第11回
「病院」にて
画質の悪い、ニュース映像の録画だった。
まるで台風の通過した跡のように、無残に破壊されたサンライズカマタの映像をハルカは見ていた。
気がつくとハルカは、「病院」にいた。
ぼんやりと病室の壁にもたれかかって、「先生」と一緒にそれを見ていたように思う。
何という「先生」だったか、名前は思い出せない。
いや、それを言うなら、「先生」の声も、顔も、年齢も、一体どこのどんな「病院」だったかすら、ハルカは思い出せなかった。
思い出すのが恐ろしかった。
ハルカは「先生」とずいぶん長いこと話をしていたような気がする。
「思春期の不安定な精神状態」とか、「受験のプレッシャー」とか、「集団ヒステリー」とか、「手製の爆発物」とか、そうした断片的な言葉を、ハルカは覚えていた。
そう、覚えていた。
「先生」によれば、ハルカは、患者だった。
その言葉は決して使わないが、だが、
優しい言葉で、わかりやすい理屈で、
ハルカが、異常だと、
ハルカが見たものが、ただの錯覚、幻でしかないと。
思い出したくないが、覚えていた。
忘れることはできなかった。
「それが日曜日の夜だけに起こるのはなぜたと思う?
科学的な現象なら、そんな人間の都合にあわせたタイミングで発生するのは奇妙じゃないかな?」
「君は月曜日に学校に行きたくなかったことはないかな?」
「脳の処理の問題で、動きを動きとして捉えられなくなる症状があって、風景が、まるで静止した映像の連続や、残像のように見えるようなんだ」
「君はひょっとして、夢遊病患者のように、本当に夜の街に出てしまったんじゃないかな?」
「君が触れて怪我をしたという車の残像も、おそらく深夜の物流トラックに、実際に何度かはねられかかったのじゃないかな?」
「君はまず最初に後藤伸吉の絵を見たそうだね。その強烈な印象が頭に残っていたのじゃないかな?」
「そして君は心のどこかで、この『メギ曜日』に来るのはいけない事で、見つかったりすれば怒られる、罰せられるのではないかと思っていたのじゃないかな?」
「追跡妄想という言葉がある。人にもよるが、誰かが自分のことを監視していたり、尾行していたりするように感じるものだ」
「君が『ゼロ犬』を見たのは、だいたい道路の上、横断歩道の陰などの場所だよね。
ところで、ちょっとこれを見てくれるかな」
「これは警察が主要道路に設置している『Nシステム』というものだ。一種の監視装置で、通行中の車のナンバーをチェックするために、ちょうど道路上に配置されている」
「ほら、多摩川大橋にも、こんな風に、ちょうど四台並んで設置されている」
「高性能のカメラを内蔵してるから、並んで配置されているこれを、暗い深夜に見れば、まるで向こうから見られているように感じるかもしれない」
「それが、君の印象に強く残っていた『ゼロイヌ』の姿に結びついたとしても不思議じゃない。もちろん断定はできないけど、これが『ゼロイヌ』の正体じゃないのかな?」
「多摩川の上を自転車で走った、というのはうまく説明ができないんだけれど、この時君は、たしか一瞬、自分の意思を失って、カナタ君になぐられて、それで我に返ったと言っているよね」
「言いにくいんだが、君があの時・・・彼と一緒に、河川敷に降りた時に起こったのは、本当は何かぜんぜん別の出来事だったんじゃないかな?」
「君の言う『アオウオ』は、かならず彼に関係して登場してくるよね」
「水に潜んでいる、砲弾のような形をして、追いかけてくる。巨大で、先が尖っている」
「こういうのは、まあ最近はちょっと眉唾だけど、精神分析で言うところの、いかにも性的なイメージではあるんだ」
「つらいかもしれないが、よく思い出して欲しい」
「ひょっとして、あのときの彼には、君に対して何かそういう、…目的があったんじゃないかな」
「君の傷の多くは、実は、そこから逃げ帰ってきた時の怪我なんじゃないかな。」
