海上の船上のローレライ(中)
「るーみゃー、着いたのなー」
「や、やっとか。は、はぁ‥」
少女は大きく胸を上下させ、息をついた。。
目の前には一つのドア。
ゆっくりるーみあの言う『おにーさん』とゆっくりるーみあが宿泊しているという部屋の前まで少女とゆっくりが辿り着くことができたのは、
少女がこのゆっくりるーみあに出会ってから一時間半以上の時が経過した後だった。
もちろん少女の居た位置からこの部屋までの距離が長すぎた訳ではない。
少女達はきもんげ社長を助け出したその後も、迷子の赤ゆっくり、男の子、腰が抜けて動けなくなっていた老婆、妻とはぐれてしまった男性、
帽子を亡くしてしまったまりさ等、助けを求める人・ゆっくりに何の因果か次々と遭遇し、それらを逐一生真面目に助けて回っていたのだ。
もちろん少女にとってはとことんまで不本意な行為であったことだが。
幽霊とはいえ、流石に疲れたようで、膝に両手を乗せ胸を激しく上下させながら、ゆっくりるーみあに尋ねる。
「本当に‥、この、部屋で‥、間違いないんで‥しょうね‥」
「そーなのなー」
「‥よし!」
少女はすっと顔を持ち上げると、自分の着ているワンピースをパンパンと伸ばし、髪を手で軽く整える。
また、懐からいつかの手帳を取り出して、丹念にどの『恐ろしい台詞』を言うか、項目をチェックして再確認する。
本当に『おにーさん』とやらが幽霊を見ることができる人間ならば、ファーストコンタクトは失敗できない。
なんとしてでも自分のことを『怖い魔女』だと思ってもらわねば困る。
「よし、服良し、髪良し、怖い顔良し、声良し、台詞良し、全ての準備は整った!」
「そーなのかー!」
「よしじゃ行くわよ!!」
「そーなのかー!!」
そしてゆっくりるーみあは何処からか部屋の鍵を取り出し口にくわえ、ドアノブの鍵穴に差込自分の身体ごと回した。
ガチャリ、と鍵が開く音がっし、ゆっくりとドアが開く。
そしてゆっくりるーみあはふよふよ宙に浮きながら部屋の中に入っていった。
「ただいまなのなー」
「ああ、おかえりなさい」
部屋のランクはノーマル。
きもんげ社長のファーストクラスに比べると見劣りはするが、それでも高級ホテルの一室に引けを取らない程度の豪華さの部屋だった。
るーみあに返事をしたのは部屋内に設置されたソファーに腰を下ろした十代半ばほどの少年。
首まで届く男にしては長い金髪、細身の身体に160cmほどの身長、そして黒縁の眼鏡、そして全身をすっぽりと季節に見合わない黒いコートで覆っている。
体育会系とういより部屋で本を読むのが似合っているような文系的な少年だった。
気のせいか顔色は優れていない。こんないつ沈むか分からない揺れに揺れている船に乗っていては当然の話かもしれないが。
「遅かったですね、どこに行ってたんですか?」
歳に似つかわしくない丁寧語で少年はゆっくりるーみあに問い掛けた。
「ちょっと色々見て回ってたのなー。お嬢さんと一緒にー」
「お嬢さん?」
問答に自分の知らない第三者が出てきて、少年は疑問符を口にする、
と同時に。
「私のことだよ‥お兄さん‥!!」
クスクスクス‥、と静かに笑いながら、歳に似つかぬ妖艶な笑みと共に少女は現れた。
少年のすぐ後方に。
「私は‥魔女ローレライ。初めまして。いや、さようならの方がいいかな、お兄さん?」
「う、うわぁ!!」
少年は突然現れた後方の気配に驚き、反射的にソファーから立ち上がり、慌てて振り返る。
そこには、前髪で眼を覆った黒衣の少女が、儚げに立ちながら手に口を当てクスクスと笑っていた。
「い、ひぃいい!!だ、誰ですか!?この人ぉ!!」
大げさなほどに驚きながら少年は眼を見開きながら後ずさった。
(うわぁ、何て理想的な反応をしてくれる人なんだろう)
出来すぎなくらいの反応に少女は満足そうに何回も何回も頷く。
あまりもの嬉しさで顔がにやけてしまいそうだ。
だが、今は我慢の時。折角の機会、とことんまで恐がってもらわないと勿体無い。
「フフフ、さっき言ったじゃない? 私はローレライ。この海に住まう呪われし魔女よ」
