Session7 "VOICE"
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Introduction
漫画、アニメ、ハローキティなどのキャラクターグッズのように、カラオケは日本生まれの娯楽の世界的には一般の形式だ。私の意見でカラオケに関して言えば、それは中国からのものであり、それが本当に世界中に広まったのだ。今では世界中のどんな中国人の集団にとっても、カラオケ抜きのパーティはほとんど考えられないものなのかもしれない。
この事実を個人的に痛感したのは1996年、私が日本の電気系の会社で働いていた最後の年のことであった。当時私は日本に滞在しながら、会社の東南アジアとの仕事のネットワークを支援していた。あるとき東南アジアの近隣の国々から来る顧客のために製品のセミナーを開きに、シンガポールにある地区本部を訪れたが、その顧客の90%は中国出身だった。セミナーの締めくくりのイベントはシンガポール湾の辺りの巡遊であった。私たちはクリフォード埠頭で巡遊船に乗り、シャンパン、素晴らしい日の入りの眺め、特別な広東料理、豪華な夜のパノラマを楽しんだ。別の言い方をすれば、私たちはこの手のイベントの普通のプログラムに従った。
船が湾の中ほどに来たとき、大声を上げている人からの声が我々を中に招き、我々はそこがメインの船室が前にビデオの投射システムのための巨大スクリーンが付けられたカラオケルームに作り変えられた所であると気がついた。突然巡遊船では大音響の歌唱パーティが起こった。そこにいる皆は船からの比較できないほどの夜景を楽しむよりも歌うことのほうが好きなようであることに気付いた驚きから私がまだ完全に立ち直っていない間に、唯一の日本からの訪問者として私はほぼすぐに歌うことを期待された。
私にとっての問題は、どうやって曲を選ぶかであった、なぜなら曲の表示がすべてマンダリン語と広東語でなされていたからだ。(両方とも私は理解できない)。すると、ある旋律が頭の中に浮かんだので、それを隣にいる同僚に口ずさんだところ、『-あぁ、それは「花心!」だよ』と、曲名を教えてくれて、音楽が流れ始めた。それは、帰納昌吉の『花』で全て広東語の字幕つきだった。私はオリジナルである日本語版を、記憶をたどりながら歌い、音楽が、“泣きなさい、笑いなさい”というサビの部分にさしかかると、聴衆全員が広東語で応えてくれた。
6ヵ月後、私はまたシンガポールでのセミナーに共に参加した仲間といたが、今度は日本のツアーに招待していた。私は、彼らを栃木の工場に招待して、日光の観光もした。夜には、私たちの泊まっていた有名な日本旅館で、みんな浴衣と丹前に着替え、畳の宴会場に集まり、日本伝統のお膳料理を楽しんだ。しかし、ここでも夜をしめるのにカラオケは欠かせなかった。
このセッションの文章は中華系アメリカ人で人類学者の Casey Man Kong Lum さんの本によるものです。それには、世界中の華僑によって楽しまれるカラオケの話があります。
この事実を個人的に痛感したのは1996年、私が日本の電気系の会社で働いていた最後の年のことであった。当時私は日本に滞在しながら、会社の東南アジアとの仕事のネットワークを支援していた。あるとき東南アジアの近隣の国々から来る顧客のために製品のセミナーを開きに、シンガポールにある地区本部を訪れたが、その顧客の90%は中国出身だった。セミナーの締めくくりのイベントはシンガポール湾の辺りの巡遊であった。私たちはクリフォード埠頭で巡遊船に乗り、シャンパン、素晴らしい日の入りの眺め、特別な広東料理、豪華な夜のパノラマを楽しんだ。別の言い方をすれば、私たちはこの手のイベントの普通のプログラムに従った。
船が湾の中ほどに来たとき、大声を上げている人からの声が我々を中に招き、我々はそこがメインの船室が前にビデオの投射システムのための巨大スクリーンが付けられたカラオケルームに作り変えられた所であると気がついた。突然巡遊船では大音響の歌唱パーティが起こった。そこにいる皆は船からの比較できないほどの夜景を楽しむよりも歌うことのほうが好きなようであることに気付いた驚きから私がまだ完全に立ち直っていない間に、唯一の日本からの訪問者として私はほぼすぐに歌うことを期待された。
