ごめんなさい
陽も落ちかけ、夕暮れ手前の涼やかな風が通り過ぎると、荒れた道場をならしていた少年
たちも、ぽつりぽつりと荷物をまとめて家路へとつき始める。
座敷の中ではエリカ様とクズハ殿が相も変わらずきーきーやいやい言い争いを続けており、
青年はその様子にため息をついて目を細めると、縁側に腰をおろした。
たちも、ぽつりぽつりと荷物をまとめて家路へとつき始める。
座敷の中ではエリカ様とクズハ殿が相も変わらずきーきーやいやい言い争いを続けており、
青年はその様子にため息をついて目を細めると、縁側に腰をおろした。
「まあ昨日が昨日だったもんで、俺は少々寝過ごしてから道場に顔を出そうと思ってたん
だが、どうも稽古場がうるさくて敵わねえ。何かと思って外に出てみりゃ、お前が門下生
に囲まれて、えらい可愛がられてんのを見つけたのさ」
だが、どうも稽古場がうるさくて敵わねえ。何かと思って外に出てみりゃ、お前が門下生
に囲まれて、えらい可愛がられてんのを見つけたのさ」
私はエリカ様のためにここまで来たことは覚えているが。はて、そのような記憶はない。
ともかく何がしかの事情で失われた記憶を埋めるために、まずはこやつの言い分を聞いて
やろうと向き直る。青年は笑い混じりに「いやあ驚いたね」と言葉を続けた。
ともかく何がしかの事情で失われた記憶を埋めるために、まずはこやつの言い分を聞いて
やろうと向き直る。青年は笑い混じりに「いやあ驚いたね」と言葉を続けた。
かような朝から妖魔が人の街を訪れるなど、よほどでなければ大騒ぎになるということで、
青年は群がる少年どもを追い払うと、地面の上でひっくり返っていた私をつまみ上げて、
あまり近寄ってはならぬと言ったそうだ(失礼な話である)。ともかく一応の面識がある
私であったが故、さてこいつはどうしたもんかとしばし頭をひねっていると、突然に門が
爆散し土埃の中から現れたのがエリカ様だったという。
青年は群がる少年どもを追い払うと、地面の上でひっくり返っていた私をつまみ上げて、
あまり近寄ってはならぬと言ったそうだ(失礼な話である)。ともかく一応の面識がある
私であったが故、さてこいつはどうしたもんかとしばし頭をひねっていると、突然に門が
爆散し土埃の中から現れたのがエリカ様だったという。
「タバサを離しなさい! なんてえらい剣幕でよ」
青年は全く似つかない声真似を披露して後「どうだい、似てるだろう」などと言いたげに
私の顔色を伺っているようだったが、こちらとしてもどう対応をして良いものか分からず、
取り急ぎ二度ほど頷いて続きを待った。
私の顔色を伺っているようだったが、こちらとしてもどう対応をして良いものか分からず、
取り急ぎ二度ほど頷いて続きを待った。
「そんでまあな、こっちとしても別に迎えに来てくれたんなら話は早えとお前を渡したん
だが、そしたらあの色ボケ姉ちゃん、とんでもないことを口走りやがった」
だが、そしたらあの色ボケ姉ちゃん、とんでもないことを口走りやがった」
エリカ様は私の身体を抱き取ると、きっと目を上げて青年を睨み啖呵を切ったそうだ。
――女とあらば誰でも抱くふしだらな男よ、見損なったぞこの人間風情が。あの月夜の晩、
私を貫いた貴様の巨根を忘れられずここまで来たというのに、我が従者にまで手を掛ける
とは何事か、それで私の初恋の君になろうなど千年早い――と。
私を貫いた貴様の巨根を忘れられずここまで来たというのに、我が従者にまで手を掛ける
とは何事か、それで私の初恋の君になろうなど千年早い――と。
「な、全く訳が分からねえだろ?」
笑いながら目線を落とし、頭をかく。
言葉通り放心しているとエリカ様はさらに詰め寄りまくし立てた、と青年は言う。