「人間は、あまり辛いことがあると、その記憶を覆い隠すために、別の記憶を頭の中で作り出してしまうことがある。君は無意識に、あの時の記憶を歪ませているんじゃないかな?」
ハルカは今も覚えている。
あまりのことに血の気が引いた。
この男は、自分の正気を疑うだけでなく、カナタをも侮辱しようというのか。
しかし、心のどこかでは、明らかにこの話の続きを、これまでの出来事に、何か納得のいく別の答えを聞きたがっていた。
「彼は、君の『メギ曜日』を理解してくれるかもしれない唯一の人間だった。
彼の目的や行動は、そんな君の期待を裏切るようなものだったかもしれない。
でも、君が心を開くことができるのは、やはり彼しかいない。
会ってはいけない。しかし、会いたい。
君は、彼の行為を自分の中で正当化させ、再び彼と会うために、『アオウオ』というまったく別の口実を用意したんじゃないかな?」
ハルカは今も覚えている。
いや、その先はよく覚えていない。
部屋が何十倍にも大きく広がるような気がした。壁も天井も、やけに白くぎらぎらとして、自分に敵意のある何かの意思を隠しているように思えた。
葛藤
いくつかの錠剤を、食後に飲むよう渡された。
淡いピンクと滑らかな白。
聞きなれないカタカナの名前と、「心を落ち着かせる」とか何か、いかにも簡単で曖昧にぼかされた説明があった。今のハルカにはそんなことはどうでもよかった。
機械的にのろのろと、まずい病院食と一緒に錠剤を喉に流し込むたび、ハルカは自分が「病人」であることが自覚されるのだった。
飲むと急に眠くなる薬だった。
「病院」の個室で、ぼんやりと寝たり起きたりをしながら「先生」の話は続いた。
小中学生の間で、深夜に家を抜け出す遊びが流行っていたこと。
カナタが、そのリーダー的な存在であり、毒物や爆弾などの違法な品を大量に持っていたらしいこと。
あの日、サンライズカマタでカナタが手製したと思われる爆弾が破裂し、集まった小学生に多くの怪我人が出たこと。
ハルカもその現場で発見されたこと。
ハルカが伸吉のカンバスを傷つけた件がすでに家に連絡されており、あの事件がなくとも、ハルカがいずれこの「病院」に連れてこられる予定だったこと。
ハルカは、おそろしい葛藤の中にいた。
すべては幻であったという「先生」の説明を信じたくてたまらない自分と、あの体験をあくまで信じたい自分がいた。
これまでのことが全て幻だったとは、どうしても思えなかった。
(だが、だとすれば「先生」の言葉をどう理解したらいい)
「先生」が、0犬や青青魚魚の、それを操る者のスパイではないかと疑う自分がいた。
(メギ曜日の、大曜日世界の秘密に近づくものは、ここできっと「治療」されてしまうのだ。伸吉もこうやって消されたのに違いない)
狂っている、と自分で思った。
「病院」の廊下で、何度かフトシとすれ違った。
ハルカと同じように入院させられていたのだろう。あの明るい表情が嘘のように、空ろな表情のフトシは、ハルカを見ても何の感情も顔に表さず。無言のまま通り過ぎていくのだった。
事情もわかってきた。
「先生」はいつものようにはっきりと口には出さないが、今ならまだ間に合うのだ。
今は夏休みで、ハルカは受験期の中学生だった。事件との関わりも薄い。うまく新学期に間に合わせれば、今ならすべてを「なかったこと」にできるんだよ、と先生は言外に、ハルカにそう告げているように見えた。それが両親の望みであることも、ハルカには痛いほどよくわかっていた。
簡単な審査のようなものがあるとの話だった。それをパスすれば、つまりメギ曜日も後藤伸吉も、0犬も青青魚魚もすべて幻だったと認めれば、退院して家に帰れるのだという。
だが、ハルカは思った。
(カナタは)
(カナタはどうなってしまうのだ)
来るかどうか判らないハルカを、フトシとともに校門の前で五日間待ったカナタ。
ハルカを守るために戦ったカナタ