「ま、魔女…?」
よし、乗ってきた。
ゆっくりるーみあとはまるで違った反応に満足しながら、少女は更に続ける。
「そう、魔女。聞いたことくらいはあるでしょ? 歌で船を惑わし沈めてしまう恐ろしい魔女の伝説を‥」
「え‥、でもローレライ伝説は海じゃなくてドイツの河川での話だったような‥?」
少年は驚きながらも少女にとって致命的な知識を口にする。
「え‥?」
「え‥」
両者、暫しの沈黙。
少女の前髪がずれてポカーンとしている表情が露見する。
その間、それまで様子を見ていたゆっくりるーみあが
「そーなのかー」
と元気良く相槌を打った。
「と、取り敢えず!!私は魔女ローレライなのよ!!細かいことは気にしない!」
「は、はい!ごめんなさい!!」
少女は気を取り直して、再び前髪で眼を隠し、おどろおどろしく語り始める。
「そして、この船の命運も既に尽きている。私が歌ってしまったからね。終わりの歌を。絶望の調べを。幾千の阿鼻叫喚と共にこの船は間もなく沈む」
「そ、それじゃぁ、この船の沈没は‥、君の所為なんですか?」
「そう、そうよ!私がやったの!凄いでしょ? お兄さんには助かる術はもうないんだよ。
クスクスクス‥、可哀想だよねぇ? 未来を奪われた気分はどう?」
「そっか‥そうだったんですね。やっぱり」
少年は愕きながらも、この船がもうすぐ沈む、その事実を自分の中で数回反芻した。
そして、少女の方を見つめ安堵したような表情でこう言った。
「有難う」
「何を言っても最早手遅れ‥、て、はい!?」
少女は思わず素の声で呆けてしまったが、そんな様子も気にすることなく少年は続けて言う。
「有難う御座います‥、この船を沈めてくれて。これで、僕にも死ぬ口実ができました」
「は、は、はぁ!!ちょっと、お兄さん何言ってるのよ!」
その間、それまで様子を見ていたゆっくりるーみあが
「そーなのかー」
とまた元気良く相槌を打った。
「死ぬって、そ、そんな!確かに私はすっごくこっわい幽霊で魔女だけど‥、すっごく怖い魔女だけど、
だからって、私が目の前に居るからって、自分から死にたがるようなこと言うのは凄くどうかと思うよ!」
さっきまで少年の死を遠まわしに予見するような台詞を言っていたにも関わらず、少女は必死に妙なことを言い始めた少年に詰め寄った。
ちなみに大事なところは2回言いました。
「いや、違います。そうじゃありません。別に貴方の所為で死ぬとかそういんじゃないんですよ!」
「な、ならどうして!?」
少年は俯きがちに、悲しげな表情をしながらその問に答える。
どうやら話している相手がこの世のものではない、ということはあまり気にしていないようだ。
「僕は‥生きてても仕方無い人間なんです」
「な、え、でも、えぇ?」
その間、それまで様子を見ていたゆっくりるーみあが
「そーなのかー」
とまたまた元気良く相槌を打った。
「僕は、今あなたを視ることができるように、小さいころか『霊感』といんでしょうかね。この世界に存在しないはずのモノが視えてしまって‥。
その所為で、友達や、仲間、ガールフレンドなんかとは無縁で生きてきました」
「‥‥ぬ」
語る少年の表情はどこか物悲しげで、どこか自虐的だった。
「独り‥だったんです、ずっと。勉強も‥運動も‥得意な訳じゃありませんでしたし。だから、ときどき思ってたんです。こんな僕が、この世界に存在する意味なんてあるのかって」
その間、それまで様子を見ていたゆっくりるーみあが、
「そーなのかー」
とまたまたまたまた元気良く相槌を打った。
「多分‥僕はずっとこの世界からいなくなりたかった。死にたいわけじゃありませんけど、生きている意味が見出せない。だから、これでいいんです」
そして、深々と少女に向かって頭を下げながら言う。
「だから、有難う、御座います。船を沈めてくれて」
「あ、いや、でも‥」
まさかそんな風に礼を言われるなんて想定していなかったオロオロと戸惑う。
少女はわざわざこの少年に恐がられるためにここまで来たのだ。こんな風に頭を下げられることなんて望んでいない。
