わからない橙、わかりたい橙 前編

 少年は竹林を歩いていた。雪の吹きすさぶ中、一度迷えば二度と出られないという竹林
をただ歩く。
 傍から見れば完全な自殺行為にしか見えないだろう。何のために、と問われると返答に
困る。
 しかし確実にいえることが一つ、死ぬために歩いているのではない。それだけは確かだっ
た。
 死に相対し生を渇望する。十に満たない少年が出来ることではなかったが、彼にはそれ
を為すだけの理由があったのだ。
 だから歩く。強風に足を取られそうになっても、凍てつく吹雪に凍えそうになっても。
 ただ、一つの目的の為に。



            『わからない橙、わかりたい橙』



 ゆっくり橙の生は恵まれたものではなかった。生まれて直ぐに両親から引き離され、そ
れ以降会うこともままならず、安否すら定かではない。そして"おじさん"から調教と称
する虐待の日々が始まり、それが終わりを告げた今は露店に並べられている。
 ――どうか優しい人に買われますように
 その願いが儚いものであることは橙も理解していた。
 仲間達は誰もが殴られ蹴られながら、
「わがるぅー! わがるがらなぐらないでぇぇぇ!」
 と泣き叫びながら買われていった。
 一匹二匹と数が減っていき、次はとうとう自分の番になってしまう。
 怖そうなおじさんや悪戯な子供が覗き込むたびに目を瞑ってやり過ごそうとしてきた。
そして優しそうな人が来ればぴょこんぴょこんと跳ねてアピールをする。
 果たしてその努力が実ったのか、橙の元へと歩いてくる人影があった。
 祭りの夜には似つかわしくない上等な着物を来た老夫婦。優しそう、という感じでもな
くただ覇気がない。しかし自分を虐めなさそうというだけでも橙にとっては良き飼い主に
違いなかった。
 じっと橙を眺める夫妻に段々と期待が膨らんでいく。
「わかる、わかるよ!」
 買ってくれるんだね、と橙は再び飛び跳ねる。
 それを鬱陶しそうに眺めながら的屋の親父が口を開いた。
「へい、らっしゃい! どれでもお一つ十銭。他では中々手に入りませんよ!?」
 親父の声は耳が痛くなる程の大声だったが、相変わらず覇気のない夫妻。妻は俯いたま
ま、夫の方がぼそぼそと聞き取れる限界くらいの声で喋る。
「これは何かね」
「ゆっくりですよ、ゆっくり! まあ霊夢と魔理沙が有名で、橙は知らない人もいるかも
しれませんがね。何しろこいつら素早いですから、野生で見かけることもあまりないです
からね。その希少なゆっくりがこの値段! お買い得ですよ!」
「逃げたりはしないのかね?」
「大丈夫ですよ、ほれこの通り」
 親父の拳骨が振り下ろされる。形が変形するほどの衝撃が橙を襲った。
「い゛だい゛! わかる、わかるよ!」
「ばっちり調教済みなんでご安心! ストレス解消からお子さんの情操教育までこなす完
璧なペットですよ!?」
 老夫婦は暫く考え込んでいたが、
「一つ貰おうか」
「毎度っ!」
「わかるよ!」 
 ぴょいんと飛び跳ね一回転。殴られた痛みも忘れて老夫婦に買われたことを喜ぶ橙。
 もう殴られることはないんだ。そのことをただ純粋に喜んでいた。

                   *

「なに、こいつ?」
 第一声はそんな台詞だった。
 老夫婦に連れて来られた家は華美にならない程度にあしらわれた品の良い家だった。豪
邸だとも言って言い。
「この子の遊び相手になってくれ」
 そういって通された部屋にいた少年が最初に放った言葉だった。
 色白で背は低くやせ気味の十に届くかどうかといった頃合の少年。髪は綺麗に切り揃え
られ、着物は部屋着にしては高価な布が使われている。普通にしていれば上品な少年で通
りそうな可愛い子なのだろう。しかしそれに反して視線はどこまでも冷めており、意地悪
そうな目つきで橙を睨んでいるのだ。
「わかる、わかるよ!」
「そうか、では頼んだよ」
 二人は少年と目を合わせないようにしてそそくさと部屋を出て行った。
 本当は何もわからない。不安な気持ちで一杯だったが、それでもわかるというように橙
は教育されていた。
 精一杯愛らしく見える笑顔を浮かべて橙は少年に擦り寄っていく。怖そうに見えても本
当は良い人かもしれない。
「わかる、わかる゛っ!」
 そんな淡い期待は振り下ろされた腕と共に儚く砕け散った。
 十畳ほどもある部屋の半分くらいを転がってようやく勢いが弱まる。何とか壁にぶつか
ることはなかった。
「わがっ……わがる、わがるよぉ……」
「何でここに来たのか知らないけど僕に近付くなよ」
 そう言って少年は椅子に座ると本を読み始めた。
 どうすればいいかもわからず橙は部屋の隅で、
「わかる、わかるよ……」
 小さく呟くことしか出来なかった。