私にとっての問題は、どうやって曲を選ぶかであった、なぜなら曲の表示がすべてマンダリン語と広東語でなされていたからだ。(両方とも私は理解できない)。すると、ある旋律が頭の中に浮かんだので、それを隣にいる同僚に口ずさんだところ、『-あぁ、それは「花心!」だよ』と、曲名を教えてくれて、音楽が流れ始めた。それは、帰納昌吉の『花』で全て広東語の字幕つきだった。私はオリジナルである日本語版を、記憶をたどりながら歌い、音楽が、“泣きなさい、笑いなさい”というサビの部分にさしかかると、聴衆全員が広東語で応えてくれた。
6ヵ月後、私はまたシンガポールでのセミナーに共に参加した仲間といたが、今度は日本のツアーに招待していた。私は、彼らを栃木の工場に招待して、日光の観光もした。夜には、私たちの泊まっていた有名な日本旅館で、みんな浴衣と丹前に着替え、畳の宴会場に集まり、日本伝統のお膳料理を楽しんだ。しかし、ここでも夜をしめるのにカラオケは欠かせなかった。
このセッションの文章は中華系アメリカ人で人類学者の Casey Man Kong Lum さんの本によるものです。それには、世界中の華僑によって楽しまれるカラオケの話があります。
In Search of a Voice
私は初めてカラオケ大会に参加したときに感じたことを鮮明に覚えている。パーティの主催者の一人がリビングルームにカラオケセットを用意していた。間もなく彼はビートルズの歌をみんなの前で歌いだした。私はテレビの映像がちょっとばかばかしいように感じたがそれよりも主催者の人がビートルズのなんて言う歌かもわからない歌を歌うように言ってくるかもしれないという予感で頭の中はいっぱいだった。
そのカラオケ大会でよく歌っていたのは三人だけだった。主催者たちは歌の途中や歌と歌の合間にワイヤレスマイクを頻繁に渡そうとしたがみんなはまるでマイクに触れるとやけどをしてしまうかのようにマイクから逃げていた。私はみんなに対しても自分自身に対しても恐ろしいマイクから遠ざかるためにあらゆる言い訳を使った。ある時点で「まだ食べたものを消化中だから歌えない」と自分が言っているのに気づいた。最悪のときには「研究の一環としてここで観察しているので自分が歌うわけにはいかない」という、自分でもよくもぬけぬけとそんなことが言えたものだと思う言い訳をしてしまった。
しかし、その晩の途中、カラオケに対する私の反応が徐々にかわっていくのを感じた。笑い者になる恐怖はまだあったが、歌うことへのためらいはそれほどではなくなった。しかしそんな間に、主催者たちは歌ってくれない何人かに無関心になった。始めほど歌うように言わなくなったのだ。私は居づらくなり、少し場違いに感じた。「彼らにうろたえさせられないように」と考えた。
そして私の「瞬間」はついに、ビートルズの「ヘイジュード」の最後の「ラララ、ヘイジュード」というフレーズのときに訪れた。主催者たちがほとんど聞こえないぐらいに低音でセンチメンタルに歌っていたので私も徐々にコーラスに入っていった。「ラララ・・・」主催者たちからは不服そうな反応はなかったし、他の人、特に妻から別段変わった反応もなかったので私はだんだん大きな声で歌い始めた。
その数曲後、私はカラオケソロデビューにドン・マクレーンの「ヴィンセント」といういつも聴いて口ずさんでいる曲を選んだ。私は本当にはその歌を歌えないと気づくのに一分とかからなかった。少々音程が外れていた。そして何度も息がもたなくなった。私は時々歌詞の前を歌おうとしたり、歌詞に遅れて歌ったりした。歌の中盤で、私はこの歌が考えていたよりずっと長いことに気づいた。
家に帰る車の中で、私はずっとパーティに居た人たちがいかに私の歌がひどかったことか気づいたかどうか考えていた。しかし奇跡的に妻は「驚いたことに驚くほど上手に歌った」といった。
「上手に!?」と思った。妻が本気でいっていることが分かっていたので妻の褒め言葉に考え込んでしまった。それにも関わらず、私は歌についてちょっと気分が良くなった。
数日後、私はあの晩感じたたくさんの感情—不安からグループに加わりたいという切望、そして並のパフォーマンスへの積極的な賛同から普通ならうけながすようなほめ言葉を過大であると知っていながら受け入れたことーについて考えずにはいられなかった。また、私は娯楽や一般文化としてのカラオケがアジアの様々な地域の人、アジア以外でのアジア人の地域社会、そして世界中の何百万人もの人々同様に既にあの晩の主催者のところにも何気なく、目につかず来ていたことについて考えた。私はもっとそのことについて知りたくなった。
