唐書巻二百二十四下
列伝第一百四十九下
叛臣下
李忠臣 喬琳 高駢 朱玫 王行瑜 陳敬瑄 李巨川
李忠臣は、もとは董秦といい、幽州薊の人である。幼い頃から軍籍にあり、自身の力によって奮闘し、節度使の
薛楚玉・
張守珪・
安禄山らに仕え、功績を積んで折衝郎将となる。平盧軍先鋒使の
劉正臣が偽節度使の
呂知誨を殺すと、秦は兵馬使に抜擢され、長楊を攻め、独山で戦い、楡関・北平を襲撃して、賊将の申子貢・栄先欽を殺し、周釗を捕らえて京師に送った。劉正臣に従って難に赴き、また
李帰仁・李咸・白秀芝らを破った。潼関は陥落し、秦は軍を集結して北に還った。奚王の阿篤孤ははじめ衆を率いて劉正臣と合流したが、すでに約束をあざむいて皆范陽を攻撃し、后城に至り、夜間に乗じて秦を襲撃したが、秦は接戦してこれを破り、逃げる敵を追撃して温泉山に至り、首領の阿布離を捕虜とし、斬って犠牲として捧げた。至徳二載(757)、節度使の
王玄志は秦をして兵三千を率いさせ、雍奴より葦船で海を渡り、賊将の石帝廷・烏承洽を攻撃し、転戦すること数日、魯城・河間・景城を陥落させ、糧食・軍費を収めて軍を実らせた。また
田神功とともに平原・楽安に下り、偽刺史を捕虜として献上した。ここにおいて防河招討使の李銑承は制して秦を任じて徳州刺史とした。
史思明が自ら帰順すると、河南節度使の
張鎬は秦の軍を率いて諸将と平河南州県で合流し、副将の
陽恵元とともに
安慶緒の将の
王福徳を舒舎で破り、粛宗は詔を下して褒め称えた。濮州も駐屯させ、また韋城に移った。
郭子儀に従って相州を包囲したが、軍は潰滅し、秦は滎陽に至って、賊将の
敬釭を破り、食料運輸舟二百艘を鹵簿して汴軍の兵糧とした。しばらくもしないうちに、濮州刺史を授けられ、杏園渡に駐屯した。
許叔冀が汴州とともに史思明に降伏し、秦も力を尽くしたものの屈し、また降伏した。史思明は背を撫でて、「始めて私に我が左手ができた。公を得て今完全となった!」と言った。ともに河陽に侵攻したが、秦は夜に五百人を率いて包囲をおかして
李光弼に帰順し、詔して殿中監を加えられ、封戸二百となり、召喚されて京師に赴き、今の氏名を賜り、良馬・甲冑を賜った。当時、陝西・神策両節度使の
郭英乂・
衛伯玉が陝州に駐屯しており、そのため李忠臣を両軍兵馬使として、永寧・莎柵で戦い、賊将の李感義らと数十回戦ったが、すべて破った。淮西節度使の
王仲昇は賊のために捕虜となると、忠臣は汝州・仙州・蔡州などの六州節度使となり、安州を兼任した。諸軍平東都を合わせ、御史大夫に進んだ。
回紇可汗が帰還すると、その部下の安恪・石帝廷を留めて河陽に居らせて宝蔵を守らせ、これによって亡命して盗賊となる事態を招いてしまい、道路は塞がれた。忠臣に詔してこれを討伐させた。吐蕃が京師を侵犯すると、天子は兵を出して追撃させようとした。秦(李忠臣)はまさに鞠場で宴しようとしているときに使者が至り、そこで軍を整えて出撃した。諸将は、「出撃は吉日を選ぶべきです」と言ったが、忠臣は怒って、「君父に難があるのに、まさに日を選んで患いから救えるのか?」と言った。当時、兵を招集したが、忠臣より先に来た者はいなかった。代宗は喜び、本道観察使を加え、賜物は非常に多かった。
周智光が部下に殺されると、忠臣は兵を率いて華州に侵入し、通過したところを大掠奪し、赤水より潼関までの二百里は無人となった。大暦五年(770)蔡州刺史を加えられた。陝虢の
李国清が部下のために追われ、府庫が掠奪されると、李国清はもっぱら反した諸将に辞を低くして免れた。たまたま忠臣が入朝しようとし、陝州に至ると、衆を尋問するよう詔があった。衆は忠臣を恐れ敢えて刺激せず、そこで茨で囲んで、兵士らに約束して掠奪した物を囲んだ中に投げさせると、一日でほとんどを得た。
李霊耀を討とうと、西梁固で戦ってこれを破った。また
馬燧の軍と合流して、賊を汴州で破った。
田悦が李霊耀への援軍三万をもって汴郛に駐屯すると、忠臣は副将の李重倩を率いて夜に百騎で襲撃し、その軍営を蹂躙して帰還し、数百数十人を殺した。田悦が間道から逃げると、李霊耀は開城して逃げ去り、軍は遂に潰滅した。忠臣を汴州刺史とし、検校司空・同中書門下平章事を加え、西平郡王に封じられた。
忠臣の性格は貪欲かつ好色で、将兵の婦女が迫られて関係を結ばされ、至る所の人々がこれに苦しんだ。妹婿の張恵光を用いて牙将としていたが、勢力を恃んで残酷であった。ある者が忠臣に告げたが信じることがなかった。また張恵光の子を牙将としたが、ますます専横がひどかった。大暦十四年(779)、大将の
李希烈は張父子の専横に軍が怒っていることから、少将の丁暠・賈子華らとともに張恵光父子を斬り、兵で脅して忠臣を追放した。京師に逃げ、帝はもとよりこれを寵愛して責めることはなかった。また検校司空・同中書門下平章事(宰相)を授け、帝に謁見した。
徳宗が即位すると散騎常侍の
張渉が贈賄によって罪を得て、帝は怒って赦さなかった。張渉はもと徳宗の東宮時代の侍読であったから、忠臣は、「陛下は貴く天子となられましたが、先生は貧しいから法に触れました。やりすぎではありませんか」と言い、帝は意を理解し、張渉を許して田里に帰らせた。湖南観察使の
辛京杲は私怨のため部下に張渉を殺させた。役人は弾劾して死罪にあたると言った。忠臣は、「辛京杲はただちに死ななければならない」と言った。帝がその理由を聞くと、「辛京杲の父はどこそこで戦死し、兄弟もどこそこで戦死しましたが、彼一人だけが生きながらえています。だからなのです」と答えたから、帝は悲しみに沈んで悟り、辛京杲を許して王傅の官職を除いた。
忠臣は馬鹿正直で書物に通じていないから、帝はかつて、「卿の耳は大きいが、真に貴い兆しだな」と言うと、「臣は驢馬の耳は大きく、龍の耳は小さいと聞いています」と答えたから、帝はその粗野でありながら至誠であるのを喜んだ。しかしすでに兵を失い、気持ちが塞いであれこれ顧みなかった。
朱泚が叛くと、朱泚によって偽の司空兼侍中に任命され、朱泚が奉天を攻めている間、忠臣は長安を守った。朱泚が敗れると、役人に拘束され、その子と共に斬られた。
喬琳は、并州太原の人である。幼い頃から身寄りもなく苦労したが学を志し、進士に及第した。性格は作法なくほしいままにしていた。
郭子儀が上表して朔方府掌書記となったが、
畢曜と家が隣通しで罵りあい、巴州司戸参軍に左遷された。果州・綿州・遂州・懐州の四州の刺史を経て、おおらかに統治し、私にすることはなかった。かつて録事参軍の任紹業に「あなたは一州を綱紀するのに、刺史たる私を弾劾できますか?」と言うと、任紹業は琳の過失の条文を出して提示した。驚いて、「あなたはよく私の過失を知っていますね。御史となるべき人材です」と言った。
琳はもとより蒲州の人
張渉と親しかった。張渉は国子博士で太子の侍読となり、太子が即位すると、召されて政務を尋ねられた。数日もしないうちに、詔して翰林に入り、散騎常侍に移り、琳を宰相に任じるよう推薦したから、そこで御史大夫・同中書門下平章事(宰相)を拝し、天下は愕然とした。琳は年老いてかつ耳が聞こえなかったから、奏進するごとに失態を重ね、言上することは帝の意思にかなわななかったから、在任八十日で工部尚書に転任となって宰相を罷免された。帝はそのため張渉も罷免した。
琳は徳宗の奉天への行幸に従い、再び太子少師となった。梁州、次に盩厔に行幸していたが、詭いて馬が殆んど進まないと言った。帝はもとより旧老として礼遇していたから、輿馬に乗ることを許したが、病のため働けないとして辞退し、帝は執策を賜って、そこには「勉めて良きはかりごとをしなさい。卿と別れるのだ!」と書いてあった。数日もしないうちに、剃髪して仙遊寺に留まった。
朱泚がこれを聞くと、数十騎を遣わして琳を捕らえ、吏部尚書に任じて、姻家の
源休をして衣を朝服に着替えさせ、肉を食べさせ、琳もまた辞退しなかった。士が官に人選が穏便ではないと申したが、琳は「お前はそもそも人選が穏便だと思っていたのか?」と言った。京師が回復すると、
