161 :『煙突岩』:2008/09/05(金) 01:20:03 ID:JBSZb4lY


柚季がようやく登校できるようになったのは、新学期が始まって一週間も過ぎた頃だった。

夏休み最後の日、思い切ってショートにした頭で美容室を後にし、てくてくと帰宅の途についていた柚季は、高杜モールの手前で、バイクと乗用車の衝突事故に巻き込まれた。
突然の甲高いブレーキ音、そして、ぐしゃ、という嫌な響き。
文字通り空を切って飛来したバイクの運転者は、柚季の肩を掠めて『激安DVD』の立て看板に頭から突き刺さった。

そして柚季に向かって、原型を留めていないバイクであった鉄塊が、地面との摩擦で火花を上げながら回転しつつ迫った。

スローモーションのようにぼんやりとそれを見ていた柚季が、ようやく自らの命の危機に気付いた時、焦げ臭い匂いを撒き散らしてそれは彼女の目前でゆっくりと停止し、そのピカピカのマフラーに映る自分の顔を見ながら、柚季はようやく失神した。


奇跡的にかすり傷ひとつなかった柚季だったが、彼女は収容された市民病院でも、事情聴取に訪れた警官にも、そして駆けつけた両親にも、全く言葉を発することができなくなっていた。

『失語症です。』

心配性の両親が大事を取って何軒も廻った病院で、すべての医師はそう告げた。

『心因性のショックによる失語症。 日常生活を普通に送れば、だんだん治りますよ』

バイクの運転者も軽傷ですんだと聞き、柚季は別に何のトラウマも感じていない。ただ、言葉だけが、もう少しのところで唇まで来なかった。

病院巡りで一週間遅れて登校したその日は、全校行事のひとつ、「高見山写生会」の日であり、久しぶりのまだ眩しい日差しを浴びて、柚季は山腹の高見神社に向かう六年生の長い行列のなか、三人の親友の少し後ろを歩いていた。


振り返った将也が、歩みを遅めて柚季に並ぶ。

毛先を無造作に、乱暴にカットしたような見慣れない頭と、彼女らしからぬ沈黙。まるで別人に話しかけるように、将也はおそるおそる尋ねた。

「…大丈夫か? 柚。」

こくり。

頷く彼女に苦笑いして、将也が続ける。

「…無理しないで、声出るようになってから来りゃいいのに。」

柚季はちらりと翔也をみると、メモ帳に何か書いて差し出した。

(あいたかった)

「会いたかった? 誰とだよ。」

翔也が笑いながらメモ帳を返すと、柚季は上目遣いに翔也をじっと睨み、再びメモに書き込み渡す。

(みんなと)

少し乱暴なその字を見つめて少し頷いた翔也は、前を行く了と未沙に向かって大声を上げる。

「おい!! オメーら、久しぶりに四人揃ったし、ちっと面白いことしようぜ…」


「面白いこと」はかなり無謀な計画だった。

高見神社で各自解散して思い思いの場所で写生を始めた同級生たちのなか、四人は神社の裏手に陣取って、将也が打ち明けた計画を検討していた。

「行こーぜ!!」

長身で二枚目だが、激しやすく騒がしい性格のため、女子には複雑な評価を受けている了が計画にまず乗った。

「…ここから頂上まで一時間なら、余裕で集合時間に間に合うさ。」

長い黒髪に華奢な手足、いつも眠たげな瞳をした未沙が尋ねる。

「…で、頂上には何があるの?」

将也はやんちゃな顔を皆に向けると、もったいぶって言う。

「…何もねぇ。」

三人が怒りと抗議の声を上げるのを制し、将也は続けた。

「…が、ここからは絶対見えない、幻の『煙突岩』が見える。 あの海の遥か沖合いにな。天気もバッチリだ。」


三人は眼下にみえる高杜湾を振り返った。神社の境内から、この湾を写生している者も多い。

「…空気の澄んだ、晴れた早秋に、高見山の一番てっぺんで… これが煙突岩を見るための条件だ。どーする!?」

柚季が足を踏み鳴らし、スケッチブックに大きな字で(いく!!)と書いて微笑んだ。

「…面白そうね。」

未沙が同意し、四人は、リュックと画材をいそいそと藪に隠した。

「…絵は、どうすんだ…」

ぽつりと了がつぶやく。
「あ…」

あっけなく頓挫するかと思われた計画だったが、未沙が静かに言った。

「…画用紙、並べて。」
四枚の画板に四枚の画用紙。
キョロキョロと四方の風景を確認した未沙は、両手にパステルを握ると、祈祷師じみた動きで、猛然と平行して四枚同時にスケッチを終えた。

