巻二百二十五中 列伝第一百五十中

唐書巻二百二十五中

列伝第一百五十中

逆臣中

李希烈 朱泚


  李希烈は、燕州遼西の人である。幼くして平盧軍に軍籍があり、李忠臣に従って海に浮かんで河北で戦って軍功があった。李忠臣が淮西に移動となると副官となり、光禄卿に任じられ、軍中ではますますその才能の名声が高まった。たまたま李忠臣が荒淫のためその命令に服さず、軍が怒る間を取り持って、李忠臣を追放して上奏した。代宗は忻王に詔して節度副大使とし、希烈を専ら留後とし、また滑亳節度使の李勉に詔して州の所領を兼任させた。徳宗が即位すると、御史大夫に任じられ、そこで節度使に拝命し、その軍を名付けて淮寧とし、重んじられた。梁崇義が叛くと、諸道に勅して討伐に進発させ、詔して希烈を南平郡王・漢南北招討処置使に昇進させ、また諸軍都統を拝命した。梁崇義を平定するのに功績が多く、兵を擁してその地を領有したいと願っており、たまたま山南節度使の李承が後任となったため、なれなかったことから大いに略奪して去った。功績によって検校尚書右僕射・同中書門下平章事に任じられた。

  李納が叛くと、検校司空兼淄青節度使としてこれを討伐した。希烈は軍勢三万を擁して許州に行ったが進まず、李苣を遣わして李納と攻守同盟を結び、密かに汴州を奪取しようと計画し、そこで李勉に説いて道を借りた。李勉は検討した結果問題ないとし、出て陳留に蓄え、梁を治め道を除いて待った。希烈は計画を知って、そこで李勉を漫罵し、李勉は備えを厳重にして守った。李納は遊兵を派遣して希烈を導き、汴州への糧道を絶ち、李勉は蔡渠(陳留の渠水の一部)を治め、東南に引いて贈り物した。希烈は使者を派遣して河北の朱滔田悦らと同盟を約束し、凶悪な気炎が燃え上がった。にわかに朱滔らは自らを互いに王とし、使者を派遣して書簡を送りあい、希烈もまた自ら建興王・天下都元帥と号し、五賊は株を連ねて天下を半ばとした。

  建中四年(783)正月、諸節度使に兵で挟撃・討伐するよう詔し、唐漢臣高秉哲は兵一万人で汝州に駐屯した。到達する前に、賊将は霧に乗じて進み、王師が戻ってくると、賊は汝州を奪い、李元平を捕虜とし、兵を西に向けたから、東都は大いに震撼し、兵士は皆河陽・崤州・澠州に逃げた。留守の鄭叔則は西苑に立てこもり、賊は兵を抑えとしただけで進まなかった。帝は盧𣏌の計略を聴き入れ、太子太師の顔真卿に賊を説諭するよう詔した。すでに派遣されたにも関わらず、また左龍武大将軍の哥舒曜を派遣してこれを討伐させた。希烈は顔真卿に面会して、傲慢にも臣と称さず、左右に勅して朝政を侮蔑し、そこで北は汴州に侵入し、南は鄂州を攻略した。詔があって江西節度使の嗣曹王皋に攻撃させ、蘄州・黄州の両州を陥落させ、賊将の李良韓霜露を白巌を攻撃して、二将は敗走した。

  それより以前、希烈は襄陽から帰還すると、姚憺を留めて鄧州を守らせ、賊はまた汝州を奪い、そこで武関への交通路は遮断させた。帝は陝虢観察使の姚明敭に上津の道を治めさせ、館を設置して南方に通じて財貨を貢納させた。希烈は董待名・韓霜露・劉敬宗・陳質翟崇暉を派遣し、分けて州県を寇掠させ、官軍はしばしば敗れた。哥舒曜は再度汝州を奪取し、希烈は周曾呂従賁康琳を派遣して哥舒曜を防がせた。襄城に行くと、王玢姚憺韋清が共同で希烈を襲おうと謀ったが、失敗して皆死に、韋清は劉洽のもとに逃げた。希烈は恐れて蔡州に帰還し、上疏して罪を周曾らに被せた。帝は赦さず、詔して希烈を斬る者は、四品以上はその官を得て、五品以下は戸四百を与え、民には三年間の免税を賜うこととした。神策将の劉徳信を派遣して節度・観察・団練の子弟を率いて兵を陽翟に駐屯して力をあわせた。李勉を淮西招討使とし、哥舒曜を副とした。荊南節度使の張伯儀を淮西応援招討使とし、山南節度使の賈耽李皋を副とした。劉徳信は陽翟から去って汝州に入って立てこもり、賊は陽翟を奪って、張伯儀の軍を壊滅させた。哥舒曜の戦況は不利で、襄城に駐屯し、希烈はその強勢をたのんで、軍三万を挙げて哥舒曜を包囲した。その当時、帝は西(奉天)に巡狩しており、軍の士気は火が消えたようになって抵抗することが出来ず、城は遂に陥落し、哥舒曜は東都に逃走した。希烈は人となりが残忍で、戦陣に臨んでは人を殺し、血が目前に流れていても、飲食して自若としていた。そのため人は恐れて服属し、死力を尽くした。襄城の勝利に乗じて、汴州に侵攻して入城し、土や木を運んで道を修造しようとしたが、出来ないのに怒り、壕を埋めさせ、「溼梢」と号した。李勉は宋州に逃走した。