李晟は琳が老人なのを憐れんで、上表して死を免れるよう願った。帝は、「琳はもと宰相であったのに、節を失い義に叛いた。赦してはならない」と言った。琳は刑に臨んで、「私は七月七日に生まれ、この日を以て死ぬ。天命ではないのか?」と嘆いた。
当時、また
蒋鎮なる者がいて、
蒋洌の子であり、兄の
蒋錬とともに文辞で有名であった。賢良方正科に抜擢され、諫議大夫に累進した。大暦年間(766-779)、長雨のため黄河が決壊して塩池に注いでしまい、味がまずくなってしまった。
韓滉は判度支であり、塩税が減ることを考慮して、池に瑞塩が生え、王徳の美祥であると妄言した。代宗は疑っていて、そうではないと思っていたから、鎮に命じて駅伝で馳せて査察させた。鎮は心内では韓滉との結びつきを求めており、そのためそ事実であるとし、上表して祠を設置し、池を「宝応霊慶」と名付けたという。再び工部侍郎に昇進した。妹婿の
源溥は、
源休の弟であり、そのため鎮と源休は交流があった。
朱泚が叛くと、鄠州に逃げたが、足に怪我をして進むことができなかった。朱泚は先んじて兄の蒋錬を得て、鎮の左右の者は逃げ帰り、所在を語った。源休は聞いて朱泚に言い、二百騎で捜索して鎮を求め得た。知っていても免れず、懐に刃をしのばせ自ら刺そうとしたが、兄の蒋錬に止められた。また出奔しようと謀ったが、臆病のため決行しなかった。朝臣で逃げ隠れした者は、源休によって多数が誅殺され、鎮を頼って救いを求めた者は十五人にのぼった。それより以前、
蒋洌と弟の蒋渙は安史の乱にあって、皆偽朝の官に汚れ、蒋錬・蒋鎮兄弟もまた節を賊に屈したという。
高駢は、字は千里で、南平郡王
高崇文の孫である。家は代々宮中を守り、幼い頃から大変に行いを正して身を慎み、時折文学をなし、諸儒と交わり、かたくなに治道を語り、両軍の中人はさらに称えてこれを褒めた。
朱叔明に仕えて司馬となった。二羽の鵰(鷲)が並んで飛んでいたが、駢は、「我が高貴となるのなら、当たれ」と言うと、一発で二匹の鵰を貫いた。衆は大いに驚き、「落鵰侍御」と呼んだ。後に右神策軍都虞候を歴任した。党項が叛くと、禁兵一万人を率いて長武を守った。この時諸将に功績がなく、ただ駢がしばしば奇策を用いたから、敵を殺したり捕虜とするのが非常に多かった。懿宗は喜び、移して秦州に駐屯させ、そこで刺史兼防禦使を拝した。河州・渭州の二州を取り、鳳林関に侵攻して、降伏した敵一万人あまりを得た。
咸通年間(860-874)、帝はまさに安南を回復しようとし、駢を都護とし、京師に召喚し、霊台殿で謁見した。ここに容管経略使の
張茵は討賊しなかったから、さらに張茵の兵を駢に授けた。駢は長江を過ぎ、監軍の李維周と合流して引き続き前進した。李維周は軍を擁して海門に立て籠もり、駢は峰州に行き、大きに南詔蛮を破り、獲たところを軍に供給したが、李維周はこれを嫌って、戦勝報告を隠蔽して奏上しなかった。朝廷は駢の百日あまりの状況がわからず、詔して状況を問いただした。李維周は駢が敵を弄んで進まないと弾劾し、さらに右武衛将軍の
王晏権に命じて往かせて駢に代わらせようとした。にわかに駢が安南を陥落させ、蛮帥の段酋遷を斬り、諸洞二万人ばかりを降伏・帰順させた。王晏権は李維周とともに海門を発し、駢に激励して北に帰った。しかし駢は王恵賛を遣わして酋遷の首を京師に伝えさせたが、軍船を見るととても盛んであり、そのため王晏権らは、王恵賛がその書を奪うことを恐れ、島中に隠した。関を通って京師に至った。天子は書を見て、
宣政殿に御して群臣は皆祝賀し、天下に大赦した。駢を昇進させて検校刑部尚書とし、そこで安南を統治させ、都護府を静海軍とし、駢に節度使、兼諸道行営招討使を授けた。はじめ安南城を築いた。安南より広州まで、江の送漕は険しく、巨石が多かったから、駢は工を募って工事して削り、これによって舟は安全に航行でき、兵糧の給付できた。また使者が毎年来たが、そこで道を五所掘り、兵を置いて護送した。その道に青石があり、あるいは馬援が統治することができない地だと言ったと伝えられていた。攻略が完了すると、落雷のためその石が砕かれた。そこで通行させて、そのため道を名付けて「天威」としたといわれる。検校尚書右僕射を詔した。
駢の戦い方は、その従孫の
高潯が常に先鋒となり、矢石の中に危険をおかして兵士を励ましていた。駢が天平節度使に移ると、潯を自らの代わりに推薦し、詔して交州節度使を拝した。僖宗が即位すると、その軍に同中書門下平章事の官職を加えられた。
南詔が巂州に侵攻し、成都を掠奪すると、駢をうつして剣南西川節度とし、伝馬に乗って軍が到着した。剣門にいたると、開城を命じ、自由に民に出入させた。左右の者が諫めて、「敵が近くにいるから大掠奪から脱するには侮ってはなりません」と言ったが、駢は、「私に属して安南にあって賊を破ること三十万人、驃信(南詔王)は私が来ると聞けば、なおあえて邪な心を抱くだろうか」と言った。この時にあたって蛮は雅州を攻め、盧山に立て籠もったが、駢が来ることを聞き、しばらくして包囲を解いて去った。駢はそこで驃信に触文し、兵を整えてこれを従わせた。驃信は大いに恐れ、人質の子を送って入朝し、侵攻しないことを約束した。
蜀に突将というのがあり、左右二廂に分かれ、廂には虞候があり、火をともして盗賊を防いだ。兵馬虞候というのがあり、調発を主任務とした。駢はそのうちの一つをやめ、それぞれ一虞候を置いた。また蜀兵が弱いから、南詔が新たに定まると、人々は未だに安業しなかったから、突将に月給や食費の給付をやめ、「府庫が補充されたら、ただちに元通りにする」と約束した。また熟練兵には衣や給与を厚くし、未熟兵はただ文書や倉庫を司らせ、衣や給与は減した。駢は、「皆王の兵士であり、命は均しいのだ」と言ったから、兵士は戦いを大いに望んだ。その時、天平・昭義・義成の衛軍は蜀兵と合わせて六万におよんだ。駢は自ら将となって駐屯地から出ると、突将が暴動し、門に乗じて入ってきたが、駢は便所にかくまわれ、探したが発見できなかった。天平軍は兵乱を聞き、その校の張桀は兵士五百人で接近戦をしたが勝てなかった。監軍はこれを慰撫すると、皆が、「州は蛮乱があったのに、戸数は元通りであるし、府庫はまさに充実しており、公が軍の給与を削減して自らを養うのに、虐げられるに堪えられなかったから、乱を起こしたのだ」と言い、監軍は畏れて、説得して解散させた。役夫数百人を叛卒ということにして、かこつけてその首を斬って、平定した。駢はおもむろに出て来て、金帛で厚く兵士に褒賞し、府庫を開いてことごとくその衣や給与を返還した。しかし密かに給した者の姓名を記録し、夜に牙将を遣わしてこれを撃ち殺し、その一族を殺し、妊婦であっても許さず、死体は河に投棄した。一人の婦人がまさにうずくまって子に乳を与えようとしていたが、刑に服するとき、老婆はこれに心を痛め、死を恐れていると思って、「子を私に預けなさい。一度役所に嘆願してみましょう」と言ったが、婦は立ち上がって、「私はわかってはいますが、我が子をお腹いっぱいにするには、飢えのために殺人させるようなことがあってはならないのです」と言った。刑を見る者は拝んで、「どうして節度使は戦士の食を奪うようなことがあって、一日怒って、不当な刑罰をほしいままにしている。国家の法令はどこにあるのか?私が死んで天に訴え、この賊の門閥を今日の冤罪のようにしてやる!」と言った。死にあたって、顔色は落ち着いていた。蜀の人で聞く者は涙を流した。駢はまた突将で辺境防衛から帰還した者は、名を書いて丸めて器の中に貯め、心が病んだ時に探して、ある時は十人、またある時は五人と、将の李敬全に授けて斬刑に処した。親しい役人の
王殷が駢に、「突将で行いがある者は、初めは謀を知りません。公はただちに赦すべきです」と説いたから、駢は喜び、名を書いて丸めたのを池中に投棄したから、人はそこで安心した。
