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 耳をつんざくような風の叫びが荒野全体を震わせる。
 背の高い枯れ草が波打つように倒れ、地面の砂が蛇のようにうねりながら舞い上がる。
 視界が急速に悪くなり、10メートル先さえぼやけて見える。

「気に食わない」

 雨は突然、激しく叩きつけてきた。

 最初は大粒の雨がポツポツと落ちてきたが、数秒後には天が破れたように豪雨が降り注ぐ。
 雨粒は風に煽られて横殴りになり、肌を針で刺されるように痛い。
 地面は一瞬で泥濘と化し、水溜まりが次々と生まれ、荒野を小さな川が走り始める。

「気に食わない」

 稲妻が立て続けに落ちる。
 光が荒野を白く染めるたび、遠くに点在する岩や枯れたサボテン、風に削られた奇妙な形の岩塔が浮かび上がる。
 影が異様に長く伸び、まるで生き物のように蠢いているかのようだった。

「本当に、気に食わない」

 風はますます強くなり、砂と雨が混じった壁が横殴りに襲ってくる。
 立っているのもやっとで、気を抜けば体が吹き飛ばされそうになる。
 耳の中は風の咆哮と雨音で完全に埋め尽くされ、自分の心臓の音さえ聞こえない。

 荒野はもはや“場所”ではなく、怒り狂った“生き物”そのものだった。

「あなた、いつまでそうしているつもりですの?」
「貴方がっ──疲れる、までよ!」

 泣き叫ぶ荒野の中を、花海咲季は掻い潜る。
 けれど強大なる自然災害を前に人間ができることなど皆無に等しい。
 現に花海咲季はこうやって、ただ耐えることしか出来なかった。

「抵抗が無駄だと悟っているのは構いませんけど──」

 塵芥を見下ろす殺意の視線。
 大嵐の渦中にいる魔女、遠野ハンナは心底不愉快そうに舌打ちを鳴らす。

「なぜ、銃を撃たないんですの?」

 ハンナの神経を逆撫でするのは、今しがた花海咲季が見せた行動。
 咲季の持つ唯一の抵抗手段である高性能アサルトライフル、オモチャの兵隊(トイソルジャー)。
 あろうことか彼女はそれを抜こうともせず、ただ嵐の中に身を置くことを選んだ。


「さっき、言ったでしょ」

 暴風雨、その中心。
 音のない台風の目では、咲季の言葉がやけにクリアに聞こえる。

「私は……貴方に、手を差し伸べたいの」

 だからこそ、苛立ちが加速する。
 花海咲季はじきに死ぬ。これは確定事項。
 土を捲り返すほどの災害に見舞われているのだ。人間に出来ることはない。
 銃という重りを引っ提げ、レッスンで鍛え上げた体幹によりなんとか吹き飛ばされずにはいるが、時間の問題だ。
 大雨で疲弊が溜まり、泥濘に足を取られた瞬間に咲季は肉塊と変わる。

 そもそもとして、銃を抜いたところで勝敗は微塵も左右されない。
 この砂混じりの大嵐、ろくに体勢も維持できない状態で初めて使用する銃器など、まぐれでだって当たりやしない。

 言ってしまえば、ハンナが直接手を下すまでもないのだ。
 こうして空中を漂い、嵐を起こすだけで蹂躙できる一方的なワンサイドゲーム。


「戯言いってんじゃ──ねぇですわッ!」


 なのになぜ、こうも心を乱される。
 本心なのか油断を誘う為なのか、どちらにせよ咲季の言動一つ一つがハンナを激情に駆り立てる。
 対して咲季は、死にゆく者とは思えない勝ち気な表情を崩さない。
 この状況そのものが、ハンナにとって余裕を乱す“敵”なのである。

「いい加減、疲れてきた……でしょっ!」
「ハッ! そんなにフラフラで何言ってんですの?」

 戦闘、とも呼べない意地の張り合い。
 それが始まってから、およそ5分は経過している。
 そんな長時間大雨と暴風に見舞われれば、いかにスポーツ万能な咲季といえども動きに翳りが見え始める。

「──っ、は……ぁ」

 目を開けていられない。
 強まる雨風が砂粒を運び、容赦なく身体を打ち付ける。
 反射的に滲む涙が視界をぼやけさせる。ハンナの表情は伺えない。
 肉体的な疲弊ではなく、精神的疲労が重なり咲季は思わず足を取られた。

