わからない橙、わかりたい橙 後編



 その日は朝から身を切るような寒さだった。橙が目を覚ますと布団の中に少年の姿はな
い。人肌の温かさも既になく、少年が橙より半刻以上は早く布団から出ていたことを物語っ
ている。
 寒さに耐えかねて布団から飛び出ると、部屋の中央に置いてある火鉢に向かって擦り寄っ
ていった。まだわずかに熱を孕んでいた火鉢だったが、前日から置き放されているそれは
部屋や橙を温めるほどのものではなかった。
「さむいよっ、さむいよっ!」
 少年が部屋にいないことなど今まではなかったのだが、今日に限ってどこへ行ってしまっ
たのか。橙がいくら叫ぼうとも火鉢に新たな炭火が入れられることはない。
 橙はまた布団まで走り寄って冷たい布団に包まるのだった。

 幸い、凍える前に女中が火鉢の炭を変えにやってきた。今は寒さで固まってしまった皮
をほぐすようにして火鉢の前で伸び縮みをしている。
「わかるよ~」
 普段は元気な橙もこう寒いと部屋から出ようという気も起こらない。お腹は減っていた
が、少年が帰ってくればきっと美味しいご飯が待っている。そう思えばこの時間も決して
苦痛なものではなかった。
 部屋から寒さが払拭されてから更に一刻。窓のない部屋ではわからなかったが、橙の体
感ではもう昼を回っているだろうという頃。音もなく開けられたはずの引き戸、しかし橙
は敏感にそれを聞き取っていた。
「わかるよっ!」
 素早く振り向くとそこには違わず少年の姿があった。
 ぴょんぴょんと跳ねながら少年に近付いていく。部屋は暖まっていても、朝から一人で
過ごして募った寂しさが橙の心に寒風を吹かせていた。少年に抱きしめてもらおう。その
後でご飯を食べさせてもらおう。そう思って少年に飛びつく――
「むぎゅっ!」
 ことは出来なかった。少年は橙を避け、体はそのままの勢いで壁にぶつかる。
「いだい、わがるよー!」
 これは少年の悪戯なのだ。そう思った橙は何度も跳ねて少年に抗議する。しかし少年の
目は初めて会った時のような冷たい視線で橙を睨みつけていた。
 わからない、何でそんな目で自分を見るの?
 少年が不機嫌であることはわかっても、その原因はわからない。それでも橙は、今まで
彼と過ごしてきた時間を忘れなかった。
 ぶっきらぼうな少年だったが、毎日一緒に食事をして、毎日遊んで、毎日一緒に寝てい
たのだ。
 いつの間にか橙は少年のことを大好きになっていたのだ。
「……わかるよー?」
 じりじりと橙は少年に近付いていく。もう抱いてもらうこともご飯のこともどうでも良
かった。ただ少年の怒りを静めて上げたい。その一心だけだったのだ。
「わがる゛っ!」
 しかし少年の対応は無情にも鉄拳を降らすというものだった。
「うるさいよ、黙ってろ」
 手の形が残るほどに殴られて橙は部屋の端まで飛んでいく。
「いたい、いたいよっ! なんでなぐるの!?」
 それでも橙は少年に擦り寄っていく。殴られることよりも少年が怒っていることの方が
悲しかった。
 何度も何度も殴られ、蹴られ、中身の餡子が飛び出しそうになる。それでも橙は少年に
擦り寄るのを止めなかった。