蜀の風土は過酷で、成都城は年々壊れていったから、駢は塼甓(煉瓦)を交換して城墻を新しくし、城の背後の丘陵をすべて開墾して平地とし、農耕・養桑の便とした。開発が終わると、これを占い、「大畜」を得た。駢は、「畜というのは、養である。たすけるに剛健篤実の徳があって、光輝き日に日に新たになる(『易経』大畜)。吉はどうして大だろうか。文はよろしく下を取り去って上を残せ」と言い、よって大玄城と名付けた。検校司徒に進み、燕国公に封じられ、荊南節度使に移った。
梁纘なる者は、もとは昭義軍の西の辺境兵をもって、駢は上表して麾下に隷属させた。
王仙芝が敗れると、残党は長江を通過した。帝は駢が鄆州を統治して威化が大いに行われており、かつ王仙芝の党が皆鄆州人であったから、そこで駢に鎮海節度使を授けた。駢は将の
張潾と梁纘を遣わし兵を分けて追撃し、その驍帥の
畢師鐸ら数十人を降伏させ、賊は嶺表に逃げた。帝はその功をよしとし、諸道行営都統・塩鉄転運等使を加えられた。また駢に詔して官軍義営郷団を領させ、その老弱傷夷兵を帰し、軍食を裁き定めた。刺史以下は微罪でもたちまち罰せられ、大罪は上奏された。賊はさらに
黄巣を推して南は広州を陥落させたから、駢は張潾を遣わして兵五千人をもって郴州に駐屯して賊を西路に封じ込め、留後の王重任を兵八千をもって海路、循州・潮州に援軍となり、自身は一万人の将となり、大庾より賊を広州で攻撃し、かつ荊南の
王鐸より兵三万人を請うて桂州・永州に立て籠もり、邕管の兵五千人で端州に立て籠もり、そこで賊は類を残すことがなかった。帝はその策を受け入れたが、駢はついに行かなかった。
にわかに淮南節度副大使に移された。駢は城塁の補修を完成させ、募軍を地元やそれ以外の地から募集し、精鋭の兵士七万人を得て、そこで檄文を伝えて天下兵を召し共に賊を討ち、威は一時に震い、天子は頼って重んじた。広明年間(880-881)初頭、
張潾は賊を大雲倉で破り、
黄巣は降伏を偽った。黄巣は不意をついて急襲し、遂に大いに逃走し、残党を率いて上饒に立て籠もったが、しかし軍はほとんど全滅しそうになっていた。たまたま疫病がはやり、人々は死亡したから、張潾は進軍してこれを攻撃した。黄巣は大いに恐れ、金で張潾に諂い、書簡を駢に送り、帰順を願い出た。駢は信じ、許して節度使となるよう朝廷に求めた。この時、昭義・武寧・義武軍の兵数万が淮南に赴いていたが、駢は功績を独占しようとし、賊をすでに破ったから大兵は必要ないと上奏した。詔があって軍を帰還させた。黄巣は兵が引き上げたのを知って、そこで駢との交際を絶って戦いを求め、攻撃して張潾を殺し、勝利に乗じて長江を渡って天長を攻撃した。
それより以前、
黄巣は広州にいたとき、天平節度使とするよう要求したが、宰相の
盧攜は駢と親しく、賊を討伐して功績としたかったから、黄巣を赦すことを聞き入れなかったが、
鄭畋と朝廷で争うこととなり、そのため黄巣は節度使となれなかったことを恨んだ。しかし駢は朝議が一致しないことを聞き、また平定に動かず、ここにいたって、賊のしたい放題にさせて朝廷を恐れおののかせ、その後に功を立てようと思った。
畢師鐸が諫めて、「朝廷が頼みとしているのは、公の他に誰がいますか。賊を要害に閉じ込め、淮南の先に進ませてはなりません。今、要衝によって賊を滅ぼさず、北に渡河させてしまえば、必ずや中原は乱れるでしょう」と言ったから、駢は驚き、まさに出陣しようと下令した。寵将の
呂用之は畢師鐸が功績をあげてしまうのを恐れて、諫めて、「公の勲功は極めて大きいものがありますが、賊はいまだに滅んでおらず、朝廷は口出ししてきます。ましてや賊が平定されたら、主の威を指導され、どうして落ち着くところなんてありましょうか。戦い合うのを傍観して福を求め、財産を費やさないに越したことはないのです」と言ったから、駢はその意見を入れて、病と称して駐屯地から出させず、兵を厳にして境界を保った。黄巣が滁州・和州を根拠地とすると、広陵からわずか数百里の地にあったから、そこで陳許節度使に援軍を求めた。
黄巣が揚州に迫り、軍勢は十五万にも及んだ。駢の将の
曹全晸は兵五千を率いて戦ったが不利で、泗州に立て籠もって援軍を待ったが、駢は兵をついに出さなかった。賊は北の河南・洛陽に迫り、天子は使者を派遣して駢に賊を討伐するよう促し、使者が続々と送り出されていった。にわかに両京(洛陽・長安)が陥落し、天子はそれでもなお駢が功を立てることを願い、思いをかけることは衰えず、刺史で諸将のように功績がある者に詔して、監察御史より常侍にいたるまで、墨制を許して任命・叙位を行った。ついで検校太尉、東面都統、京西・京北神策軍諸道兵馬等使に昇進した。たまたま二羽の雉が役所で寝るということがあり、占い師が、「軍府がまさに空になるだろう」と言ったから、駢はこれを嫌って、ことごとく兵を出して東塘に駐屯させ、舟二千艘、矛や鎧は完備し、毎日金鼓を打って兵の士気は高かった。浙西節度使の
周宝と檄し、ともに西に援軍しようと言うと、周宝は大いに喜んだ。ある者が周宝に向かって、「彼は江東を併合して孫策三分の計をしようとしています」と言ったが、周宝は信じなかった。にわかに駢が周宝に軍議の事を願ったため、周宝は怒り、病と称して出なかった。仲たがいしてついに事を構えた。駢は東塘に駐屯すること百日、周宝および浙東の
劉漢宏を口実にしたが、まさに不利になろうとして帰還し、その変に応じた。
帝は駢に出兵の意思がないことを知り、天下はますます危うくなった。そこで
王鐸を代わって都統に任命し、
崔安潜を副将とした。
韋昭度に詔して諸道塩鉄転運使に任じ、駢を侍中に加え、実戸一百を増加し、渤海郡王に封じた。駢は兵権・利権を失い、腕まくりして大いに罵り、そこで上書して傲慢な言葉を述べて慎まず、
王鐸を謗って敗軍の将で、
崔安潜は狼のように貪欲で、物事が破れ乱れるようであり、千古の悔いを残すとした。また更始帝がひれ伏したことや、子嬰が軹道で降伏した事を述べたから、帝は激怒し、詔を下して譴責した。この時、王室は衰え、かろうじて絶えていないことは帯の細さのようであった。駢は都統の任にあること三年、一尺一寸とての功績もなく、国のために行ったことはとっさのことで、大いに兵を領し、密かに割拠を謀ったが、一旦勢を失えば、威望はにわかに尽き、そのためほしいままに醜態をさらし、脅して天子を迎え、またもとの権力を得ることを願った。呉人の
顧雲が文辞によって邪まなところを輝かせたから、やすらかで恐れることはなかった。また帝が南は江淮に行幸することを願った。たまたま賊が平定され、駢は聞いて、気持ちが縮こまって恨みを抱き、部下の多くが叛いて去り、鬱鬱として無聊で、そこで篤く意を神託を用い、これを軍事に用いた。
呂用之は、鄱陽の人であり、代々商売を行っており、広陵を往来し、商売を楽しんでいた。すでに身寄りがなく、舅の家に住んでいたが、その夫人と密通したため、九華山に亡命し、方士の牛弘徽に仕え、鬼術を操ることができ、薬を広陵の市に売った。始め駢の親将の
兪公楚に詣でて、その術に験があり、そのため駢に謁見することができ、幕府に任命され、しばらくして右職に補された。呂用之はすでに幼い頃は賎しい身分であり、詳細に村々の益と害、官吏の良し悪しをしっており、大いに明らかに政事を言い、まさに誤った道に導こうとして、駢はいよいよこれを人物の器とした。そこで広く朋党をたて、駢の動息を知り、金銭でその左右と結託し、日々むやみでたらめをして駢を動かした。また狂人の
諸葛殷・
張守一を推薦して長生きの方術をなし、二人とも牙将に任命された。それより以前、諸葛殷はまさに引見しようとして、呂用之は欺いて、「上帝は公を人臣としました、思うに機会は広かったりなかったりと運命によるもので、神人をして羽翼を備えたものが来て、かつまさに職を以て繋ぐでしょう」と言い、翌日、諸葛殷は粗末な衣服で引見し、言葉巧みに偽りを述べること果てしなく、駢は大いに驚き、「葛将軍」と号した。その陰険狡猾なことは呂用之をはるかに超えていた。大商人の邸宅で華麗かつ荘厳なのがあったが、諸葛殷は求めても得られなかった。駢に、「城中にまさに妖が興ろうとしています。ただちに壇を築いてお祓いすべきです」と言い、そこで大商人の邸宅を指し示した。駢は官吏に命じて即日移動させて、諸葛殷は入居した。