                   *

 返品だけはされたくない、それが橙の心を占める思いだった。
 帰ってきた仲間達の姿、それは思い出したくもないほどぼろぼろだった。しかしその弱
りきった仲間達に待つ運命、それを教育と称して見せ付けられたゆっくり達は驚くほど従
順になる。
 自分を買ったのが老夫婦で、彼らは少年の遊び相手になってくれと言った。それならば
いくら殴られようと蹴られようと、自分は少年と遊ぼうとするしか道はない。もし少しで
も夫婦の気に食わないことになった結果、それが返品なのだとしたら例え餡子がはみ出る
くらいに少年に殴られようと我慢出来るのだ。
「わかる、わかるよー!」
「うるさい!」
「あがっ! わがるよう゛!」
 タイミングを見計らい少年に擦り寄ろうと努力する。しかしその度に殴られ、蹴られ、
部屋の隅へと追いやられる。
 広い部屋の隅にぽつんと置いてある机、そこが少年の定位置だった。その対角線が橙の
場所。ただ座布団がぞんざいにおいてあるだけの寒々しい住処だった。
「わかるよー……」
 自分の言葉が少年には届かない。そのことに気が付いていても橙には他に言える言葉が
なかった。

                   *

 橙の一日は緊張と共に有った。
 まだまだ子供で遊び盛りだが、少年は一緒には遊んでくれない。一人で遊ぼうと思って
もうるさくすると怒鳴られて、仕舞には殴られてしまう。いくらゆっくり出来るとはいえ、
何もせずにいるのは橙には苦痛でしかなかった。
 また空腹との闘いもある。朝昼晩と食事はあるのだが、犬の餌と大差のない美味しくな
いものだった。そしてわざとなのかわかっていないのか、成長期のゆっくりには余りにも
量が足りない。こんなものでも長靴一杯食べたいと思ってしまう程に。
 外に出ることを許されない橙は、虫や草花で飢えを凌ぐことも出来ない。清潔に保たれ
ている家屋には油虫さえ存在しない。腹の足しになりそうな虫を見つけることは出来なかっ
た。
 それに比べると少年の食事は毎食豪華だった。肉や魚という幻想郷では割と貴重な食材
がふんだんに使われ、揚げ物や刺身、そして橙には見たことのない外の世界の食材すら食
卓に並ぶことがあった。
 食卓、といっても食事は全て女中によって部屋の前にまで運ばれて、その膳を少年が机
に運んで食べているだけであった。
 その時間は橙にとっては辛いものになる。ただでさえ空腹の橙を食欲を誘う香しい匂い
が襲うのだ。それだけで涎が間断なく流れ落ち、住居である座布団を汚していく。
「わひゃる、わひゃるよー」
 涎で言葉も上手く喋れない。もう食事を分けて貰おうと擦り寄ることさえ無駄だとわかっ
ていても、期待して見つめることだけは止められなかった。
 しかし広い部屋の対角線にいる彼がその視線に気が付くことはない。
 辛いことがもう一つ。少年は食事中に何度も席を立つのだ。まるで橙を試しているかの
ように、何度も何度も。
 もしその隙を付いたならば、自分もあの料理が食べられるかもしれない。そんなことを
考えてしまうのが何より辛いのだ。
 絶対に食べられないならばまだ諦めが付く。だが誘われるように机にふらふらと近付き
その度に戻ってくる少年の足音で慌てて座布団へと取って返す。
 それが一日三回、毎日繰り返される。
 少しづつ、少しづつ、橙のたがは緩んでいった。