  希烈はすでに汴州を根拠とすると、僭称して皇帝に即位し、国号を楚とし、武成を建元した。張鸞子・李綬・李元平を宰相とし、鄭賁を侍中とし、孫広を中書令とした。その地を分けて四節度使を置き、汴州を大梁府として統治し、安州を南関とした。石を染めて璽をつくった。また上蔡・襄城にて折れた車の車軸受けを獲得して、奉って瑞兆としその配下を惑わした。そのため江淮を窺い、兵力を結集して襄邑を攻撃し、守将の高翼は戦死した。ここに汴滑副都統の劉洽は、曲環・李克信の軍十万あまりを率いて白塔に戦うも不利で、劉洽は引き返し、兵卒の柏少清は轡を取って、「公はわずかな不利で北に拠ろうとしていますが、どうしてですか?」と言ったが、劉洽は聞き入れず、夜に宋州に入った。

  賊はしばしば勝利し、ただちに寧陵に迫り、舟に乗っては続々と進み、七十里にわたった。その時、劉洽の将の高彦昭劉昌は共に砦を取り巻いて守り、賊は妖人に風を祈らせ、戦棚(城壁上の防御施設)に放火して燃やし尽くし、濠や塀を登ろうとした。高彦昭は剣を持って塀の上の乗り、兵士を発奮させ、風もまた戻った。劉昌は衆に計って、「兵法では敵の数が倍ならば戦わないのが常道である。賊はやたらに多く、我らは寡兵だ。退いて賊を驕らせるのにこしたことはない。宋州から精鋭を出して、不意をつけば、功はなるだろう」と計った。高彦昭は謝して、「君はしばらく待たれよ。力を尽くしてほしい」と言い、そこで城に登って衆に誓って、「中丞は弱きを示そうとしており、全滅してこうなったら、本当によいのだろう。だが私は防衛のためにいるのであり、勝敗は城主にある。今兵士で重症の者は供養を待っており、棄てて城を去るようなものだ。そこで負傷者は中で死に、逃げる者は外で死ぬ。我が軍は全滅するのだ!」と言い、兵士は皆泣いて、そして拝礼して、「公がここにあるのなら、誰があえて退きましょうか!」と言い、劉昌は大いに恥じた。高彦昭は家牛を殺して軍にねぎらい、兵士は奮戦し、斬首三千級を得た。援軍を劉洽に請い、その部下に手紙を書き、城が危いことを述べた。高彦昭は見て、「君は私を軽んじているのか?」と言い、紙を出して自ら手紙を書いた。劉洽は手紙を得て、喜んで、「勇将は西にあり。私は何を憂うのだ」と言い、兵八百人を選抜し、夜深くに侵入したが、賊は知らなかった。後詰して早朝に城を救援し、兵士は発奮して出撃した。希烈は大敗し、その旗を取られ、斬首は一万を数え、北に追撃して襄邑に到り、賊の兵糧を収容して帰還した。劉洽はその功績を上表し、高彦昭は御史大夫を拝命し、実封百五十戸に封じられた。

  希烈はすでに阻まれて退き、寿州刺史の張建封もまた固始に駐屯し、その両翼を広げて包囲の姿勢をみせた。希烈は恐れ、汴州に戻り、翟崇暉に精兵で陳州を襲撃させたが、再び劉洽に敗れ、損害は捕虜三万で、翟崇暉も捕らえられた。進撃して汴州を陥落させ、鄭賁・劉敬宗・張伯元・呂子巌・李達干を捕虜とし、希烈は逃れて蔡州に帰った。賊の守将の孫液が鄭州を引っ提げて降伏し、帝はそこで孫液を刺史とした。貞元二年(786)、杜文朝を派遣して襄州に侵攻したが、樊沢のために破られ、杜文朝は捕虜となった。その時李皋張建封曲環および李澄は四方面からその地を攻略し、勢いは日に日に弱まり、希烈は気鬱となったが敢えて揺らがなかった。牛肉を食べて病となり、親将の陳仙奇が密かに医者に毒を盛らせて死んだ。