駢は仙人らを迎えるための楼を造営し、皆高さ八十尺で、装飾は金・宝石・真珠・玉で飾り、侍女は羽衣を着て、音楽は新たな調性で曲声を合わせ、上帝の住まう鈞天になぞらえ、香はその上に祀り、祈りは仙と接した。
呂用之は自らを昇仙得道の人と通じていると言い、駢に答えて風雨を叱咤し、あるいは空を見上げて礼拝し、言葉は軽薄で田舎じみており、左右の者が密かに謀議するとたちまち殺したから、後には敢えて口に出す者はいなくなった。蕭勝が呂用之に賄賂を贈り、塩城監に任命されることを求めたが、駢は承諾しなかった。呂用之は、「仙人は塩城に宝剣があると言ってます。ただちに真人が取らなければなりません。ただあえて行かなければなりません」と言い、駢は許諾した。数か月して蕭勝が銅の匕首を献上してきて、呂用之は、「これは北帝が佩刀したものです。これを得る者は、兵があえて侵犯することはありません」と言い、駢は秘蔵した。常に日常で持っていた。呂用之はその術を憚って追い詰められ、かつ詰問されたから、そこで青石の板に龍蛇を陽刻して、文に、「帝が駢に賜う」と書いて、人に秘かに机の上に置かせ、駢はこれを得て大いに喜んだ。鵠が廷中に寓したから、乗り物を作って人に触を出して飛ぼうとし、駢は羽服を着て、これに乗って仙界に飛び去ろうとした。呂用之はそのでたらめが暴かれることを恐れて、そこで、「仙人はただちに降りてくるでしょうが、ただ学者の真家に阻害されているのが患いとなっているだけなのです」と言ったから、駢は世間の事を捨て、妾や端女を遠ざけ、将吏であっても謁見できなかった。客が来ると、まず香で沐浴させ、方士に詣でてお祓いさせ、これを「解穢」といい、しばらくして元の場所に退かさせた。これより内外の者は敢えて言う者はいなくなり、ただ
梁纘だけがしばしば駢に言ったが、駢は聞かなかった。梁纘は恐れて、率いた兵を解散し、駢はその軍を昭義に帰し、梁纘は二度と仕えることはなかった。
呂用之はすでに自信があり、みだりに刑罰に処したり重税を課し、人々は乱を思った。そこで官吏を抜擢したり罷免することは百人あまりにおよび、「察子」と号し、厚く食を受け、巷間に居らせ、そのためだいたい民間で密かに隠れて言い争っていていても知らないということはなかったから、民は道路では口をつぐんだ。憎まれて誅殺された者は数百族にもなった。また兵士を二万募って、左・右の「鏌邪軍」とし、
張守一と分割して統率し、官職を設置することは駢の幕府のようであった。呂用之は出入するごとに、御者侍従は千人にもなり、大きな邸宅を建て、軍吏や営署はすべて完備していた。百尺の楼を建て、星を占っているとかこつけて、実際には城中の変をたくらむ者を窺っていた。左右に姫を侍らせること百人あまり、皆あでやかかつ華美で歌舞をよくし、巾・束帯で侍っていた。月に二十回宴会し、その費用は民から得て、足りなければ、力をつくして度支の運物を引き止めた。人を誘って変事を上奏し、それには財貨を入れて贖罪することを許した。
兪公楚はしばしばその失を規範によっていましめたが、聞き入れられなかった。姚帰礼は呂用之を謀殺しようとしたが勝てなかった。呂用之はそのため二人を駢に讒言して、驍雄の兵三千をして盗賊を城外で偵察させ、密かに兵を出して襲撃し、軍もろとも殲滅した。駢の従子の
高澞は密かに呂用之の罪を上疏し、駢を諌めて、「呂用之を排除しなければ、高氏はまさに子孫がいなくなるでしょう」と述べたから駢は怒り、左右の者に命じて連れ出し、上疏を呂用之に授けた。呂用之は高澞に借金しながら未返済だったから誣告し、そのため妄言した。そこで高澞の筆になるものを出して証拠とし、駢は官吏に命じて高澞の出入を禁止した。にわかに高澞は舒州刺史に任命され、しばらくもしないうちに部下に放逐されたが、呂用之の計略であった。駢は人をして高澞を殺させた。
嗣襄王熅の乱で、駢は嗣襄王熅に上書して帝位につくことをすすめると、駢を中書令・諸道兵馬都統・江淮塩鉄転運使にと偽朝は任命をし、
呂用之を嶺南節度使とした。駢は長らく希望が叶えられず恨みに思っていたから、ここにいたって大いに喜び、貢賦を絶やさなかった。呂用之ははじめて開府して官属を設置し、礼は駢と同じであった。
鄭𣏌・董僅・呉邁を腹心とし、駢に親任されている者は皆近づいて自身に付属させたが、政事はいまだかつて駢に預かり決していなかった。駢は心の内で悔り、その権を収めようとしたができなかった。呂用之は計略を鄭𣏌・董僅に問い、謀って駢に願ってその邸宅に斎し、密かに駢を縊殺し、偽って昇天したこととしようとしたが、実行できなかった。
光啓三年(887)、蔡賊の
孫儒の兵が定遠を略奪し、淮河を渡ると公言したから、寿州刺史の張翱は走って駢に告げ、
畢師鐸に命じて騎馬三百を率いて高郵を守らせた。畢師鐸は、もとは高仙芝の郎党で、騎射をよくして讃えられた。駢が
黄巣を浙西で破ると、その力を用い、そのため手厚くもてなされることはこれに等しい者はいなかった。
呂用之はあつく貪るのは利益をもってし、それに従うことを望んだが、しかし情は受け入れられなかった。畢師鐸には美しい妾がおり、呂用之は見たいと願ったが許可されず、外出時を狙って強姦してしまったから、怒って妾を棄てた。心内に恨みをいだき、子のために高郵の将の
張神剣と結婚させ、密かに援助されることをたのみとした。朱全忠がまさに
秦宗権を攻めようとしていたとき、駢は攻撃されるのを憂慮して、畢師鐸をして兵を率いて都梁山を超え、賊を帰還させなかった。畢師鐸は駢の府の宿将が多く讒言で死んだのを見て、憂うこと甚しかった。呂用之はますます礼を加えたが、畢師鐸はいよいよ恐れ、張神剣に謀った。張神剣はその言っていることはそうだとはせず、猜疑心は日に日に固まっていった。呂用之もまた変事があると思い、心内で排除しようと思い、しばしば畢師鐸の駐屯を止めさせるよう願い出た。畢師鐸の母は密かに召使いを送って畢師鐸を逃れさせ、「家や夫人を顧みてはならない」と言ったから、畢師鐸は悩み、未だ出るところを知らなかった。しかし駢の子は呂用之の専横を怒り、畢師鐸と諸将がその専横を暴くことを願い、使を遣わして畢師鐸に対して、「呂用之はこのために行ってあなたに相談しようとするでしょうが、すでに書を張神剣に授けてしまっています。あなたはこれに備えなければなりません!」と述べ、畢師鐸は驚き、軍中はしばしば伝言した。諸将は助けようと会見し、張神剣を殺すことを願い、その軍を率い、市の人を駆けさせて乱を助けようとした。畢師鐸は、「だめだ、私がもし重ねて百姓を騒がせれば、また呂用之と同じになってしまうではないか。
鄭漢璋は平素より私と仲良く、兵士は精強で、呂用之の用事をしているから常に不平がある。今もしこの謀を告げれば、彼は必ず喜んで、事を助けるだろう」と言い、衆はそうだと思った。張神剣はこのことを知らず、まさに牛を殺して酒を濾し、軍を労おうとした。畢師鐸は密かに軍を夜に出撃させ、士はみな布地を首に巻き、行軍して攻撃しようとした。鄭漢璋は聞いて、麾下に出迎えさせ、畢師鐸はその計略を告げると、大いに喜んだ。その妻をとどめて淮口を守らせ、軍兵および亡命した数千は高郵にいたり、張神剣に会うとその心変わりを詰め寄り、張神剣は何も言えなかった。畢師鐸の言葉は次第に荒々しくなると、張神剣は眼を怒らせて、「君は晩に仕えたことがあるのか!彼の人は一大妖人である。前に嶺南節度使に任命されたのに、任地に行くことを承諾せず、志は淮海にはかっていたが、君がすでにその希望を奪ったから、彼はある日志を得て、私は握刀の柄を握って北面で警備して仕えることができるだけなのか!私は前に君の思いの内を推し量られなかったから、口には出さなかったが、どうして疑うのか?」と言うと、鄭漢璋は喜び、酒を取って肘を割いて血で盟約を結び、畢師鐸を推して大丞相とし、誓をなして神に告げ、そこで檄を州県に飛ばして、呂用之・
