空気嫁4(がすわいふふぃーあ)-1

『屁~音!4』


今日も今日とて、れみりゃの放屁に吹っ飛ばされる起床の後、俺たちは朝の食卓を囲んでいた。
しかし、いつもとは違い、ちゃぶ台に載っているのはプリン主体の献立ではない。
俺や親父の手によるものでもない。

「さあ、どうぞ召し上がってください。お口に合うかわかりませんが」

今朝の料理長がよそった飯を配りながら勧めてくる。
桜色の和服が似合う長い黒髪の女性。
百人一首の女チャンピオンだ。

「…………」
「どうした息子よ、やはり愛妻の手料理でなければ口にできないか」
「そうじゃねえよ!」
「あら……これは朝から当てられてしまいますね」
「お前も乗ってくんなっ!」

まったくどういう状況だ。
この狭っ苦しい家にウザい住人が増えるなんて。
過疎化の進行するこのど田舎において、不可解なほどの人口集中だ。

「ゆっくりしていってね!」
「おお、怖い怖い」

こいつらも漏れなく付いてきてるし。
嫌なおまけだ。食玩に饅頭とか胃もたれすんぞ。

「まあ、お前のれみりゃに対する愛情はわかった。しかし、ここは彼女の思いをくんでやるべきだろう。美味しくいただくことだ。据え膳食わぬは男の恥と言うしな」
「意味が違ぇよ。ったく、朝から下ネタか。女を前にして」

相変わらず親父の辞書に自重という文字はない。

「それに、想いをくむったってな、勝手に居候する想いってのはどんなもんなんだよ」
「再戦を望むその執念、尻の青い者にはわからんかな」
「ええ、はっきり勝負がつかない限り、ここにいさせていただきます。それにしても息子さんはまだ蒙古斑が消えないのですね、かわいいですよ」
「黙れ」

尻引っぱたいて青アザつけっぞ。
……まあ根性があるのは認める他ない。れみりゃの屁で吹っ飛ばされる起床の時点で、ケツまくって逃げると思いきや、まるで動じなかった。
というか、最終的に布団の上で正座の姿勢を保ったまま着地したのには驚いた。空飛ぶじゅうたんみたいですね、とにこやかに言うとか、百人一首パネェ。俺はいまだに土まみれの朝を迎えてるってのに。
しかし、赤の他人と寝食を共にするのはどうにも落ち着かない。相手がどれだけすごいかなどは関係なく、そうだ。

「親父、だったらさっさと試合してやれよ。それで満足してくれんだろ」
「暗黒百人一首は多大な精力を要するからな。日々過酷な農作業に従事する身としては、なかなかためるのが難しい」

合間合間に農作業してたじゃねえか。そしてビンビンなんだろうが。
まだ納得のいかない俺に親父が言う。

「食費は払ってくれる上に、こうして炊事係も買って出ているのだ。その他家事も買って出ている。度量の広さも農家の心意気だぞ、息子よ」

腐っても一家の主の言葉。これ以上のゴネはエゴになる。わがままは男らしくない。
軽くため息をついて、俺は手を合わせた。

「いただきます」

親父もにっと笑い、手を合わせた。

「うむ、いただきます」

他もそれにならう。

「いただきますだどー☆」
「はい、いただきます」
「ゆっくりいただくね!」
「おお、美味い美味い」

すでに食ってるやつがいた。
さすが素早い饅頭。礼儀知らずは寿命も迅速に尽きてほしいものだ。
献立は簡素なものだった。
みそ汁にきんぴらごぼう、菜っ葉のおひたし、目玉焼き。
しかし、いずれもが適切に調理されている。いや、大したものだと言っていい。
みそ汁はいい香りを漂わせているし、きんぴらごぼうはつややかな光沢を帯び、菜っ葉は色鮮やかな青を見せている。目玉焼きは半熟で、今すぐしょうゆをかけて食べたくなる気にさせた。
普段食っているはずなのに、見慣れない懐石料理を前にしたような。それだけのできだ。

「どうやったらこんなふうに調理できんのかな。やるじゃん」

感心しながらごぼうをつまむ。

「ありがとう存じます。そのきんぴらごぼうは母からの秘伝なんですよ」

へえ、元百人一首チャンピオンのねえ。
自慢の一品を口に入れた。
途端に弾ける異次元空間。マウス・イン・ワンダーランド。

「くぁwせdrftgyふじこlp」

意味不明の言語がほとばしる。
一緒にごぼうを吐き出さなかったのが不思議なくらいだ。

「あら、唐辛子が効きすぎて辛かったですか。それともあく抜きが不十分で苦かったとか?」

いや、これ、『からい』っていうか『つらい』! 『にがい』っていうか『くるしい』!
ひでえ不味さだ。何だこの毒物。どうやったらこんなふうに調理できんだ! 殺る気か!