そのカラオケ大会でよく歌っていたのは三人だけだった。主催者たちは歌の途中や歌と歌の合間にワイヤレスマイクを頻繁に渡そうとしたがみんなはまるでマイクに触れるとやけどをしてしまうかのようにマイクから逃げていた。私はみんなに対しても自分自身に対しても恐ろしいマイクから遠ざかるためにあらゆる言い訳を使った。ある時点で「まだ食べたものを消化中だから歌えない」と自分が言っているのに気づいた。最悪のときには「研究の一環としてここで観察しているので自分が歌うわけにはいかない」という、自分でもよくもぬけぬけとそんなことが言えたものだと思う言い訳をしてしまった。
しかし、その晩の途中、カラオケに対する私の反応が徐々にかわっていくのを感じた。笑い者になる恐怖はまだあったが、歌うことへのためらいはそれほどではなくなった。しかしそんな間に、主催者たちは歌ってくれない何人かに無関心になった。始めほど歌うように言わなくなったのだ。私は居づらくなり、少し場違いに感じた。「彼らにうろたえさせられないように」と考えた。
そして私の「瞬間」はついに、ビートルズの「ヘイジュード」の最後の「ラララ、ヘイジュード」というフレーズのときに訪れた。主催者たちがほとんど聞こえないぐらいに低音でセンチメンタルに歌っていたので私も徐々にコーラスに入っていった。「ラララ・・・」主催者たちからは不服そうな反応はなかったし、他の人、特に妻から別段変わった反応もなかったので私はだんだん大きな声で歌い始めた。
その数曲後、私はカラオケソロデビューにドン・マクレーンの「ヴィンセント」といういつも聴いて口ずさんでいる曲を選んだ。私は本当にはその歌を歌えないと気づくのに一分とかからなかった。少々音程が外れていた。そして何度も息がもたなくなった。私は時々歌詞の前を歌おうとしたり、歌詞に遅れて歌ったりした。歌の中盤で、私はこの歌が考えていたよりずっと長いことに気づいた。
家に帰る車の中で、私はずっとパーティに居た人たちがいかに私の歌がひどかったことか気づいたかどうか考えていた。しかし奇跡的に妻は「驚いたことに驚くほど上手に歌った」といった。
「上手に!?」と思った。妻が本気でいっていることが分かっていたので妻の褒め言葉に考え込んでしまった。それにも関わらず、私は歌についてちょっと気分が良くなった。
数日後、私はあの晩感じたたくさんの感情—不安からグループに加わりたいという切望、そして並のパフォーマンスへの積極的な賛同から普通ならうけながすようなほめ言葉を過大であると知っていながら受け入れたことーについて考えずにはいられなかった。また、私は娯楽や一般文化としてのカラオケがアジアの様々な地域の人、アジア以外でのアジア人の地域社会、そして世界中の何百万人もの人々同様に既にあの晩の主催者のところにも何気なく、目につかず来ていたことについて考えた。私はもっとそのことについて知りたくなった。
Karaoke in Three Chinese American Communities
カラオケは、アマチュアが参加して歌うという文化的風習を圧縮して表現している。その風習によって社会的現実は生み出され、保持され、形を変えられる。カラオケが結局どのように利用されるのかやそのような利用の仕方が社会に与える影響は、カラオケを利用するような相互的行動によってだけでなく、カラオケを使う人々の過去の経験や需要、そして期待によって定められ、従ってカラオケの解釈共同体という概念が生まれるのである。
三つの中国系アメリカ人社会に於ける研究で、私はニューヨーク、ニュージャージ州の大都市地域に住む初代中国系アメリカ移民の三つの共同体のカラオケ体験に焦点を当てた。私の分析の中心は、これらの解釈共同体がどのようにして彼らそれぞれの社会的アイデンティティを構築するための集まりの場としてカラオケを利用するのかということにあった。私はフィールドワークで集めた独自のデータに基づいて、三つの共同体について、カラオケの異なった利用や意義を表現する三つの異なったテーマを明らかにした。文化的結合と解釈としてのカラオケ、地位の象徴としてのカラオケ、そして逃げ場としてのカラオケである。
一つ目の解釈共同体は、ほとんど香港とその周辺の中国南部出身の下層中産階級から中産階級の広東人で構成されている。この共同体の成員はマンハッタン区ロウアーイーストサイド地区のニューヨークチャイナタウンにおいて社会的に活発である。彼らの興味は主に広東オペラを歌うことにあるのだがこの人々は、自分たちで広東オペラを歌い、自分たちの民族共同体の年配者へ文化的行いを提供するための代用媒体としてカラオケを使っているのである。
