董秦
716-784
唐代の武将・藩鎮(第5代淮西節度使)・宰相(在任777-783)・叛将・
朱泚の宰相(在任783-784)。元の名は董秦。幽州薊の人。幼い頃から軍中にあって、安史の乱になると平盧軍先鋒使
劉正臣に従って、
呂知誨を討ち取るなど軍功を挙げ、累進した。
許叔冀が汴州とともに
史思明に降伏すると、同じく降伏することとなったが、河陽に侵攻の際に五百人を率いて包囲をおかして
李光弼に帰順し、李忠臣の名を賜った。
郭子儀が相州を攻めた時、諸将が全軍潰滅する憂き目にあいながら、李忠臣のみ勝利を挙げた。淮西節度使となり、
李霊耀を討伐した。大暦十四年(779)に部下の
李希烈に追放され、長安に逃げると、
代宗はこれを寵愛して、検校司空・同中書門下平章事(宰相)となった。
徳宗が即位すると、多くの人のために巧口によって弁護して命を救った。
朱泚が叛いて帝号を称すると、朱泚によって司空兼侍中(在任783-784)に任命されて長安にあったが、朱泚が敗れると逮捕されて斬刑に処された。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2025年07月30日 08:09