らせた。この当時、右散騎常侍の沈誥が江南にやって来て、田令孜の権勢をたよりに、州県で横暴を振るった。嗣襄王が田令孜の与党の捜索を下令すると、周宝は沈誥および趙載を捕らえて殺害した。

  高駢が塩鉄転運等使となると、周宝の子の周佶を辟署して支使とし、周宝も同じく上表して高駢の従子を幕府に置いた。高駢が都統となると、次第に周宝に礼を欠くようになり、周宝は怨んだ。が蜀にいると、淮南は貢賦せず、そのことを高駢は浙西の道が周宝に阻まれていると妄言した。帝はそれが誣告であることを知っていたが、高駢に直接言わなかったから、これより二人の不仲は顕在化した。高駢は根拠地を出て東塘に駐屯し、西は京師を平定する協定を結ぼうとし、周宝は喜び、赴こうとしたが、ある者が「高氏は公の土地を狙っているのです」と言ったものの、周宝は信じなかった。高駢が使者を派遣して金山で会盟するよう要請し、そこで周宝を捕らえようと謀ったが、周宝は「平時でさえ国境で会盟を開くと聞いたことがないが、ましてやお上は都を追われて逃亡し、宗廟も焼き払われる屈辱を味わっているのに、どうして高くんが会盟を開く時だというのだろうか。私は李康ではないから、他人のために勲功を積んでやったり、朝廷を欺くことはできない」と答え、高駢は人を派遣して厳しく責め立てたが、周宝も同じく罵って絶交した。

  ちょうど、部将の劉浩・刁頵は度支催勘使・太子左庶子の薛朗と共に叛き、周宝は眠っていると、外で兵が戦闘しており、火が城中を照らした。周宝は驚いて出ると、「私に仕える者は我が兵だ。そうでなければ盗賊だ。六州はすべて我が鎮であるのに、どこに行くというのか」と諭したが、青陽門から脱出した。兵士は大掠奪をし、官吏の崔綰・陸鍔・田倍は皆死んだ。劉浩は薛朗を推戴して幕府の政務を行わせた。周宝が逃走して牛埭に到着すると、高駢は葛を贈って、まさに滅びようとしていることを仄めかした。周宝は地面に身を投げ出して、「公には呂用之がいて不穏なことになっているだから、私を嘲笑うな」と言い、そこで常州に向かい丁従実を頼り、後楼都を召集したが、一人の兵士もやって来ることがなかった。

  銭鏐杜稜成及薛朗を攻撃させ、杜稜の子の杜建徽丁従実を攻撃し、表向きは周宝を迎えるためとし、賊の李君旺を撃破し、船八百艘を押収し、遂に常州を包囲し、丁従実は海陵に逃れた。銭鏐は櫜鞬(弓袋と箙)を備えて周宝を迎え、樟亭に宿泊させた。しばらくもしないうちに周宝を殺害し、一か月もしないうちに、高駢も畢師鐸に虜囚となった。周宝は死んだ時、年七十四歳で、太保を追贈された。銭鏐は杜稜に常州を守備させた。文徳元年(888)、潤州は陥落し、劉浩は逃亡して行方不明となったが、薛朗を捕らえ、その心臓を解剖して周宝を祭り、阮結に潤州を守らせた。楊行密高霸を殺害し、張郁・丁従実も全員死んだ。


【附、李師悦伝】
  それより以前、黄巣が平定されると、時溥は小史の李師悦を派遣して符璽を奉り、湖州刺史を拝命した。昭宗の時、忠国軍節度使に遷った。董昌が叛くと、李師悦は同盟を結び、銭鏐とは関係が悪化し、楊行密と誼を結び、安仁義が潤州に行くと助けた。乾寧三年(896)卒し、子の李継徽が代わり、地を楊行密に明け渡そうとしたが、その将軍の沈攸が反対したため、李継徽は揚州に逃亡した。


【附、陳詢伝】
  陳晟は睦州に拠ること十八年で死に、弟の陳詢が代わって立ったが、銭鏐が自分を嫌っているのではないかと恐れ、そこで徐綰が叛乱をおこすと、田頵と内通した。銭鏐が桐廬の地を割いて杭州に隷属させると、陳詢は遂に銭鏐との関係を絶ち、蘭渓を攻撃し、銭鏐は方永珍に陳詢を討伐させた。天祐元年(904)楊行密は将軍の闞晊・陶雅を派遣して救援させ、銭鏐の弟の銭鎰や大将の王求・顧全武らを捕らえた。しばらくもしないうちに、銭鏐の将軍の楊習が婺州を攻撃し、陳詢は楊渥の元に逃れ、楊渥は金師会に守らせた。銭鏐が衢州を陥落させると、金師会は敗走し、銭鏐は衢州の地を奪取した。


王処存伝】
  王処存、京兆万年県の人である。代々神策軍に籍を置き、家は勝業坊の中にあり、天下の富裕となった。父の王宗は、弓射を巧みにし、浪費で贅沢三昧をし、召使の僮は千人おり、この財産を用いて、累進して検校司空・金吾大将軍に任じられ、興元節度使を遥任した。

  王処存は右軍鎮使から検校刑部尚書・定州制置使に任じられ、累進して義武節度使に遷った。黄巣が京師を陥落させると、王処存は慟哭し、詔が出るのを待たず、麾下の兵二千を分けて間道から山南に至って乗輿を護衛した。外は王重栄と同盟を結び、進軍して渭橋に駐屯し、涇州行軍司馬の唐弘夫も同じく渭水の北に駐屯した。王処存に詔して検校尚書右僕射として督戦し、にわかに東南面行営招討使となった。中和二年(882)、京城東面都統を授けられた。国難がまだ平定されていないことに心を痛め、語るとたちまち涙を流し、軍中の多くは王処存に忠誠を誓い、ますます王処存の任をなした。もとより李克用と親しく、また婚姻関係にあり、十度使者を派遣して諭して迎え、ついに共に京師を平定した。王鐸は国家復興の功績に序列を定め、勤王で義を挙げた者に王処存を功績第一とし、城を攻略して賊を破ったのは李克用を功績第一とした。検校司空に遷った。また兵三千を出し、部下の大将の張公慶は諸軍と合流して黄巣を泰山で捕捉し殲滅した。検校司徒・同中書門下平章事に昇進した。