「だ、駄目だよ!!そんなこと考えちゃ駄目!お兄さんにも、家族は居るんでしょ!?その人たちが悲しむことなんて絶対しちゃ駄目!!」
戸惑いながらも、少女は真摯に少年にそう訴えかける。ここに来た初めの時とは正反対の台詞だが、このままこの少年をむざむざ死なすというのも後味が悪すぎる。
だが、少年は少女の問に自嘲的に答える。
「一応、居ますよ。父も、母も。だけど、二人とも、仕事で忙しいから。僕のことなんて何とも思っていませんよ」
「そーなのかー」
ゆっくりるーみあは以下略。
「そんなことないよ!だって、お兄さんのお父さんとお母さんでしょ!!だったら、絶対お兄さんのこと大事に想ってるはずだよ!!」
少女は少年の意見に動揺しながらも、真剣に少年の説得を試みる。
もちろん、目の前に居る、ついさっき出会ったばかりの人間の家族の事情なんて、少女が知る由も無い。自分が正しいことを言っている保障なんて欠片もない。
だが、少なくとも少女にとって『親』とはそういうものだったので、その言葉に迷いはなかった。
「どうでしょうかね。本当は‥、今回の旅行だって、あの人たちと一緒に行く予定だったんです。
けれど、あの人たちは、結局一緒に来なかった。急な仕事が入ったから、一人で行って来い、ですよ? そんな程度です、僕の家族なんて」
少年は大きな溜息をつきながら、どこか悟ったような顔をしてやれやれと首を振る。
「あの人たちは、自分達の仕事がうまく回っていればそれでいいんですよ。僕に求められてるのは、せいぜいが自分達の顔に泥を塗らないような無難な人生を送ることくらいでしょう。
僕が死んだら、逆に重荷が減ってせいせいするんじゃないですかね‥」
少年はどこまでも暗く陰鬱な表情だったが、そこに悲しみや怒りといった感情は無い。
本当に、自分にも、家族にも何の未練もないといった風だった。
「ああ、済みません。嫌な話しちゃいましたね。だから僕のことはほっといて‥」
「そぉおなのかぁああ!!!!」
少年の言葉を強制的に中断された。
少年の顔に向かって何かが凄いスピードでぶつかって彼を吹き飛ばしたのだ。
眼鏡は床に転がり落ち、少年は仰向けに倒れた。
「な、なな、何が?」
少年は上半身だけ起き上がらせ、辺りを見渡す。
すると眼をくるくる回しながら床に無造作に転がっているゆっくりるーみあを見つけた。
どうやら先ほど少年の顔面にぶつかってきたのはこのゆっくりるーみあらしい。
そして、ゆっくりるーみあ自信が眼を回して気絶しているということは、彼女自身の意志で少年に体当たりを仕掛けた訳ではないようだ。
ということは、誰かによって無理矢理少年の顔面目掛けて投擲されたということになる。
そして、この部屋で、少年意外に存在するのは‥、
「馬鹿ぁ!!」
「ひ、うひぃ!!」
少女が怒りに任せた大声で叫びながら、少年に対し圧し掛かった。
少女自体に体重はないようなものなので少年に負荷は少しもかからなかったが、少女の怒りの表情が少年の顔すれすれまでに近づいていたので、少年は怯み驚嘆の声を漏らす。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿ぁ!! 何でそんなこと言うのよ!何でそんな酷いこと言えるのよ!この馬鹿!大馬鹿野郎!!死ね!死んじゃえ!!」
「な、何でって‥!!あなたには関係ないでしょう!?」
「うっさい、黙れ!黙れ!黙れ!! 最低だ!あんたみたいな子供は最低だ! 親をそんな風に言う子供なんて死んじゃえぇ!!」
「な‥!!」
初めこそ怯んでいた少年だったが、少女の余りにも一方的な罵倒に耐え切れなくなり、咄嗟に言い返す。
「僕だって本当はこんなこと言いたくありませんよ!!両親なんだ!そんな風に思いたくない!けど、しょうがないじゃないですか!!」
それまで押さえていた感情を爆発させるように、少年は怒っているのか悲しんでいるのか分からない不安定な表情で、少女に対し訴えかける。
「僕の家族なんだ。だから僕が一番分かる。あの人たちは、僕に興味なんてない!僕が何をやったって、顔色一つ変えたことなんてない!