「く……っ、のぉッ!」

 倒れ込みながらも、傍に生えていた枯れ木を掴み吹き飛ばされることだけは避ける。
 白い掌が樹皮によって裂け、赤い雫が風に乗って消えてゆく。
 口を閉じても歯の隙間からザラザラとした感触が忍び込み、舌の上に苦い土の味が広がった。

「──っ、の、……程度……ッ」

 周囲は黄褐色の闇に包まれた。
 数メートル先の景色は完全に溶け、ただ砂の奔流だけが渦を巻いて飛び交っている。
 服の隙間から砂が容赦なく入り込み、首筋や背中を這い回る不快な感触。
 耳の中まで砂が詰まり、風の轟音がくぐもったように聞こえる。

「へぇ……結構頑張りますのね、みっともない」

 侮蔑を込めたハンナの声も、咲季からすればほとんど聞こえない。
 往生際の悪い無駄な抵抗。誰が見ても咲季の粘りは、悪足掻きでしかないだろう。
 けれど実際は違う。彼女が稼いでいる一秒一秒は、たしかにハンナの心身を削っている。


 ハンナの魔法は“浮遊”。
 元は数センチの浮遊でも多大な疲労を伴っていた。
 いくら魔女となり魔法が強化されようとも、いつまでも維持していられるものではない。
 加えてウェザーリポートという後付けの能力を加減なくフル活用しているのなら、消耗もそれ相応。
 衝動まみれの脳には負荷が掛かり、緩やかにだが彼女の高度は落ち始めている。


 それでも────


「まぁ、許して差し上げますわ。そのクソ生意気な態度も……あと数秒後には見えなくなりますものねぇッ!」

「る──っさい!」


 圧倒的に、遠い。
 加速度的に積み重なる疲弊によって、咲季の肉体は悲鳴を上げている。
 木を掴む手の感覚もなくなってきた。腕に力が入らない。
 こんな状態でハンナの限界を待つなど到底不可能だというのは、自身のコンディションを深く理解している咲季だからこそ断言出来る。
 咲季はリアリストだ、ここから勝機を見出すほど無謀ではない。


「その、高い鼻……へし折って、あげるわ!」


 けれど、同時に。
 ここで諦めるほど、臆病者でもない。

「理解できませんわねぇ~~! どうしてそんな惨めを晒しながら、無駄な足掻きをするんですの!?」

 哄笑。勝利を確信した態度。
 あれほどいきがっていたのに、少し風を強めれば間違いなく花海咲季は死ぬ。
 自分の機嫌次第で命を握っている状況がたまらなくおかしくて、ハンナは最後の問いを投げる。

「わたし、が」

 そしてハンナは、後悔することになる。
 ほんの気紛れに放った、己の愚問へと。


「──お姉ちゃん、だからよッ!」


 その瞬間、何かが切れる音がした。





 ────“ハンナはお姉ちゃんだから、責任をもってきょうだいを守ってね”。



 ハンナはようやく理解する。
 なぜ、こんなに心にざらついた風が吹くのか。
 なぜ、胸の奥に熱と冷たいざわめきが迸るのか。

 ああ、そうだ。
 これは怒りなんかじゃない。
 自分は花海咲季に、嫉妬していたんだ。


「死にやがりなさい」


 耐え難い妬みと憎しみが、ドス黒い旋風となる。
 感情の昂りにより巻き起こった暴風は、咲季の手を樹皮から引き剥がした。
 重力が滅茶苦茶に乱され、咲季の身体が水平に落下する。
 短い悲鳴を押し殺して、咲季は懸命に何かに掴まろうと手を伸ばした。

「──っ、──あ──!」

 けれど無情。何も掴めない。
 地面に磨り潰されるか、高高度から地上に叩き付けられるか、岩や木に激突するか。
 いずれにせよ言えることは、もれなく咲季の命を刈り取るには十分すぎる。


 そうして咲季の身体は。
 無防備に、衝撃を受け入れた。




 不思議な感覚だった。
 なにかに激突したのは確かなのに、痛みはない。
 もしかして痛みも感じないほど重傷を負ったのか。いいや、それはない。
 手も動くし足も動く。意識もはっきりしている。