ハルカとフトシを逃がすために、「物語爆弾」を炸裂させたカナタ。
(あのカナタが、卑劣な犯罪者として、異常者として裁かれるのか)
あの紅潮した頬が、賢そうで少し悲しそうな、あの目が浮かんだ。
ハルカは病院のベッドの上で、二晩眠らず、泣いた。
ようやく両親との面会も許されたが、そこでも泣いた。
両親はきっとハルカの涙を悔悟のものだと思ったろう。
それでいい、と思った。父も母も大好きだ。これ以上心配をかけたくはない。
二日後、ハルカは審査(本当は何というのか知らない)にパスした。
審査の内容はまったく思い出せない。だがハルカは、これまで自分が見たものがすべて幻であったとはっきり認め、自分が一時的に異常であったと認めた。それでうまく「先生」を出し抜いたように思った。
そのとき、一瞬風景のすべてが真っ白くなったような感覚とともに、自分の心の中で何か大きな変化が起こったような気がした。
周囲のすべての音が消え、うまく説明できないのだが川崎方向に(ハルカは建物の中にいて、方角などわからなかったのに)何かの作動音とともに、小さく声が聞こえたような気がした。
人間のものではない声が。
「おまえは、調整された」
それが何なのか、そのときハルカはまだよくわかっていなかった。
ハルカは服を着替え、両親とともに退院の支度をした。
両親の、安堵しつつも、明らかに以前よりやつれた顔が見ていて痛ましかった。
玄関近くの廊下で、フトシとすれ違った。
ちょっとトイレだと告げて、廊下を引き返した。
ハルカはフトシのかたわらに、足早に駆け寄ると、相変わらずうつろな表情のフトシを抱きしめ、耳元で小さくささやいた。
「『とおくのまち』へ行こう。私は待ってる」
フトシは一瞬、大きく目を見開き、そして泣いた。
滝のように泣いた。
みんなウソだったとおもった
だまされていたとおもってた
じぶんのあたまがおかしいんじゃないかとおもってた
でもそうじゃないんだね。
泣きじゃくりながら、そのような意味のことをフトシは言った。
「そうだよ」
ハルカは答えた。
答えながら、泣きじゃくるフトシには見えていない自分の顔が、おそろしい表情になっているのがわかった。
(わからない。本当は)
(そうじゃないかもしれない)
自分たちはただ、同じ狂気を共有しているだけなのかもしれない。
だが、もはやそんなことはどうでもよかった。
(私はカナタを助けなければならない)
(カナタは私を助けてくれた。だから今度は、私がカナタを助けなければならない)
(これがたとえ幻想だとしても。狂気だとしても)
(どんなことをしてでも)
『とおくのまち』へ
9月になった。
ハルカは何事もなかったように学校に戻った。
あの事件は、周囲の誰にも知られずに済んだようだった。
結構な大事件だったはずなのに、ハルカは安堵した反面、そのことがかえって奇妙に感じられてならなかった。
両親は娘を思って黙っているのか、あるいは本当に忘れてしまっているのか、入院の事実は一切、家族の間で語られることはなかった。
しばらく飲み続けるようにと渡された、例の錠剤だけが残った。
「先生」の言うとおり、薬を飲めば、もはやメギ曜日に目覚めることはなかった。
しかし、ハルカはやがて気づいた。
何もかもが、本当に「なかったこと」になってしまっていることを。
事件後しばらくして、ようやく訪れたサンライズカマタは、いつもと変わらぬ賑わいを見せ、破壊されたアーケードは、すでにほとんど修理が終わっていた。一ヶ月もすれば事件の跡形は一切なくなってしまうよう思われた。
さらに、ハルカは新聞にも、あの日の事件がほとんど載っていないことに気づいた。
唯一見つけた夕刊紙の短い記事には「ガス爆発?」とあるだけで、事件の詳細は、何か意図的にぼかされているようにすら感じられた。
あるいは、関係者がほとんど未成年者ということで、報道に配慮がされたのかもしれない。そう信じたかった。
(そうでなければ)