くれるのはいつも上辺だけの言葉ばかり!死人の癖に、幽霊の癖に、君に何が分かるっていうんですか!!」
丁寧語がはずれ、生の感情剥き出しに、それまでの不満をぶちまけるように少年は叫んでいた。
少年の今まで生きてきた孤独感、悲壮感、そういう人生の暗い部分、それら全てが交じり合った主張だったのかもしれない。少年は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
だが、少女はその少年以上の大声で、少年の顔すぐ近くで怒鳴り返す。
「私の!私のパパは、私がボートから投げ出された後、何十分も大荒れの海の中で私を捜して潜り続けたんだ!!
私はとっくに死んでいたのに、私の水死体を見つけ出すまで、何回も何回も!!」
それは、少女にとって、何十年経とうと決して忘れられぬ悪夢。
少女が死んだ直後の記憶。
「それで、私のママは私の死体の前で、何時間も泣き続けたんだ!!喉がいかれて、かすれ声しか出なくなっても、何度も私の名前を呼び続けたんだ!!
私は目の前に居たのに、私だって、何回もママを呼んだのに、その声は一個も届かなかった!!」
その光景は今も色あせぬまま少女の魂に刻み込まれている。両親の胸を抉られるような嘆きの声と共に。
そして、自分が死んでしまったことで、大切な両親の心に一生癒えないような傷を与えてしまったという、決して拭うことのできぬ罪悪感も。
だから、少女は、本当に我慢できなかった。
親が悲しむはずないと断言する少年の言動も。
親より早く死ぬことを望んでいる少年の態度も。
「で、でも僕は‥」
自分の両親は君の両親とは違う。少年はそんな反論をしようと口を開けたが、思い改まり言葉を止めた。
気付いてしまったからだ。
目の前の少女の眼からは、既に大粒の雫がボロボロと流れ落ちていることに。
当たり前だ。自分が死んだ時の記憶なんて、少年には想像できないほど辛いものに違いない。
「だからさ、だからさぁ‥」
涙に枯れた声で、少女は先ほどの叫びとは遠くかけ離れた小さな声で、呟くように言う。
「駄目なんだよ。子供は死んじゃ駄目なんだよ‥」
そして、少女はその言葉を最後に、本当の子供のように大声で泣き始めた。
少年は気まずそうな、少し後悔したような表情でその少女を見つめた。
「僕は‥」
「分かるなー?お兄さん」
そんな状態の少年に声をかけたのは、床に転がったままのゆっくりるーみあだった。
「知ったかぶりは、格好悪いなー。そして、女の子を泣かすのは、最低なー」
少年は複雑な心境で、目の前で泣きじゃくる女の子を見て。
「はい‥、そうですね。本当に‥」
素直に、静かに、ゆっくりと頷いた。
数分後。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
少年は気まずそうな顔で少女の頭があるはずの位置を撫でながら、そう謝り続けていた。
「べ、別に。ひっく、お兄さんに、ひっく、謝ってもらう、ひっく、義理なんてないもん!!」
少女は拗ねる様にそっぽを向きながら、涙で後が付いてしまった眼を両肘で必死にこすっている。
もう気分は落ち着いたようだが、頭を撫でられるのはどうも慣れないようで、涙をこすると同時に片手で少年の手を払いのけようとしている。
もちろん、実体の無い彼女の腕は少年に当たることなく空を切るだけだが。
「そーなのかー!」
ゆっくりるーみあは相も変わらず元気な笑顔で相槌を取った。
「僕が‥馬鹿でした。ここに居もしない人のことであれこれ一人勝手に悩んじゃって‥。責めて、死ぬ前に僕の気持ちをあの人たちに伝えなきゃ、あまりにも筋が通らない」
「ふんっ、別に死んだって構わないもん!寧ろくたばれ!」
少女が少年を睨みつけながら悪態をつく。
「そーですねー」
「え?ちょっと、どうしていつもみたいに『そーなのかー』じゃないんですか? そんな『マジ死ね』みたいな意で聞こえるんですけど」
「マジ死ねー」
「標準語!?」
「ふん、でもまぁ、助かりたいとか思い直したんなら、とっとと救命ボートに乗り込みなさいよ!まだ出てないボートも残ってるでしょ」