 偶然とは重なるものだ。その日は朝から夫婦がおらず、橙は全く食事にありつけなかっ
た。女中は少年の食事は運んでくるが、橙のことは見ようとすらしない。
 朝昼と我慢はしていたが、夜になる頃には中身の餡子がなくなってしまったんじゃない
かと思うほどに絶望的な空腹感が橙を襲っていた。
 今晩も少年の食事は豪華なもので、本人も気付かないうちに橙は少しづつ少年に近付い
ていった。
 今日も少年は席を立つ。近付いていた橙に気付かないまま部屋を出て行った少年に橙は
最大のチャンスが訪れたことを知る。
 この位置ならば一品だけ料理を取って座布団まで引き返せば、少年に気付かれない可能
性は高い。
 駄目だ、ばれたら返品されるかもしれない。
 そうは思っても体は止まってくれなかった。気が付くと机の上に乗って料理を物色して
いる。
「わかる、わかるよー!」
 どれもこれも美味しそうな料理ばかりだ。こんな料理でも少年は残すことが多い。
 橙なら絶対全部食べるのに、といつも思っている。だから少年が残しそうな料理には目
星が付いている。香ばしい匂いの揚げ物、それが橙の狙いだった。ボリュームもあり、そ
して物凄く食欲をそそる匂い。さらに少年が口にしない定番の料理。
 これならきっと大丈夫だ。そっと舌で掴んで隠れよう。そんな思考が残っていたのは料
理が舌に触れるまでだった。
「わかる、わかるよー!! しあわせー! おいしーよー!」
 一つだけ、そう思っていたのがもう一つ。もう一つだけと際限なく繰り返される。それ
ほどまでに衝撃的だった。例え空腹でなかったにしろ結果は同じだっただろう。
 引き戸の立てる音、それが天国にまで上っていた橙の気持ちを地に落とした。
 ゆっくりと振り返ると少年があの怖い視線で見つめていた。
 ぽろりと口から食べかけの料理が落ちる。それが床を汚していることにすら橙は気付く
ことが出来なかった。
 近付いてくる少年の一歩一歩の足音が死刑宣告の如く聞こえた。
 伸ばされた腕に思わず目を固く閉じたとき、
「へぇ……お前饅頭の癖にこんなもの食べるのか。餡子しか食べないと思ってた」
「…………?」
 恐る恐る片目を開けるが、少年の顔は意外だというだけで他意を感じない。
「た、たべるよー。なんでもたべるよー」
 それはもっと食べたい、ということもなく反射的に答えただけだった。
「ふーん……ほら、あーん」
「あ、あーん……むぐむぐ、しあわせー!」
 口の中に揚げ物が放り込まれる。最初に広がる油の甘さ、そして咀嚼した瞬間に口一杯
に感じる肉汁。噛むたびに肉の歯ごたえと共に感じるのは肉本来の旨味。そしてそれを引
き立たせている塩と香辛料。橙はもう死んでもいいと思ってしまうほどの多幸感に包まれ
ていた。
「ほら」
「あー、んぐ……むーしゃむーしゃ……わかる、わかるよおおおお!」
 続けざまに放り込まれた白米。始めはこの美味しさの邪魔をしないで欲しい、そう思っ
ていたのも束の間、絶妙に絡み合った白米と肉の味が引き立てる味の調和に舌鼓を打つ。
「わかるよー! しあわせ、しあわせのくりかえしだよー!!」
「ほら、まだまだあるぞ」
 次々に放り込まれる料理。しかし無理矢理詰め込まれることはなく、時としてお茶まで
飲ませてくれる。
 少年が何を考えているのかはわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。
 ただ橙はこの天国のような時間をいつまでも感じていたいと、それだけを願っていた。

                   *

 その日から少しだけ少年の橙の扱いが変わっていった。
 まず少年の食事を分けてくれるようになった。橙にとって最も嬉しい変化である。食事
毎に天にも昇る気持ちになって「しあわせ、しあわせ」と叫ぶ橙をどう思ったのか。少年
の橙に対する反応は薄かったが、決して悪いものではなかった。
 思わず飛び跳ねてしまった時、怒られると思っておずおずと少年の顔色を伺ったりもし
た。しかし少年は無言で視線を逸らすだけで、橙を殴ったりはしなくなった。
 運動が出来る、それも橙には喜ばしいことだ。あくまで少年が怒らないように、控えめ
なものだったが、布団の上を転がったり、押入れの上部から布団に飛び降りたりとうるさ
くならない遊びを考えてははしゃぎ回る。少年はそんな橙の姿を黙って見ているだけだ。
 そして遊び疲れた頃には美味しい食事が待っている。最早返品を恐怖することはない。
 少年のことはまだ"わからない"が段々と橙は気を許すようになっていた。

「たのしいよー! すっごくわかるよー!!」
 落下遊びは段々と高さを求めて行き、今では天井の梁からのダイブを決行していた。少
年の布団は幾多の橙の重みを吸収した結果、煎餅布団のようになっていたがやはり少年は
怒らない。
 すっかり少年に気を許した橙は段々と少年との距離を縮めていった。部屋の隅の寒々し
い寝床が嫌で、座布団を少年の布団の横へと移動させる。始めは近くで寝ていただけだっ
たが、寝惚けた橙が少年の布団の中に入っても、背を向けるだけで少年は文句も言わず、
手や足をだすこともない。初めて感じる人肌の温もりは、豪勢な食事を食べた時に勝ると
も劣らない幸福を生んだ。