「根性だ、息子よ。みそ汁で流し込め」

飯を食うのに根性が必要となる事態が訪れようとは。ともかく言われた通りにおわんを口に運び、すすった。

「ウボァー!」

倍プッシュの衝撃が襲う。胃液が恐ろしい勢いで込み上げるのを感じ、慌てて両手を当てて押さえようとするが、噴出力はとどまることを知らず鼻からほとばしった。そのジェット噴射並の運動エネルギーは俺の後頭部を畳へと叩きつけ、さらにその威力でバウンド、きれいな弧を描いて今度は額が前の畳に激突し、また少しバウンドした。

「いろいろ愉快なことになっているな」

自らの汁にまみれて手足をけいれんさせている俺を前にして、親父は飯を食いながら言った。
息子の苦境をおかずにすんな。

「って……っていうかよ、な、何で平然と食ってられんだよ……?」

ふらつきながら体を起こす。
この超弩級の毒物はジュネーヴ議定書で禁止されても不思議ない。

「農家たる者、バケツいっぱいの青酸カリを飲んだところで何でもないわ」

そこは死んどけよ、人類として。

「むーしゃむーしゃ、しあわせー♪」
「おお、美味い美味い」
「だどー☆」

え、何でこいつら食えてんの。人類じゃないにせよ不可解だろ、おかしいだろ。
れみりゃは小さな手に持った先割れスプーンを動かしている。
二三度かき混ぜると、お椀の中の白米が砕けた豆腐のように変化していた。いや、あれは……プリン?
そういえば、れみりゃはあらゆる食材からプリンを錬成できたりするんだった。芸は身を助ける、か。
じゃあ、他の饅頭二匹、あいつらはどうなってんだ?
俺の疑念を察したのか、親父が言う。

「基本的にゆっくりは何でも餡子に変換して体内に取り込む。れみりゃのプリン錬成と類似の能力だな」
「何だと?」

れいむときめぇ丸の二匹は畳に置かれた皿にでかい顔を近づけ、むしゃむしゃとやっている。
その口の中は、そう言われてみれば何やら黒いものが見え隠れしているような。あれが餡子か。
まあ確かにその程度できなけば、あの飼い主の下、一日三食毒物づくしなんてやってられんだろうが……ずりぃな、畜生。
俺も「チョコになっちゃえ!」とかできないものかね、魔人みたいに。朝からカカオまみれの食卓で、ガーナ人気取りも悪くない。国連事務総長を目指すのもいいな。

「息子よ」

何だよ、人が現実逃避してるってのに。

「言うまでもないが、きちんと残さず食うのだぞ。農作物を残飯にすることなど、人間として、いや農家として失格だ」
「人間の根本に農家を据えるな」

まあ、言わんとすることはわからないでもないが、太陽と大地の恵みで化学兵器を作り出すことの方が罪作りだとも思う。
俺の左手が白飯の盛られた茶わんを持つ。
カタカタカタ。
小刻みに揺れていた。寒くもないのに震えている。
理性では食べなければならないと判断しているのに、本能が生存の危機を訴えているのだ。
これまでの経験から、きんぴらごぼうよりもみそ汁の方が威力が高いことがわかった。
手を加えたものほどダメージは少ない。逆にシンプルなものほど毒性は強い。
原理はさっぱりわからないが、この料理を常識でとらえてはいけないのだろう。そもそも見た目が並のものより上なくせに、実際は味覚障害どころか人格崩壊すら起こしかねん代物だ。
そして、この白い飯。
ただ炊いただけの米。料理とも呼べないただのご飯。──もっともシンプルなもの。
冷や汗が止まらない。幸せな家族の食事風景の中、俺だけが切り取られた地獄絵図にいた。

「どうかしたのですか?」

異常に気づいたのか、女チャンピオンが首をかしげる。それから、「ああ」と了解して、俺の茶わんを手に取った。

「育ち盛りですものね、大盛りにしないと」

やめてください、死んでしまいます。

「はい、どうぞ。おかわりがあったら遠慮なく言ってくださいね」
「うぐぅ」

前人未踏の高山を前にし、可愛くもなんともないうめきが漏れる。
しかし、当然誰が助けてくれるわけもない。俺は孤高の人だった。
「こんなもん食えるか!」とちゃぶ台をひっくり返せれば楽だろうが、ありえない仮定だ。女の作った飯に文句をつけるなどできない。親父の言う「据え膳食わぬは」ではないけれど。