少女はツンと顔を少年の方から突っぱねて、厳しい口調でそう言った。
「あぁ、あ~、そうですね。そうしたいのは山々なんですが‥」
少年は歯切れの悪い言葉でそれに返す。
「何よ?」
「えっと、御存知ありませんか?」
そして少年は、気まずそうに、だが正直に少女に現実を突きつけた。
「このゆイタニック号にはですね、乗客の半人分しか救命ボートが積まれていなくてですね‥、多分もうこの船には残っていませんよ?」
「は?」
ピシッ、と少女の顔が半分ほど引きつる。
「そーなのかー!」
ゆっくりるーみあだけはいつも通り、自体をまるで分かっていないかのような相槌を打った。
少女は、デッキのフェンスに身を寄せながら、何も言わずに暗い海面を見つめていた。
傍らには少女に付き添うように、ゆっくりるーみあがいつも通りの暢気な顔で宙に浮いている。
船は先ほどから揺れは益々大きくなってきており、残された時間が少ないことを残酷に船に残る乗客に示していた。
少女の頭で、ほんの数分前にあの少年から聞いた言葉がまた再生される。
『何かけっこう偉そうなクルーの人の立ち話を横耳立てちゃいましてね。本当に、半分しかないみたいなんです。救命ボート。
だから、それに乗って助かることができる人数も、最大で今の乗客の半分だけなんです』
本当だった。少女が全速力で救命ボートが設置されている甲板に出た時には、既に救命ボートは一隻も残っていなかった。
『おまけに、電波障害って分かります? 原因はよく分からないんですが、この辺りの磁場が今日に限って特に酷いらしくてですね。
救助要請も海保や近くの船舶に伝わってるかは微妙なところらしいんですよ。もちろん、僅かな電波を拾っていてくれているかもしれませんが、可能性はどうも低いみたいです』
船上に、救命ボート以外の脱出手段なんてある訳がない。
そして、救助も当てにできない。
だから、多分この船の中の命の殆どの運命は既に決まっているのだろう。
救命ボートに乗り切れなかった何百人もの乗客は、
あと数時間で海の下へと沈む。
かつての少女と同じように。
少女は、今日自分と出会ったゆっくりや人間について思い起こした。
我が子を抱き深々と頭を下げお礼をしていた女性。
ゆっくりゃと幸せそうに頬合わせをするゆっくりさくや。
アニマトロニクスの下敷きになっていたきもんげ社長。
自信の妻を抱きしめる男性。
親子で泣きながら擦り寄っているゆっくりれいむゆっくりまりさ達。
覚束ない足取りでそれでも懸命に避難していた老婆。
あのゆっくりと人間たちは、無事救命ボートに乗ることができたのだろうか。
それとも、今でもこの沈み逝く船の上で恐怖に怯えているのだろうか。
そして、先ほどの『お兄さん』。
『けど、何とかして生き残ってみますよ。方法に心当たりなんてありませんが。君を泣かしてしまった責任くらいは取らなきゃいけませんしね』
彼は、彼らは、もう本当に助けることができないのだろうか。
全員が助かるなんてムシの良い展開は、まず有り得ないだろう。
彼女が知っている何人かは、このままでは確実に命を落とす。
いや、こんな大きな船が氷山と激突し、沈没する未来が確定した時から、多かれ少なかれ被害者が出てしまうことは決定付けられていたようなものだ。
それこそ、少女が上空から氷山と激突したこの船を見て大笑いしていた時から。
あの時は、それでも良いと思っていた。
このパニックを機に、何人かの人間やゆっくりが自分の存在に気付いてくれれば、彼らが死のうが生きようがどうでもいいと。
だが、どうも駄目なようだ。
海の上で、誰かが死ぬ。
そんなもの、もう二度と見たくはなかった。
誰かが死ぬのが嫌なのではない。
大切な人を失って悲しんでいる誰かの叫びなんて、
自分にとって、あまりにも重すぎる。
そんなもの、もう二度と聞きたくない。
だから、少女はある一つの決意の元、フェンスの外へ身を乗り出し、遠くに広がる水平線を、眼を細めながら見据えた。
「何処にいくのなー?」
