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日蓮宗
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- 606 聖徳太子が法華経を講じた(日本書紀)
- 615 聖徳太子は法華経の注釈書『法華義疏』を著した
- 9世紀 最澄は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて「法華経」を至上の教えとした
13世紀 日蓮によって「仏教の最高経典」としての法華経の地位を不動のものにしようとする思想が広まる
- 1260 立正安国論を著わす
- 松葉ヶ谷の草庵が焼き討ち
- 念仏者たちが、大聖人を亡き者にしようと松葉ヶ谷の草庵を襲う
- 1261 伊豆法難
- 伊豆の伊東へ流罪
- 1264 小松原法難
- 天津の工藤吉隆邸へ向かう途中、地頭・東条景信の軍勢に襲撃を受ける
- 1271 竜の口の法難
- 竜の口で処刑されるところを光が現れ逃れる
- 佐渡流刑
- 1274 放免。身延山久遠寺建立
- 預言の5ヶ月後に蒙古襲来
- 1279 「本門戒壇の大御本尊」を図顕
- 1282 弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める(六老僧)。なお、日蓮正宗など富士門流では、日興のみを後継者に定めたとする(二箇相承)。
- 61歳で入滅。
- 日蓮は釈迦の生まれ変わりだと信じ、日蓮自身の崇拝をおこなう。(釈迦→上行菩薩→日蓮)
- 三類の強敵(「妙法蓮華経勧持品第十三」)
- 俗人の敵(俗衆増上慢)「諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん」
- 僧侶の敵(道門増上漫)「悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん」
- 高僧の敵(僭聖増上慢)
- 国柱会
- 1884 元・日蓮宗僧侶である田中智學(たなかちがく)が還俗して設立
- 純正日蓮主義の実践(勅命国立戒壇の建設にもとづく日本国天皇による本門の戒壇)を主張
- 妙宗大霊廟
- 本門佛立宗
- 1947 長松清風、本門法華宗から独立
霊友会系
霊友会
- 創立者の久保角太郎は、本門佛立宗をやめて独自に法華行者として辻説法を行う西田無学の思想と行法に影響される
- 「インナートリップ」を提唱し若者をターゲットとした布教方針
立正佼成会
- 1938 霊友会の庭野鹿蔵と長沼政は、「大日本立正交成会」を創立
思親会
- 1938 霊友会から独立し、思親会と公称する。
妙智会教団
- 1950 霊友会から離脱した宮本ミツと宮本孝平が設立
佛所護念会教団
- 1950 霊友会から離脱した関口嘉一と関口トミノによって設立
法師宗
- 1951 霊友会から離脱した齋藤豊吉と齋藤千代によって設立
徳会会
在家仏教こころの会
富士門系(日興門流)
日蓮本宗
日蓮正宗
- 広宣流布
「日本人のすべてが日蓮正宗の信者となった時が広宣流布」という教義を「国民の三分の一が日蓮正宗の信者となった時」と変更。
- 国立戒壇
「国立とは国が国費をもって建立し、なおかつ国費で維持するという意味であるが、国主此の法を立てらる」という言葉は「国主が正法を受持した時、戒壇を建立せよという意味であって、国立では無く国主が改宗したときである」として、国立戒壇という用語を使用することを宗内に禁止した。
- 1900 日蓮宗勝劣派の一宗派(大石寺派)が日蓮宗富士派と公称
- 1912 日蓮正宗と改称
創価学会
- 1930 日蓮正宗の牧口常三郎と戸田城聖が教育改革の推進を目的として「創価教育学会」を創立
- 1945 組織名を創価学会に改名
- 1960 池田大作、第3代会長に就任
本門正宗
正信会
- 1980 日蓮正宗内で、創価学会に対して協調の姿勢を見せた宗門首脳と学会を批判する一部僧侶・檀徒とが対立し、「正信会」を結成。
- 2009 宗教法人正信会を設立
冨士大石寺顕正会(顕正会)
- 代表役員は浅井昭衛
- 日蓮正宗・創価学会と激しく対立
- 国立戒壇の建立を、唯一の宿願・悲願とする
『国立戒壇が現行作られるものではなく、未来に作られるとされる以上、現行の憲法で「合憲か違憲か」を考察すること自体不毛の論議である。なぜなら国立戒壇建立時にどのような憲法になっているかは分からない。憲法20条は永遠のものではないし、その改憲を主張することは違憲では無いからである。』
- 1974 浅井甚兵衛、浅井昭衛、日蓮正宗の信徒除名処分
- 1975「宗教法人・顕正寺 顕正新聞社」の成立。団体名を顕正会に