「ええい、ままよ!」

勢いつけて、はしでつまんだ飯の固まりを口に放り込む。そして、衝撃に備えた。だが、

「あれ? なんだ、これ? 普通に美味ぃ…          」

意識が途切れた。
熱い風呂に入ると体がぶるっと震えることがある。一瞬寒さを感じるのだ。
これは、体が急激な感覚の変化に対応しきれず、勘違いを起こしてしまうことから生じる現象だ。
今回、最大レベルの威力が数秒間の誤認を俺の舌にもたらしたわけだ。
もちろん圧倒的現実は確実に襲い来る。
まともに受け止めれば陰惨なトラウマとなりかねない。ゆえに脳の防衛本能は自らのブレーカーを落としたわけだ。つまりは気絶した。
これが俺の身に起きた一連の出来事である。おわかりいただけただろうか。

「ふんっ!」
「もげっぱ?!」

気づくと後ろから喝を入れられていた。上を見ると起き抜けにはあまり見たくない顔。親父。
別方向に目をやると、心配そうにこちらをのぞきこんでいるれみりゃと女チャンピオンがいた。その背景では、れいむときめぇ丸がまるで意に介さず飯を食い続けている。よし、むかついた。

「起きたばかりで寝てどうする。さあ食事を続けるぞ」
「いや、そうなるとまた起きてられなくなるというか、むしろ永眠するかもしれ……」

ふと、親父が玄関の方へ顔を向けた。
俺もそちらの方を見る。と、そこには──
おっぱい。
でかい乳房がいた。ビキニに包まれている。右胸に星々、左胸に紅白の横じま、星条旗のデザインだ。アメリカンバスト。
じゃなかった。
金髪碧眼の女が立っていた。朝日のように明るい笑顔で。
黒い鉄製の何かを持って構えている。機関銃? 銃口をこっちに向けてるぞ。

「オハヨゴザマース」

女はちゅうちょなく引き金を引いた。

ドガガガガガガガガガガガガガッ!

「うおおおおおおッ?!」

銃声が弾ける。無数の弾丸が雨あられと撃ち込まれた。床が吹き飛ぶ。畳どころか床板までが破片になって宙を舞った。その中心には親父がいる。
銃声は断ち切ったように止み、雑多なもやの中、親父の影はバタリと前に倒れ伏した。

「お、親父ぃいいいいいいっ!」
「OH、安心シテクダサイネ」

俺の叫びと対照的な、金髪ビキニの軽い口調。

「実ハ峰打チデース」

何その無茶振り!

「何だ、峰打ちか」

むくりと体を起こす親父。
いや、だから死んどけよ、人類として!
よく見ると、ズタズタの衣服には血の染み一つ付いてない。農家パネェ。

「さて、イタリアンマフィアが何の用かな」
「マフィア?! イタリアン?! この女が?!」

口から飛び出すハテナマークとビックリマークがインフレを起こす。
毎度のことだが超展開過ぎてついていけない。

「イタリア人ごときでうろたえるな。スパゲティなら何度か食べただろう」
「だどー」

そこに引っかかってんじゃねーよ。れみりゃもこの状態でなんで落ち着いてんだ。

「ゆゆっ、れいむ知ってるよ。お兄さん、いつもイタリアしてるよね!」

それはイライラしてんだ。今まさにお前に。

「Heyボーイ、イタリア怖クナイヨ。自由ト平和ノ国ネ」

機関銃ぶっ放す平和か……自由過ぎだろ。
第一それはアメリカじゃねえのか。

「ってか、イタリア人ならイタリア人らしくしろよ。なんだその金髪は。普通黒だろ」
「OH、コレハ地毛ネ。染メテナイヨ」
「聞いてねーよ。学校の頭髪検査か。それにだな、そのビキニだってイタリアなら三色旗にすべきだろ、緑と白と赤の。どうして敢えて星条旗なんだよ」

ビキニの下は赤と白のストライプになっている。ついでに、靴は派手な炎の模様が入ったカウボーイブーツだった。どう見ても鼻歌で『星条旗よ永遠なれ』をやりそうな出で立ちだ。

「うむ、星条旗と正常位は似ているな」
「横からしゃしゃり出て下ネタかよ。何度も言うが、女を前にして言う台詞じゃねーよ」
「広範囲ト後背位モソックリサンネ」
「お前も黙れ」