私が調査した二つ目の解釈共同体は大部分が台湾からの移民から成っている。裕福な経歴を歩んできているため、この共同体の成員はニュージャージでも高級な地区に住む高い教育を受けたプロフェッショナルたちである。彼らはカラオケを地位の象徴と見る解釈の基準枠を身につけている。私はこの裕福な解釈共同体で彼らの富と社会的地位、それからある程度彼ら個人個人の競争心を表現する道具としてどのようにカラオケが人々に使われているのかを検証した。私が調べた三番目の解釈共同体の成員は大部分が中国系のマレーシア人でニューヨーククインズ区にあるフラッシング地区に住んでいる。これらの人々には不法移民が多く、それゆえ闇経済に追いやられている。この共同体の多くの人々にとってカラオケは一時的な逃げ場を提供しているのである。
三つの中国系アメリカ人社会に於ける研究で、私はニューヨーク、ニュージャージ州の大都市地域に住む初代中国系アメリカ移民の三つの共同体のカラオケ体験に焦点を当てた。私の分析の中心は、これらの解釈共同体がどのようにして彼らそれぞれの社会的アイデンティティを構築するための集まりの場としてカラオケを利用するのかということにあった。私はフィールドワークで集めた独自のデータに基づいて、三つの共同体について、カラオケの異なった利用や意義を表現する三つの異なったテーマを明らかにした。文化的結合と解釈としてのカラオケ、地位の象徴としてのカラオケ、そして逃げ場としてのカラオケである。
一つ目の解釈共同体は、ほとんど香港とその周辺の中国南部出身の下層中産階級から中産階級の広東人で構成されている。この共同体の成員はマンハッタン区ロウアーイーストサイド地区のニューヨークチャイナタウンにおいて社会的に活発である。彼らの興味は主に広東オペラを歌うことにあるのだがこの人々は、自分たちで広東オペラを歌い、自分たちの民族共同体の年配者へ文化的行いを提供するための代用媒体としてカラオケを使っているのである。
私が調査した二つ目の解釈共同体は大部分が台湾からの移民から成っている。裕福な経歴を歩んできているため、この共同体の成員はニュージャージでも高級な地区に住む高い教育を受けたプロフェッショナルたちである。彼らはカラオケを地位の象徴と見る解釈の基準枠を身につけている。私はこの裕福な解釈共同体で彼らの富と社会的地位、それからある程度彼ら個人個人の競争心を表現する道具としてどのようにカラオケが人々に使われているのかを検証した。私が調べた三番目の解釈共同体の成員は大部分が中国系のマレーシア人でニューヨーククインズ区にあるフラッシング地区に住んでいる。これらの人々には不法移民が多く、それゆえ闇経済に追いやられている。この共同体の多くの人々にとってカラオケは一時的な逃げ場を提供しているのである。
Karaoke as Escape
Ah Maaは夏に55歳になった.その当時の知り合いのほとんど皆が,彼女のカラオケ誕生パーティに姿を見せた.Ah Maaの友人の大多数は中国系のマレーシア人で,フラッシング地区の近くにある労働者階級地域に住んでいる.Ah Maaと彼女の友人たちは、たいていは社会的,教育的,経済的な地位の低い素性の出だ.例えば,非常に幼いときに,Ah Maaは日本が侵略を始めた後,そして第二次世界大戦が終わる前,中国南部の生まれ故郷からマレーシアに両親によって連れてこられた.Ah Maaは実用的なレベルの中国語(そしてほかのどんな言語も)を読み書きする能力を身につける教育を十分に受けることがまったくできなかった.これは彼女が今,「カラオケで歌うときテレビに表示される言葉を読む」ことができないという理由もあって非常に残念に思っている不十分な点だ.
「物静かで素朴な男性」である夫と結婚してからは,Ah Maaは7人の子供たちを育てるため単純な仕事(特別な能力を要さない単純でつまらない仕事,普通賃金も低い.)をすることに生活の大半を費やした.彼女がマレーシアでした最後の長期の仕事はクアラルンプールの町にある日本の会社での清掃婦としての仕事だ.土曜日には,daaikamje,伝統的な中国の結婚式で晩餐会が終わるまで花嫁に付き添うために雇われる女性,としてアルバイトをしたものだった.1986年のある日,アメリカから戻ってきた友人と話した後,Ah Maaは夫に,アメリカに楽しみのため旅行に行きたい,と言った.しかし,Ah Maaの頭に実際にあったのは,アメリカに働きに行って,「アメリカドルをいっぱい」稼ぎ,それから「家に戻って晩年を夫と末娘と一緒に暮らす.絶対家を買ってね.」ということだった.(Lougungとは広東語で夫を指す口語的表現.)