少女の側を浮いていたゆっくりるーみあが淡々と尋ねる。
「ちょっと、この船を救いに」
少女はこれから行おうと思っていることをシンプルに正直に口に出した。その台詞に迷いはない。
「無理なー」
ゆっくりるーみあは『そーなのかー』とは言わず、またも淡々と少女に対し否定の言葉を投げかけた。
まさかゆっくりるーみあに全否定されるとは思っていなかった少女は少し驚きながらも、反論する。
「無理なんてことないわ。だって私はローレライ。呪われし魔女なのよ?」
「けど、お嬢さんにそんな力はないなー」
ゆっくりるーみあの態度はあくまで冷静だ。いつものような天真爛漫な笑顔と相槌とは随分イメージが違った言葉を少女に対し投げかける。
「だって、お嬢さんがこの船を沈めたって、氷山と激突させたっていうのは、全部嘘なのなー」
「あー、あらら‥、ばれてた?」
少女は顔を少し赤らめ恥ずかしがるように頭を掻いた。
「生きている者の命をどうこうできる死人なんて存在しないのなー。死んだ人類に、生きている人類以上の力が出せるはずがない。
こんなたくさんの命が乗っている船を沈めるなんて、どんな偶然に作用しようが死んだ人類には不可能なのなー」
まるで、実際見て知っているかのような口ぶりでゆっくりるーみあは感情を込まない声でそう捲くし立てる。
「まぁ、ね‥」
少女も何度かは試したことがある。
全力で自分の力を使えば船が進む方向をある程度変えることはできたが、本格的にコースを乱す程の進路変更には少女の身が引き千切れるのではないかと思うほどの力が必要だった。
沈めるなんて尚更不可能だろう。
単純に少女の持つ騒霊騒動の力が弱いから動かせない、というよりは、何か見えない力によって少女の力が入りにくくなっている感覚。
少女の存在は、生きている人間に対して、致命的なものまでになったことはない。
部屋に入ってくる風や、小さい羽虫、せいぜいがその程度の影響力。
それでも、自分が沈めたと言ったほうがより恐がってくれるだろうという安易な考えから、この船を沈めたのは自分だと勝手に言い回っていたのだが。
「同じなのなー。死んだ人類に、これから死ぬ運命にある人類の命を救う力なんてあるはずないのなー。おにーさんみたいに、『視える』人類なら、また話は別だけどなー」
「そんなの、やってみなきゃ分からないじゃない」
何となく、ゆっくりるーみあが出鱈目なことを言っている訳ではないということは分かる。
自分の経験上からも、恐らくゆっくりるーみあの言うとおり、自分にそんなに大きな力はない。というより、働かない。
だけど、そうだからと言って、何もせずこのままこの船が沈んでいくところなんて見たくはなかった。
「それに、幽霊は死なない。やってみるだけならタダみたいなものでしょ?」
「そうなー。幽霊に死の概念はないなー」
だけれど、ゆっくりるーみあは続ける。
「幽霊は死なない。だけど、永久不変の蓬莱はこの世界には存在しない。それぞれが、それぞれに見合った消滅の仕方を持っているのなー」
ゆっくりるーみあの眼が少女の眼を見据える。
静かに、それでも圧倒的な威圧感と共に。
「分かる?人間も、ゆっくりも、幽霊だって、いつか必ず『いなくなる』」
夜の闇が、少女の目の前だけ不自然に色濃くなったような気がした。
まるで、ゆっくりるーみあを中心に、闇というものが渦をまき集まっているように。
「分不相応の力を振り回した目の前の幽霊は、まだこの世界に存続できますか?」
少女は暫く声を出すことが出来なかった。
目の前に居るそれが、本当に今までそこに居たゆっくりるーみあなのか、そもそも、この世の生物なのか判断できなくなったからだ。
まるで、ゆっくりというより、夜の暗闇がそのまま凝縮されてそこを漂っているかのような、そんな暗闇の恐怖と空虚さが目の前のゆっくりるーみあから放たれていた。
もしかしたら気を抜いたら自分もこの闇の中に溶けてしまうのではないか、そんな言い寄れぬ不安感が少女の胸を襲う。
それこそが、先ほどゆっくりるーみあが言っていた『消滅』、幽霊である少女がこの世界から『いなくなる』ということへの恐れだということに、少女は気付けなかった。