  田令孜が王重栄を討伐しようとし、王処存を河中節度使に遷した。王処存は上書して、「王重栄には大功があり、改易すべきではありません。諸侯の心が動揺します」と申し述べたが、受け入れられなかった。大道を進み、軍は晋州に行ったが、刺史の冀君武は門を閉ざして中に入れず、王重栄は詔を拒んだ。

  王処存は政治の場にあっては便宜に通暁し、大将の風格を備えていた。幽州鎮州の兵・馬は強く、地形も有利であったから、易定の地はその間に挟まれ、毎年侵略された。李匡威が節度使となると、双方を奪取しようと謀った。王処存は近隣諸国と友好関係をたもち、領内では民を慈しんで人々の心をつかみ、賢人には膝を屈してへりくだりのあまり痛め、太原とは協力関係にあって自身の勢力を助け、遠近を問わず人々の心をつかんだ。毎年軍に演習させ、他の諸鎮と戦った時には、侵略できる者はいなかった。累進して侍中・検校太尉を加えられた。卒した時、年六十五歳で、太子太師を追贈され、諡を忠粛という。


【附、王郜伝】
  三軍(全軍)は河朔の旧事(藩鎮が半独立体制となり、世襲して任免権を掌握すること)を踏襲して、子の王郜を推戴して副使から留後とし、昭宗はこの決定に従った。累進して節度使を拝命し、検校司空・同中書門下平章事を加えられ、また太保に昇進した。

  光化三年(900)朱全忠張存敬に幽州を攻撃させ、瓦橋は泥濘であったから、祁溝関を通った。王郜は劉守光と親しく、そこで叔父の王処直に直率の兵を与えて張存敬軍の後方を攪乱させ、騎将の甄瓊章に義豊県に行かせると、張存敬の偵察騎兵が後から到着し、戦闘と退却を十里以上にわたって繰り広げ、甄瓊章を捕らえた。氏叔琮は深い沼地に入り、大将の馬少安を捕らえ、祁州を包囲して皆殺しにし、刺史の楊約を斬り、兵を十日休ませた。王処直は沙河に立て籠もり、張存敬の軍は河の北にいて、戦いを挑んだが、王処直は出ず、河を渡河して戦い、王処直は大敗し、大将十五人を失い、兵士の死者は数万に及んだ。張存敬は武器と甲冑を収容して兵士に供給し、その他は焼き払い、遂に定州を包囲した。王郜は側近の梁汶を斬り、書簡を張存敬に送って、和約を願い出た。にわかに外郭が陥落し、王郜は一族と共に太原に逃走し、王処直に留後を司らせた。朱全忠が到着すると、王処直は「我が国はお上に仕えて不忠であったことはなく、隣国に対して非礼を働いたことはありません。閣下に攻められる恐れはないと思っていました」と挨拶したが、朱全忠は何故李克用に従ったのかを責めた。「太原は古くから兄弟の誼に頼って、友好関係を維持したのは当然ことです。閣下がこのことを罪だと仰せなら、考えを改めてください」と答えると、朱全忠は許した。王処直は従孫を人質とし、節度使の印である持節も捧げ、絹三十万を献上し、牛や酒を備えて軍を労った。張存敬とは和解して帰還した。朱全忠は上表して王処直を節度留後・検校尚書左僕射とした。

  王郜は太原に到着すると、李克用は上表して検校太尉となり、卒した。王処直は、字は允明で、天復年間(901-904)初頭に太原郡王となった。


【鄧処訥伝】
  鄧処訥は、字は沖韞で、邵州龍潭県の人である。若くして江西人の閔頊に従って秋に国境防備のため秋安南に向かった。中和元年(881)に帰還し、潭州を通過すると、観察使の李裕を追放し、諸州防衛の将校を呼び寄せて「天下はまだ定まっていない。今、君らと共に州や邑を守り、天子の命令を待ちたい。どうか」と主張すると皆称賛した。そこで閔頊を推戴して留後とし、朝廷に願い出た。僖宗は蜀にいて、使者を派遣して慰撫した。この当時、撫州刺史の鐘伝が洪州に拠っており、二人の盗賊を互いに争わせるべきだと主張する者がいたから、そこで再び鎮南軍を設置し、閔頊を節度使に抜擢した。閔頊は任命の意味を理解し、任命を受けなかった。改めて検校尚書右僕射・欽化軍節度使となり、鄧処訥を邵州刺史とした。

  朗州武陵県の人である雷満は、もとは漁師で、勇猛果敢で力持ちとして有名であった。当時、武陵の諸蛮がしばしば叛乱をおこし、荊南節度使の高駢は雷満を抜擢して副将とし、蛮軍を鎮めようと高駢と淮南で合流しようとしたが、逃げ帰り、郷里の人の区景思と共に大沼の中で猟をし、亡命してきた少年千人を呼び込み、伍長を任命して部隊を編成し、自ら「朗団軍」と称した。雷満を推戴して軍帥とし、区景思を司馬とし、州を襲撃して、刺史の崔翥を殺害した。詔によって朗州兵馬留後を授けたが、毎年江陵を掠奪し、家や村落を焼き払い、居民を攫った。にわかに武貞軍節度使に昇進した。これより以前、陬渓の人の周岳は雷満と旧知で、そこで狩猟した肉の分配で不仲となって争いになり、雷満を殺そうとしたが失敗した。雷満が州に拠っているのを見て、全軍で衡州に急行し、刺史の徐顥を追放し、詔によって衡州刺史を授けられた。石門峒の酋の向瓌は、雷満が思い通りになっているのを聞き、また夷獠を数千集め、牛を殺して衆を労い、長刀・柘(つげ)の弩を操って州県を掠奪し、自ら「朗北団」と称した。澧州を陥落させて刺史の呂自牧を殺害し、自ら刺史と称した。