何人かの彼女のマレーシア人の同期生だけでなく、100年前かそこらの多くのヨーロッパやアジアからのアメリカへの移民と似ていて、Ah Maaはアメリカに定住することを全く意図せず移住労働者としてアメリカへやって来た。Ah Maaと彼女の不特定のカラオケ友達は、認可を受けていない移民である。1990年代初頭、彼女は香港から来た夫婦の家政婦と乳母をしていた。その夫婦は実業家で、ロングアイランド海峡を望む高価な地区に莫大な財産を持っていた。彼らはAh Maaに家の中の小さな部屋を与え、給与の支払いを不法にこっそりと行い、保険等は一切出なかった。日中、Ah Maaは一人で家事仕事をし、庭を掃除し、雇い主とその子供たちの食事の用意をし、余分のお金を稼ぐために、庭の端の雇い主の私有桟橋にある、彼らの娯楽のためのボートを洗っていた。そこにはその夫婦のテニスコートもあった。
Ah Maaは1週間のうち6日間ロングアイランドにとどまるより他なかったという事実は、彼女に孤立や孤独と言った絶望的な感覚を与えた。「私はここに捕まっているんだ、ほら。」Ah Maaはインタビュー中しばしば私に言った。まるでその巨大な家が大きな檻以外の何者でもないかのように。「捕まっている」や「退屈だ」や「孤独だ」という言葉は、私が仕事中の彼女と話していた2年間に渡り、常に彼女の意識の中に存在していた。実際、彼女をカラオケへと駆り立てたのは孤立や孤独と言った彼女の非常に絶望的な感覚であった。
1992年の終わり頃、Ah Maaはクラブでの友人のバースデイパーティーで始めてカラオケと出会った。Ah Maaは、クラブでは「みんな楽しく歌っている」という事実に魅力を感じた。彼女にとっては全く新しい体験だったので、つまり、カラオケは彼女が仕事をしている間にカセットプレイヤーでかけていた「自分が知っている古い歌」とはとても似ていない歌(もしくは鼻歌)だったので、彼女はステージに上るのをためらった。彼女は初めに友人にマイクをもつように提案されたとき、どうしたらよいのか少しわからなかった。Ah Maaは「私はあなたが歌っているのを聞くのが好きよ」と言って自分に弁解した。しかしながら、内心ではクラブにいた他の人たちのように歌えたらなぁと願っていたことを彼女は私に白状した。
この、友達の誕生日会でのAh Maaにとって初めてのカラオケパーテイーが、彼女をカラオケに巡り会わせたのだった。6日間の、島での孤独な滞在の間、彼女に社会的同一性と主体性を与え続けていたのはこのカラオケ愛好家達との絆だった。マレーシア出身の彼女の多くの友達と同様、Ah Maaは、それ程歌が上手くなかったにも関わらず歌うのが好きだった。彼女は私に一度「私の声は雄のガチョウみたい。」と語った事がある。しかしそれでも、歌う事はAh Maaにとって大切で明確な役割があったのだった。
「物静かで素朴な男性」である夫と結婚してからは,Ah Maaは7人の子供たちを育てるため単純な仕事(特別な能力を要さない単純でつまらない仕事,普通賃金も低い.)をすることに生活の大半を費やした.彼女がマレーシアでした最後の長期の仕事はクアラルンプールの町にある日本の会社での清掃婦としての仕事だ.土曜日には,daaikamje,伝統的な中国の結婚式で晩餐会が終わるまで花嫁に付き添うために雇われる女性,としてアルバイトをしたものだった.1986年のある日,アメリカから戻ってきた友人と話した後,Ah Maaは夫に,アメリカに楽しみのため旅行に行きたい,と言った.しかし,Ah Maaの頭に実際にあったのは,アメリカに働きに行って,「アメリカドルをいっぱい」稼ぎ,それから「家に戻って晩年を夫と末娘と一緒に暮らす.絶対家を買ってね.」ということだった.(Lougungとは広東語で夫を指す口語的表現.)