 というか、何にぶつかった?
 岩だったら間違いなく即死だし、木ともまるで感触が違う。
 なにより受け身も取れずにぶつかったはずなのに、なんで無傷?
 いやそれより、まだ風は吹いているはずなのにどうして飛ばされてないのだろう。
 自分が今どういう状態なのかもまるでわからない。

 記憶の混濁と困窮から抜け出そうと、本能的に顔をあげる。
 そこには、凛と咲く藤の花のような──颯爽とした男の顔があった。

「……? って、えええ!? あ、あなたっ、なんで!?」

 咲季はその顔に見覚えがある。
 放送前、一番最初に出会った参加者だ。
 あの時の光景は鮮明に思い出せる。ゴブリンの群れを一刀両断した姿は、あまりにも現実味がなかったから。

「ちょっと、あの……! あ、もしかして協力してくれる気に!?」
「…………」

 疲労も忘れてエネルギッシュに叫ぶ咲季に対して、男はなにも答えない。
 ついでのように咲季の身体を片手で支えながら、猛禽類を思わせる双眸でハンナを睨みつける。
 彼の放つ研ぎ澄まされた殺気に当てられたのか、途端に背に担ぐ銃の重みが増したような気がした。


「どなたですの?」


 獲物が一人増えたのは喜ばしいことなのに、ハンナは男の出現へ眉を顰める。

 異様な光景だった。
 なにもかもが異質だった。

 それなりに体幹を鍛えている咲季ですらまともに立っていられない大嵐の中で、平然と地に足をつけている。
 それどころか、轟速で迫っていた咲季の身体を受け止めておきながら微動だにしない。
 確かに体格は立派ではあるものの、それだけでは説明不能な得体のしれない威圧感。
 たった一人の人間のはずなのに、その男はどんな大木や巨岩よりも荘厳に見えた。


 ────この人は、やっぱり強い。


 そして咲季は、それをより顕著に感じ取る。
 自分のことなどまるで見えていない男の瞳は、勝利を掴み取らんと闘志を滾らせる者のそれだった。

「持っていろ」
「えっ、ちょ──!?」

 一言。ようやく口を開いたかと思えばそれ。
 なんのことかと問うよりも先に、男は自身のデイパックとトレードマークである白いロングコートを乱雑に脱ぎ渡した。
 雨水を吸った布はそれなりに重く、柔軟性もない。
 動き回るには邪魔だという気持も分からなくはないが、それを突然渡された咲季は呆気にとられるしかなかった。

「死にたくなければ、台風の目まで走れ」

 次の瞬間、煮えた血液がまるで水を打ったように冷える。
 無茶を言うなと叱り付けてやりたい気持ちもほんの少しあったが、それよりも。
 ああたしかにそうだ、死んでたまるか。そんな反骨精神が咲季を突き動かす。

「一つだけ約束して! あの子のこと、殺さないって!」

 そっちが利用する気ならばと、暴風に負けない声量で条件を提示する。
 男は初めてちらりと咲季に一瞥をくれて、すぐに魔女へと移した。

 それを無言の肯定と捉えた咲季は、走る。
 陸上のような走りではなく、風に逆らっている分一歩一歩踏み締める形。
 あいにく不格好と笑う者はいない。
 せめてもの抵抗でコートで顔を覆い砂の侵入を防ぎ、唯一の安全地帯を目指して放浪する。

「なんだか知りませんけど、まーた一匹自殺志願者が来やがりましたわねぇ!」

 高らかな死刑宣告が風に乗って届く。
 遠野ハンナは標的を定める必要がない。
 数がいくら増えようとも、この規模の嵐の前では総じて無力なのだ。
 ただ宙を漂い、能力を発動しているだけで勝手に相手が倒れていく。

 ウェザーリポートの辞書に「多勢に無勢」という言葉はない。
 いくら援軍が来ようが、皆殺しという結末は変わらないのだ。

「格好つけてんじゃ──ねぇですわよッ!」

 ほら、今もまた死が迫る。
 鞭のような横殴りの雨に混じり、拳大の石塊が男の側頭へと飛来する。
 それはもう、飛んできたなんて生易しいものではない。突然現れたと表現する他ないスピード。
 例えプロ野球選手であろうと視界に捉えた時にはもう手遅れだろう。

 そんな圧倒的速度を持った礫は──とっくに軌道を逸らされていた。


「随分余裕だな、物の怪」


 ハンナは目を見開く。
 彼女からすれば、まるで礫が自らの意思で彼との衝突を避けたように見えただろう。



 ──なにがおきた?
 ──この男は、なにをした?