だが、
「関係ない‥よ。私は、生きている人間を助けに行くんだ」
最初から、自分の存在の安否など計算に入れてない。
「私はやっぱり死んでるからさ。私が消えたって、誰も悲しみようがないでしょ?」
そして、少女はそんな悲壮な決意と共に、黒髪をなびかせてフェンスを飛び越えて海上へ飛び出していった。
ゆっくりるーみあはそんな少女の態度を見て、やれやれと首を振って大きな溜息と共に呟いた。
「るーみあは、そーでもないなー」
ゆっくりるーみあに集まっていたように見えた色濃き闇は、いつの間にか綺麗に失せていた。
そして、デッキに残ったのは神妙な顔で海面を眺めているゆっくりるーみあだけになった。
静かに漂う海面を見つめるそのゆっくりが何を考えているか、その表情から読み取ることはできない。
「ここにいたんですか。探しましたよ」
そんなゆっくりるーみあに対し、後方から声がかかる。
「そーなのかー」
確かめるまでもない。
それは、ゆっくりるーみあが『おにーさん』と呼ぶ、全身を黒いコートで覆った眼鏡の少年だった。
「一人ですか? あの幽霊の彼女は何処へ?てっきりまだ一緒に居ると思っていたのですが」
「海の向こう」
「はい?」
「そして二度と帰らぬ決死の航海の日々なのであった」
「えっと、もっと具体的に教えてくれません?」
だが、ゆっくりるーみあは敢えてその質問に答えず、少年に対し一つの命令を下した。
「だから、るーみあのリボンを、はずしてくれなー」
少年は、その命令の意図を理解すると、驚愕と焦りの表情を浮かべ反論した。
「な!ちょっと、どういう心境の変化ですか!? あなたは人間の生き死にの為にはあの力は使わないっていつも言ってたじゃないですか!?」
「そーなのかー」
「ごまかさないでください!そんなんだから常日頃からいい加減なゆっくりだと思われるんですよ!主に僕に!」
「煩いなー」
真面目に細かいことを追求してくる目の前の少年をうざったそうに見つめ、ゆっくりるーみはドスの効いた声で唸った。
「いつからるーみあに口答えできる程偉くなった? 坊や」
「え‥いやでも‥だって‥」
「るーみあは、煩いって言ったのなー。目の前に居るのは闇を恐れない人類?」
「う‥、済みませんでした。 ‥師匠」
少年はがっくりと項垂れて、目の前に居るゆっくりに頭を下げて謝った。
「それで良し、じゃさっさとしれくれなー」
「はい、分かりましたよぅ」
少年は軽く涙目になった瞳を拭いながら、ゆっくりるーみを抱えるように手を回し、後ろ頭部に結んであった赤いリボンに手をかける。
できるなら、あの状態のゆっくりるーみあは、例え死が目前に迫った今の状況でも、少年にとってあまり見たいものではなかったのだが、こんな風に直接命令されては仕方がない。
少年は器用な手つきで、複雑に縛られている深紅の帯を少しずつほどいていく。
「でも、師匠は誰かの為に何かをするとか、そういう慈善活動とは無縁なゆっくりだと思っていました」
「生きている人類に、助けは必要ないからなー。生きているということは、それだけで大きな力だからなー」
「それじゃ、今回はどうしてです?」
「別に考えが変わった訳じゃないな。だってこれから助けに行くのは死人だからなー」
その如何にも彼の師匠らしい答えに、少年は小さく苦笑しながら最後の結びに手をかけた。
「そういうの、屁理屈って言いません?」
そして、ゆっくりとリボンをひも解いた。
その瞬間、ゆっくりるーみあの金髪は強風に吹かれたようにざわざわと大げさな程なびき始め、
その次の瞬間には、ゆっくりるーみあがそれまで居た位置は深い闇に包まれていた。
そして、その闇はゆっくりるーみあが存在していた場所から球場に見る見るうちに拡大していき、周囲の宵闇にまぎれ一つになる。
星光さえ通ることのできなそうな、濃き黒き深き闇。
その闇は、狂ったように笑いながら少年に対しこう言った。
「へぇ、左様で御座いますか」
最終更新:2009年06月06日 22:10