「…すげぇ…」

「次。絵の具。」

未沙の姉は漫画家の卵で今、上京問題で彼女の家は揉めに揉めているという。

スケッチと同じく、巫女を思わせる神憑りのごとき筆遣いで、四枚の提出物はあっという間に完成した。


「さて、行くぞぉ!!」

将也を先頭に、ガサゴソと斜面のわずかな獣道を登り始めると、背後で玉砂利を踏む音が聞こえ、忽然と一人の男子生徒が現れた。

「誠二!?」

了が呟き、誠二に向かって指を口に当て、シーッと見逃せというジェスチャーを送る。

誠二は苦笑いして、黙認を意味する敬礼を返した。

「…よかった…あいつは口堅いから…」

「それより将也、あんた道分かってんの?」

未沙の問いに、将也が答える。踏みしめた草の匂いが鮮烈だった。

「…ああ。この獣道をまっすぐ上がって、右手に小さな稲荷の祠、その横を岩伝いにひたすら上だ。」

四人は汗だくで細い斜面を登り続けた。
すっかりか細くなった蝉の声だけが響く。

「…ちっと休憩しようぜ …」
了がそう言ったとき、
最後尾の柚季が将也のTシャツをぐいぐいと引っ張った。

「…なんだよ柚。」

柚季は藪を指差し、ゆっくり人差し指と小指を立てて残りの指をくっつけた。『狐』だ。


「狐がいるのか!?」

目を丸くする将也に、藪をしげしげと見た未沙が言う。

「違うわよ。お稲荷さん。」

「…よ、よく見つけた!!柚!! でかしたぞ!!」

了が将也を睨んで言う。
「テメー、ここ来んの、始めてだろ!!」

叔父さんがどうのこうのと呟く将也を最後尾に回し、四人は高見山の頂上を目指し、登り続けた。

風が強くなった。
ゴロゴロした岩場を手を取りながらひたすら登る。

「…山なんだから、上に登れば必ず頂上に…」

「うるせーよ!! さも詳しそうな事言いやがって!!」

言い争う二人を無視して、先頭を登っていた未沙が、ひときわ大きな岩の上に立った。

「頂上だ…」

びゅうびゅうと吹く風に黒髪を逆立てて、未沙はなんの変哲もない空き地に佇んでいた。


未沙に続いてそこにたどり着いた柚季の、将也の、了の眼下には、生まれ育った緑の高杜市、そしてその向こうの青い楕円の海がどこまでも広がっていた。

「うわ…」

四人は声も無くし、壮大な青と緑にただ見とれた。

「学校、見える…」

「あれ、高杜駅だ…」

やがて了が海を見回して言う。

「煙突岩、どこだ?」

水平線を見渡しても、それらしいものは見えない。
しばらく見渡した美沙が呟く。

「…でも私、この景色見たから、満足かな。」

「そーだな…」

将也と了が少し残念そうに呟いた時、柚季が目を見開いて、ぴょんぴょん跳ねながら遥かな沖合いの一点を指差した。

「え!!」「見えたの!?」「どこだよ!!」


「…しょ…うや、あ…そこ…」

柚季の唇から声が漏れた事に驚いた瞬間、はっきりと三人にも水平線に陽光を受けて光る、小さく尖った何かが見えた。

「…煙突岩だ…」

姿を見せた煙突岩は、まるで彼らの労をねぎらうように霞の向こうで光っていた。


柚季は、将也が煙突岩を見ず、自分をじっと見ているのに気づいて照れた。

「…こえ…でたよ…」

そういって目を伏せると将也は彼女に寄り添って答える。

「…よかったな…」

了はポケットから携帯を取り出し、煙突岩を写真に収めようと苦心していた。

「…了、真っ青な画面にトゲ一本。感動する人、いるのかな?」

未沙の言葉に、了はカチリと携帯を閉じた。

「…そーだな…」

四人はやがて雲が出て、煙突岩が見えなくなるまで、故郷と、故郷の海を眺め続けていた。





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最終更新:2008年09月12日 02:36