 脳内で喧しく反響するハンナの疑問に答えるように、視線が男の右手へと誘導させられる。
 その右手には、一振りの刀が握られていた。
 砂と雨の奔流の中でもよく映える美しい刀身。
 それはまるでハンナを威圧するかのように、雷光を不気味に反射する。

 あの刀でなにかをした。
 ハンナに分かったのはそれだけ。
 抜刀の瞬間も捉えられなかったのだ、無理もない。
 刀身ではなく柄を石に当てて軌道を逸らしたなど、説明しても理解できないだろう。

 理性の大半を殺人衝動に捧げた遠野ハンナ。
 普段の冷静さや知能が欠け落ちた彼女でも、ただひとつ理解できる事がある。

「なん、ですの……その目……!」

 この男は、普通じゃない。
 見下ろしているはずなのにこちらが見下ろされているような、そんな錯覚さえ抱かせる眼光が、男の異常性を如実に物語る。

 稲妻が瞬き、男の顔が鋭く浮かび上がる。
 一瞬だけ鮮明に映し出された顔を、決して忘れることはないだろう。



 ──焼き付けろ、これが修羅を目指す者。
 ──御庭番衆最後の御頭、“四乃森蒼紫”である。



「そんな目で……見るんじゃねぇっ、ですわッ!」


 ハンナの咆哮に応えるように、嵐が激しく渦巻く。
 本能的に範囲を収縮させ、蒼紫周辺のみに暴風雨の勢いを集中させる。
 猛々しく雄叫びを上げる自然の猛威を前にしても、蒼紫は一切怯まない。
 両足を泥濘の中で強く踏み締めて、右手に携えた刀をやや斜め下へ傾ける。
 左手は強く拳を握り、まるで刀と拳がそれぞれ独立した生き物かのようにゆらりと揺れた。

「まさか、嵐を相手にする時が来るとはな」

 誰にも届かせる気のない独り言。
 最強の修羅を目指すのならば丁度いいと、明鏡止水の如く彼の心は欠片の動揺もない。
 勢いを増した嵐はもはや人間が生存していられる場所ではない。
 ここに立っているのが蒼紫ではなく咲季だったなら、為す術なくゴブリン達の二の舞になっていただろう。

 そう、そもそもが間違いだった。
 天災に立ち向かうなど、無謀を通り越して滑稽。
 今やってきた男だってなんのことはない。剣士である以上、絶対に魔女を攻撃することなど出来ないのだ。

「────は、アハッ……」

 途端にハンナの心を優越感が占める。
 無敵、最強。陳腐でありながら、これほど当てはまる言葉はないだろう。
 一瞬でも気圧されていた自分が愚かに思える。
 天候操作に浮遊魔法。個人が持つには有り余る異能を持つ自分が、少し剣の扱いに長けているだけの人間一人に負けるはずがない。

 現に今、蒼紫は防御を強いられている。
 降りかかる雨粒、砂粒、石ころ、木片。絶え間なく射出されるそれらはまるで獲物を狙う機関銃。
 息つく暇もなくそれらを凌ぐ蒼紫へ、ハンナは高笑いを響かせる。


「アハハハッ! なんだ、なぁんだ!
 少し驚かされましたけれど、結局なぁんにも出来ていませんわねぇ!」

 右半分は刀で弾き、斬り、防ぎ。
 左半分は拳で逸らし、落とし、砕く。

 両腕で全く異なる動きをしていながらも、蒼紫の集中力が乱れることはない。
 ああ確かに、彼ならばハンナが疲弊により限界を迎えるその瞬間まで、耐え抜くことができるかもしれない。
 けれどそれはあくまで万全な状態の話だ。
 今の蒼紫は、本来の得物ではない刀を握らされている。

 四乃森蒼紫、彼が得意とするのは小太刀。
 取り回しの利く小太刀と、今彼が手にしている日本刀とでは、重さもリーチもまるで違う。
 防御に向いた小太刀ではなく、攻撃に向いた刀での捌きに徹しているのだ。
 当然その分ほんの僅かに振りが遅くなり、右手の負荷も大きい。