「おこらせたならごめんなさいぃぃ! だからおこらないでぇぇぇ!」
 とうとう橙は泣き出してしまう。殴られるのも蹴られるのも生まれてから何でも経験し
ていた。それでも橙は知らなかったのだ。
 大好きな人に殴られることがこんなにも"痛い"なんてことは。
「怒る? この僕が? はっ」
 だが少年は底冷えするように笑うだけ。
「わかる、わかるよ! きげんをなおしてね!」
「何か勘違いしてるみたいだけど、別に僕は怒ってないよ」
「おこってない……? だったらなぐらないでね!」
 橙と視線を合わせるように少年は屈み込む。その表情は優しげでさえあった。
 許してくれる、そう思った橙に突きつけられた言葉。それは、
「もうお前には飽きたんだ」 
「わ……わか、わ……」
 わからない、そう言いたくても橙にはその言葉はいえない。そう教育されているのだ。
だけれど橙には本当にわからないのだ。少年が何をいっているのか。何でそんなことを
言うのか。だって昨日まではあんなに楽しく遊んでいたのに。
「僕はお前なんか潰して饅頭にでもした方がいいって言ったんだけどね。なあっ?」
 少年以外の人間がその場にいたことに橙はようやく気が付いた。
 五尺に満たない少年と違い、その人間は優に六尺に届くかという巨躯だった。農作業に
従事するもの特有の、浅黒く締まった体付き。歳はまだ少年と言える頃合なのだろうが、
この部屋の主とは一回りも二周りも大きい。橙から見れば怪物のようだとも言える大きな
人間だった。
「僕は飽きたけど、友達が欲しいって言うんであげることにしたんだ。良かったな、饅頭
にならなくてさ」
 嘲笑を上げる少年。その瞳はもう橙を映してはいなかった。
「ま、まってほしいよ! そんなこといわないでいっしょにあそぼうよ!!」
 諦めずに少年に擦り寄ろうとした橙を、浅黒い腕が捕まえる。少年の細腕とは違い、い
くら暴れてもびくともしなかった。
「わかるっ、わかるよ!! わかるからそんなのやめてね!!」
 橙は動けないまま叫び続ける。
「何だよお前、何もわからない癖に……わからないって言えよ!」
 少年は橙を殴りつける。それでも橙は「わかるよ」と言い続けた。
「……いい加減に鬱陶しいな、そいつ黙らせろよ。これからはお前が飼い主になるんだか
らな」
「ひっぐ、わが、わがるよ。わがるからずでないでぇ!」
 二人の少年が黙って見詰め合う中、橙の泣き声だけが部屋に響いていた。
「わかった。黙らせないなら僕が出て行くよ。じゃあな」
 少年は一人部屋を出て行く。そして遠くから玄関の扉が閉められる音が聞こえた。
 それは橙にとっては果てしなく重い事実だった。こんなにも暖かい部屋を出て寒々しい
外に出るほど自分は嫌われてしまったんだと。
「うっぐ……わがるよぅ、わがるよぅ!」
 わからない、わからないよ! 口に出来る言葉と心の中の言葉は正反対。
 橙はさめざめと泣いた。いつの間にか少年の腕からは抜け出していた。
 どれだけ時間が経ったのかもわからない。涙で皮がふやけるほどに泣いた頃、頭上から
聞こえてくる言葉があった。
「お前、あいつのこと好きか?」
 橙の顔を上げさせたのはそんな言葉だった。