  閔頊は強大となり、また統治は慈悲深かった。徐顥が窮地に陥ったことを哀れみ、兵を率いて収容した。向瓌は梅山の十峒獠を呼び寄せて邵州の道を絶ち、閔頊はその陣営を奇襲した。周岳は弱軍で戦いに誘い込み、閔頊は伏兵に引っ掛かり、そのため大敗した。淮西の将の黄皓が閔頊を殺害した。周岳は混乱状態を知って、軽歩兵で潭州に入り、自ら欽化軍節度使と称した。鄧処訥はこのことを聞いて哭泣し、諸将は弔問に訪れた。鄧処訥は「私と君らは僕射に恩義がある。もし一州の兵を合わせて周岳の罪を問うてはどうだろうか」と言うと、軍は「やりましょう」と言い、ここに甲冑を磨いて兵を訓練すること八年もの月日を重ね、雷満と同盟して援軍を得て、周岳を攻めて斬り、自ら留後と称した。昭宗は詔して鄧処訥を武安軍節度使に任じた。

  三日もしないうちに、劉建鋒馬殷の兵が到着し、澧陵を攻撃し、鄧処訥は邵州の豪傑の蒋勛・鄧継崇を派遣し兵三千を率いて龍回関を封鎖した。蒋勛は牛・酒で軍を労い、馬殷は蒋勛に、「劉公の智勇は抜群で、術家も翼・軫の間で勃興するだろうと言っています。今、精兵は十万で、攻めると必ず敵は降り、戦えば必ず勝利を収めてきました。敗軍を収容して軍の兵糧を与えていますが、公は郷兵を集めて関を防御していますが、なんと危ういことでしょうか。降伏するのにこしたことがなく、富貴は得られるでしょう」と説得すると、蒋勛はその通りだと思った。また部下は劉建鋒の残虐さを恐れ、夜に甲冑を棄てて逃走した。劉建鋒は関に到着すると、「これは天意だ」と言い、全員に邵州の旗と鎧を用いて潭州に急行させた。守備兵は蒋勛の軍だと思い、受け入れた。城内に入ると、鄧処訥は酒宴をしているところで、捕らえて鄧処訥を殺した。劉建鋒は蒋勛に褒美を約束したが、まだ与える前に褒美を求める使者を送ってきたから許さず、蒋勛は怒り、鄧継崇を率いて湘郷を攻撃し、邵州を奪取し、進撃して定勝・武安に立て籠もった。劉建鋒は馬殷に諸将を率いさせて攻撃させたが、馬殷は大敗し、江の川岸に逃走した。郷人の夏侯陟は馬殷に迪田に出て奇襲するよう進言し、澗山を越え、江に拠って陣地をつくり、草むらに伏兵し、蒋勛を誘引して江を渡った。蒋勛は兵士がまだ隊列を組んでいないのを見て、我先にと出撃した。馬殷は兵を二手に分けてその陣地を襲撃し、川沿いの部隊には挟撃させると、蒋勛は大敗し、定勝の一陣地を陥落させ、進軍して邵州を包囲した。まだ降伏する前に劉建鋒は死に、馬殷が代わって節度使となった。蒋勛は講和を願い出たが許さず、ついに蒋勛を捕らえて斬った。

  この当時、道州の蛮酋の蔡結何庾、衡州の人である楊師遠はそれぞれ州に拠って叛乱をおこした。宿州の人である魯景仁黄巣に従って盗賊となり、広州に来たが、病によって出られなくなり、千騎で連州に留まり、軍が飢えると、蔡結から兵糧を求め、そこで互いに頼り、州の守将である黄行存と共に工商四・五千人を誘って連州に拠った。郴州の人である陳彦謙は刺史の董岳を殺し、官庫を徴発して兵士を募集し、自ら都統と称し、精兵四千を率いた。零陵の人である唐行旻は黄巣の乱に乗じて、民衆を脅して自ら防衛し、永州を襲撃して、刺史の鄭蔚を殺し、魯景仁と合従し、しばしば馬殷の内情を探るため間諜を送り込み、陣地を固めて防衛した。

  馬殷は将軍の李瓊を派遣して永州を攻撃し、唐行旻を殺した。李瑭は道州を攻撃し、蔡結は峒獠と結んで援軍を得たが、長いこと勝利を得られず、そこで「蛮がたのみとするところは林や薮だけだ」と謀り、そこで大川に駐屯し、山を切り開いて林を焼き払うと、獠は驚いて逃走した。城が陥落し、蔡結・何庾を捕らえると、馬殷は二人を斬った。李瓊は耒陽・常寧に出撃し、郴州を攻撃すると、陳彦謙は出て戦ったが、軍は混乱して陣形を維持できず、陳彦謙は斬られた。進軍して連州を包囲し、魯景仁は城壁の上で防衛したが、三日もたたないうちに、夜にその門を焼き払って入城し、魯景仁は自ら刺して死んだ。