「んーんー!」
 口に咥えたものを少年に見せる。
「何だ、それ?」
「おしいれにはいっていたよ! わかる!?」
「ああ、西洋カルタか。おと……あいつらが香霖堂とかいう店で買ってきたんだよ」
「あそびー? わかるよー、やってみたいよー!」
「やだ。面倒」
「わからないよー? おもしろいかもー! やろうよー!」
 少年は溜息を付く。それでも橙は彼が自分を殴ったりするとは微塵も思わない。
 期待に満ちた橙の視線に負けたのかどうか、少年はトランプの中身を取り出すと、カー
ドを裏返しにして並べていった。
「神経衰弱。わかる?」
「……?」
「こうやって、こう。一枚ずつめくって同じ数字だったら取る。間違ってたらまた裏返す。
最後に取った枚数の多いほうが勝ち」
「わかる、わかるよー! たのしそー!!」
 橙はカードをめくれないので、少年が代わりにめくることになる。
「こっちか?」
「ちがうよー。てまえのやつだよ、そうそっち! わかるよね!?」
「はい残念。前の奴で正解でした」
「あー! だめだめー、とったらだめー!」
 ぼふんぼふんと埃を巻き上げて飛び跳ねる橙。そんな抗議も虚しく札は少年の手元に収
まってしまった。
「ずるいよー! わからないよー!」
「ははっ、お前馬鹿だなあ」
 少年は橙と出会って初めて笑顔を見せた。余りにも自然すぎて橙は疎か、彼自身もその
ことに気付くことはなかった。

                   *

 一日中部屋に篭っている少年は床に臥せっていることが多い。そうでない時間も橙が遊
んでいるのを見ているか、そうでなければ本を読むくらいのことしかしていない。
 本来は我侭なゆっくりも、調教の結果人にしていいことと悪いことは完璧に学ばされて
いる。いくら退屈でも空腹でも少年を起こすことはしなかった。
 だから少年が休んでいる間は橙のお散歩タイムが始まる。
 器用に戸を開けると長い廊下をぴょこぴょこ飛び跳ねながら進んでいく。広い屋敷を探
検するだけでも橙の好奇心は満たされる。人とすれ違う時は廊下の隅に伏せ、人が通り過
ぎるとまた飛んで跳ねて転がっていく。
 そうして最後に辿り着くのはいつも縁側だった。
 この家に連れてこられたのは晩夏、しかし今では冬の土用も過ぎ去って、生の気配が薄
れていく灰色の季節になっていた。
「やあ、いらっしゃい」
 縁側に腰をかけているのは橙を買った老夫。冬の日差しを浴びながら橙に声をかけるそ
の老人、しかしあの時の無気力さは払拭され、今は優しげな笑みさえ浮かべている。
 橙は彼を見つけると一段大きく飛び跳ねて、前方にくるくると回転する。そして見事に
着地を決めると、
「わかるよ!」
 といつもの台詞を口にする。
 買われてからすっかり体重の増えた橙の重みに床板が軋みを上げるが、彼は穏やかに笑
うのみだった。
 着地後、ずりずりと彼に擦り寄っていくと節立った手で頭を撫でられる。
「お前が来てから息子が随分元気になった気がするよ」
「……?」
「いや、わからなくてもいいんだよ。おお、そうだお菓子を食べるかい?」
「それならわかるよ! もなか、おいしいんだよ!」
「そうかいそうかい、お茶菓子がわかるのかい。だったら良いお茶を煎れてあげないとい
けないなあ。母さん、済まんがもう一杯お茶をくれ」
 奥に呼びかけると直ぐに老婦人がお茶を運んできた。
 相変わらず女性は口を開かなかったが、橙は彼女もまた自分を歓迎してくれていること
に気が付いていた。
 熱いお茶に息を吹きかけて冷ましながら、美味しいお茶菓子を食べる。それが何より幸
せだった。
 橙は人生で初めて充実を感じていた。殴られないどころか、衣食住が満たされて、そし
て何より自分が必要とされているのだ。その実感は幸福となる。
 辛い過去をも忘れ始め、全てが上手く回っている。
 橙はその時、そう信じて疑わなかったのだ。



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最終更新:2008年08月10日 22:52