張守一・
諸葛殷の誅殺を名目とした。張神剣は高郵兵諸校の倪詳・逯並を天長の子弟会とし、唐宏を先鋒に、駱玄真を主騎に、趙簡を主徒に、王朗を殿とし、精兵三千を得た。まさに出発しようとして、張神剣は心内に侮って、梁繆に、「公の兵は精強であるが、しかし城は堅固で、十日もしないうちに兵糧が乏しくなり、軍衆は動揺するだろう。私神剣を高郵で軍の慰撫をさせてください。公のために支援して糧道を確保します」と言ったが、畢師鐸は、「民の米庫はなお多いが、どうして蓄えを煩わせることをするのだろうか?城中では人心が離れて戦う気がなければ、どうして支援できようか?君の思いを実行しないのと、どうして敢えて違うというか?」と言い、鄭漢璋は心の中では張神剣を嫌っていたから、自身の部下とならないことを恐れて、勧めてその計略を許可させ、城を破った場合に玉帛子女を山分けすることを約束した。
同年(887)四月、
畢師鐸の兵は城にいたり、その城下に宿営した。城内は騒乱し、
呂用之は兵をわけて守らせ、かつ自身は督戦した。命令して、「首一級を斬れば、賞金は一餅だ」と述べた。兵士の多くは山東の人で、剛強でたいそう命令に従った。畢師鐸は恐れ、一舎(三十里)退いて自ら固守した。呂用之はしばらく諸門を埋めて塞いだ。駢は延和閣に登り、激しい喧騒を聞いて、左右の者にこの理由を告げられて大いに驚き、呂用之を召喚して問いただした。呂用之はおもむろに、「畢師鐸の軍が帰還を望んで、門衛で軋轢を起こしているのです。すでに処置しておりますが、そうでなければ、九天玄女を煩わせるだけです!」と言ったが、駢は、「私はお前の偽りが多いのはわかってきた。自らが善をなすのなら、私を
周宝のようにはしないでくれ!」と言った。当時、周宝はすでに部下のために放逐・出奔していたという。呂用之は恥じて、再び言う事がなかった。畢師鐸は城がまだ陥落しないのを見て非常に恐れ、救援を宣州の
秦彦に求め、平定後は迎えて駢の代わりの将帥とすることを約束した。
駢はしばしば
呂用之を責めて、「始め私は腹心に君を任じたが、君は下を御して制限がなく、ついに私が誤ったのだ。今百姓は飢饉で、虐げ用いてはならない、ただちに大将を遣わして我が書簡をもたらして説諭し、兵をやめさせよ」と言ったが、呂用之は諸将を疑って用いず、その朋党の許戡に書を奉らせて往かせた。それより以前、畢師鐸は駢が宿将をして軍を労わせると思っていたから、来たら呂用之の罪を口述しようと思っていた。そのため許戡が来ると大いに怒り、「
梁纘・
韓問はどこにいるのか?お前が連れてこい!」と言って即座に斬り捨てた。そこで書を矢に結んで城内に射たが、呂用之は答えず、すぐに燃やしてしまった。後日、甲冑の兵士百人が入謁したが、駢は驚いて寝室に隠れ、しばらくして出てきて、「叛こうとしているのか?」と叱って左右の者に命じて追い出させ、呂用之は南門に至って、策を掲げて、「吾はまた是れに入らざるなり!」と書いて、始めて駢とともに連署した。
畢師鐸は揚子に立て籠もり、民家を徴発して攻城具をつくった。
呂用之は大いに住民や馬および役夫を探して、驍将は長刀で脅して城に登らせ、昼夜休むことなかった。また間諜となることを疑い、しばしば防衛配置を変えた。家に食料があってもすべて失ってしまい、餓死者は枕を並べることになった。駢は大将の古鍔を召し出して畢師鐸の母の書およびその子の説諭をもらしてたが、畢師鐸は子を遣わして戻らせて、「あえて恩義に背かず、朝に凶人を斬れば、夕方には屯営に戻ります。願わくば妻子を人質としてください」と言わせた。駢は呂用之がその一家を皆殺しにしてしまうことを恐れ、節度使の官署中に収容した。たまたま
秦彦は部下の秦稠を遣わして兵を率いて畢師鐸と合流させると、攻撃はますます激しさを増し、守城の者は夜に南柵を焼いて外と内応し、畢師鐸は入城して守将の張全迺は戦死し、呂用之は三橋を隔てて、互いに殺し合った。駢の従子の高傑は牙兵を率いてまさに呂用之を捕らえて畢師鐸に与えようとしたが、左鏌邪兵がまたその背後を断ったから、呂用之は恐れて出奔した。
駢は
梁纘を召喚して、「初め子(なんじ)の計略を用いなかったからこうなってしまった。どうすればよいか?」と謝り、兵を授けて子城を守らせた。明け方に畢師鐸は火を放って大いに奪い、駢はそこで防備の撤去を命じ、服を改めてただちに入らせた。畢師鐸は延和閣で会見し、駢はこの待遇を賓客のようにし、そこで畢師鐸を節度副使に任じ、
鄭漢璋・
張神剣を次将に任じ、秦稠は府庫を封じて待機し、畢師鐸は丞相の号を取り去った。そのとき警備は謹んでいなかったから、駢の愛将の申及は駢に、「謀反人の兵はやや弛緩しており、願くば公を奉じて夜に出て、諸鎮兵を発して帰還して大恥を刷新すれば、賊を平定するのに容易いものです。もし決しなければ、私申及は公に侍ることができなくなります」と説いて涙を流した。駢は怯えてその策を用いることができず、申及は隠れ去ってしまった。
畢師鐸は
呂用之の支党数十人を誅殺し、孫約をして
秦彦を迎えさせた。秦彦は、徐州の人で、本名は立で、軍籍に属した。乾符年間(874-879)、盗みのため獄に繋がれてまさに死刑になろうとしており、夢に叫ぶ声がして、「秦彦よ、我に従って去れ!」といい、目覚めると枷が壊れていたから、そこで亡命することができ、そこで名を彦とした。囚人百人を集めて下邳令を殺し、その財貨を奪い、
黄巣の党中に入った。黄巣が敗れると、
許勍とともに駢に降伏し、累進して和州刺史となった。中和年間(881-885)初頭、宣歙観察使の
竇潏が病み、秦彦が襲撃してこれに代わった。畢師鐸が秦彦を召すや、ある者が謀って、「貴方様が妖人呂用之を誅するにあたって、そのため部下は喜んで従いました。今、軍府はすでに安穏となりましたから、政務を高公に返還すべきです。貴方様自身は兵を司り、兵権は掌握しています。四隣がこれを聞くならば、大義を失うことなく、諸将は敢えて謀をしなくなります。もし秦彦を将帥としてしまえば、兵権は貴方様のものではなくなっていまいます。かつ秦稠に府庫を封じさせてしまえば、勢力はもうどうなってしまうかわかったものではありません。貴方様は徳を秦彦に篤くしようとするならば、金玉や美女でこれに報いるべきで、江を渡河するのを許してはなりません。たとえ貴方様が秦彦を配下に置いたとしても、
楊行密が夕方に聞いたならば、必ずや朝に押し寄せてくるでしょう」と言ったが、畢師鐸は自身で決めることができず、
鄭漢璋に告げた。鄭漢璋は「よし」と言った。
畢師鐸は駢を出して、南邸に虜囚した。秦稠の麾下は求める物をまだ得ていなかったから、奉貢楼の数十楹を焼き払い、珍宝を取り出した。それより以前、駢は乾符年間(874-879)以来、貢献物を天子に納めず、財貨は山のように積もり、私に郊祀・元会の供帳什器を置き、品々の見事な手技はつくしきわめていたが、ここに至って乱兵のために盗み略奪され尽くすことになってしまった。畢師鐸は駢を東邸の移した。
諸葛殷を捕らえ、腰の下に金数斤を隠していたのを発見され、民衆は唾を吐きあい、髭を残さず抜き、絞殺して絶命させたが、恨みに思っている者はその眼をえぐり、民衆は瓦礫を投げて死体を撃ったから、にわかに塚のようになった。駢は守りに遣わされた者に金を与えたが、畢師鐸はこれを知って、兵に厳しい監督を加え、また官署中に抑留し、子弟十人あまりも同じくここに幽閉した。
顧雲が入見すると、駢はなお自若泰然として、「私は再びここにいるが、天の時、人の事は必ずあるのだ」と言ったが、その意は畢師鐸が再び自分を推戴するということであった。
呂用之は城を出ると、兵で淮口を攻撃したがいまだに陥落できずにいたところ、
鄭漢璋がこれを攻撃し、ついに天長へ敗走した。それより以前、呂用之は偽って駢の書簡を作り、廬州・寿州の兵を召喚して、城を陥落させたが、