                   *

 少年は竹林の中で倒れていた。積もった雪に埋もれて、緩やかな死を迎えようとしてい
る。生まれつき体の弱い少年がここまで来れた事だけでも奇跡だと言える。
 最早少年には体力は残っておらず、急速に体温は奪われていく。
 それでも少年は立ち上がった。最早自由にならない体を引きずって、再び前へと進んで
いく。
 永遠亭に住む医者、八意永琳に会うことが少年の目的だった。しかし歩けど歩けど永遠
亭に辿り着くことはない。一度歩いた道のはずが千変万化し、まるで迷宮のように行く手
を遮ってしまう。
 もう駄目だ。再び少年が倒れこむ寸前、気が付くと耳を劈く風の音が止んでいた。辺り
を見回すと吹雪が何故か止んでいる。
 そこは永遠亭の前だった。
「無茶をしたわね、坊や」
 少年の前にはいつの間にか女性が立っていた。黄昏の紅と宵闇の碧を身に纏ったその女
性、彼女こそが永遠亭の医者、八意永琳だった。
 少年は我に返ると、声にならない声で叫ぶ。
「僕、お願いがあって来たんです!」
 永琳は、やっぱりね、と深い溜息を付いた。
「手術をして欲しい、って言うんでしょ。残念だけど……そのお願いは聞けないわね」
「何でですか!?」
「前にもいったはずよ。この手術に貴方の小さな体じゃ耐えられない可能性が高い。成功
率も良くて一割。貴方の両親はそんなこと望んでいないわ。体の成長を待てば、手術にだっ
て耐えられるようになるかもしれない」
「嘘だっ! 僕は昨日聞いたんだ! もう一年保たないって!」
「……貴方、前にも言っていたわね。成功率が低い手術だって説明した時にも、同じよう
なことを。自分で何て言っていたか覚えている?」
「そっ、そんなこと関係ないです!」
「いいんです。例え失敗しても両親が楽になるならそれで……ね。泣かせるわね、その歳
でそこまで考えられるなんて」
「あの時は……っ!」
 永琳は少年を真正面から覗き込む。 
「貴方、もう里の方では噂になっているわよ、家出をしたってね。それで今回はペット?
よくやるわよね。だけど……いや、だからこそ手術はしてあげられないわ。残念だけども
う帰りなさい。ご両親が心配しているでしょうから。……ウドンゲ!」
 永琳に呼ばれて現れた紅い瞳の月兎、鈴仙・優曇華院・イナバが少年に近付いていく。
「ほら、送っていくから帰りましょ?」
 逃げようとする少年だったが、もう体が思い通りに動きそうになかった。
 手をつかまれる寸前、目を固く瞑る少年。しかしいつまで経ってもその腕が掴まれるこ
とはなかった。
 代わりに聞こえてきた一つの言葉。
「わかるよ!」
「え……?」
 目を見開いた彼が見たものは猛烈な勢いで鈴仙に突進する橙の姿だった。
「あいたー!」
 脇腹に痛打を受けた鈴仙はそのまま尻餅をついてしまう。
「ウドンゲ、他には誰にも入れるなっていったでしょ?」
「え? え? 私はちゃんと……」
 橙と永琳との間を忙しなく視線を動かす鈴仙。そんな彼女に永琳は説教を始める。
 そんな二人から離れた場所で、少年は橙と向き合っていた。
「お前、何で……」
「わかる、わかるよ!」
 橙は何度も飛び跳ねる。まるで自分の気持ちを伝えられないもどかしさに耐えるように。
「うるさい! お前なんかに僕の気持ちがわかるわけないだろ!」
 少年の口からは思ってもいない言葉が迸る。それでも橙は怯まなかった。
「わかる、わかるんだよー!」
「じゃあ当ててみろ、僕が何を思っているのか。今すぐに、さあっ!」
 怒声を浴びせて睨みつけると橙の瞳に涙が浮かぶ。良心がちくちくと痛んだが、もう止
まらなかった。手術はしてもらえない、ならばこの嘘は本当にしなければならないのだ。
例え橙と和解したとしても直ぐに自分は死んでしまう。それならば友人に可愛がってもら
うのが一番なのだ。
 顔をくしゃくしゃにして泣く橙にさらに畳み掛ける。
「どうなんだ!?」
「わ、わ……わからないよ……」
 怒鳴りつけると橙は萎縮したように顔を伏せた。少年は橙が始めて「わからない」と言っ
たことに気が付かなかった。
「ほらみたことか! わからない癖に勝手なことを言うな! 誰も僕の気持ちなんてわか
らないんだよ!」
 涙と鼻水で皮がふやけ、橙の顔はぐちゃぐちゃだった。声は鼻声で何を言っているのか
も判別がつかない。
 それでも橙は気を萎えさせることはなかった。雪に顔をこすり付けて、顔中雪塗れにし
ながらも少年へと真っ直ぐに視線を向けてこういったのだ。
「わからない……わからない、けどっ! わかりたい、わかりたいんだよー!」
「な……」
 思わぬ返答に少年は勢いを削がれる。
「わかってる、わかってるんだよ! でもわからないよ、言ってくれないとわからないん
だよー!」
 呆然とする少年に向かって橙は突進する。それは手足がついていれば少年を掻き抱くた
めに走り寄ったと思えただろう。しかしゆっくりである橙のそれはただの体当たりに過ぎ
ない。
 少年はそれを避けれない。いや避けなかったのだ。その勢いは少年のふらつく体を一瞬
重力の軛から解き放つ。雪というクッションのお陰で着地は静かなものだった。
 倒れた少年の胸の上、橙はでぴょこぴょこと飛び跳ねる。それは手足のないゆっくりの
精一杯のボディランゲージだったのだろう。 
「ゆ゛っぐり……ゆ゛っぐりじようよぅー!」
「橙、お前……なんで……う、くぅ……あ、うう……」
 泣きながら飛び跳ねる橙の姿に少年の目にも涙が浮かんでくる。
 始めは橙に優しくするつもり何てなかったのだ。ゆっくりよりも先に死んでしまう自分
がそんなこと出来るはずもない。ただ何でも食べる便利な奴、そう思っていたはずなのに。
 少年の目から一筋の涙が零れ落ちた。