いや、ほんと、マジでやめてくれ。
ただでさえ下ネタ過多で、読者に軽く引かれてるってのに。

「息子が話をそらして悪かったな。では用件を聞こう」
「気ニシテナイヨ。誰デモ始メハ青二才ネ」
「え? 悪いの俺?」

俺のすぐ横で、きめぇ丸が「おお、青い青い」とシェイクしていた。いつか×す。

「今日ハ宣戦布告ニ来タネ。私タチト殺シ合イヤルヨ」
「そうか。まあ構わないが、決闘は食事の後に軽くやるのが好みだな。軽くなくとも別腹でいけるが」

命のやりとりをデザート扱いかよ。そんな日常生活に付き合わされる身にもなってくれ。
ったく、それにしても新年に引き続きまた決闘っつーのは、今年はそういう年なのかね。厄年ってやつだ。
二人の会話を聞いていると、金髪ビキニはイタリアンマフィアの代表者で、かつてアジトをつぶされた報復に来たらしい。前に親父が言ってた世界農業選手権でのハプニングってやつだ。まあ、ふんどし一丁で米俵担いだ集団に蹴散らされたら、そりゃメンツ丸つぶれだよなあ。それで親父は殺し屋に狙われてたってことだったが、あの話まだ続いてたんか。
結局、このトラブルもまた親父のせいだ。まったくMr.変態農家のお陰で平穏な日常は破壊されまくりだ。破防法を個人に適用できないもんかな。

「少しお待ちいただけますか」

おや、女チャンピオンが割り込んできた。何が始まるんです?

「この人は私が倒すと決めているのです。優先順位を考えてくださるとありがたいのですが」

ああ、なるほど。決闘の一番槍だもんな。母親の復讐を果たすまでに、相手に死なれちゃ困るってわけだ。
自分本位の台詞に聞こえるが、機関銃を乱射する奴の前に立って言えるのだから、十分な覚悟を伴っていることになる。
虚勢でもない。札で殺されかけた俺にはその実力がよくわかる。女チャンピオンには確固たる意志と自信があった。
言葉を受けた金髪ビキニは「OH……!」と絶句して固まった。チャンピオンの気迫に気圧されているのかと思いきや、

「ファンタスティック!!」

黄色い声を上げるや否や、ガバッと抱きついた。

「なっ、ななっ?!」

戸惑うチャンピオンに委細構わず、「グレイト!」だの「エキゾチック!」だのキャンキャンさえずりつつ、あちこちから抱擁しまくっている。
鼻息荒く熱のこもった声でまくし立てるには、

「私、大和撫子憧レテマシタ! 会エテトッテモ感激デース! ブラボー! オオ……ブラボー!」

そのはしゃぎっぷりは、寝たままの姿勢で空へ飛びかねなかった。──変なたとえかな? けど、俺は毎朝れみりゃに吹っ飛ばされてるし。

「ちょっ……おま……ちょっとお待ちください! 私はそんな珍しいものではありませんよっ」
「想像通リネ、大和撫子謙虚デ奥ユカシイヨ。……ン~?」

金髪ビキニが後ろからチャンピオンの胸部をまさぐりながら言った。

「大和撫子、コンナトコロモ奥ユカシイノネ」

ぶわっ、と。
一瞬遅れて殺気が辺りに広がった。屋根の鳥が飛び立ち、遠くで犬の鳴き声がした。
どうも何やらの逆鱗に触れたらしい。
そんな暗黒百人一首の使い手による禍々しいオーラにも、まったく動じることのない金髪ビキニ。気づいているのやらいないのやら、豊かなバストを揺らしながら「コレガジャパニーズ洗濯板ネ!」などと死亡フラグを立てることに余念がない。

「はっはっは、微笑ましいな」
「だどー♪」

いや、どこが。

「では今日はこういうことでお開きにしようか」
「笑点じゃねえし、まだ朝っぱらだし、こういうことってどういうことだよ」

突っ込みが追いつかなくなってきた。ただでさえ手一杯なんだから自重してくれ。

「OH、ソウハイキマセン」金髪ビキニが話を戻してきた。「ココデ会ッタガ百年目ネ」

その台詞はさっさと攻撃する時に使えよ。大和撫子と乳繰りあってる場合か。
などと言おうする前に、相手の右手が顔の高さで挙げられた。

「むっ」

合図を受け、ザァァと煤煙か泥水のように玄関から厳つい男たちが流れ込んできた。黒のトレンチコートに身を包んだ十数人。大小様々な銃を持っている。

「Let'sファイア!」
「マジかよッ!」

掛け声と共に一斉に凶弾が放たれた。同時に俺はれみりゃを抱えて横に跳んでいる。
前に親父に向けられたのが雨あられのような弾幕なら、今回は滝の如しだ。床だけでなく全ての物が飛び散った。壁、ちゃぶ台、食器、食事……生き物がそこに入らないことを祈るばかりだ。
悠長に確認している暇などもちろんない。俺は勝手口から転げ出た。
回転の勢いを殺さず、そのままの動きで立ち上がる。れみりゃは抱えたままで離さない。