  閔頊の字は公謹である。雷満の字は秉仁である。周岳の字は峻昭である。唐行旻の字は昌図である。


【附、雷満伝】
  雷満は飾り気のない人物で、使者や客人と宴会するたびに、宝器潭を通過すると、「ここは水の宮殿であって、蛟龍がお住みになるところだが、私は潜ることができるぞ」と言い、裸になって水に入り、宝物の器を取り出して出てきた。累進して検校太尉・同中書門下平章事に遷った。天復元年(901)卒した。子の雷彦威が自立した。荊南節度使の成汭が兵を出撃させた隙をついて江陵を襲撃すると、江陵に入城し、楼船を焼き払い、廃墟の村落だけが残り、数千里にわたって無人となった。弟の雷彦恭は、忠義節度使の趙匡凝と結んで雷彦威を追放し、江陵に拠った。しかし趙匡凝は弟の趙匡明と共に江陵を攻撃し、雷彦恭は朗州に逃げ帰った。


【陳儒伝】
  陳儒は、江陵の人である。代々節度使の軍政官を務めた。広明元年(880)鄭紹業が荊南節度使に任命されると、当時、朗州刺史の段彦謩が荊南を根拠地としており、鄭紹業は段彦謩を恐れ、半年以上たってから任地に到着した。僖宗が蜀に逃れると、鄭紹業を召還して行在に帰還させ、段彦謩を節度使の代任とした。段彦謩は監軍の朱敬玫と仲が悪く、朱敬玫を謀殺しようとした。しかし朱敬玫に発覚し、先手を打って兵を率いて幕府に入った時、段彦謩は寝ており、剣を抜いて城壁を伝って自身の信頼する軍の砦に逃げ込もうとしたが入ることができず、段彦謩は「お前ら裏切ったな」と言い、殺害され、側近の役人・幕僚は全員死んだ。朱敬玫は少尹の李燧を留後とし、また段彦謩の罪を誣告した。は宦官の似先元錫・王魯琪を派遣して慰撫し、密かに「もし朱敬玫を誅殺できるなら誅殺し、お前を代任とし、王魯琪を副官とせよ」と戒めた。朱敬玫は大軍で出迎えたから、似先元錫らは行動を起こそうとせずに帰還した。また鄭紹業に詔して節度使としたが、逗留して進まなかった。

  朱敬玫は陳儒を領府事(節度使政務代理)に任命した。翌年、検校工部尚書に遷り、節度使となり、検校右僕射に昇進した。朱敬玫には勇敢な兵三千を有し、「忠勇軍」と号し、非常に凶暴で、陳儒は制御することができなかった。それより以前、鄭紹業は将軍の申屠琮に兵五千を率いて京師を救援し、帰還すると、陳儒は忠勇軍が統治を乱していると報告し、申屠琮に忠武軍の排除を要請した。大将の程君従はこの事を聞いて、軍を率いて澧州に逃亡したが、申屠琮は追撃して百人以上を斬り、軍は潰滅した。後に申屠琮は軍を再編成した。雷満は三度兵で城に迫ったが、陳儒が手厚く報酬を与えて利を得させると去った。

  淮南の将軍である張瓌韓師徳が復州・岳州の二州に拠り、自ら刺史と称した。陳儒は張瓌を行軍司馬に、韓師徳を節度副使に任命し、共に雷満を攻撃しようとした。韓師徳の兵は峡を上って、大いに掠奪して去った。張瓌は兵を率いて陳儒を追放し、陳儒は行在に逃亡しようとしたが、捕らえられて連れ戻され、投獄された。張瓌は滑州の人で、勇猛暴虐にして残忍で、荊州のもと将軍を皆殺しにした。その頃、楊玄晦を朱敬玫と交替して監軍とし、朱敬玫は成都に召還されたが、が過去の罪に対して処罰するのではないかと恐れ、病と称して自ら辞職した。以前よりしばしば大将や富商を殺し、そのため賄賂を蓄え、衣服を虫干しするたびに、きめ細かく光沢のある上質の白絹や美しい模様の刺繍でつくられた豪華な衣服は数えきれないほどであった。張瓌はこれらを見て心を動かされ、兵士を派遣してこれらを奪った。朱敬玫は黄衣を着ており、盗賊に腹を刺されて死んだ。

  秦宗言が来襲すると、馬歩使の趙匡が陳儒を推戴して城から出ようとしたが、張瓌に発覚し、趙匡を殺して陳儒の食事を絶やし、七日して陳儒は死んだ。張瓌は城を固守すること二年、兵糧・飼料はすべて尽き、米一斗あたり銭四万にもなり、一粒づつ数えて食べたから、「通腸(腸内洗浄)」と号した。病気で死ぬ者がいると、その死体を奪い合って食べ、首を戸に懸けて兵糧に備えた。軍中の甲冑や太鼓も残存するものはなく、夜に門を叩いて警備とした。秦宗言は城を降すことができず、解囲して去った。二年して、秦宗権趙徳諲を派遣して張瓌を攻撃し、張瓌は救援を帰州刺史の郭禹に求め、郭禹は峡州刺史の潘章を率いて解囲した。翌年、趙徳諲が再び到着すると、諸将は戦闘に疲弊し、城は遂に陥落し、張瓌は死んだが、誰も張瓌だと気付かず、死体は他の者と共に井戸に投棄された。復州長史の陳璠は張瓌に従って江陵に来た者であったが、密かに張瓌の首を斬って袋の中に入れ、京師に走って献上し、安州刺史を授けられた。


劉巨容伝】
  劉巨容は、徐州の人である。徐州で大将となった。龐勛が叛乱を起こすと、脱出して朝廷に帰順し、埇橋鎮遏使に任命された。浙西の突陣将の王郢が叛乱を起こし、明州を攻撃すると、劉巨容は筒箭(仕込み矢)を射ると王郢が死に、功績によって明州刺史を拝命し、楚州団練使に遷された。