 晩年に生まれた少年、それは母体を傷つけて生まれた生だった。生まれつき体の弱い少
年は、両親には迷惑を掛けてばかりだということをいつも悔やんでいた。それでも二人は
自分にどこまでも優しくしてくれる。それが自らを生んだ罪滅ぼしなどではなく、純粋な
愛情だと言うことに気付いてしまうほど少年は聡い。そうでなければまだ彼らの関係は違っ
たものになっていたかもしれない。
 先のない自分にせめて美味しいものを食べさせよう、両親のそんな気遣いが辛かった。
両親の気遣いにさえ自らの体は応えてくれない。どんな美味しい食事でも体は食べること
を拒否してしまう。
 無理をせず食べられない分は残しなさい、と言われても親を心配させたくない少年は、
何度も部屋と厠とを往復して少しでも多く食べたかのように見せかけていた。
 だから、自分の代わりに食べてくれる橙がありがたかった。それだけのはずなのだ。
 だというのに脳裏に浮かぶのは橙と過ごした半年余りの時間。一緒に食事をして、一緒
遊んで、一緒に寝る。つまらなそうな振りをする自分に対しても、いつも橙は「わかる」
といってくれていた。
「うっぐ、ひっ、うぅ……ち、ちぇん……」
 もう涙は止まらなかった。次から次へと溢れて行き、もう何も言葉にすることは出来な
い。ぎゅっと胸に橙を掻き抱くと橙も大きな泣き声を上げた。

 倒れこんだ少年の直ぐ横に、永琳は屈みこむ。
「それで貴方はどうしたいの?」
 優しく囁く永琳に答える言葉はもう一つしかなかった。
「うっぐ……や、八意ぜんぜぇー! 僕もゆっぐりじだいでず!! おねがいでずから、
ぼくをだずげでぐだざいー!!」
 涙でくしゃくしゃになった顔で少年は叫ぶ。
 永琳は微笑むとそっと少年の頭を撫でた。
「その言葉が聞きたかったのよ。ウドンゲ、手術の用意をしなさい。それと誰かにこの子
のご両親を連れてこさせて」
「えっ、師匠。何で急に……?」
「つべこべ言わずにさっさと用意しなさいっ!」
「は、はいー!」
 姿を消した鈴仙と入れ替わるようにまた新たに女性が現れた。
「久々に永琳の本気が見れそうね」
 蓬莱山輝夜は嬉しそうに笑う。
「ほら、大丈夫? 貴方凄い顔してるわよ?」
 言葉を返せない少年の顔を輝夜はハンカチで乱暴に拭っていく。 
「い、いたいです……」
「そりゃ痛いだろうねー、痛くしてるんだから。嫌なら自分で拭きなさいよ」
「は、はい……。」
「それ、返さなくていいからねー」
 ひらひらと手を振って輝夜は永遠亭に戻っていった。
「あの、八意先生。どうして……?」
 少年は橙を胸に抱いたまま立ち上がる。
「貴方もうどんげみたいなことを聞くのね。手術をしてもらえるだけじゃ満足出来ない?」
「いえ、そんなことは……でも……」
「いいわ、教えてあげる。さっきもいったけど貴方から聞きたい言葉があったのよ。人の
体って不思議なものでね、前向きな気持ちでいれば助かる見込みのない病気から快復する
のに、後ろ向きな気持ちでいると詰まらない病気でもあっさりと死んでしまうのよ。いく
ら私でも死にたいって思ってる人間を助けることはできないわ」
「あっ……」
「今、貴方は死にたいって思ってる?」
 何度も少年は首を振る。橙を胸に抱く手に力が入った。
 死にたい、だ何て思ったことは一度もないつもりだった。しかし確かに死んでも良い、
と思っていたことは否定できない。しかし今は何故か、怖い。両親を残して逝くことも
橙を残して死んでしまうことも考えただけで体が震えた。
「だったら大丈夫よ。貴方は絶対に私が助けてあげる」
「八意先生……」
「でも万が一失敗しても大丈夫よ。時間は須臾の間に流れ行くけど、永遠でもあるわ。別
れの時間はたっぷり取ってあげるから安心しなさい」
「うわあ!」
 いつの間に背後に立っていた輝夜に驚き、思わず後退る少年。
「姫!」
「あははは冗談よ、冗談!」
「わからないよっ!」
 怒った橙の体当たりをひらりとかわし、輝夜はまた永遠亭に戻っていく。 
 あの人を何をしに来たんだろう。呆然と輝夜を見送る少年に、
「姫様のいうことは気にしないで。安心して待ってなさいね」
 微笑む永琳の後方に走りよってくる友人の姿が見えた。
「おーい、大丈夫かー?」
 その後ろには子兎に連れられて来る両親の姿もあった。