  それより以前、希烈が汴州に入ると、戸曹参軍の竇良の娘が美しいのを聞いて、無理やりこれを奪った。娘は振り返って、「心配しないで。私は賊を滅ぼすから」と言い、後に寵愛があり、賊と秘謀を共にし、行動を共にした。陳仙奇が忠勇で用いるべきだと言い、その妻もまた竇姓であったから、義姉妹となることを願い、その夫を囲い込むため、希烈は許諾した。暇に乗じて陳仙奇の妻に、「賊は強いとはいえ、ついには必ず敗れるもの。どうですか?」と言い、竇氏もしばらくして悟った。希烈が死ぬと、子は喪を発せず、諸将を皆殺しにして自立したいと思い、まだ決行していなかった。献上された品物に桃があり、竇氏は陳仙奇の妻に分け与えることを願い、許された。そこで蝋紙を雑果の中に丸めて、謀略を外に出した。陳仙奇は大いに驚き、薛育とともに兵を率いて騒々しく侵入した。子は出てきてただ礼拝して、「帝号を取り去って、淄青の故事のようにしたいと思います」と言ったが、語り終わると斬られ、希烈と妻子の七首を箱詰めして天子に献上し、希烈の死体を市に晒した。帝は陳仙奇の忠節により、淮西節度使に任命し、百姓は二年間免税とした。にわかに呉少誠のために殺され、詔があって太子太保を贈られた。竇氏もまた死んだ。


  朱泚は、幽州昌平の人である。父の懐珪は、安禄山史思明の二賊に仕え、偽の柳城使に任じられた。泚の人となりは偉丈夫で、腰腹周りは十囲で、表向きは穏やかであったが、心内では実は悪虐であった。若くして父の蔭位で推薦され、軍籍にあり、弟の朱滔とならんで李懐仙の部将となった。財を軽んじて施しを好み、だいたい戦って得た者は、必ず配下の兵士に分配したから、兵士の心を動かし、心内に道に背いた悪い心が芽生えた。朱希彩が節度使となると、大変信任された。

  大暦七年(772)、朱希彩が配下に殺されると、軍はいまだ所属が定まらず、泚は境域外に駐屯して、朱滔は牙兵を司り、もっともずるく嘘つきで、そこで密かに数十人に告げて大に軍門で、「指揮官は朱公でないとだめだ!」と叫ばせ、軍は驚いて目を見張り、そこで共に泚に詣で、推薦して留後を司らせ、使者を派遣して京師に到って命を聴いた。詔があって、検校左散騎常侍となり、そこで盧龍節度留後を拝任した。にわかに節度使に移り、懐寧郡王に封ぜられ、実封戸二百を得た。泚は上書して謝し、朱滔の将兵を派遣して西を防御させた。代宗は喜び、手ずから詔して褒賞した。

  その地位にあること三年、入朝を求めた。幽州は始めから逆乱の地であり、李懐仙以来、表向きは臣下として従ったが、しかし入朝して拝謁しなかった。しかし泚は諸鎮に倡し、騎馬三千とともに自ら入衛し、詔があって邸宅を建造して来るのを待った。出発するとたまたま病となり、ある者は帰還を勧めたが、泚は、「私の死体を輿で運ぶことになったとしても、それでもなお京師に行かなければならない」といい、将や官吏はそこで敢えて言わなかった。当時、四方は無事で、天子は日が傾いても政務を取っていた。泚は日があるうちに到り、内殿にて謁見し、車馬二台、軍馬十匹、金綵を非常に多く賜り、士卒は皆賜物があり、宴や賜物は優遇された。泚が来ると、朱滔は後務を司り、徐々に泚の牙軍での影響は削ぎ落とされ、泚は自らが失権したことを知り、朱滔のために売られ、志を得ず、そこで京師に留まることを願った。帝はそのため朱滔に節度留後を授け、そこで防備の兵を分け、それぞれ河陽・永平の兵を分割統治させ、郭子儀が統率した。決勝・楊猷の兵は、李抱玉が統率した。淮西・鳳翔の兵は、馬璘が統率した。汴宋・淄青の兵は、泚が統率した。同中書門下平章事(宰相)に昇進し、出で奉天に駐屯し、禁中の兵を賜り寵遇を受けた。検校司空に移り、李抱玉に代わって隴右節度副大使となり、そこで河西・沢潞行営兵馬事を司った。翌年、遂寧王に封じられた。徳宗が即位すると、鎮所を鳳翔に改め、封戸三百を得た。

  建中年間(780-783)初頭、李懐光段秀実に代わって涇原節度使を兼任させ、移って原州に駐屯した。李懐光が節度使の任に就く前に、泚と崔寧が兵を領して継進していた。涇州の兵士はもとより李懐光の暴虐を聞いていたから、互いに恐れ、劉文喜はそこで軍を偽って反乱し、段秀実を節度使に留任させるか、または泚に所属することを願った。詔して泚は李懐光と交代した。劉文喜は兵二万を合わせて城を乗っ取り、その部将の劉海賓は陳情のために入った。劉海賓は、「仮に劉文喜を節度使に任じれば、臣はその首を斬りましょう」と言ったが、帝は、「お前は誠忠だが、我が節を与えられない」と言い、帰還させ、泚・李懐光に詔してこれを攻撃させ、帝は太官の酒肴を減らして軍に給付した。劉文喜はなおも立て籠もって吐蕃に救援を求めた。吐蕃は軍をおこし、泚と李懐光は回避しようとしたが、別将の韓游瓌が、「戎がもし来たならば、涇州の人は必ず反乱するでしょう。誰が反賊のために身を敵に没することを受け入れる者があるでしょうか。しばらく待ちましょう」と言い、にわかに吐蕃の斥候が高いところに登って涇州の人を招いた。衆は、「始め我らは劉文喜のために節度使を求めたが、天子は討伐して罪を帰すことになった。どうして顔を赤く塗って異俗とすることができようか!」と言い、劉海賓は果たしてその徒とともに劉文喜を殺し、泚の軍を入れた。泚は一人も殺すことなく、このため涇州の人は泚を徳の人とした。詔して中書令を加えられ、駐屯地に戻り、昇進して太尉を拝命した。