  黄巣が江淮で叛乱を起こすと、蘄黄招討副使に任命され、襄州行軍司馬・検校右散騎常侍に遷った。黄巣が荊南に拠ると、にわかに山南東道節度使に遷されて黄巣を防ぎ、団林に駐屯した。江西招討使の曹全晸は劉巨容と共に荊門関を防衛し、賊と戦うと、劉巨容は敗北を偽り、黄巣が追撃してくると、伏兵が木陰の間から起き上がり、賊は大敗し、賊将十三人を捕らえ、一舎(16km)ほど転戦すると、捕虜は数えきれないほどであった。黄巣は江に舟を浮かべて東に逃走すると、劉巨容は追撃し、捕虜十人中八人を得た。功績によって検校礼部尚書となった。諸将は勝利に乗じて追撃して黄巣を斬ることを望んだが、劉巨容が「朝廷には恩知らずの者が多い。危難の時には官位や褒賞を惜しんで与えず、叛乱が平定されると忘れてしまう。賊を生かしておいて富貴を得て土地を得られるにこしたことがない」と言って止めると、諸将はその通りだと思い、そのため黄巣は再び勢いを取り戻した。両京(長安・洛陽)が陥落すると、劉巨容は諸道の兵が合流して黄巣を討伐し、南面行営招討使を授けられ、累進して天下兵馬先鋒開道供軍糧料使・検校司空を兼任し、彭城県侯に封ぜられた。

  劉巨容は吏務・統治に優れた。当時、僖宗が蜀にいて、公卿の多くは劉巨容によって護衛されて行在に赴いた。山南西道節度使の鹿晏弘が禁軍に追われると、麾下を率いて東は襄州・鄧州に出た。秦宗権趙徳諲を派遣して鹿晏弘の兵と合流して襄州を攻撃したから、劉巨容は守ることができず、成都へ逃亡した。

  それより以前、揚州の人である申屠生が黄金に変えることができ、高駢は申屠生を客人としたが、呂用之に謗られ、襄州・漢州に逃亡した。高駢は役人を派遣して捕縛できたが、申屠生は劉巨容に会うと自ら黄金に変える術があると言い、劉巨容は留めて高駢の元に送致しなかった。田令孜の弟が襄州に逃れると、劉巨容は金を出して自慢した。劉巨容が蜀に逃れると、申屠生を匿い、術を伝授することを阻止したから、田令孜は恨んだ。龍紀元年(889)、劉巨容を殺し、その一族を皆殺しにし、申屠生も一緒に死んだ。


【附、馮行襲伝】
  劉巨容の部将である馮行襲は、均州武当県の人で、智謀と勇敢さによって郷里で称えられていた。中和年間(881-885)初頭、郷豪の孫喜が民衆数千人を集め、城を攻めようと謀った。馮行襲は江隩で伏兵し、舟一艘で迎え喜んで、「均州の人々は将軍が来られることを長い事待ち望んでおりました。将軍の兵たちが多いと必ず掠奪が起こるので、軍を江の北に留めて、軽騎兵で進めば、我々が道案内しますから、城は降るでしょう」と言うと、孫喜は信じた。江を渡河した後、役人が出迎えると、伏せていた甲冑を着た兵士が立ち上がり、馮行襲は孫喜を攻撃して斬り、軍はすべて潰滅した。馮行襲は勝利に乗じて均州刺史の呂燁を追放し、均州に拠り、劉巨容はそのため上表して馮行襲を均州刺史とした。

  にいた時、帝の傍らの右側には長山があり、襄州・漢州の貢道であったが、大賊が険阻の地に拠って献上品を掠奪しており、馮行襲は大賊を平定した。武定節度使の楊守忠は上表して行軍司馬とし、兵を率いて谷口を遮断させ、これによって秦・蜀を通行した。鳳翔の李茂貞の養子の李継臻は金州に拠ったが、馮行襲は攻撃して陥落させ、昭宗はそこで金州防禦使を授けた。当時、山南西道節度使の楊守亮が京師を襲撃しようとし、金州・商州間を通行したが、馮行襲は迎撃して打ち破り、戎昭軍節度使に抜擢された。朱全忠が鳳翔を包囲すると、神策軍中尉の韓全誨が宦官二十ばかりを派遣して江・淮の兵が金州を通過しようとしたが、馮行襲は朱全忠に服従したばかりであり、全員を殺害し、詔書を手に入れて朱全忠に送った。

  天祐二年(905)王建は将軍の王思綰を派遣して馮行襲を攻撃し、その兵を破り、金州の大将である金行全が出て降伏し、馮行襲は均州に逃走した。王建は金行全を養子とし、名を王宗朗と改め、観察使を授け、渠州・巴州・開州の三州を隷属させた。王宗朗は守ることができず、郊外を焼き払って去った。朱全忠は馮行襲では王建を防ぐには不足であり、別将を派遣して金州に駐屯させた。馮行襲は戎昭軍を均州に移し、金州・房州を隷属するよう提案した。朱全忠は金州の人々が馮行襲を嫌っているから、馮恭に金州を統治させ、防禦使を止めて戎昭軍を廃止した。


【趙徳諲伝】
  趙徳諲は、蔡州の人である。秦宗権に従って右将となり、黄巣を討伐した功績によって申州刺史を授けられた。光啓年間(885-888)初頭、秦誥鹿晏弘と共に兵を合わせて襄州に侵攻し、節度使の劉巨容は成都に逃走した。秦宗権は趙徳諲を山南東道節度留後に任じて、荊南に進攻し、ことごとく財貨を奪い、裨将の王建肇に守らせたが、残った人々はわずか百屋に過ぎなかった。翌年、帰州刺史の郭禹が侵攻してきたが、郭禹を受け入れ、王建肇は黔州に逃走した。趙徳諲は荊南を失うと、また秦宗権は必ず敗れると考え、地をあげて朱全忠に従った。朱全忠は蔡州四面行営都統であり、そこで上表して自らの副官とし、忠義軍節度使を加えた。秦宗権が平定されると、中書令を加えられ、淮安郡王に封ぜられた。卒した後、子の趙匡凝が嗣いだ。


