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『杜を駆けて』 ◆k2D6xwjBKg :2008/09/18(木) 00:58:36 ID:B6wu56Ce
「『ルノアール展!?』」
了は目を丸くした。
未沙から了を誘うことは珍しい。いつものクールな物腰で、佐伯未沙は彼の返答を待っている。
「十年振りって。 …うーん、なんか小難しそうだしな…」
「…そ。」
あまり乗り気では無さそうな了の様子に、未沙は呆気なく踵を返す。
「あ!! 待てよ!! 柚季なら…」
「いいの。 一人で行く。」
下校路をすたすたと歩み去る未沙を見送りながら、了はため息をついて呟いた。
「…あいかわらず、かわいくねーなぁ…」
未沙はポケットの二枚のチケットを握って、てくてくと家路につく。
実際、未沙が友達を誘うのは、本当に珍しい。いつも騒がしく計画を立てるのは了と将也で、未沙はその行き当たりばったりな計画の現実的な行程を組み立てるのが常であり、未沙にはそれが性に合っていた。
柚季も含めた、デタラメ三人組のお目付役。
未沙はその役割に満足していたし、内心三人に感謝していた。
『…了と、行きたかったな…』
内心の呟きを彼女はその端正な面に出すことなく、自宅に着くとすぐ、二階にある自室に入った。
少し前まで姉と共同で使っていた部屋。
年の離れた活動的な姉が、家出同然に上京してから、部屋の半分は雑然としたままだ。
なぜか、絵画に惹かれる家系だった。恐らく母方の血だろう、漫画家を目指す姉を連れ戻そうと、高杜と東京を往復する母に、未沙はしばらく会っていない。
『…柚季みたいに、『行きたい行きたい!!』って、駄々こねられたらな…』
ルノアールの絵を了と一緒に観たい。それだけの我を通せない自分が、未沙は少し悲しくなる。
自分のシニカルな言動は、拒絶を恐れる臆病さを隠す鎧。 それを未沙はよく知っていた。
そして、同じ日に産声を上げた、かけがえのない友人である戸田山了。 底抜けに明るく間の抜けた彼をサポートすることが、未沙の人生にどれだけの笑顔をもたらしてくれたか、それも未沙は、よく知っていた。
乱暴に服を脱ぎ捨てた未沙は、部屋に座り込み、ふと、姉の荷物の中に古ぼけた画材ケースを見つけた。『 HIMEKI』とレタリングしてある。
『…ああ、叔母さんの…』
未沙は歩み寄り、汚れたケースを開けてみる。
油絵具の独特の匂い。先日の叔母の法事に、祖母が姉と未沙に形見として持たせてくれたものだった。
結局姉は開けずじまいで出奔してしまったが、祖母がケースを運んできたときの、母の複雑な表情が奇妙に印象に残っていた。
『…叔母さん、生きてたら、まだ二十代だっけ…』
未沙の母の妹である叔母は、未沙が幼児の頃に亡くなった。 まだ高校生だった。
未沙達には事故とも、自殺ともあいまいに教えられていたが、写真でみる叔母は未沙には似ておらず、これまで肉親らしい想いを抱いたことはない。
未沙はガサガサとケースを探る。 まだ彼女は油彩画を書いたことがなかった。
ふと彼女は、了をモデルにカンバスに向かう自分を想像した。そして、慌ててそれを打ち消す。
…きっと、了はそんな退屈なことは嫌いだ…
一番底から、デッサン帳が出てきた。 アグリッパ像、二ケ像… 精緻なスケッチに未沙の瞳が少し明るくなったとき、ページの間から、ハラリと二枚の紙片が落ちた。
拾いあげた未沙の表情が驚きに凍る。
二枚の黄変し、印刷の少し滲んだ紙片は、脱ぎ捨てたホットパンツのポケットに入っているのとデザインまでそのままの、高杜市立美術館で開催される、ルノアール展のチケットだった。
『そんな…』
最終日は叔母の命日の一日後。 自殺なら不自然だと、少しだけ未沙は考える。
…一体誰と行く筈だったのか、そして何故、行けなくなったのか、恐らく母に尋ねても解らないだろう。
『…未沙は少し、あの子に似たところがあるねぇ…』
祖母の言葉を、むきになって否定していた母。
時々、涙ぐみながら、未沙をぎゅっと抱きしめる母。
古ぼけた二枚のチケットを見つめ、未沙の瞳が潤んでゆく。
今ではもう、何も解らない。
でも、叔母と、もう一人の誰かは、決して二人で絵を眺めることはないのだ。
幸薄かった叔母が、まるでそこにいるような悲しみのなかで、弔辞を読むように、泣き声で未沙は呟いた。
「…叔母さん、私、とても臆病だよ… でも…」
ピンポーン。
突然のチャイムの音に、あわてて涙を拭いながら、未沙は服を着て走り出る。
伏し目がちにドアを開けると、そこには、了がそわそわと所在無げに立っていた。
「あ!! お前、何泣いてんだ!?」
「…ううん… 何も。」
「馬鹿。何にもないのに泣かねぇだろ!!」
肩にかかる了の力強い手。未沙は唇を噛んで堪えていた嗚咽の声と共に、了の胸に飛び込んだ。
「…一緒に、ルノアール展、行きたい…」
次の休日、未沙と、無意味に緊張し、呼吸すら遠慮がちな了は、最近改築工事を行い、立て続けに大作を招致している高杜市立美術館で、『イレーヌ・カーン・ダンヴェールの肖像』の前に立っていた。
「…かわいい…」
了の感想に、クスリと笑った未沙のポケットには、叔母のチケットが入っていた。
十年振りに、この絵に会いにきたのだ。
END
設定
高杜市立美術館
最近改築工事を行い、積極的に大作を招致している。
最終更新:2008年09月28日 18:44