楊行密が兵一万人で天長に侵攻したため、呂用之は帰順した。
張神剣は金品を
畢師鐸に求めたが、
秦彦がまだ来ていないのを理由に断った。張神剣は怒り、別将の
高霸とともに畢師鐸を攻めようとした。秦彦が来ると、池州刺史の
趙鍠を召して宣州を守らせ、自らは揚州に入ろうとし、節度使を称し、畢師鐸を行軍司馬として
呂用之の邸宅に住まわせたが、牙軍(藩鎮軍)中にいることはできなかった。畢師鐸の心は晴れ晴れとせず志を失った。
楊行密と
張神剣らは和を結び、江北より槐家橋にいたるまで、柵や防塁を並べた。秦彦は城上に登ってこれを望みみて防ごうとし、そこで
鄭漢璋・唐宏らに兵を授けて門を守らせたから、木を切ったり芝を取ったりすることができなくなり、食料が乏しくなろうとした。秦稠と畢師鐸は強兵八千で出撃したものの大敗し、秦稠は戦士し、兵士は逃げて溺死するものは八割にも及んだ。秦彦は大金を出して
張雄に救援を求め、張雄は兵を率いて東塘にいたり、金を得ると、戦わずして去ってしまった。秦彦は畢師鐸をして兵二万を率いて城下に陣取らせ、鄭漢璋を先鋒とし、唐宏を次鋒とし、駱玄真・樊約をまたその次とし、畢師鐸・王朗は騎兵で左翼・右翼とした。陣列を敷き終わり、しばらくして楊行密が出て、輜重を防壁に委ねて、弱兵で守らせ、精兵数千をその傍らに伏せた。楊行密はまず駱玄真を攻撃して、白兵で接敵し、偽って逃げ、畢師鐸の諸軍はその壁に向かい、争って金玉・財宝・兵糧を奪った。伏兵が喚声とともに突撃し、楊行密は軽兵を率いてその背後を追い、捕虜や殺害された者は入り乱れ、死体は十里にもわたって横たわり、畢師鐸らは逃げ帰り、駱玄真は戦死した。畢師鐸は常に駱玄真が勇ましいのを頼んで敢えてよく敵を拒んだが、駱玄真が戦死してしまうと、嘆きくじけること日を重ね、出撃しようとする議を出さなくなった。
駢は久しく拘禁され、施しをして安心させようにも狭く、群奴は延和閣を解体して、欄干や楯を薪とし、革の帯を似て食べた。駢は幕府の盧涗を召して、「予はほぼ功績を立て、この頃清浄を求め、この世で利害を争ってきたわけではなかったが、今ここに及んで、神は何をお望みなのか?」といい、涙を流して止めることができなかった。
畢師鐸は敗れると、駢が内応していると思った。女巫の王奉仙が畢師鐸に、「揚州の災いは、大人の死によって、祓われるであろう」と言った。
秦彦は、「高公ではないのか?」と言い、左右の陳賞らに命じて往かせて殺した。侍者は賊が来たというと、駢は、「そいつは絶対に秦彦だろう」と言い、顔色は変わらず待ち受けた。軍が入ってくると、駢は罵って、「軍事には監軍や諸将があるが、必ずしもお前が来ることはなかったのではないか?」と言い、軍は辟易としたが、奮って駢を撃つ者があり、廷下に引いて何度も、「公は天子の恩を負っているのに、人を塗炭に陥らせ、罪は多いのだ。その上何の言うのだ?」と言い、駢は答える暇がなく、頭を上げて顔色を伺ったが、そこで斬られた。左右の奴や客は
楊行密のもとに遁げ帰り、楊行密は全軍を喪服とし、臨時の大祭とし、ただ
呂用之は縗服(喪服)を着て哭すること三日に及んだ。
秦彦はしばしば敗れ、軍の士気は崩壊し、
畢師鐸と膝を抱えて互いに見合わせたが他の策略とてなく、さらに王奉仙に問い、賞罰の軽重はすべてここから出ていた。秦彦は
鄭漢璋を遣わして
張神剣を攻撃させて、これを撃破した。張神剣は高郵に逃げ、鄭漢璋は追撃しようとしたが、たまたま大雨にあって帰還した。
楊行密は城がなお堅固であるから、軍中でかつ老いた者を、議して囲みから解かせた。呂用之の部将は夜明けに西壕に兵を伏せ、守備兵が休憩のため交代した隙きを窺って、城壁を登り、数十人を門で殺し、外の兵を招き寄せた。守備兵は嫌がって、皆兵を委ねて壊滅した。畢師鐸はその家の者や秦彦とともに東塘に逃げ、人は争って出たが、互いに登り合って踏まれて死に、塹壕は死体で充満し、王朗は転んだところを踏まれて死んだ。楊行密は入城すると、
梁纘を本陣で殺したが、高氏の難に殉じなかったのを理由とした。
韓問はこれを聞いて、井戸に身を投じて死んだ。居人は息も絶え絶えで死にそうであり、兵は暴行を加えるのに忍びず、かえって余剰の兵糧を押しのけてこれを救った。
秦彦・
畢師鐸は唐宏・倪詳とともに白砂を焚いて、まさに長江を渡ろうとしたが、たまたま
秦宗権が
孫儒を遣わして兵三万を率いて揚州を攻撃し、天長に行き、秦彦らと合流して、戻って
楊行密を攻撃し、楊行密の輜重・牛・羊を数千ばかりを奪った。孫儒は兵糧が乏しくなったから、そこで高郵を陥落させて、ここを根拠地とした。
張神剣は逃げ帰り、楊行密は張神剣に館を授けたが、高郵の守兵七百人が壊滅したため逃げてくると、楊行密は謀があると疑って、ことごとく殺し、そのため張神剣も殺された。
呂用之は始め楊行密に偽って、「廡下に金五千斤が埋まっており、事が平定されて一日の乏しさに備えることを願っています」と言っていたが、楊行密が地を掘ったが金は埋められておらず、ただ三尺の銅人があり、身は束縛され、釘が口に刺してあり、駢の名を背中に刻んであり、駢を呪うために用いられたと推測された。楊行密はその罪を責め、
張守一とともに三橋で斬り、妻子はすべて死に、その罪を掲げて道にさらされた。
孫儒は城を攻めたが陥落させられず、
秦彦・
畢師鐸が謀反することを思い、しばらくその兵を併合した。唐宏は謀られて免れず、そこで孫儒に、「畢師鐸が密かに人を遣わして汴(
朱全忠)のもとに至っている」と言い、孫儒は大いに恐れた。翌日、秦彦・畢師鐸・
鄭漢璋と軍中に会し、秦彦・畢師鐸が先に来ると、壮士がこれを連行して孫儒の所に連行し、孫儒は秦彦に駢に叛いた罪を糾弾し、これを斬った。畢師鐸が叫んで、「丈夫たるものすなわち王となり、敗れれば虜となる。君はどうして多くを責めるのか。私はかつて数万の兵を率いて、常に人の手によって殺されることはなかった。公の剣で死なせてくれ」と言ったが、孫儒は、「どうして賊が我が手を汚そうするのか」と罵り、急き立ててこれを斬った。鄭漢璋が来ると、肘を奮って数人を撃ち殺したが、ついに死に、身と首は失われた。孫儒は唐宏をして騎兵を司らせ、厚くこれを賜った。文徳元年(888)、孫儒は諜報によって
楊行密の兵糧が乏しいことを知り、高郵からこれを襲撃した。楊行密はその軍を抽出して廬州に帰還し、孫儒はついに揚州を根拠地とした。
駢が死ぬと、毛氈に包んで、子弟七人と一穴に埋めた。
楊行密は駢の孫の高愈を抜擢して副使とし、喪事を司らせたが、未だ葬儀が終わる前に突然死し、そのためも駢の官吏であった鄺師虔に葬らせた。
揚州が富裕なこと天下に冠していたが、
畢師鐸・
楊行密・
孫儒が攻めては守り、街や集落を焼き、民は漂泊し、兵は飢えて受け継いだから、その地はついに空となった。
朱玫は、邠州の人である。幼くして武勇に優れていたから為州の守将となった。
黄巣が長安を占領すると、
王玫なる者を偽節度使とし、まさに兵を整えようとし、玫は表向きはこれに仕え、間隙に乗じて王玫を斬り、留後を李重古に譲り、兵を合流して黄巣を討伐することを約束した。広明二年(881)、玫は賊を襲撃し、
開遠門に戦い、槍が喉を貫いたが死ななかった。功多きをもって晋州刺史に抜擢され、邠寧節度使に昇進し、涇州・原州・岐州・隴州の兵八万を合わせて興平に駐屯し、定国砦と号した。澇上で戦ったが、邠に敗走し、詔して霊州・塩州の軍を加え、河南都統を拝命した。兵を率いて中橋に駐屯し、五壁を列べ、西北面都統に昇進した。賊が平定されると、同中書門下平章事を授けられ、呉興侯に封じられた。
田令孜が
王重栄の討伐を議し、兵を玫に属させ、鄜州・延州・霊州・夏州の軍三万を合わせて沙苑を守らせた。王重栄は上疏して玫・田令孜の誅殺を請うた。戦うと玫はたちまち敗北し、そのため軍は帰還したり略奪したりを勝手気ままにした。僖宗はあわてて鳳翔に避難した。玫はかえって王重栄・