【附、趙匡凝伝】
  趙匡凝は、字は光儀で、唐州刺史から山南東道節度留後となり、昭宗は節度使を授けた。三年もしないうちに威勢と善政で有名となった。累進して検校太尉兼中書令に遷った。趙匡凝は威厳と風格を備え、常に自ら手本となるよう行動した。

  朱全忠が清口で敗れると、趙匡凝は奉国節度使の崔洪・河東節度使の李克用・淮南節度使の楊行密と共に兵を合わせて朱全忠を攻撃する盟約をした。その時、方城鎮遏使の度軫が朱全忠の元に逃走し、その策謀を暴露した。朱全忠は書簡を送って責め立て、氏叔琮に唐州を攻撃させ、刺史の趙匡璠は降伏した。進撃して隋州を包囲し、刺史の趙匡璘を捕らえ、斬首は五千級で、鄧州を陥落させて、刺史の国湘を捕らえた。趙匡凝は恐れて、同盟を結ぶよう願い出た。

  朱全忠は麾下の将軍である陳俊・王紳を氏叔琮の軍に送り、崔洪は拘束したが、王紳は逃亡して帰還した。崔洪は楊行密と共に朱友恭の軍を迎撃しようとしたが勝てず、ちょうど、河東の客人の伊超が淮南から帰還しようと蔡州を通過したが、崔洪は同じく拘束し、これにより陳俊と一緒に朱全忠の元に送致したが、部下の将軍が過酷に扱ったことを理由に釈放したから、兄の崔賢を人質に送ったが、朱全忠は崔賢を送り返したから、崔洪の子を汴に人質にした。朱全忠は崔賢に蔡の兵二千を動員して守備に出させた。出兵しようとした時、大将の崔景思は不快に思い、崔賢を殺害した。崔洪は朱全忠を恐れ、民を追い立てて申州に走らせ、遂に楊行密の元に逃亡し、麾下の者はそれぞれ百里以上にも連なった。武昌軍節度使の杜洪は迎えたが、時すでに遅く、蔡の兵士は多くが逃亡してしまい、従う者はわずか二千人に過ぎなかった。

  天祐元年(904)、趙匡凝を楚王に封じた。当時、諸道はお上に朝貢を供さず、ただ趙匡凝のみが毎年天子へ貢納した。朱全忠は天下を手に入れようとしており、人を派遣して貢納を止めるよう諭したが、趙匡凝は涙を流して「私は国の藩屏だ。どうして他の望みなぞあろうか」と言うと、副使の王筠が朱全忠と断絶するよう勧めたから、朱全忠は怒り、出兵して攻撃してきた。弟の趙匡明軍を鄧州にて大いに破り、そこで趙匡凝に王建と同盟を結ぶよう勧めた。荊南節度使の成汭が敗れると、趙匡凝は江陵を奪取し、趙匡明を荊南節度留後とするよう上表すると、詔によって検校司徒・荊南節度行軍司馬を拝命した。

  朱全忠は趙匡凝の兵を分断できると思い、そこで楊師厚に趙匡凝を攻撃させ、自らは中軍を率いて続き、臨漢に陣を敷いた。趙匡凝は謝罪の説客を派遣したが、捕らえられてしまった。荊南からの援軍は敗れ、その将軍は捕虜となった。朱全忠は長江に沿って南下し、楊師厚は山の北の谷に赴き木を伐って橋とした。趙匡凝は兵二万で長江に迫って戦ったが大敗し、そこで州を焼き払い、一艘の舟で夜に揚州へと逃亡した。楊行密は面会すると、「君は鎮にいたとき、軽車と重馬を賊に送っていたが、今敗北したのに私のところに来たのか」と言った。王筠は自殺した。朱全忠は楊師厚を山南東道節度留後とし、遂に江陵へと向かった。趙匡明も同じく淮南へ逃げようとしたが、子の趙承規が「昔、諸葛兄弟は分かれて二つの国にそれぞれ仕えました。もし揚州に行ったなら、疑いを招くだけでしょう」と諌めたから、趙匡明はその通りだと思い、そこで成都に逃げると、王建の待遇は賓礼による丁重なもので、武信軍節度使に任じられ、その軍を分けて崇義・勇義・順義・廣義の四都とした。朱全忠は遂に荊南を領有した。


【楊守亮伝】
  楊守亮は、曹州の人で、本姓は訾、名は亮である。弟の訾信と共に王仙芝に従って盗賊となった。訾亮の身長は七尺以上、色は鉄のようであった。王仙芝が死ぬと、また徐唐莒、洪州・饒州の二州を掠奪した。楊復光が江西を平定すると、兄弟を見出し、養って仮子とし、訾信を弟の楊復恭の家に養わせ、名を楊守亮・楊守信とした。楊復恭は京師を回復した。楊守亮は数々の戦いでの功績により、山南西道節度使・検校太保を拝命し、楊守信は興平軍節度使とし、二人とも同中書門下平章事となった。楊復恭はまた仮子の楊守貞を龍剣節度使とし、楊守忠を武定軍節度使とし、楊守厚を綿州刺史とした。

  それより以前、朱玫が興州・鳳州を占領したが、虢州刺史の満存が兵を率いて行在に赴き、二州を回復すると、昭宗は抜擢して感義軍節度使とし、検校司徒・同中書門下平章事に任じ、楊復恭の四仮子および利閬観察使の席儔らと共に王建を攻めた。王建の軍はすでに楊晟を包囲しており、軍を分けて楊守厚に迫り、軍がまだ陣列を整える前に破った。これより以前、楊守貞楊守忠は王建の兵が出撃すると聞き、軍を脱走して綿州に逃走し、力を合わせて共同で東川を攻撃したが勝てなかった。王建の将軍の華洪が兵一万人を率いて綿州の郊外に陣を敷き、楊守忠・楊守厚を破り、二人は道を分かれて行き、敗軍を収容して閬州に走った。