「────、──」

 無論、表情には出さない。
 感情そのものを押し殺すかの如く、淡々と暴威を打ち破ってゆく。
 しかし防御だけに意識を向けるわけにもいかないのが現状。
 体幹を崩せば、吹き飛ばされることはなくとも隙を晒すことになる。
 もしそうなれば、瞬く間に残骸の雨が彼の身体を撃ち抜くだろう。

「アハハハハッ! アハハハハハハハッ!」

 蒼紫の拳から一滴、垂れた紅色が雨粒によって洗い流される。
 鍛え抜かれた拳とてそう何度も石や木を凌いでいれば、徐々に握力が削がれていくのが条理。
 自分の体力が尽きるよりも先に蒼紫の腕が上がらなくなる──ハンナは本気でそう思っていた。

「ハハハ──は、っ」

 そんな浅はかな思惑を打ち破るかのように、ヒュンと風切り音がハンナの耳元に到達。
 途切れた笑い声を追い掛けるように、次いで布が千切れる音を聞いた。

 ──デイパックが破れている。
 自然に破れたのか、元から破れていたのか。
 そう思い込みたくても、蒼紫と目が合ったことで確信してしまう。


「ようやく、この風にも慣れてきた」


 まさか、礫石を弾き返したのか。
 あの距離から、あの嵐の中で?

 背筋を冷たいものが駆け抜けると同時に、ハンナは苛立ちに歯噛みする。
 冷たく射抜くような蒼紫の眼光へ、ハンナは苛烈な殺意の睥睨を返した。


「────上ッ等ですわ、クソ野郎」






「はぁ……っ! はぁ~~……っ! し、死ぬかと思ったわ……!」

 遠野ハンナから半径30メートルに展開される台風の目。なんとか避難に成功した咲季は、それはもう悲惨な状態だった。
 両方の髪留めはとっくに紛失し、くしゃくしゃに乱れた赤髪は砂が混じり不快なざらつきを伴う。
 自慢の衣装は泥にまみれていて、足元に至っては原型を留めていないほど汚れている。
 おまけに破片かなにかで切ったのか、露出している肌の至る箇所に擦り傷を負っていた。

 いやむしろ、この程度で済んだのは幸運といえる。
 もしハンナが蒼紫に狙いを定めて範囲を絞っていなければ、そもそも生きて辿り着けたかどうかも怪しい。
 ひとまず安堵の息を吐いた咲季だったが、すぐにぶんぶんと頭を振って現実を直視する。

「……じゃなくてっ! こうしちゃいらんないわ!」

 状況はなにも好転していない。
 自分一人が安全地帯に避難できたところで、この嵐を止めなければ意味がないのだ。
 目的は逃走ではなく、ハンナに勝つことである。それも殺すのとは別の方法で。

 ハンナの高度は目測で7、8メートル。
 たとえ銃のド素人であっても、ここは無風である台風の目。
 狙撃は不可能ではないが、そんな考えは一瞬とて過ぎらない。


 死なないし、死なせない。
 殺さないし、殺させない。
 それが花海咲季が目指す“完全勝利”なのだから。


「──ねぇ! 聞こえてるんでしょ!?
 遠野ハンナ! 今すぐ嵐を止めて降りてきなさい!」

 張り裂けんばかりの声は届かない。
 というよりも、今のハンナは咲季に注意を払えるほど余裕がないのだ。
 蒼紫という自身を脅かす強者が現れた今、彼女にとっての殺害優先度は根底から覆された。

「く……! どいつもこいつも、私のこと無視してぇ……!」

 ひとまず命の危機から逃れられたことで余裕が出来たのか、元来の負けん気から止めどなくむかっ腹が押し寄せてきた。
 とはいえ咲季は冷静だ。銃を使わず制圧するとなれば、蒼紫を頼るしかない。
 その蒼紫も今、攻めあぐねている。
 いくら蒼紫が強靭といえど、我武者羅に攻める側とただただ守る側では後者が圧倒的に不利だ。

「冷静に……私に何が出来るか、考えなきゃ……」

 今の咲季に出来ることは静観のみ。
 支給品を漁ってみても、この状況を打破できそうなものはみつからなかった。
 まさか嵐の中に再び突入するわけにもいかず、かといってハンナを銃撃するなど論外。
 ゆえに咲季が一番最初に見出したベストは“なにもしない”なのだが、あいにくそんなつまらない理屈に従ってやるつもりもない。