「う~」

腕の中から心配そうに見上げてくるれみりゃ。どこも傷ついていないようだ。良かった。
俺の方も無傷だ。他の連中は大丈夫かな。
勝手口の方には誰もいない。そう言えばマフィアの奴らは玄関からしか入ってこなかった。だから、逃走経路をふさがれることなくここまで来られたわけだが……真っ正面からの宣戦布告といい、変に律儀だな。親父の昔話によると、果たし状を毎週送ってきたんだっけか。イタリア人はよくわからん。
ふと下を見ると、れいむときめぇ丸がいた。こいつらも難を逃れたか。いつの間にやら、というやつだ。要領がいいのかね。

「ゆーん、とってもゆっくりしてるよ」
「おお、でかいでかい」

上を向いて何やらつぶやいてる。空にはいくつか雲が浮いているだけ。現実逃避かよ。
朝飯でそれをやった俺が責める道理もないが。

「おーい、息子よー」

あぁ、聞きたくもないものが聞こえてきた。
できりゃ無視したいところだが、非常事態に連携を取らないのは地獄への片道切符だ。
慎重に家の影から顔を出すと、親父が遠くで疾走しながら声を上げている。

「私は今から敵の親玉を叩きにいく。それまで耐えてくれーっ」

枯れた田園の中、姿は豆のように小さく見えているのに、声は普通に届いている。恐ろしい声量だ。しかも走りながらだろ。
後ろからマフィアたちが多数追いかけているが、まったく追いつく気配がない。むしろ距離を離されているように見える。ついには車まで駆り出されたみたいだが、親父は捕まらないだろうとほぼ確信できた。
農家パネェ。
親父はさらに続ける。

「決して捕まるなよー、お前は私の弱点だからなーっ」

──おい。
マフィアの何人かが立ち止まる。首を回して、こちらの姿を認めた。

「人質などになった日には、私の敗北は確実だ、心してくれーっ」

──おいおい。
マフィアの全てがこちらの方を向く。

「特に嫁のれみりゃとセットで生け捕りになっては、私の屈辱は頂点に達するからなーっ」

──おいおいおいおい!
マフィア全員が俺とれみりゃのところへ走り出した。標的が完全に変わった。

「バッ、馬鹿親父ーッ!!!」

いかにも息子を襲ってくださいと言わんばかりの台詞。後先考えて行動しろよ!
走る走る、とにかく走る。れみりゃを背負ってひたすら走った。
追いつかれたらゲームオーバー、いや追いつかれる前に死ぬかもしれない。何しろさっきから銃声が鳴り響いている。乱射しながら迫ってくるのだ。生け捕りっての忘れてねえか?!
とにかく山まで逃げよう。森の中へ入り込めば、追っ手をまける可能性が高い。距離はそれほど遠くなく、難しくはないはずだ。

「んっ?」

目の前でゆったり歩いてる者がいる。
この状況にふさわしくない──いや、田舎ではごく普通に見られるものだが。
両手を後ろで組み、しわくちゃの穏やかな顔で辺りの風と風景を楽しんでいる。

「植田さんだどー♪」

背中でれみりゃが嬉しそうに身を乗り出した。
確かに植田さんだった。「おお、れみりゃちゃん、大きくなったなあ」と相変わらずの挨拶をしてくる。
いや、そんな悠長なことしてる場合じゃないって!

「植田さん、植田さん、早く逃げて! 危ないから!」
「おお、昨日の日経平均株価はえらい推移じゃったのう」
「一言も言ってませんっ。ほら、マフィア! 銃弾っ!」

切迫した事態を伝える俺も、あまりに切迫しているため言葉がまとまらない。植田さんはまったくのんびりしたままで、一方銃弾の音はどんどん近づいていた。
逃走経路を変える余裕はない。かといって、高齢者をこの場に置き去りにすることもありえない。

「あー、もう!」

ダッと植田さんを抱えた。左腕で膝裏を持ち、右腕で背中を持つ。俗に言うお姫様抱っこだ。
突然の行為に、植田さんは目を五百円玉のように丸く見開くと、今度はそれを横にしたように細めた。

「いやはや、こいつは若い頃を思い出すわい」

どんな過去ですか。パワフルな婆さんだったのかな? あんまり想像したくない。
前に爺さん、後ろに肉まんという奇妙なサンドイッチになりながら駆けた。

「すいません! とりあえず事情は後で話します! 今はとにかく逃げて……」

言葉が途切れる。
前方の茂みから複数の黒いトレンチコートが現れた。
くそっ、待ち伏せかよ! 別働隊が控えていたのを携帯電話かで連絡取り合ったってところか。
れみりゃが首に回した両腕に力を込めるのを感じ、「大丈夫だ」と声を掛けた。
実際は全然大丈夫じゃない。放射状に広がって巧みに進路をふさがれ、どうにも逃げようがなく手をこまねいて──ほとんど間を置かずに包囲された。

「ありゃあ、袋のネズミじゃのう」
「ソノ通リネ」

植田さんの言葉を金髪ビキニが受けた。やや息を切らしているが、構えた銃はピタリとこちらに向けられてぶれない。

「ボーイ、大人シク人質ニナッタラ何モシナイヨ。モチロン腕ニ抱エタ嫁モ無傷ネ」
「畜生っ…………ぅん?」

引っ掛かることを言われた気がする。頭の中で反すう。……やっぱりおかしい。

「おい」
「What?」
「誰がれみりゃだと思ってる?」
「ボーイノ嫁? モチロン腕ニ抱エタオ爺サンネ」
「んなわけあるかぁッ!」

超年増好きのホモか、俺は! マニアックにも程があるだろ!

