「しっかし……どうするかね、これ」
部屋を眺め、その有様に自分が引き起こした事ながらも男は大きく嘆息する。
直接水をこぼした畳のみならず、壁や戸もまりさが吐いた塩水によってところどころ塩が浮いている。
どう考えてもやりすぎた。
戸板くらいならいいが、放っておくと壁紙や畳は面倒な事になるだろう。
「早い所拭いた方がいいわな、そりゃ」
面倒事が増えた、とばかりに肩をぐるりと回し、風呂場に道具を取りにいこうとする。
そこで、男の目にもうひとつ汚れているものが見えた。
「なぁ、まりさ」
未だに倒れたまま大きく息をつくまりさに呼びかける。
「その帽子、今すぐ洗わせろ」
実はずっと前から気になっていた事だ。
聞いた話だと「外してはいけない」「外されるのは嫌がる」との事だった。
だから、眠っている間とは言え外すのは止めようかと考え、起きたら言おうと思っていたのだ。
しかし、それからの騒動で、そんなささいな事はすっかり忘れていた。
したがって、この帽子、まりさを見つけたあの日から一度も洗っていない。
黒地の本体やリボンの上を泥水や餡子の跡が斑に彩っており、さらには所々破れている。
砂粒などは無くなっていたが、それも単に泥水が乾いて座布団や畳の上にばら撒かれただけの事。
はっきり言って、帽子と呼ぶとマトモな帽子が怒りそうな代物と成り果てていた。
「ゆ!? ぼ、ぼうしはやめてね! ぼうしはとらないでね!!!」
帽子について触れた途端、まりさは今まで見た事がないような狼狽振りを見せた。
あからさまに怪しい。
何かあるのだろうか。
大切な物を隠しているとか、あるいは武器とか。
無いな。
男は即座にそう決め付け、構わずに帽子に手を伸ばす。
すると、まりさはゆっくり的には機敏な動きで手から逃れた。
「なんだ……? お前、その帽子に何かあんのか?」
「な、なんにもないよ! なんにもないからぼうしはだめだよ!!」
怪しい。
あからさまに怪しすぎる。
その様子に、洗濯云々は置いておいて、男の中に単純な興味が沸いて来た。
「そうは言ってもよ、お前自分じゃ見えないだろうが破れてるわ汚れてるわで酷い有様だぞ、それ」
「ゆっ! まりさのぼうしはきたなくなんかないよ!! おじさんなんでそんなひどいこというの!?」
「いや、酷いも酷くないもだな、事実雑巾と同じくらい汚いぞ」
「そんなことないよ! おじさんうそつかないでね、まりさおこるよ! ぷんぷん!!!」
「口でぷんぷん言うな。いや、そうじゃなくて嘘も何もだな……」
そんな問答を繰り返す事しばし。
「あー、そういやお前らにゃ頭の出来期待しちゃいけなかったんだよな」
ゆっくりに付き合ってたら俺の頭までゆっくりになっちまったぜとひとりごちる。
「判った、ちょっと待ってろ。いい物見せてやるから」
そう言って、男は自分の部屋へと消える。
戻って来た時には、大きな木枠を持っていた。
身長ほどもあるそれの足を立てて、慎重に床に置く。
「ほら、見てみろ。これがお前だ」
男が持って来たのは姿見だ。
その中には、覗き込む格好で鏡に映った男の上半身と、薄汚れた帽子を被ったゆっくりの姿。
「ゆ゛う゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛っ!?!? なにごれ!? まりざのぼうじが、まりざのおぼうじがぁぁぁぁっ!!!!」
まりさが顔を引きつらせて叫ぶ。
さらにはたちまちの内に涙を滂沱と流し、赤くなり、青ざめ、目を見開き、口を意味もなく開閉し、全身を震わせ、また赤くなる。
そしてとうとう意味の判らぬ絶叫を上げながら部屋中を飛び跳ね転がりだした。
男も最初は笑ってみていたが、流石にその様子にただならぬものを感じて、隣のれいむに目を向けた。
「おい、れいむ。お前らの頭の飾りがが大切なものだってのは何と無く実感したが、何であそこまで泣き喚くんだ?」
問い掛けとは疑問だ。
疑問を持つと言う事は、回答を欲していると言う事。
そして、回答とは問いかけの元へと至る理由。
理由が解ると書いて、それはすなわち理解という事となる。
物について問えば、それは知識としての理解であるが、人を問うという事は、やがては心の理解に、そしてそれは人を思うという事へと繋がっていく。
今回の場合は残念ながら人ではなくゆっくりだが。
「まりさのぼうしはとってもだいじなの! だかられいむのりぼんはとらないでね!!」
しかし、返って来たのはどうにも的を得ない回答だ。
聞き方が悪かったかと思い、方向を変えて再度問い直す。
「じゃあ、もし帽子が無くなったり、帽子じゃなくなったりしたらどうなるんだ?」
「ぼうしがなくなったらゆっくりできなくなっちゃうよ! だからおじさんやめてね!!」
ゆっくりできない、か。
ゆっくりは基本的に言葉が足りないのは判っている。
「ゆっくりできない」のが自分なのか他人なのかが判別できないので推測になるが、
「帽子が無いと何故か自分の体調に異変をきたしたりしてゆっくりできない」
「帽子が無いと他の
ゆっくりからゆっくりだと認めてもらえないので群れや家族で一緒にゆっくりできない」
一番酷いのは「帽子が無いと攻撃を受けたり群れを追い出されたりするのでゆっくりできない」
そんな辺りだろうか。
それならまりさにとって一大事だというのも判る。
洗濯くらいならあるいは水溜りや小川などで何とかなるかもしれないが、裁縫となるとゆっくりには不可能だろう。
あるとすれば、他のまりさの帽子を奪う事だろうが、生憎ここは自然ではなく男の家なので、それは選択肢にない。
しかし、それではまだどうも話が合わない部分がある。
「じゃあれいむ、お前はあれが汚いが帽子だってわかるんだな?」
「ゆ? ぼうしはきたないけど、まりさはまりさだよ!」
ふむ。
まりさは自分だから当然としても、返答からすれば、少なくともれいむもアレを帽子とまりさだと認識できているようだ。
だとすると、一応問題は無いと言う事になるのだがやや考慮すべき要素がある。
少し考えて、男はその部分を埋めにかかった。
「お前があのまりさの家族だからとかじゃなくても、他のゆっくりからもあれは帽子と思ってもらえるのか?」
それが、一番の問題だ。
自分の子供であれば、バカでも可愛いなんて親はいくらでもいる。
ペットなどになると、ブサイクだろうがなんだろうがと、その傾向はより顕著なものになるだろう。
家族という特別な関係は、それだけ認識をゆがませる力を持つ。
こいつら2匹が特別な関係だから判るだけで、他もそうだとは限らなければ。
もしそうならば、後で野に離した時に待っているのは喜劇のような悲劇だろう。
「ゆ~~~~~~んゆんゆんゆん…………」
声にあわせてれいむの体がふらふらと左右に揺れる。
人間なら恐らく首を傾げるかその辺の動作だろうと思うが、生憎胴体だけの生き物なのでそれは誰にも判らない。
やがて考察がまとまったのか、自信に満ちた表情で胸?を張り、
「たぶんゆっくりわかるよ!!」
「おい、大事な事なのにえらい適当だな」
やはり肝心な所でも餡子脳は餡子脳だった。