 これから大きな手術が始まる。成功率は一割だと言われた手術が。それでも不思議と不
安はなかった。
 自分を心配して来てくれた人たち。その人たちに会うことは少しだけ申し訳なく、そし
て面映かった。
 だけど――
「いわなきゃわからないんだよな」
「わかる、わかるよー」
「うんっ!」
 駆け寄ってくる友人に、そして両親に声をかけよう。今ある気持ち、それを素直に言葉
に乗せて。

                   *

「ろくいちがろく、ろくにじゅうに、ろくさん……」
 小さな女の子が九九を暗誦している。その中に混じって少年はいた。
「それにしてもあれからもう半年か、あっという間だったなあ」
「…………」
「おじさんとおばさんもすっげえ泣いてたし、もう親不孝はするなよ。お前に似てすっげ
え不器用な人たちなんだからさ」
「…………」
「八意先生は噂どおり凄かったな、まあちょっとだけ怖かったけど」
 隣から聞こえる声に無視を決め込んでいた少年だったが、
「うるさいよ、静かにしてないと慧音先生に怒られるだろ」
「ちえー、冷たい奴だなこんな小さい子に混じってお勉強してる癖にさ」
 この学級は初級。確かに数え年で十になる少年には合っていないとも言える。しかし、
「四つも年上の君に言われたくないよ」
「うぐっ、何をいってるのかな? 僕は君のために一緒に授業を受けてあげてるだけなの
さー」
「はいはい、いいから黙って授業を受けなよ」
 おどける友人だったが、その言葉が真実であることを少年は知っていた。
 実際のところ初級の学級といえど年齢はばらばらだ。
 家が裕福でないもの、特に農業を営んでいる家の子供に休みはない。こうして寺子屋に
通えるのも農閑期、しかもその内のわずかな期間でしかない。彼らの両親も子供達のこと
を思って少しの間だけでもと寺子屋に通わせているのだろうが、そのことをわからないも
のたちは寺子屋に来ても勉強はしない。ただぼけっとその場に座っているだけだ。だから
初級の学級でも自然と年齢はまちまちになる。
 だが友人がその手合いではないことはわかっている。巧妙に隠し通そうとはしたみたい
だが、少年には直ぐにわかった。通いなれない寺子屋へ行く自分を気遣って少ない時間を
割いてくれていることに。
 だから――お礼は言わないことにしていた。
 我侭放題、誰に彼にと迷惑をかけてきた自分なのだ。そんな自分の言葉にきっと重みは
ない。だからこそこうやって勉強して、きっといつかこの友人を自分がしてくれたように
助けられるようになりたい。そして彼の助けになれた時、初めてお礼が言える。そう思っ
ていた。
 そして数え切れないほど謝った両親に対しても、そんな他人を助けられる自分になるこ
とこそが恩返しの第一歩なのだと。
「わかる、わかるよー」
「こ、こらっ。寺子屋では喋っちゃ駄目っていっただろう」
 小声で鞄に向かって注意する。不自然な程に膨らんでいるその中には橙が入っていた。
あれ以来どこへ行くにも一緒に行動をしている。橙もそうだが、少年も離れたくないと思っ
ているのだ。
 そして変化はもう一つ、橙が度々「わからない」と言うようになったのだ。寺子屋に行
くにも「勉強をするのだから」と言い含めても「わからない、わからないよー」と駄々を
こねるのだ。今日はそれがあんまりひどいのでつい連れて来てしまったが、軽率だっただ
ろうか。
「ほう、だったらそこの君。七の段を暗誦してくれ」
「え? ぼ、僕ですか?」
「わかるっていったのは君だろう? それとも何だ? ゆっくり橙でも隠し持っているの
かな?」
 慧音の冗談に教室が沸く。だけど少年は二重の意味でとても笑える状況ではなかった。
 友人に助けを求めるように顔を向けるが、教科書で顔を隠して寝た振りをしている。
「ず、ずるいぞっ!」
 小声で文句を言うが、友人は急き立てるだけ。
「ほらっ、さっさと暗誦しろ。慧音先生は怒らせると怖いぞー? 何せ今日は満月だから
な。前に満月の夜に先生を怒らせた奴は三日間は「凄く、大きいです」としか言わない廃
人になっちまったんだぜ?」
「なんだそれっ!? 聞いてないぞ!!」
「どうした、何を喋ってるんだ? 早くしなさい」
「はっ、はい。しちいちがしち、しちにじゅうし、しちさんにじゅういち……しちく、し
ちく……えーと。わ、わかりませ……」
 ぶぎゅっ、と隣で奇妙な悲鳴が聞こえた。
 思わず横を見ると顔に丸い跡を付けた友人が机に突っ伏していた。
「なっ……!」
 視線を上に向ける。そこには友人の顔を踏み台にして、華麗な三角飛びを決めている橙
の姿が目に入った。その跳躍はどこまでも高く、芸術的とすらいえる弧を描く反転宙返り。
そしてその頂点に至る点には梁が突き出していた。
「むぎゅっ」
 ぶつかった、と思ったのも束の間。それすらも計算の内だったのだろう。梁で跳躍に制
動をかけた結果、落下点は丁度少年の頭上になった。
 ぼすんと音を立てて少年の頭に着地する橙。
 静まり返った教室、その場の全ての視線が少年に、少年の頭上に向けられていた。
「ゆっくりわかればいいんだよ!」
 まるでいいことを言ったとばかりに誇らしげな口調だった。少年の目からは見えなかっ
たが、きっと満足げな表情をしていることだろう。
「な、な……君! 本当にゆっくりを持ってくるやつが……」
「ご、ごめんなさーい!」
 思わず橙を抱いて逃げ出してしまう。一度静寂が破られると教室は俄かに騒がしくなり
始めていた。
「ま、待ちなさい。君――」
「せんせーい、七の段が終わってませーん。しちくは何になるんですかー?」
「ああもう、ちょっと待ちなさ……って何で君がここにいるんだ。君は別の学級だろう!」
 靴を履いて外に出る。背後からは友人が先生を押し留めてくれている声が聞こえていた。