  朱滔田悦に同調して叛き、密かに人を派遣して泚と連絡を取り合ったが、河東の馬燧がその書簡を鹵獲し、帝は泚を召してこれを示すと、泚は恐れて死を請うた。帝は、「千里も離れているのに謀が同じなわけはない。卿はどうして謝するのか?」と慰めたが、さらに張鎰を鳳翔の節度使とし、泚を京師に帰還させ、実封千戸を加えたが、入朝させず、宦官が邸宅を監視した。

  李希烈哥舒曜を襄城で包囲すると、涇原節度使の姚令言に詔して鎮兵五千を率いて哥舒曜を救援のため東行させた。宮中を過ぎ、軍は滻水に行き、京兆尹の王翃は役人に軍に供給させたが、粗末な野菜や魚を食べさせるのみで、軍は怒って食べることをよしとせず、群がって、「我らは父母妻子を棄てて敵前で死のうとするところなのに、そこでこのような食事で、どうして身をもって白刃にさらすことができようか?今瓊林・大盈にある倉庫では財宝は山のようにある、なおもどうしてそこに行かないのか?」と言い、そこで甲兵すべてが反旗を翻して呼応した。帝は聞いて、宦官に命じて賜物を持たせて往かせ、一人あたり二縑とした。兵士はいよいよ悖み、宦官を射たが、宦官は逃げ帰った。当時、姚令言はなおも兵と禁中で論じていたが、すでに朝廷に謀反が起こったことを告げられると、そこで馳せて長楽坂に到り、兵に遭遇して引き返し、全兵を引いて姚令言に向かった。姚令言は大いに、「東に向かえば、富貴となるだろう。どうして計を失って族滅の事をするのか?」と叫んだが、衆は姚令言を脅して西に行った。帝はまた使者を派遣して説諭したが、賊すでに通化門に陣を敷き、使者を殺した。帝は普王と学士の姜公輔を派遣して金綵を載せて慰撫した。賊は丹鳳門に迫り、詔して六軍を集めたが、来る者はいなかった。これより先、関東・河北の戦いは不利で、禁兵はことごとく東に向かったから、衛士は宮中からいなくなり、しかし神策軍使の白志貞は市井の人を軍籍に入れて兵としたが、市井にいることを許し、密かに税を取って自らの懐に入れたから、そのため急迫しても皆来なかった。

  帝は苑北門を出て、護衛はわずかに数十人、普王が先導し、皇太子・の二妃・唐安公主および宦官百騎あまりが従い、右龍武軍使の令狐建が数百人で殿(しんがり)とした。夜に咸陽に到り、食事はわずかに数匙のみであった。賊はすでに厳重に諸門で誰何し、士人は古着を着て危険を冒して出て、盧𣏌関播李竦は皆垣を越えて逃げ、劉従一趙賛王翃陸贄呉通微らは帝を追って咸陽に到った。郭曙と童奴は数十人とともに苑中で狩猟していたが、警蹕の声を聞いて、道の左に謁し、帝はこれを労い、従うことを懇望したから許した。朝遅くに奉天に到着したが、官吏は恐懼して門で謁した。渾瑊は数十騎で城に混じり入って宮中に入り、兵を集めて賊を討伐しようとしたが、乗輿が出たのを聞いて、遂に奉天に奔った。ここに人は未だに帝の所在を知らず、三日たって、諸王・群臣は徐々に間道より到ったのである。

  それより以前、姚令言は五門に陣を敷き、衛兵は出ることなく、遂に含元殿に突入し、周囲に、「天子は出ていった。今日は共に富貴をとろう!」と叫び、騒がしく進み、宜春苑を略奪し、諸宮に入った。姦人は乱に乗じて密かに内府に入って財宝を盗み、終夜絶えることはなかった。道路ではさらに強奪し、居人は警備を厳にして自衛した。賊は率いる者がおらず、恐れて少しの間も耐えられず、その昔、泚が涇州で恩があり、かつ軍権を失って久しかったから、用いて反乱しようと思い、そこで謀って、「太尉(朱泚)はまさに囚われているが、もし迎えれば、仕えて助けとなるだろう」と言い、姚令言は百騎あまりを率いて泚に面会した。泚は偽って謙譲して答えず、使者を留めて酒を酌み交わし、軍衆の心を観察した。夜に数百騎がまた行き、泚は軍衆の心を知って偽るのをやめ、そこで軍徒を擁して宮殿に向かい、松明の火は家々を連なって絶えることはなく、観る者は一万人を数えた。前殿に宿り、六軍を統轄した。翌日命令を下して、「国家の有事は東方にあり、涇の人は難に赴こうとしたが、朝廷の礼儀作法に習熟しておらず、乗輿を驚かせてしまった。百官は三日以内に行在に赴くか、留まる者は本司を守れ。命令に違えば誅殺する」と述べ、逆徒は白華殿にいた。ある者が泚に天子を迎えるよう説いたが、泚は振り向いては驚いてみせた。光禄卿の源休が来ると、時間があるときに謁見を願い、臣と称さず、詭って符命(皇帝)を称するよう教えた。泚は喜んだ。張光晟李忠臣は職を失って怨みを懐いていたから、また皇帝になるよう勧めた。鳳翔大将の張廷芝・涇将の段誠諫は敗軍三千を率いて襄城からやって来たから、泚は自ら人の助けを得たと言い、謀反の志をかたく決めた。そこで源休を京兆尹・判度支に、李忠臣を皇城使に任じた。また段秀実が軍を失い、恨んでいると疑い、起用して謀を委ねようとした。段秀実と劉海賓は憤り、前に進み出て賊を撃ったが、李忠臣が泚を守ったから、わずかに顔を怪我しただけで、死なずにすんだ。