  それより以前、楊復恭が敗れると、楊守亮を頼った。しかし鳳翔節度使の李茂貞・邠寧節度使の王行瑜・鎮国軍節度使の韓建らは共に楊守亮が謀反人を匿っていると弾劾し、節度使の兵で討伐するよう要請した。李茂貞は自ら興元節度使となり、書簡によって宰相を譴責した。はそのため楊守亮の官爵を削り、李茂貞に詔して断罪させた。満存は救援に来たが勝てず、軍を率いて興元府に入った。李茂貞は興州・鳳州・洋州の三州を陥落させ、楊守亮を西で破り、勝利に乗じて興元府に入った。楊復恭は仮子たちや満存と共に閬州に逃走した。華洪は進撃して包囲した。帝は徐彦若を鳳翔節度使とし、興元節度使を李茂貞に授けた。李茂貞は任命を受けず、帝はそこで李茂貞の子の李継密を興元節度使とした。

  間もなく、華洪が閬州を陥落させ、楊守亮らは全員身一つで逃走し、北は太原に逃げようと、商山に向かったが、飢えが甚だしく、食を野に請うたが、警備兵によって捕縛された。韓建に面会すると、楊守亮は韓建の周り八百人が全員いつも自分に従っていた者であったのを見出し、韓建に向かって、「この部下は私が平素から大切に扱い養ってきた者ですが、誰一人として私の為に死ぬことはありません。公は無駄に衣食を費やさず、殺してしまうのにこしたことがありません」と言うと、韓建は同意した。また「公は幸いにも私の命をお助けくださり、生きて天子にお会いさせていただけましたら、先人の功績を述べ、万が一にも死ななくてよいかもしれません」と言ったから、韓建は檻車で楊守亮を京師に送致すると、役人は帛(しろぎぬ)で縛り、口の中に球を入れた。延喜楼に臨御して叛いた理由について問いただしたが、楊守亮は語ることができず、ただ頷くだけであった。楊守亮の側近は自白して罪に服したから、そこで捕らえて太廟に献じ、独柳の下で斬り、市で首級を晒した。楊守厚は巴州で死に、麾下の兵の多くは王建に帰順した。満存は京師に逃れ、左武衛大将軍となった。


【楊晟伝】
  楊晟は、宗族・家系は不明である。鳳翔軍に属し、節度使の李昌符はその勇猛さを恐れ、殺そうとしたが、妾の周氏は暴露して逃亡させ、神策軍に属して都校となった。僖宗が陳倉にいた時、邠寧の朱玫は一万騎を派遣して李昌符と合流して行在を追撃してきたから、そこで楊晟を抜擢して感義軍節度使・検校司空とし、大散関を守備させた。朱玫の兵が関を攻撃すると、楊晟は何度も退け、潘氏県で戦ったが、遂に大敗し、僖宗も民衆も意気消沈した。はさらに興元に遷り、楊晟は西に逃走すると、朱玫は興州・鳳州の二州を奪取した。楊晟は文州を襲撃して刺史を追い払い、成州・龍州・茂州等の各州を占領した。

  王建が成都を攻めると、田令孜は楊晟がもと部下の将軍であったから、同盟を結び、威戎軍節度使に任じ、彭州を守らせた。楊晟は王建を攻撃したが、成果をあげることがなく引き返した。また王建が自分を陥れようとしていると恐れ、そこで山南西道節度使の楊守亮兄弟と共謀して王建に対抗し、新繁県を掠奪し、漢州を焦土と化し、東川の顧彦暉を攻めたが、王建の兵に駆逐された。王建は王宗裕に騎兵五万を率いさせて楊晟を包囲し、付近の麦を食いつくし、民の財産を掠奪した。楊晟の仮子の楊実は騎兵八千と共に王建に降伏し、王建は楊守厚らを奇襲攻撃し、全員が逃亡した。楊晟は門を開いて決戦を挑んだが大敗し、遂に降伏を約束した。王建は羊十頭を贈ると、楊晟は「私を机の上の肉にするのか」と言って城から出なかった。王建は甬道(左右に壁のある道)を造って陣に入らせ、楊晟の首を斬った。

  柳晟は真心があり、部下は恩義を感じ、城中の食糧が尽きても、叛く者はいなかった。それより以前、李昌符が死ぬと、楊晟はその妾の周氏を得て、母のように仕え、周氏は妻とするよう願ったが、楊晟は固辞し、朝も夕も安否を尋ねてから執務をした。将軍の安師建という者を可愛がり、安師建は勇敢でかつ礼儀正しかった。安師建は捕らえられると、王建は「お前は楊司徒に充分報いた。今度は私に従わないか」と言ったが、「司徒とは生死を同じくすると誓いました。仇であるあなたと同じ太陽や月の下にいることは耐えられません」と言い、三度要請したが聞き入れなかったから、遂に安師建を殺した。


【顧彦朗伝】
  顧彦朗顧彦暉は、豊州の人で、二人とも天徳軍の下級商工となった。天徳軍節度使の蔡京が兄弟に侯に封ぜられる人相があったから、手厚く礼遇し、子に贈り物をさせ、次第に昇進していった。黄巣が長安を乱すと、軍を率いて京師を回復した。

  顧彦朗は累進して右衛大将軍に遷った。光啓年間(885-888)、抜擢されて東川節度使・検校太保・同中書門下平章事に任じられた。剣門に到着すると、陳敬瑄の役人は節を奪ったから、顧彦朗は入ることができず、利州に拠った。陳敬瑄は顧彦朗が勝手に兵を起こして西境を侵略していると誣告した。僖宗は詔を下して講和させ、そこで軍に着任することができた。顧彦暉は漢州刺史に任じられた。