言葉通り放心しているとエリカ様はさらに詰め寄りまくし立てた、と青年は言う。
――この胸に穿たれた穴が癒えるには時間がかかる、貴様にすればほんの出来心だったの
かもしれないが、私にとっては初めてだったのだ。乙女心を弄ぶ不埒な雄が、今日この時、
この場を持って、蛇の目家当主たるこのエリカが成敗してくれる。
かもしれないが、私にとっては初めてだったのだ。乙女心を弄ぶ不埒な雄が、今日この時、
この場を持って、蛇の目家当主たるこのエリカが成敗してくれる。
邪の目を構えにじりよるエリカ様、訳が分からず後退る青年。
と、そこで割って入ってきたのが、クズハ殿だという。クズハ殿は今にも振り下ろさんと
される邪の目を握り止め、何故か怒りに充ち溢れた眼光を青年に向けたそうだ。
と、そこで割って入ってきたのが、クズハ殿だという。クズハ殿は今にも振り下ろさんと
される邪の目を握り止め、何故か怒りに充ち溢れた眼光を青年に向けたそうだ。
「どういうことか説明してもらえませんか――ってそりゃもう汗も凍るくらいの声でな」
説明もなにも、本人が分かってないのだからどうしようもない。おまけにクズハ殿がどう
してそこまで怒り心頭しているのかも分からない。結局その場を取り繕う言葉など浮かぶ
はずもなく、そうこうしているうちにエリカ様はクズハ殿に憐れむような目をくれると、
ぽつりとこんなことを呟いたそうだ。
してそこまで怒り心頭しているのかも分からない。結局その場を取り繕う言葉など浮かぶ
はずもなく、そうこうしているうちにエリカ様はクズハ殿に憐れむような目をくれると、
ぽつりとこんなことを呟いたそうだ。
――さてはお前もこやつの性技に魅せられた妖魔が一人か、悪いことは言わぬ、その男の
温もりは忘れ過ちに気づけ。こいつは夜な夜な森にて雌妖魔を犯す破廉恥極まりない男ぞ。
私も昨晩こやつの男根を受け入れた所為で、未だ身体の火照りが抜けぬわ。
温もりは忘れ過ちに気づけ。こいつは夜な夜な森にて雌妖魔を犯す破廉恥極まりない男ぞ。
私も昨晩こやつの男根を受け入れた所為で、未だ身体の火照りが抜けぬわ。
青年はそこで話を切り、道場を仰ぐように両手を広げて見せた。
「で、ご覧の有様だよ」
道場は門下生たちが後始末をしたせいで半分ほどは綺麗になっているが、まだ到る所には
焦げた穴があき、ぶすぶすと黒い煙を上げている。この状況こそがエリカ様とクズハ殿の
戦った痕跡らしく、その熾烈を極めた熱戦は半刻にも及んだという。
焦げた穴があき、ぶすぶすと黒い煙を上げている。この状況こそがエリカ様とクズハ殿の
戦った痕跡らしく、その熾烈を極めた熱戦は半刻にも及んだという。
クズハ殿は魔法と呼ばれる奇妙な妖術を用いるようで、そのへんで小悪さをする妖魔など
とは比べ物にならないほどに強いのだが、剛力はなくとも俊敏さをもつエリカ様とは相性
が悪かったらしく、青年も「実際何度かは陣を編む前に崩されてたからな」などと力ない
笑いを浮かべていた。
とは比べ物にならないほどに強いのだが、剛力はなくとも俊敏さをもつエリカ様とは相性
が悪かったらしく、青年も「実際何度かは陣を編む前に崩されてたからな」などと力ない
笑いを浮かべていた。
だがそれでいて五分と五分。時間と共に傷つき体力を消耗し、肩で息をする二人を見て、
青年はこれではどちらかが死んでしまうと思って間に入り「まあ、もういいじゃねえか」
となだめてみたところ、何故か二人から強烈な平手を同時に喰らい卒倒。そして今に至る
というわけだ。
青年はこれではどちらかが死んでしまうと思って間に入り「まあ、もういいじゃねえか」
となだめてみたところ、何故か二人から強烈な平手を同時に喰らい卒倒。そして今に至る