「気ニシナクテモイイネ、イタリア人、ゲイニ寛容ヨ」
「だから違うってんだろっ!」

思いっきり否定するが、生暖かい目で迎えられる。多数の目が妙に優しい。ふざけんな。
ここは俺の名誉のためにも、きっぱり宣言しなくてはなるまい。

「いいか、耳かっぽじってよーく聞けっ。れみりゃはな、俺の嫁は、この背中の奴だっ!」
「だどー♪」

沈黙。
ふふふ、ぐぅの音も出まい。胸がすく思いだ。
だが様子がおかしかった。
金髪ビキニを始めとするマフィアたちの表情が漂白されている。さっきとは打って変わって冷たい。

「アー……」

ややあって、金髪ビキニがひきつった唇を動かす。

「流石ノ私モ、ソレニハドン引キネ」

何でだよっ、と突っ込むことはできなかった。むしろ納得する。

「あ、ああ、そうだよなー、それが普通の反応だよなー。幼妻ってのにも限度があるよな。幼女過ぎるもんな、ハハハ…………」

めっさ凹んだ。
何てことだ。全身が俺の人生と共に瓦解しそうだ。
森に逃げるつもりだったが、今は樹海に飛び込みたかった。
うわー、俺、幼女の肉まんが妻っての普通だと思うようになってたよ……。

「マア、ソンナ変態サンデモ人質ノ価値ハ十分ネ。ジャア捕マエルカラ抵抗ナッシングヨ」

負けた。完全に負けた。
俺は呆然自失で戦力外の存在となっていた。指一本動かす気力すら尽きた。打つ手はない。
一歩。一歩。
包囲の輪が狭まっていく。
このまま囚われの身となって屈辱に身をさらすのだろう。好奇の、侮蔑の、視線を浴びて。
親父の敗北も決定する。そっちはどうでもいいが。

「うぅ~」

頭の後ろでれみりゃが低くうなっている。恐怖か。ストレスか。いや、
みなぎるものがあった。
そうだった。
俺は戦力外でも、こちらの戦力はゼロじゃない。むしろ──

「だどーっ!!」

ブォッコォオーーーーーーーーーンッ!!!

最大戦力れみりゃの爆裂が手加減抜きで発揮された。
見えざる神の手に引っ張り上げられたように、上空へ飛んでいた。俺と植田さん、そしてれみりゃが。
ロケットエンジンのごとき噴射力により、あっという間に飛翔したのだ。脳天に強いGが掛かる。
脱出しただけではない。それまで周囲にいたマフィアは弾けるように吹っ飛び、ごろごろと転げた後も悶絶している。急激に広がる眼下の風景で、それらは殺虫剤を吹きかけられたアリのようだった。
一匹が毒ガスで絶息寸前になりながらも、ふらふらと銃口を頭上に向けた。ナイス根性。イタリアンスピリットか。
だが、今はじっとしているのが正解だろう。
瞬間、爆音と黒煙があがる。
不正解のペナルティだ。ガスが引火性であることを忘れて、火器など使うからそうなる。
れみりゃが放屁したとき、既に局面の勝負は決していたのだ。
衝撃・猛毒・爆破の三重の一手。反撃を許す余地など存在しない。
流石はれみりゃだった。その二つ名は『S.G.G.K(スーパーグレートガスキラー)』。
俺一人が抜けたところで毛ほどの影響もない──それほどの圧倒的戦力だった。

「いじわるする人はお仕置きなんだど!」

ほほを膨らませておかんむりのれみりゃ。
きついお仕置きだ。一般の御家庭内でやったらDVどころの騒ぎじゃないだろう。
しかし、お陰で助かった。

「おおぅ、天にも昇る気分じゃなあ」
「そのまんまです、植田さん」

それにしても見事な光景だ。こんな高いところから自分の住んでいるところを見渡すなんて、生まれて初めてのことだ。なんか感動。おお、あんなとこまでまで見えるわ。
このまま上昇を続ければ、隣の県まで眺められるかもしれない。いや、地平の彼方、日本列島全てや、さらに先、海の向こうの大陸まで目が届くことだってありうるぞ。
──いや、無茶か。少し思考がはしゃぎすぎた。
無限に飛翔できるわけもない。実際、れみりゃの噴射は終了しており、速度はみるみる弱まっている。上昇が落下に転じるのも時間の問題だろう。
……ん?