李克用と講和し、田令孜の誅殺を請うた。宰相の
蕭遘は密かに玫を召して僖宗を迎えさせようと、玫は鳳翔に走ったが、田令孜は乗輿(僖宗)を奪って陳倉に逃げ、遂に興元府に至った。玫は追跡するも及ばず、
嗣襄王熅を奪い、奉って皇帝とした。玫は自ら大丞相と号し、万機を専決した。
始め
李昌符と共に謀って
嗣襄王熅を擁立したが、ここにいたって叛いて讎となし、李昌符は自ら天子(僖宗)に帰順したから、玫から人心が離れていった。
王行瑜が大唐峰で敗れると、帰還して殺されてしまうことを恐れ、また玫を捕獲した者は邠寧節度を賜うと聞いて、王行瑜はその配下に、「今敗れて帰れば必ず功なくして死ぬが、もし朱玫を斬って、軍を北にして天子を迎えれば、富貴を取れる、そうではないか?」と言うと、軍は「そうです」といい、そこで兵を集めて道を急いで長安に走った。玫は
孔緯の邸宅に居しており、まさに机に向かって政務を行おうとしていたが、兵が入ったことを聞いて、赴いて王行瑜を召喚して叱って、「公は勝手に帰ってきたが、叛いたのか?」というと、王行瑜は声を荒らげて、「私は叛いたのではない、まさにあなたの首を得て邠寧節度使となるのみだ!」と言い、玫はにわかに立ったが、左右の者がこれを斬り、その徒数百人を殺した。諸軍は遂に大いに乱れ、京師を焼いた。当時は厳寒期で、吏民は凍死し、倒れ死んだ者の死体は地を覆った。そこで首を興元府に伝え、帝は首を受け取った。宦者偽樞密使の王能著らは皆坐して誅殺された。
王行瑜は、邠州の人である。幼い頃から軍籍にあって、
朱玫に従って列校となり、
黄巣を討伐してしばしば戦功があった。
嗣襄王熅が即位すると、行瑜に天平節度使を授け、兵を率いて大散関を守らせたが、
李鋋のために敗れ、そこで行在(僖宗)につつしんで仕え、朱玫の首を取って献上し、邠寧節度使に抜擢された。
景福元年(892)、
李茂貞・
韓建および弟の同州節度使の
王行実は、
楊守亮を山南で討伐することを願い、そしてあえて度支の費用を仰がないと言い、李茂貞を招討使に任じて節を賜ることをのみを願った。宦官は難色を示し、昭宗もまた李茂貞らが山南を得てますます専横することを思って許さなかった。行瑜らはそのためほしいままに軍をおこして出撃した。
後に李茂貞は
嗣覃王嗣周の攻撃を防ぎ、宰相を殺し、行瑜も参じて力があったから、鉄券を賜ることができた。しばらくして兵が跋扈したため、尚書令となることを求めたが、宰相
韋昭度が不可としたため、ただ「尚父」の号を加えられたが、行瑜の恨みは深かった。たまたま河中の
王重栄が死に、
李克用がその子の
王珂を後継の節度使とするよう願ったが、行瑜・
韓建・
李茂貞が
王珙に授けるよう願い、そのためそれぞれが兵で朝廷に陳情し、天子を廃位しようとしたが勝てず、そこで韋昭度・
李磎を殺し、弟の王行約を宿衛に留めた。李克用は全兵力を渡河して行瑜らの罪を問い、王行実は同州を棄てて長安に逃げ、
王行約とともに乗輿(昭宗)を奪おうと謀ったが、また勝てず、皆邠州に逃げた。行瑜は梨園に駐屯し、李克用と戦ったが、王行実らの軍が敗れ、その母および行瑜の子が捕らえられ、将官は捕虜となった。帝は詔を下して行瑜の官爵を削った。行瑜は精兵五千を出して龍泉鎮に宿営し、李茂貞はその西に立て籠もった。李克用は夜に精鋭の騎兵を発して補給路を騒がし、岐軍(李茂貞)は敗走し、行瑜は邠州に帰り、城壁を取り巻いて守り、李克用にあつく金品を送って自ら帰順を求めた。李克用は軍でその城を包囲し、行瑜は窮したから、城に登って泣いて李克用に語り、「私は無罪だ。前に大臣を殺し、天子を脅かしたのは、岐人(李茂貞)だ。
行実は宿衛に留まっただけなのに、役人は妄りに拉致の罪をこれに帰しており、今、公が乱を討つべき者は、まさに李茂貞に問うべきであって、願わくば帰順を約束してくれれば、天子に命を許されんことを」と言ったが、李克用は、「尚父はどうして自らを卑下しているのか。私は三賊を討伐することを命じられているが、公はその一人だ。もし帰国すれば、まさに決済に従うべきで、老夫が敢えて専断することがあろうか?」と言ったから、行瑜は定めを免れず、一族をあげて慶州に逃げたが、部下のために路上で斬られ、首は京師に送られ、帝は
延喜門に御してこれを納れられた。乾寧二年(895)のことであった。その部下二百人は、李克用が朝廷に献上した。
それより以前、行瑜の乱において、宗正卿の
李涪は盛んにその忠義を述べ、必ず罪を悔い改めると言っていた。ここに至って帝は怒り、放逐して嶺南で死んだ。
陳敬瑄は、
田令孜の兄である。幼い頃は卑しく、餅屋であったが、左神策軍に所属することができた。田令孜が護軍中尉となると、敬瑄を親類であるから左金吾衛将軍・検校尚書右僕射・西川節度使に抜擢した。性格は畏れ慎み、よく士を慰撫した。
黄巣の乱で、僖宗は奉天に行幸し、敬瑄は夜に監軍の
梁処厚を呼び寄せて、慟哭して表を奉って帝を迎え、行宮を建造し、令孜もまた西への行幸を唱え、敬瑄は兵三千で乗輿を守った。無駄に内苑の小児を従えて先に至り、敬瑄はもとより横暴を知っていたから、見廻りの兵士を派遣して様子を見させた。諸児は肘を連ねて大声で喧嘩して宮中に行ったから、兵士はこれを捕縛すると、「我は天子に仕える者だ!」と叫んだが、敬瑄は五十人を殺害した。巷に死体を遺棄し、そのため道路は騒がしくなくなった。帝は綿州に行き、敬瑄は道に謁見し、酒を奉り、帝は三たび盃をあげた。検校左僕射・同中書門下平章事に昇進した。当時雲南(南詔)が叛き、使者を遣わして和平を結ぶことを願い、そこで許された。敬瑄は行在の百官諸吏を奉って敢えて乏しくさせることはなかったから、帝は判度支に任命しようとしたが固辞した。再び検校司徒兼侍中を加えられ、梁国公に封じられた。弟の陳敬珣を閬州刺史とした。邛州の首望の阡能・涪州の叛校の韓秀昇を討って定め、再び兼中書令に昇進し、潁川郡王に封じられ、実封四百戸となり、一年間の上輸銭および上都の田・邸宅・磑(水力石臼)をそれぞれ十区賜り、鉄券を賜って十死を許されることとなった。黄巣が平定されると、潁川王に進み、実戸二百を増戸された。車駕が東に帰ると、敬瑄は財政の余剰を供給して朝廷を安心させたから、また検校太師に昇進した。
にわかに
田令孜が罪を得ると、敬瑄は端州に流された。たまたま昭宗が即位すると、敬瑄は詔を拒み、帝は召喚して左龍武統軍とし、宰相
韋昭度を代わりの節度使に領させようとした。使者が来ると、敬瑄は百姓に道を遮らせて耳を切り裂いて誠を示して自分の功績を訴え、また鉄券で死を許されていると言った。使者が馳せ帰った。田令孜は敬瑄に勧めて黄頭軍を募らせ、自ら守る計略とした。
当時、
王建が閬州・利州を占領し、そのため
田令孜は王建を召喚した。王建が綿州に至ると、兵を発して拒み、激しく王建を諸州で攻めたが、朝廷に行動を制限された。ある者が、「建は貪欲かつ気を見るに慎重で、ただこの頼りを利するだけで、公はどうしてこれを用いるのですか?」と言ったが、聞き入れなかった。王権は
顧彦朗をあざむいて書簡に、「十軍阿父(田令孜)は私を呼び寄せようとしているが、太師(陳敬瑄)によって一大州を求めようと思う」と述べ、そこで梓州に麾下を呼び寄せ、自身は兵を率いて鹿頭関に入った。敬瑄は受け入れず、漢州刺史の張頊は迎撃したが、敗れ、王建は漢州に入った。成都は固く守り、王建は城下を走って田令孜に謝して、「父は私をお召しになり、門まで来ましたが私は拒まれています。一体誰の仕業でしょうか?」と述べ、諸将と髪を切って再拝して、「今賊となるのみ!」と言った。そこで出兵を顧彦朗に要請し、成都を攻撃し、残りは州県を略奪した。王彦朗もまた王建を恐れ、上表して大臣が敬瑄の代わりになるよう願った。王建は自ら敬瑄を討伐して贖罪することを願い、詔して永平軍を設立し、王建に節度使を授け、
韋昭度を行営招討使とし、山南西道節度使の
楊守亮を副使とし、王彦朗を行軍司馬とした。詔して敬瑄が