 なによりも、気に食わないのだ。
 容赦なく殺し合いに乗るハンナもそうだが、自分を邪魔者扱いした蒼紫にも。
 あの男からすれば窮地で怯える一般人程度の認識だろう。見返してやらなけば気が済まない。

「? ……あれ、なにかしら」

 ふと辺りを見渡していると、地面になにか落ちている。
 ちょうどハンナから真下辺りだ。駆け足で傍まで近寄り、それを拾い上げる。

「木の……剣?」

 それは、何の変哲もない木剣だった。
 ガックリと肩を落とす。恐らくハンナの破れたデイパックからこぼれ落ちたものなのだろう。
 今蒼紫が持っている業物と比べれば木剣など玩具に等しいし、自分が扱ったところで護身用にもならない。

「こんなものじゃ……」

 役に立たない。
 そう判断しかけて、肌を灼くプレッシャーに気がついた。
 思わず振り向いた先では、相変わらず嵐の中を耐え抜く蒼紫の姿。
 唯一変わっていた点は、彼の視線がこちらを向いているということ。


 ────それを渡せ。


 有無を言わさない言外の指示。
 喉が詰まりそうな迫力に頬をひくつかせながら、咲季は思考を巡らせる。
 こんな木の剣一本渡してどうにかなるのか、なんてつまらない疑問は振り払って、早々にぶち当たった難題に頭を捻ることとなった。

「渡せって言ったって……!」

 二度目になるが、もはや咲季が介入できるほど今の嵐は甘くない。
 直接手渡しするなど論外。ならば投げ渡すくらいしかないが、それも無理な話だ。
 こんな爆撃じみた暴風の中では、咲季の手から離れた瞬間に彼方へと飛んでゆく。

 せめてなにか重りでもあれば──と、考えたところで咲季の頭に電流じみた閃きが走った。


「──ある! あるじゃない!」


 咲季が今抱えているコート。
 闇夜に映える純白は見る影もなく、水と砂を吸った重みで垂れ下がるそれは、さながら土嚢のようだった。
 預かり物だからという遠慮を外に追いやり、容赦なくそれを投げ落とす。

「これを……こうして」

 もはや汚れを気にすることなど馬鹿らしいとばかりに座り込んでは、手際よく木剣の柄にコートの裾を結びはじめた。
 そしておもむろに桃色のブレザーを脱ぎ捨てては、コートの空いた裾の方に硬く結びつける。

「────よしっ!」

 さながら即席の鉤縄の完成である。
 これでダメならもう他に方法はない。
 咲季は足早に台風の目と嵐の境目ギリギリまで向かい、強く握られた布を投げ縄のようにぶんぶんと回す。

「しっかりしなさい、花海咲季」

 この嵐だ、いくら硬く結んでも数秒もあれば解けてしまう。
 しっかりと蒼紫の手元を狙って投擲しなければ、布も木剣も虚しく塵の一部に変わる。

「あなたは、最強のお姉ちゃんでしょ」

 チャンスは一度きり。
 失敗は、許されない。

「こんなところで、負けるんじゃないわよ」

 不思議と、不安はなかった。
 あるのはひりつくような緊張と、滾るような挑戦心だけ。
 一度だけ深く息を吸い込み、嵐の中で戦う男を見つめる。

「そうですよね、先輩」

 意図に気がついた蒼紫が左手を伸ばす。
 拳法による防御が解かれ、彼の半身を砂利が撃ち抜いた。
 それでも苦悶の声一つあげず、修羅を目指す男はただ咲季を見据える。

「見ててください、私の戦いを」

 ゆっくりと体を横向きに構え、左足を一歩踏み出す。
 後ろへ大きく引かれた右腕。
 そして肩から肘、肘から手首まで、全身のバネを一気に解放する。

 ロープが空気を切り裂く音が響き、先端に括り付けられた木剣が勢いよく飛び出した。


「と、ど……っけぇぇぇええッ!」


 鉤縄は螺旋を描きながら伸びていく。

 まるで、空を泳ぐ蛇のように。

 恐れを知らぬ勇猛さを見せつけて、嵐の中を駆け抜ける。



 そして、咲季の手から離れた木剣は。



 しっかりと、蒼紫の左手が掴み取った。









【Iris】アイリス

 1.あやめ科の植物の一属。アヤメ・ハナショウブなどを含む。

 2.ギリシャ神話の虹の女神。

 3.淡紫色、淡藍色。




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最終更新:2026年04月06日 20:09