何人かの彼女のマレーシア人の同期生だけでなく、100年前かそこらの多くのヨーロッパやアジアからのアメリカへの移民と似ていて、Ah Maaはアメリカに定住することを全く意図せず移住労働者としてアメリカへやって来た。Ah Maaと彼女の不特定のカラオケ友達は、認可を受けていない移民である。1990年代初頭、彼女は香港から来た夫婦の家政婦と乳母をしていた。その夫婦は実業家で、ロングアイランド海峡を望む高価な地区に莫大な財産を持っていた。彼らはAh Maaに家の中の小さな部屋を与え、給与の支払いを不法にこっそりと行い、保険等は一切出なかった。日中、Ah Maaは一人で家事仕事をし、庭を掃除し、雇い主とその子供たちの食事の用意をし、余分のお金を稼ぐために、庭の端の雇い主の私有桟橋にある、彼らの娯楽のためのボートを洗っていた。そこにはその夫婦のテニスコートもあった。
Ah Maaは1週間のうち6日間ロングアイランドにとどまるより他なかったという事実は、彼女に孤立や孤独と言った絶望的な感覚を与えた。「私はここに捕まっているんだ、ほら。」Ah Maaはインタビュー中しばしば私に言った。まるでその巨大な家が大きな檻以外の何者でもないかのように。「捕まっている」や「退屈だ」や「孤独だ」という言葉は、私が仕事中の彼女と話していた2年間に渡り、常に彼女の意識の中に存在していた。実際、彼女をカラオケへと駆り立てたのは孤立や孤独と言った彼女の非常に絶望的な感覚であった。
1992年の終わり頃、Ah Maaはクラブでの友人のバースデイパーティーで始めてカラオケと出会った。Ah Maaは、クラブでは「みんな楽しく歌っている」という事実に魅力を感じた。彼女にとっては全く新しい体験だったので、つまり、カラオケは彼女が仕事をしている間にカセットプレイヤーでかけていた「自分が知っている古い歌」とはとても似ていない歌(もしくは鼻歌)だったので、彼女はステージに上るのをためらった。彼女は初めに友人にマイクをもつように提案されたとき、どうしたらよいのか少しわからなかった。Ah Maaは「私はあなたが歌っているのを聞くのが好きよ」と言って自分に弁解した。しかしながら、内心ではクラブにいた他の人たちのように歌えたらなぁと願っていたことを彼女は私に白状した。
この、友達の誕生日会でのAh Maaにとって初めてのカラオケパーテイーが、彼女をカラオケに巡り会わせたのだった。6日間の、島での孤独な滞在の間、彼女に社会的同一性と主体性を与え続けていたのはこのカラオケ愛好家達との絆だった。マレーシア出身の彼女の多くの友達と同様、Ah Maaは、それ程歌が上手くなかったにも関わらず歌うのが好きだった。彼女は私に一度「私の声は雄のガチョウみたい。」と語った事がある。しかしそれでも、歌う事はAh Maaにとって大切で明確な役割があったのだった。
私は生まれてからずっと歌うのが好きでした。働いている時にも歌うのが好きです。特に、平静さを失っている時に歌うのが好きです。歌詞に集中して、それ以外を心から閉め出します。そうすると落ち着けます。嫌な事は思い出さない様にします。
Ah Maaとその友人の多くにとってカラオケで歌う事は、無機的で戸惑う様な日常生活の、退屈で決まり切った仕事から気をそらす手段の一つとなっていた。彼女は語る。「私にもなんでこんな事をしているか分からないわ。そのうち公営住宅に住まなくても済む様に、故郷に一つ家が欲しい、って事だけは確かだけど。」
Summary Analysis
この解釈できる共同体の人々はだまされる感覚、毎日の反復作業、退屈で決まり切った仕事、孤独な現実などから逃げることができる、束の間の社会的かつ象徴的な安息地としてカラオケを作ったのだ。カラオケを歌うことは彼らにとって最高の娯楽なのである。彼らがカラオケを使うのは歌ったり聞いたりすることを通じて同じような生活の歴史を共有する人々と交流する一定の社会的な場を作るためであり、これらは共同体の人々、そして社会的、経済的状態が全く逆である人々でさえも自分自身の声、自信や関係の声を持つ事が可能な場所なのだ。カラオケの使用は逃げ場や健康に良いメカニズムを求める人々のニーズに応えているし、逃げ場やそのメカニズムはたとえ一時的であったとしても彼らを生きる方法へと導いてくれる。