「なあ、れみりゃ」
「う?」
「着地ってどうやるんだ?」
「うー??」
「はい?」

まさか。

「何も考えてない、とか?」

答える代わりに、れみりゃはにっこり笑った。俺の背中がじっとり汗ばんだ。

「だーーーーーっ! 墜落するだろーがー!!」

気づけば、俺たちは既に落ち始めている。
現在地上から数百メートルの位置。地上に帰ったときには、めでたくミンチ肉にジョブチェンジだ。

「れみりゃ、ガス! もう一回屁をこけ!」
「うー、無理だどー。あれで全部なんだどー」
「ほぉ、つまりはガス欠じゃのう」
「上手いこと言ってる場合っすか!」

落ちる! 落ちる! やばい! 死ぬ!
このままデッドエンドなのか?! 第四話だから四と死を掛けているのか?!
「落ちてオチ」って洒落になんねーぞ!!

「うわぁああああああぁああぁああ……ああっ?」

暖かい風にくるまれた。柔らかい。そして優しい感触。
冷酷な引力が和らげられ、締め付けられるような危機感が去った。
風じゃない。何だ、これは?
不可思議でありながら、懐かしいものを感じる。物心付くか付かないかの記憶を浮かばせる──お袋?

「うおっ!」

思考がまとまり切らないうちに、感触から解放された。
依然地上から離れた高度にあるが、すぐ下はもっさり茂った針葉樹だった。
枝々を折り、所々にかすり傷をつけながらも、俺は自分と他二名を無事に地上に届けることができた。




というところで終われば、ちょっと不思議なほのぼの話となるわけだが、生憎とそうはならなかった。
俺はれみりゃを背負い、山深い森を小走りしていた。乱立する木立の間を行く。
後ろからは断続的な銃声が背中を押してくる。まったくしつこい。日本の潔さを見習って、さっさとあきらめろってんだ。
イタリアンマフィアはれみりゃの一撃で全滅したわけではなかったらしい。復活したか、別働隊がまだ控えていたか、再び湧いてきて迫ってきやがった。
植田さんとは別れた。まるで無関係とマフィアの連中に証明できたからだ。実際は親父の知り合いだが、まあ問題なく家に帰ることができるだろう。
問題なのは俺たちの方だ。とにかく耐えしのがねぇとならない。親父がこの馬鹿騒ぎを終結してくれるまではだ。敵の親玉を叩く……上手くいってんだろうか?
正直そこまで持つか心もとなかった。何せ相手はどこまでもどこまで追ってきて、休息を与えてくれない。体力もそうだが、精神力がすり減ってくる。まったくくつ底のように確実にだ。
ふいに前方の茂みがガサリと揺れ、俺は素早く身構えた。が、今度現れたのはトレンチコートではなかった。

「おお、怖い怖い」

デッサンの狂った人面饅頭。きめぇ丸だ。
出てきた途端にブンブンと身を振る。二つに分裂したような残像が生じた。うぜぇ。

「こんなところまで来たのか。どうしたってんだ?」

聞くと、きめぇ丸は「おお、心配心配」とシェイクしながら答える。

「うー☆ ありがとだどー♪」

感謝を述べるれみりゃ。肉まんと饅頭の会話はよくわからんが、流れから推察するに、どうも俺たちが心配で追いかけてきたようだ。
足手まとい以外の意味が見出せんが、その気持ちだけでもありがたかった。

「ゆゆっ、れいむもいるよ!」

突然の声が低い茂みの上から現れる。赤いリボンの饅頭顔が、名乗りの通りにそこにいた。
ん? 微妙にいつもと表情が違うな。
ふてぶてしい笑顔はそのままだが、目は細められ、口角はつり上げられ、いやらしさがアップしている。
「ゆふふ……」とひそやかに笑う様は、俺の腹を静かに煮立ててくる。
何かしら訴えたいことでもあるのだろうか。殴ってほしいとか。

「別に呼んでないが……にしても、きめぇ丸はともかくとして、よくお前も来れたな」

ゆっくりはその名の通りゆっくりしているクリーチャーだ。きめぇ丸は例外とのことだが、れいむは確かにいつものんびりしていて、その動きはのろかった。
だから、こんな山奥にいられるのが疑問だったのだ。せめて丸一日は掛けないと無理に思えた。
それを指して言ったのだが、俺は変なことに気づいた。
饅頭頭が茂みの上にある。茂みはまったく凹んでいない。重力を無視しているかのようだ。いや、そもそも載れるものなのか、そんなとこに?