というわけだ。
「タクミさんがハッキリしないからです! なんつってな」
その時の様子を思い浮かべてか、それでもどことなく悪い気はしないといった風に青年は
頬を摩りながら座敷へ目を戻す。
すると何時の間にやらエリカ様とクズハ殿は二人並んで仲良く茶を啜っていた。
先程まであれだけ言い争っていた二人が何故そういう具合になっているのかは分からない
が、まあお互い人に非ず者。仲良くした方がよいであろう、仲良くしたうえで、三人恋に
励めばよいではないか。
頬を摩りながら座敷へ目を戻す。
すると何時の間にやらエリカ様とクズハ殿は二人並んで仲良く茶を啜っていた。
先程まであれだけ言い争っていた二人が何故そういう具合になっているのかは分からない
が、まあお互い人に非ず者。仲良くした方がよいであろう、仲良くしたうえで、三人恋に
励めばよいではないか。
「で、話を聞いてみりゃお前のご主人様は、妙な勘違いをしてやがる」
そこで青年は恋は恋、戦いは戦いで全く別のものであると言い出した。それを混同すると
はバカにも程がある、このご時世になんと脳天気なことかと続けた。
私はいやいや、それは聞き捨てならぬ、恋と戦いは同義なのだ。と反論を試みたが、青年
には「にゃあにゃあ」としか聞こえぬらしく余り上手くない。ならばと早速にエリカ様の
元へ走り寄って「ちょっとがつんと言ってやってくださいな」と告げたところ、エリカ様
は笑顔のまま信じられないお言葉を口になされた。
はバカにも程がある、このご時世になんと脳天気なことかと続けた。
私はいやいや、それは聞き捨てならぬ、恋と戦いは同義なのだ。と反論を試みたが、青年
には「にゃあにゃあ」としか聞こえぬらしく余り上手くない。ならばと早速にエリカ様の
元へ走り寄って「ちょっとがつんと言ってやってくださいな」と告げたところ、エリカ様
は笑顔のまま信じられないお言葉を口になされた。
「私たち、間違ってたみたいだね」
――なんと、エリカ様までそのような事を!
私がこれまで刻苦勉励、苦心惨憺に磨き上げてきた学識が間違っていると、そう仰られる
のか。エリカ様にとっての恋が戦いでなくてどうする、昨晩のあれが恋でないわけがない。
仮に私が間違っているとして、それでは恋とは一体何なのか答えてご覧なさい!
私がこれまで刻苦勉励、苦心惨憺に磨き上げてきた学識が間違っていると、そう仰られる
のか。エリカ様にとっての恋が戦いでなくてどうする、昨晩のあれが恋でないわけがない。
仮に私が間違っているとして、それでは恋とは一体何なのか答えてご覧なさい!
「そ、それは……分からないけど」
――それみたことか!
私が間違っているはずがない、私は生まれて4年もの間ずっと蛇の目邸の本と共に過ごし
てきたのだ。私への否定は蛇の目邸そのものを否定することに他ならない、それは蛇の目
邸の主たるエリカ様自身をも否定することになるのだ。するとどうだ、これまでエリカ様
に尽くし、幾年もの間世話を続けてきた我が一族が浮かばれぬではないか!
私が間違っているはずがない、私は生まれて4年もの間ずっと蛇の目邸の本と共に過ごし
てきたのだ。私への否定は蛇の目邸そのものを否定することに他ならない、それは蛇の目
邸の主たるエリカ様自身をも否定することになるのだ。するとどうだ、これまでエリカ様
に尽くし、幾年もの間世話を続けてきた我が一族が浮かばれぬではないか!
私などは屋敷の外を自由に駆け回る妖魔どもに妬みの目を向けたのは一度や二度ではない、
それは恐らく私だけでなく、母や祖母も同じだったに相違ないのだ。そんな我らを言うに
事欠いて間違っているなど、タバサ悲しくて涙がこぼれてしまいます!