  翌日、大いに旗章・金石を宮廷に並べ、宗室の王を立てて監国にすると伝言し、士庶は競って見に行ったが、泚が皇帝を僭称して宣政殿で即位し、国号を大秦とし、応天と建元した。侍衛は皆卒伍(分隊)とし、諸臣で職にある者はわずかに十人あまりであり、太常卿の樊系に迫って冊書をつくらせ、冊書ができると薬を仰いで死んだ。泚は詔を下して「幽囚の中、神器が自ら至った」と称し、天命を受けたことを示した。そこで姚令言は侍中・関内副元帥を、李忠臣は司空兼侍中を、源休は中書侍郎を、蒋鎮は門下侍郎、並同中書門下平章事(宰相)を拝命した。蒋諫(蒋錬)を御史中丞とし、敬釭を御史大夫とし、許季常を京兆尹とし、洪経綸を太常少卿とし、彭偃を中書舎人とし、裴揆・崔幼真を給事中とし、張廷芝張光晟段誠諫崔宣・張宝・何望之杜如江らを並んで偽節度使に任じた。兄の子の朱遂を太子とし、朱滔を冀王・太尉・尚書令とし、皇太弟と号した。

  帝は高重傑をして梁山に駐屯させて賊を防がせたが、賊将の李日月は高重傑を殺した。帝は死体にすがりついて泣いて哀悼をつくし、蒲を結んで首をつくって葬った。泚も首を得て、また群賊を集めて、「忠臣だ!」と言って泣き、また三品の葬礼によって葬った。泚はすでに勝利したとして、そこで都の人に、「奉天の残党は一日もしないうちに平定されるだろう」と言わせた。李日月の軍の勢いはすさまじく、自ら敵が前にいないというほどで、そこで陵廟を焼き、御物を鹵獲したから、帝は憂いた。渾瑊は兵を漠谷に伏せ、数十騎を率いて長安を急襲したから、泚は大いに驚き、榻(いす)の前で倒れた。渾瑊は引き上げると、李日月は追尾し、伏兵に遭遇して戦ったものの、李日月は射殺された。泚は痛恨であったが、李日月の母は泣かず、「奚の奴め、天子に背くとは何事だ?死んでも遅いんだよ!」と罵った。

  泚は自ら将となって奉天にせまると、密かに乗輿の物を自らほしいままにした。姚令言を上将とし、張光晟を副将とし、李忠臣を留守とし、蒋錬李子平を宰相とした。ここに渾瑊韓游瓌を率いて泚の攻撃を防ぎ、泚は大敗し、死者は一万人を数え、三里退いて屯営した。攻城具を修理し、家々を壊して百尺の楼車をつくり、その上から下の城中を見た。その時杜希全の兵が漠谷で敗れたため、賊の勢力はますます伸長した。また劉徳信高秉哲が汝州より沙苑の馬五百匹を奪って昭応に立て籠もり、思子陵の西で戦い、三度賊に敗れ、東渭橋に行き、斥候の軍を出して都城に迫った。李忠臣の兵はしばしば敗れて救援を要請したから、泚はそこで城を猛攻し、民を使役して塹壕を埋め、雲梯を造り、壮士を上におらせ、物見垣に接近したから、守備兵は震撼した。渾瑊はそこで侯仲荘韓澄に地道を掘らせ、隧道の梁を落として、火を放って焼き払い、城上より油を撒き散らして流すこと数百歩、泚の軍は混乱して騒然となり、城中から兵を出し、皇太子は督戦すると、賊は大敗した。しかし賊はその軍に敗北しながらも、遂に長期間包囲し、百挺の弩を城中に射て、帝の御座から三歩の手前のところまで届いた。城はますます危急となり、帝は群臣を召して、「朕は宗廟を担い、固守しなければならない。公らの家は賊の地にあり、まず降伏して親族を全うしなさい」と言ったが、衆は涙を流して、「臣らは死んでも二心はありません」と言ったから、帝はまた嘆息して咽び泣いた。城は包囲されること三十六日にして、李懐光が兵五万でやって来て、賊を魯店で破り、遂に城下で夜明けから日暮れまで戦い、賊は潰滅した。帝は下りて戦いを見ていたが、詔を伝令して、「賊衆もまた朕の赤子(せきし)である。多く殺してはならない!」と言ったから、聞く者は感激した。この夜、泚は引き上げた。それより以前、帝は奉天に到り、ある者が賊はすでに朱泚を擁立したから、必ず来攻するとして、防備の備えを願った。宰相の盧𣏌は、「朱泚は大臣である。どうしてその謀反を疑うのか?」と言ったが、泚が城を包囲するに及んでも、帝はついにその発言を詰問しなかった。