 とぼとぼと道を歩く少年。胸には橙が抱かれたままだ。何故なら鞄は寺子屋に置きっぱ
なしになっているからだ。
 友人の助けで何とか廃人になることだけは免れたが、明日も寺子屋に通わなければと思
うと気が重い。
 思わず胸に抱く橙の頬をつねってしまうが、
「わひゃる、わひゃるよー」
 と全く反省の色はない。
「こいつ……僕は明日からどうすればいいのかわからないってのに」
 少年がぼやくと橙は少年の腕から逃れ、ぽよんぽよんと転がっていく。
「ま、待て! どこに行くんだよっ!」
 反動をつけ転がるたびに速度は増し、少年の足では追いつけないほど加速していく。そ
してそのまま弾丸の如き跳躍で前方に飛んでいった。その先には家屋の壁、そこからは先
ほどの再現だった。
 橙は壁を利用して更なる高みへと登る。桜の枝を揺らし、数多の花びらを散らせながら
空中で二度三度と体を捻る。桜花を身に纏いながら橙は幻想的なまでに飛翔する。
 そして計算しつくされた弾道は、そのまま橙を真っ直ぐに少年の許へ送り届けた。
「わっ、あっ、とっとと……」
 ぼすっと音を立てて橙は見事に少年の胸に再び納まる。
「ゆっくりわかればいいんだよー!」
「……全く、お前はそればっかりだな」
 不思議と怒りは治まっていた。橙の笑顔を見ていると晴れやかな気持ちになる。
 きっと何とかなるだろう、明日のことは後でゆっくり考えよう。
 橙を抱えた少年はゆっくりと家路につく。
 穏やかな春風が一人と一匹の頬を優しく撫でていった。




  • 名作だったよ。それしか言えん。 -- 名無しさん (2008-08-10 21:11:13)
  • 感動しました。 -- 名無しさん (2008-08-11 06:41:54)
  • 目の奥が熱くなりました。 -- 名無しさん (2008-08-11 12:00:48)
  • 泣いた -- 名無しさん (2008-08-11 21:15:00)
  • こういう話最高。ちぇんは偉大 -- 名無しさん (2008-08-13 21:47:11)
  • 温かくなりました。感謝 -- 名無しさん (2008-08-16 19:00:08)
  • ちぇぇええええええん! -- 名無しさん (2008-08-26 03:55:26)
  • 本当にイイハナシダナー( ;∀;) -- 名無しさん (2009-01-05 00:51:17)
  • とても感動しました!でも、ちょっと虐待要素があるのでまえがきに書いたほうが良いと思うのですが -- 名無しさん (2009-06-25 23:37:45)
  • 感動しました。 -- 名無しさん (2012-08-11 04:55:32)
  • 目からヨーグルッチがでてきました -- 気楽なマリオ (2012-11-05 17:17:53)
  • これはやばい・・・傑作だ。涙がとまらない・・・わかるよー -- 名無しさん (2013-08-25 22:22:14)
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最終更新:2013年08月25日 22:22