それは恐らく私だけでなく、母や祖母も同じだったに相違ないのだ。そんな我らを言うに
事欠いて間違っているなど、タバサ悲しくて涙がこぼれてしまいます!
「タバサが悪い訳じゃないよ。だからもうほら、泣かないで」
「わーっ」
「わーっ」
私はぽかぽかとエリカ様のお腹あたりを叩きながら訴えた。大泣き声を出しながら訴えた。
しかし訴えながらも、どことなく自分が間違っているような気がしなくもなかった。
そもそも恋と戦いを勝手に結びつけたのは私であったからだ。
しかし訴えながらも、どことなく自分が間違っているような気がしなくもなかった。
そもそも恋と戦いを勝手に結びつけたのは私であったからだ。
さてこれはどうしよう。退くにひけない格好になってしまった。ええい、とりあえず泣い
ておけば何とかなるだろうと、なるたけ大きな声で泣き続けていると、やはり息が長くは
続かないもので、おのずとしゃっくりが出る。途中までは良かったが時折変に上ずる自分
のしゃっくりが可笑しくてたまらなくなってきて、しまいには笑い転げてしまった。
ておけば何とかなるだろうと、なるたけ大きな声で泣き続けていると、やはり息が長くは
続かないもので、おのずとしゃっくりが出る。途中までは良かったが時折変に上ずる自分
のしゃっくりが可笑しくてたまらなくなってきて、しまいには笑い転げてしまった。
「まーなんだかよく分からんが、誤解が解けたようで良かったな」
青年がなんとなしの一言で場をまとめると、エリカ様はすいと立ち上がり袴についた折り
目を伸ばし始めた。宴もたけなわということか、このままいけばこの局面を乗り切れそう
だと、私は畳の上を転がりながら笑い続けた。
目を伸ばし始めた。宴もたけなわということか、このままいけばこの局面を乗り切れそう
だと、私は畳の上を転がりながら笑い続けた。
「タバサがおかしくなっちゃったみたいなので、今日はこのへんで……いろいろとご迷惑
おかけしました、また後日改めてお詫びに伺います」
おかけしました、また後日改めてお詫びに伺います」
深々とお辞儀をするエリカ様にクズハ殿が顔を上げ「今度蛇の目邸に遊びに行ってもいい
ですか?」と申された。エリカ様は返事の代わりに柔らかい笑みで頷く。
ははあ、これはまた一つ友達ができましたね。と喜びを分かち合いたいところであったが、
私には笑い続ける他がない。無念である。
ですか?」と申された。エリカ様は返事の代わりに柔らかい笑みで頷く。
ははあ、これはまた一つ友達ができましたね。と喜びを分かち合いたいところであったが、
私には笑い続ける他がない。無念である。
† † †
夜のシノダ森に、ちりりんと鈴の音が響く。
それはエリカ様愛用の自転車「弁天号」のベルである。
確か古文書によれば、弁天号は遥か古代に失われたと記されていたはずで、私はどうして
弁天号が戻ったのか理由を訪ねたかったのだが、後ろのカゴで寝ているフリをしている私
には聞き様も無い。願わくばそれと引換に今回の失態についても今後触れないで頂きたい
ものである。
それはエリカ様愛用の自転車「弁天号」のベルである。
確か古文書によれば、弁天号は遥か古代に失われたと記されていたはずで、私はどうして
弁天号が戻ったのか理由を訪ねたかったのだが、後ろのカゴで寝ているフリをしている私
には聞き様も無い。願わくばそれと引換に今回の失態についても今後触れないで頂きたい
ものである。
「例え間違ってたしても、それに気づけるのなら、前進してるってことよ」
エリカ様は颯爽と弁天号のペダルを漕ぎながら、そう呟いた。
それは自分に言い聞かせているのか、はたまた私の狸寝入りに気づいているのか。
私は眠るフリをやめて空を見上げる。
それは自分に言い聞かせているのか、はたまた私の狸寝入りに気づいているのか。
私は眠るフリをやめて空を見上げる。
――エリカ様ごめんなさい、タバサが間違っておりました。
木々の隙間から覗く青紫の空には、雲に隠れたまるい月が笑っていた。