  泚が帰還すると、姚令言はまさに攻城具を修理しようとし、李忠臣は各坊の防備を団結させたから、人は皆怨嗟の声をあげた。泚はすべてこれを止めて、「攻守は私が自弁する」と言った。賊はかつて兵士を駆けさせて、「奉天が陥落した!」と言わせたから、百姓は互いに振り返って泣き、市は無人となり、台省の役人は役人がまばらとなり、郎官が一・二人いるだけであった。

  李懐光は九子沢に立て籠もり、李晟は白馬津より来て東渭橋に屯営し、尚可孤は襄州・鄧州の兵五千で藍田に行き、駱元光は昭応を守り、馬燧は子の馬彙に兵三千で中渭橋に駐屯させた。

  それより以前、奉天の包囲が長引き、食料は尽きると、芦を帝の馬の秣とし、太官は糲米二斛だけであった。包囲が解けると、父老は争って壺を献上して餅餌を飽んだ。剣南節度使の張延賞は帛数十駄を献上し、諸方の貢物は踵を継いで到着した。そこで大いに軍中に賜い、殿中侍御史の万俟著に詔して金・商の道を治めさせ、仮に運送を通じさせた。群臣で家が城中にある者は、賊はなお俸禄を給付しており、宦官の朱重曜が賊のために謀って、「その家の者を捕らえて士大夫を招き、来なかった者は殺しましょう」と言ったが、孫知古は惑わして、「陛下は柔をもって人を心服させています。もしその妻子を殺せば、嚮化の意が絶えることになります。また義士が自身を殺してまでしているのに、どうして家を顧みることがありましょうか?」と言ったから、そこで沙汰止みとなった。

  興元元年(784)、泚は本の封地が遂寧で、漢の地であるから、国号を改めて漢とし、天皇と改元した。ある者が、「王師(唐軍)は密かに京城の四隅の垣を壊して侵入しようとしています」と言ったから泚は恐れ、金吾に詔して兵士を巷にあまねく配置し、官吏は五本の松明を設けて夜を防備し、城の隅には百歩ごとに一楼を建て、監視を厳にした。おおむね祠や廟舎にはすべて甲兵を配置し、「軍が来ればただちに四面から撃て」と戒めた。太倉の食料は尽き、賊は官吏に寺観を探させて余米一万斛を得て、鞭打ちして引き離したが、それでも兵士は次第に飢えていき、神策六軍は行在および哥舒曜李晟の兵となって従っているにも関わらず、兵士の家は皆泚より受給していて絶えることはなかったから、ある者が給付の停止を願ったが、泚は、「兵士は外にあって、内にいる弱者や幼い者は食が絶えれば死んでしまう。どうしてそれが我が心なのだろうか!」と言い、そこで厚く居人に納めた。許季常は、「一旦急があれば、宦官・公侯の三千の一族より徴収すれば、財力とするのに足ります」と言った。ある者が泚に、「陛下はすでに天命を受けられていますが、唐の九廟諸陵はまだ存続しています。よろしくないのでは」と言ったが、泚は、「朕はかつて北面して唐に仕えていた。どうしてこれを忍べというのか!」と言った。また、「官は多く欠員があり、才能がある者を択んでこれを授け、脅かすのに兵をもってすれば、辞退できないのではないのでしょうか」と言ったが、泚は、「強制して授けても人は恐れるだけで、ただ仕えたいと思う者にこれを与えるべきだ。どうして戸を叩いて官を拝命することができようか?」と言った。奉天は赦令を下し、概ね賊から偽官を受けた者は、賊が敗れる日にすべて緩めて不問とするとし、官軍は密かに諸道に立て札した。泚はまさに未央宮に宿しようとしたが、涇原の兵士は互いに謀って泚を殺そうとし、泚はこれを知って、直ちに他の処に移ったから、衆の謀はまた止んだ。