孟昭図を殺した罪を暴き、官爵を削った。韋昭度は王建をして学射山に駐屯させ、敬瑄は迎撃したが勝てず、また蠶厓で戦ったが大敗した。
龍紀元年(889)、
韋昭度は軍中に至り、持節して人を諭し、開門を約束させた。城を守る者が、「鉄券があるのに、どうして先帝の意に違うことができようか!」と罵った。
田令孜に城中の戸あたり一人を取り立てて城壁の上を防御させ、夜は見廻りをし、昼は濠をさらって薪を伐採した。敬瑄は弥牟・徳陽に駐屯し、城壁をたてて
王建を防いだ。富人をして自ら財の多少を占めさせ、巨大な棒を広げ、不実の者を笞打ち、三日もせずに銭が動くこと市のようであった。王建・韋昭度は城に沿って防塁を築き、簡州刺史の
張造は攻めて橋を断ち切ろうとしたが、大敗して戦死した。
大順元年(890)、王建はしばらく諸州を攻撃して降伏させた。邛州刺史の
毛湘はもと
田令孜の孔目官(司・府に置かれた下級書吏)であり、その配下に、「私は軍容(
田令孜)の期待を担うのに耐えられない。首となって王建に見えるのがいいだろう」といい、そこで沐浴して待ち、吏がその首を斬って降伏した。敬瑄は浣花で戦ったが勝てなかった。翌日、再度戦ったが、将士はすべて王建のために捕虜となってしまった。城中で降伏しようと謀る者は、田令孜が手足切断の刑罰を課したから民衆を恐怖させた。たまたま疫病が流行り、死人が重なりあうほどであった。
翌年(891)三月、詔して敬瑄の官爵を戻し、
韋昭度を召喚し、
王建を説諭して兵を引かせようとしたが、王建は詔を奉らなかった。帝はさらに王建を西川行営招討制置使とした。王建は敬瑄を捕虜としなければならないと知り、ついに蜀の地を欲することとなり、そこで韋昭度を脅して、「公は数万の軍を率いて賊を討伐しましたが、兵糧はしばしば足りず、関東の諸節度は互いに他国を攻略してその領土を奪い、朝廷は危うい状態であり、軍は遠方で疲弊して、中国を先んじるのにこしたことはなく、公は還って天子のために謀をすべきです」と説いたが、韋昭度は決めることができなかった。たまたま吏盗が諸軍の兵糧を減らし、王建は軍に怒って、「招討吏の謀である」と言い、兵士を放って捕らえ、塩漬けにして軍で食べた。韋昭度は大いに驚き、この日王建に符節を授け、走って剣門を出た。王建は桟道を絶ち切り、東への道は不通となった。そこで敬瑄を急襲し、直属の騎兵を分けて十隊とし、攻撃するところは簡単に勢いを恐れて服従し、堡塁はそれぞれ数百里に及び、間諜を放って城に入らせ、軍の人心を揺さぶった。王建は喜んで軍中に、「成都は「花錦城」と言うが、財宝や女はお前達が自分で取れ」と言い、謂票将の韓武らに、「城を陥したら、私と公が互いに節度使を一日なろう」と言い、部下がこれを聞くと、戦いはいよいよ力をつくした。包囲することおよそ三年、城中の兵糧は尽き、筒に米を入れ、一寸四方の粥が銭二百であった。敬瑄は出家して財貨を民に給付し、兵士を募って麦を麦を刈り取らせ、その半分を収容した。民はまた夜に王建が堡塁に塩を売りに来たが、禁じることができなかった。官吏が殺すことを願うと、敬瑄は、「民は飢えているのに施しがない。生を求めさせるのがいいだろう」と言った。人が互いに殴り合ったり罵ったりすると、敬瑄は止めることができず、そこで斬刑・八つ裂きの二法を行い、またおさめることはなかった。敬瑄は自ら率いて犀浦に出て、二軍を列べて王建を迎え撃った。王建の軍は偽って逃げ、伏兵を置いたから、敬瑄は敗れ、王建は斜橋・昝街の二屯を破った。翌日戦ったが、また一壁を破り、その将を降伏させた。王建は七里亭に駐屯し、敬瑄はこれを攻撃した。王建の将の張武が駆けて城に入り、子城の下で戦い、守備兵は皆騒いだから、勝てなかった。
張勍は浣花営を破り、敬瑄の諸将はあるいは死に、あるいは降伏してまた尽きてしまった。およそ五十戦、敬瑄はすべて敗北し、そこで上表して病を理由として京師への帰還を願った。田令孜は素服で王建の軍に至った。王建は西門より入り、張勍を斬斫使とし、王建は全軍に布告して、「お前たちとともに連年戦ったのは、今日の志のようである。もし邪まに犯す者があれば、私はよく命を全うするようにしよう。だが張勍が斬るところは、私は救うことができない!」と言うと、軍中は粛然とした。敬瑄・田令孜を捕らえ、王建は自ら留後を称し、朝廷に上表した。詔して王建を西川節度副大使、知節度事とした。
王建は敬瑄を新津に住まわせ、その賦税で養ったが、重ねて上表して誅殺を願ったが、答えはなかった。景福二年(893)、王建は密かに左右の者に命じて敬瑄・
田令孜が死士を養い、
楊晟らと謀反の約束したことを述べたから、ここに敬瑄を家で斬った。それより以前、敬瑄は死を免れないことを知り、かつて毒薬を帯に入れていたが、処刑されるに臨んで帯を見ると、毒薬はすでに失われていた。これより王建はことごとく両川・黔中の地を領有した。
李巨川は、字は下己で、
李逢吉の従曽孫である。乾符年間(874-879)に進士に及第した。まさに天下は騒動となり、そこで京師を去って、河中の
王重栄に招かれて書記となった。王重栄は
黄巣を討伐し、檄文や上奏文を書くのは日々混乱していたが、報告を待ってすぐに発したものは、すべて巨川の手になったものであったから、心の中で敏い者だと思い、言はたちまち理にあたっており、近隣の藩鎮は皆驚いた。たまたま賊が敗れて関より出て行って京師が回復すると、人は巨川を助力があったと言った。王重栄が乱で死ぬと、興元参軍に左遷されたが、節度使の
楊守亮が喜んで、「天は先生を私に遺わしたのだ!」と言い、また書紀とした。楊守亮が
韓建の捕虜となると、巨川も械で従わされたが、木の葉に書いて韓建に悲哀を伝えると、韓建は心を動かされ、そこで縛めをとき、幕府に置いた。昭宗が華州に行幸すると、韓建は一州を煩わしたところで昭宗を救うことができないとみて、巨川をして天下に檄文を出させ、糧食の転送を促した。
それより以前、帝は石門にあって、しばしば
嗣延王・
通王を遣わして親軍を率いさせ、大いに安聖・奉宸・保寧・安化の四軍を選んで、また殿後軍を設置し、合わせて兵士二万となっていた。
韓建は衛兵が強く、おのれに利さないことを憎み、巨川と謀り、そこでお上に変事を告げ、八王が帝を脅して河中に行幸しようとしていると告げ、そこで十六宅を捕らえ、厳しい先生を選んで教え導かせることを願い、ことごとく麾下の兵を散らせた。書して再度上奏し、帝はやむをえず詔して裁可した。また殿後軍を廃止し、なおかつ「わざわざ天下が広くはないことを示す必要はありません」と言った。詔して三十人を留めて控鶴排馬官とし、飛龍坊に隷属させ、これより天子の爪牙となる兵が尽きてしまった。韓建ははじめ帝が許さないことを恐れていたから、兵で宮殿を取り巻き、定州行営将の
李筠の誅殺を願った。帝は恐れ、李筠を斬り、兵は解散させた。また、「七国は漢に災いし、八王は晋を乱し、
永王が江南を率いて謀反を謀り、吐蕃・
朱玫が反乱したのは、首謀者が宗室を立てて人望を揺したからです。今王室は多いため、どうして諸王をしてまさに四方に命じさせるべきを、惑わして藩鎮を攻撃しようとするのでしょうか?」と言い、ここに諸王に勅して使者を奉り、ことごとく行在に赴かせた。巨川は日夜韓建を導いて朝廷の臣下とはならず、そこで徳王を立てて皇太子とし、文辞はその悪を覆い隠した。帝が京師に帰還すると、諫議大夫を拝命した。
光化年間(898-901)初頭、
朱全忠は河中を陥落させ、まさに潼関を攻撃しようとしていたから、
韓建は恐れ、巨川をして往かせて朱全忠の軍に行かせてよしみを結ばせ、そこで現在の利害を説いた。朱全忠の属官の
敬翔は文章によって朱全忠の左右に仕えていたが、巨川が朱全忠に用いられて自身の立場が失われることを疑い、そこで欺いて、「巨川は本当の奇才ですが、振り返ってみますと主人に不利なことばかりしています。いかがなものでしょうか?」と言ったから、この日、朱全忠は巨川を殺した。
最終更新:2024年06月04日 00:42