  それより以前、楊守亮は壁州刺史の王建が凶暴であることを憎んで、追放したいと思った。王建はそのことを聞いて、渓洞(苗族)の首領と連合して閬州を奪取し、利州を攻撃し、刺史は逃走し、そこで閬州・利州の二州に拠ったから、楊守亮は制御できなくなった。顧彦朗は王建と旧友で、密かに財産を援助した。王建は成都を攻撃すると、顧彦朗は陳敬瑄に対して過去の恨みがあったから王建に加勢し、道路を遮断した。陳敬瑄は朝廷に危難を報告し、は和解するよう詔し、また李茂貞に勅して懇切に説諭させた。


【附、顧彦暉伝】
  顧彦暉が卒すると、顧彦暉は自ら知留後となった。翌年節度使となった。宦官が節を授けに行くと、綿州刺史の楊守厚に拘留された。楊守厚は兵を発して梓州を攻め、顧彦暉は王建に救援を要請し、王建は李簡を派遣して救援させたが、「賊を破ったら、一緒に顧彦暉も捕らえよ。そうすれば二度と救援に行く必要がなくなる」と訓戒し、李簡は楊守厚軍を破ると、顧彦暉は病と称したから、捕らえることができなかった。王建はもとより併呑しようとする思いがあったが、顧彦朗とは通婚関係にあったから、長い事併呑するには忍びなかった。顧彦暉の時代になると、そこで交流はますます疎遠となり、国境において関税で互いに尋問し合うと、王建は怒った。景福元年(892)、遂に顧彦暉を攻撃した。顧彦暉は楊守亮に救援を要請し、楊子彦を派遣して梓州を守らせ、王建の大将の王宗弼を捕らえた。顧彦暉は「王公はどうして私を討伐されたのか。君は大将なのだから、諌めなかったのか」と責めると、王宗弼は謝罪し、そこで縛めを解き、館を与え、天幕・寝具・衣服が与えられ、養子とし、王琛と改名した。翌年、王建は将軍の華洪を派遣して綿州を破り、楊守厚は敗走し、顧彦暉の節を入手した。その時、詔によって顧彦暉は検校司空・東川節度使に昇進した。

  乾寧二年(895)昭宗が石門にいた時、顧彦暉・王建に行在に来るよう命じた。王建は兵二十万を率いて綿州に行き、直ちに顧彦暉が輜重部隊を掠奪したと弾劾し、顧彦暉に反撃した。顧彦暉は出撃しようとせず、ただ人を派遣して王建の舟の水路を閉塞させたが、王建は遂に巴州・閬州・蓬州・渠州・通州・果州・龍州・利州の八州を攻撃・奪取した。は宦官を両川宣諭協和使に任じて派遣した。王建は詔を奉って帰還したが、兵は解かなかった。顧彦暉は計略に行き詰まり、そこで漢州・眉州・資州・簡州等の州を大掠奪した。李茂貞も同地の争奪戦に加わり、子で興元節度使の李継密に軍を率いて顧彦暉を救援させ、軍は東川に迫った。乾寧四年(897)華洪は軍五万を率いて顧彦暉を攻撃し、渝州・昌州・普州の三州を奪取し、梓州の南に陣を敷き、顧彦暉の兵を破って、甲冑・馬八百を奪い、約五十戦して、遂に包囲して固めた。帝は左諌議大夫の李洵を派遣して停戦を説諭させたが、王建は命令を拒んだ。帝は嗣郯王李戒丕を鳳翔節度使とし、李茂貞を遷して王建の代任としたが、全員詔を聞かなかった。

  梓州に鏡堂があり、世間にはその壮麗さを称えられていたが、顧彦暉はかつて諸将を鏡堂に集め、養子の顧瑤が最も信頼されており、顧彦暉は佩剣に「疥癆賓」と名付けて佩刀しており、自らの傍らに置いていた。かつて諸将に向かって、「君らと生死を同じくしよう。違う者はまず「疥癆賓」で切り刻む」と言うと皆が「わかりました」と言った。包囲が厳しくなると、顧瑤は親族や信頼する者を集めて宴会し、一緒に死ぬよう願い出た。顧彦暉は王琛に向かって、「お前は私の古くからの知己ではない。死んではならん」と言い、崩れた垣根を指さして逃れさせた。顧彦暉は手づから妻子を殺して自刎し、宗族・諸将は全員死んだが、それでもなお麾下の兵は七万もいた。

  それより以前、韋昭度が招討使となると、顧彦暉・王建は二人とも上級将校となった。顧彦暉は温厚で儒者のようであり、王建は左右の髪は刑罰で剃られて顔には入れ墨があって鬼のようであったから、見た者は全員笑った。ここに至って笑った者を記録して全員殺害した。勝手に華洪を東川節度留後に任命した。


【賛】
  賛にいわく、『詩』に「さとしてもさとしても分からぬ西や北のえびすどもは、これをば討ち平らげ、南の野蛮な楚や舒の国々は、これをばうち懲らしめる(『詩経』魯頌 駉之什 閟宮)」とあるのは、中国に害を及ぼした恨みをあらわしている。春秋の時代、楚は陳・鄭を滅ぼしたが、ついにその祭祀を復活させ、聖人はこれを称賛した。王処存黄巣を平定し、京師を定め、功績は諸将に冠たるものがあった。昭宗はかつて都を襄陽に置こうと考え、趙凝を頼って自らを守ろうとした。しかし大抵の唐室の藩屏は、すべて朱温に滅ぼされ、夷狄や南の野蛮な楚や舒による被害を上回ったことは、なんと酷いことだろうか。


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最終更新:2026年09月06日 01:08
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