  張光晟李懐光は向かい合って立て籠もり、李希倩は精鋭の騎兵五百で攻撃を願い出たが、張光晟は許さず、「西軍はまさに強く、軽率なことをして敗北してはならない」と言った。日が暮れると両軍は退いた。李希倩は泚に謁見して、「張光晟には異心があって、西軍を見ると戦いません。臣に攻撃させてください」と言ったが許されず、張光晟を斬るのを願ったが、また許されなかった。泚が「彼は善将で、戦わない理由は、思うにまだ戦うべきではないと知っているからだ!」と言うと、李希倩は怒って、「臣は心を尽くしてあなたに仕えていますが、信じられないのなら、願わくば淮西に帰らせてください」と言い、泚は許諾し、馬十匹・綾絹や錦が百で、「これで東に帰りなさい」と言ったから、李希倩は恥じて、また入って、「臣が愚かで心が狭かったのでした。罪は死に当たります。願わくば戦場で死なせてください」と言い、泚はまた許した。張光晟は泚に謁見して、「臣は敢えて叛きません」と言って再拝したから、泚は張光晟を鼓舞した。

  官軍は龍首・香積の二堤防を破壊して、決壊させて流し、城中は水が絶えたから、泚は数百人を使役して修理した。東は灞水に出撃して王師と戦ったが、大敗して戻り、都城の門を閉ざし、兵士は皆甲冑を着て待機したが、しばらくして罷めた。李子平は攻城具を修理して李懐光を襲撃しようと思い、苑中六街の大木を伐って衝車をつくったが、労役は非常に苦しく、人は堪えられなかった。また居人の夜行を禁止し、三人以上が集まって飲食できず、上も下も恐懼した。賊が用いたところはただ盧龍軍・神策軍・団練兵であって、涇原軍は驕って制することができなかったから、ただ略奪品を守るのを全うしただけで出て戦わなかった。そのため泚はしばしば敗北し、憂い甚しく、出て逃げようと思った。術家が争って、「陛下が宮から出なければ、西軍が入ったとしても、また自ら変事があるでしょう」と言ったから、泚はこれによって自分自身で安心させた。

  その時、李懐光が帝に二心を懐き、泚を平定しようとは思わなくなり、軍を留めて傍観した。帝は咸陽に行幸したいと思い、諸将を赴かせて賊を捕らえさせようとしたが、李懐光は罵詈雑言を言って、そこで戴休顔に詔して奉天を守らせ、尚可孤に灞上を守らせ、駱元光に渭橋を守らせた。進んで梁州に巡狩し、渭陽に行き、深く嘆息して、「朕がここに行けば、まさに永嘉の乱のように南遷することにならないか?」と言うと、渾瑊は、「大難に臨んで恐れない者は、聖人の勇です。陛下はどうしてこれを過ちだと言うのですか?」と言った。李懐光はついに泚と和を結んだ。京師では帝がますます西に行ったことを知って、二人の謀叛が合わせ固り、乱がまたなったと言い、出て賊の官を受ける者は十人中八人に及んだ。これより以前、泚は多く金を出して、李懐光を兄として仕えた、関中が平定されたならば、地を割いて互いに隣国となるよう約束し、そのため李懐光は謀叛を決意し、そこで陽恵元李建徽の軍を併合した。泚は李懐光が叛いたことが明白であることを知り、そこで詔を賜って待遇を臣下の礼とし、その兵の入衛を促した。李懐光は欺かれたのを恥じ、その軍を率いて東は河中を保持した。泚はしばしば人を遣わして涇原の馮河清を誘ったが、馮河清は従わなかった。またその将の田希鑑と結び、遂に馮河清を殺害して賊に内応させ、泚はそこで馮河清に代わって、吐蕃と結ばせた。

  李晟らの兵は次第に強くなり、兵士はますます付き従い、渾瑊もまた賊将の韓旻宋帰朝を武亭川で撃破し、斬首一万級を数え、宋帰朝は李懐光のもとに逃げた。李晟渾瑊駱元光尚可孤を率いて全軍で賊を攻め、李晟は光泰門に迫って、賊将の張廷芝李希倩を破り、賊は門を放棄して泣いて白華を保持した。李晟は軍を引き上げ、三日いて再度戦い、大いに破った。そこで分けて道に入った。泚の将の段誠諫は草むらで伏兵にあい、王伉に捕らえられた。姚令言・張廷芝は李晟と遭遇し、十回戦ったがすべて敗北し、遂に白華に到った。

  それより以前、張光晟は精兵で九曲に立て籠もり、東渭橋と十里を隔っており、李晟に降伏すると密約した。李晟が入ってくると、張光晟は泚らに出奔を勧め、そこで泚は姚令言張廷芝源休李子平朱遂を擁して残軍を率いて西に逃げ、張光晟は出て李晟に詣でて降伏した。