「ゆふん、お兄さんにはれいむの“特別”を見せてあげるよ」

俺の疑問符を取っ払うように、れいむは足を一歩前に踏み出した。
足?
茂みから出てくる。裸足。

「な、なな何だぁッ?」

下膨れた球形から、にょっきりと二本の足が生えている。足だけ生えている。

「れいむのカモシカのような脚線美に、お兄さんの目もくぎ付けだね!」

確かにそこだけ見れば立派なおみ足だ。すらりと伸びて白く、爪の先までがたおやかだ。足タレとして活躍できるかもしれん。
けれど、あごの下から直接ももが生えているのは悪夢の産物に他ならない。俺の目はそっちの方向でくぎ付けだ。
キモい。ひたすらキモい。
「うらやましいんだどー」と、れみりゃがとんでもないことを言う。勘弁してくれ。幼児体型にあんな足を換装されても困る。
れいむは茂みの中、あの足で立っていたのだ。だから、茂みの上に載っているように見えた。そして、細い見かけによらず、言葉通りにカモシカ並の脚力を備えているのだろう──だからこそ、きめぇ丸と一緒にここまで来れた。
謎は解明された。疑問符が取っ払われたというより、新たな極大の疑問符にぶっ潰されたという感じだが。

「……どういう生態してやがる」

しゃべる饅頭に今更ではあるが、あまりに常識を越えている。アインシュタインやホーキングあたりに解明してもらいたいところだ。宇宙の神秘につながってるかも。

「ゆふふ……お兄さんは女の体に興味があるのね」

何か勘違いしたれいむが甘ったるい声でほざく。
お前から教わる女体の神秘はねぇよ。そもそも胴体ねーし。
だが、典型的なKYである饅頭生物は、こっちの気持ちにお構いなくしなを作る。
地面に腰(?)を下ろし、足を組んだ。そして、無意味に足を組み替える。
濡れた流し目を送り、熱っぽい口調でささやいた。

「しこっても、いいのよ?」

おやおや、今日は餡子の雨が降る日かな。

パンッ
ダタタッ

激情の赴くまま鳳凰脚を繰り出そうとしたその時、種々の銃声に遮られた。チッ、命拾いしたな、饅頭製のビグザムめ。

「おい、れいむもきめぇ丸も早く横に逃げろ。お前らおとりにしてーのは山々だけど、元々こっちの事情だしな」
「ゆっ、そうはいかないよ!」
「何?」

生命の危機を前にして、逃走を拒否した。きめぇ丸も首を振って、否定の意志を示す。いや、首を振るのはいつも通りなので、本当にそうなのかはわからんが……どういうことだ?

「毎日れいむたちを可愛がってくれてありがとう。だからお兄さんをほっておくなんてできないよ!」
「おお、慈愛慈愛」

正直こいつらを見損なっていたようだ。ただのムカつく饅頭だと思っていた。
しかし、一宿一飯の恩義を感じる生き物だったのだ。しかも、死ぬときは一緒だとまで言ってくれるのだ。人並み以上の義理人情を備えている。
ちょっとジンときた。
お互い生きていたら、今度からは優しく接してやろうと思った。

チュイン!

つと銃弾が飛んできて、きめぇ丸を撃った──かに見えたが、残像を残して素早い饅頭はかわしていた。
「おお、遅い遅い」と不敵に微笑む。不意打ちの攻撃にも余裕の態度だ。

チュイン!

またも銃弾が飛んできて、れいむを撃った──かに見えたが、カキン!と音がして、饅頭の表面から弾かれる。
れいむの体が灰色に変化していた。帯びた光沢は金属的な、いや、重量感と硬質感もあわせて金属そのものだ。

「おお、硬い硬い」
「れいむのアストロンはどんな武器も防げるよっ」

性能を何でも貫く矛で試してみたいものだが、そんなことよりアストロン、だって?
全身を鋼鉄に変化させる呪文じゃないか。スライムみてーななりのくせに、よくまあ使えたもんだ。結構高いレベルのモンスターなのか?
れいむだけでなく、きめぇ丸もそうだ。銃弾が洪水と放射されたところで、両者ともまるで苦にせず対処できるだろう。
俺? もちろん死ぬに決まってる。…………………うん、俺だけ死ぬよな。

「てめぇら、後で覚えてやがれッッ!!」

捨て台詞を吐き、全速力でその場を離れた。
背中に「おお、怖い怖い」「ゆっくりしていってね!」の声が投げつけられ、俺は改めて決意した。絶対一発かます。「必ず殺す」と書いて「必殺」の一撃をだ。
しかし、今は自分の身を生かすことを考えないといけなかった。れみりゃの安全とセットで。




タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2010年05月08日 17:12