  泚は道がわからなくなり、野人に聞いた。答えて、「朱太尉か?」と聞くと、源休は「漢の皇帝だ」と言ったから、「天網恢恢、逃げたところで安楽の地なんかあるか?」と返され、泚は怒って殺そうとしたが、逃げ去った。泚は涇州の長武城に到ったが、田希鑑は拒んだ。泚は、「お前の節は私が授けたんだ。どうして私を拒むのか?」と言い、その門に火をつけた。田希鑑は節を炎の中に投げ入れて、「お前の節を返す!」と言ったから、泚は軍を挙げて泣き、城中の人もその子弟を望見してまた泣いた。宋膺は、「某の妻器、斬る!」と言ったから、衆は泣くのを止めた。泚はさらに宿所に留まって、梁廷芬を遣わして田希鑑に入見して、「公は一人の節度使を殺したが、唐の天子は必ず容れることはない。どうして朱公を受け入れずに大事がなるのか?」と言い、田希鑑は心内ではそうだと思った。梁廷芬は出て報告すると、泚は喜んだ。梁廷芬は宰相の地位を願ったが得られなかったから、そこで再び入見しなかった。泚はなおも范陽の兵卒三千あまりと、北は駅馬関に走り、寧州刺史の夏侯英が門を開いて陣を敷いて待っていたが、泚はあえて入らず、そこで彭原西城を保持した。梁廷芬と泚の腹心の朱惟孝は夜に泚を射て、穴の中に落とし、韓旻・薛綸・高幽喦・武震・朱進卿・董希芝は泚とともに斬られ、宋膺をして首を伝えて献上した。泚の死んだ年は四十三であった。姚令言は涇州に逃げ、源休李子平は鳳翔に逃げたが、皆斬首された。泚の婿の金吾将軍の馬悦は党項(タングート)に逃げ、幽州に入ることができた。朱重曜は、泚に仕えること最も昵懇で、泚は呼んで兄とした。たまたま冬に大雨となると、泚は攘災のため鴆毒で朱重曜を殺し、王の礼を以て葬った。賊が平定されると、その死体を出して干し肉とした。李希倩ら諸将も皆相継いで殺され滅された。

  それより以前、源休は京兆尹となって、回紇への使者となり、帰還しようとするとき、盧𣏌はその弁舌がよく主恩を結びつけるのを恐れて、太原に行かせ、奏上して光禄卿とした。源休は怨みを懐き、そのため泚に皇帝の僭号へと導き、兵の食を整え、百官を任命し、事は一々謀った。当時、その泚に謀叛を定めようと、脅して大臣を辱め、多く宗室の子孫を殺し、王師が不利となるごとに、喜んで笑顔となった。姚令言とともに泚に奉天を包囲することを勧め、昼夜賊のために謀し、二人は争って自らを蕭何と比したが、源休は姚令言に振り返って、「秦の統一では、私に相当する者はいない。私が蕭何だとすれば、あなたは曹参にあたるだろう」と言った。図書・典籍を収容し、府庫を蓄えたが、誰に相当するかは、人は皆笑って、「火迫酇侯」と言った。もとは相州の人である。

  姚令言は、河中の人である。始め軍に応募し、涇原節度使の馬璘の府に属した。孟暤が留後となると、厳粛ぶりを表して将軍の任に堪え得る者とみなされ、遂に節度使となった。朱泚を擁立して叛乱すると、すこぶる尽力した。

  彭偃は、進取の器質に優れ、自らを宰相を抑えられる人物とし、鬱々として現職では飽き足りなかった。泚が叛くと、田家に隠れたが、結局登用され、辞令はすべてその手から出ており、その文辞は傲慢不敬であった。

  李晟張光晟の才能を愛し、上表して死を許されることを請い、軍中に置いたが、駱元光は怒って、「私は反虜と同座することはできない」と言い、衣を払って去ったから、李晟は張光晟を殺した。李懐光宋帰朝を朝廷に献じて斬った。ただ李日月の母のみ許された。泚が敗北する以前、その邸宅を潜龍宮と号し、珍宝を移してこれを実のようにしたが、人は「潜龍用いるなかれ(『易経』乾為天 初九)」と言って、滅亡の予兆とした。

  李晟田希鑑の反逆を憎み、事に乗じて誅殺したいと思っていた。その時吐蕃が涇州に侵攻し、李晟はまさに涇原を率いていたから、そのため田希鑑は救援を求め、李晟は史万歳に騎兵三千をつけて派遣し、李晟は辺境の巡邏を願った。田希鑑が来謁したが、その妻の李氏は、父が李晟に仕えていたから、李晟はしばしば宴を開き、まさに軍を返そうとする時、田希鑑に、「私はしばらくここに留まるが、諸将は皆旧友だ。私は酒を置いて別れとしたいと思う。軍営で飲んで過ごそう」と言ったから、田希鑑らは軍営にやって来た。酒が出される前に、李晟は、「諸君と互いに往来してきたが、姓名・爵位・郷里を述べられよ」と言い、諸将は順番に言っていき、無罪の者は座ったままでお構いなしであったが、有罪の者は李晟が責め質し、一兵卒が引き出して、斬って埋めた。田希鑑は李晟のもとに座っていたが、死にあたるかどうか知らなかった。李晟は振り返って、「田郎は無罪にはできないな」と言うと左右の者は田希鑑を捕らえ、李晟は、「天子を流亡させる憂き目にあわせ、節度使を殺し、賊の節を受けたのに、今日何の面目があって私に見えるのか?」と言うと、田希鑑は答えることができなかった。李晟は、「田郎は老いたな。寝台に座られよ」と言い、そこで幕中で縊り殺し、李観を代って節度使とした。

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最終更新:2023年06月24日 03:25
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