(カナタや、メギの組はいったいどこに行ってしまったというのだ)
さらに恐ろしいことがあった。なんと説明したらいいのだろう、新聞の文字のいくつかが、ハルカには読めなくなってしまっていた。漢字であることはわかる。部首やへん、つくりなどの各部は理解できる。漢和辞典で引くこともできる。だが、その全体や、意味が、今のハルカにはどうしても理解できないのだ。あの「圓團圖門」のように。
だいたい200字に一つの割合で、そういう字があり、特にそれは人の名前や、地方版に多かった。新聞に折り込まれていた、求人情報や不動産屋のチラシもほとんど読めない。
ハルカはおそろしい考えにとらわれて、以前に利用した蒲田近辺の地図を広げてみた。
どういうことかが判った。蒲田駅から西側にかけての地名が、ほとんど読めなくなっていた。
それどころか、無理に意味を思い出そうとすると気分が悪くなり、字そのものを長時間見ていることができないのだった。
地名だけでなく、地図そのものにも何か違和感があった。以前から持っていた同じ地図のはずなのに、細工の跡など一切見えないのに、描かれた地形のあちこちに、「そこにあった何かが省かれてしまった」という、説明のつかない強烈な確信のようなものが感じられた。
戦慄した。
どういう方法かはわからない。だがハルカは、あのとき「調整」されてしまっていたのだ。
口先で言い逃れたつもりだった。だがそんな生易しいものではなかったのだ。
あの先生は! 病院は!
(いや、そんなはずはない。そんな考え方はおかしい。間違っている。狂っている)
(私はおかしいのだ)
(もっと薬を飲まなければ)
(しかし、もしかして、これは逆にあの薬のせいではないのか)
(あの二種類の薬が私を調整しているのではないのか)
(私の記憶を蝕み続けているのではないのか)
(あの事件の核心に関係した、何か特別な文字を私から奪い続けているのではないのか)
(あの薬を止めなければ)
(いや、そんなはずはない。そんな考え方は狂っている)
(狂ってしまう)
ケリをつけるしかない。ハルカはそう思った。
読めなくなったその地点に何が関係しているのか、おそろしい予感が、いや確信があった。
それを確かめれば、これまでのすべてが妄想や幻覚だったということが明らかになるはずだった。
あるいは、そうでないことの。
9月4日
退院以来、はじめて薬を飲むことを止め、ハルカは一人でこっそり釣具屋に行った。
3ブロックのオキアミを買い、そのまま公衆トイレでむさぼり食った。
(またやるのか)
(まだやるのか)
(こんなことは狂っている)
(もうダメだ)
(おまえは)
(おまえは異常だ)
(狂っているんだ)
絶え間ない心の葛藤が、まるで誰かの声のように聞こえた。
それを確かめるためだと自分に言い聞かせ、ハルカは必死にオキアミに齧り付いた。
凍ったオキアミの生臭さ、便所の臭気が交じり合い、たまらなく惨めな気分だった。
そしてハルカは、運命の2時23分を待った。
正直に言うと、心のどこかで、目覚めなければいいと思っていた。やはり全部幻ならと。
だが、目覚めたとき、そこはやはりメギ曜日だった。
菫色の世界の中に、9月4・5日があった。
これが自分の現実だ。あるいは、そういう狂気の中に、自分はまだいるのだ。
0犬を避けるため、100円ショップでレインコートを買っていた。この安っぽい代物が、いい感じに黄色かったからだ。青青魚魚がいれば、そのときはもうどうしようもない。
だがハルカは、その危険はもうないと思っていた。
ハルカは、サンライズカマタに向かい、そこでおそろしいものを見た。
すっかり元通りになりつつある菫色のアーケードに重なるようにして、メギ曜日のサンライズカマタは、巨大な青黒いクレーターになっていた。
「圓團圖門」と重なっていた多摩川大橋を思い出した。
クレーターの表面は高熱で溶けたガラスか石のように滑らかで、本来見えてしかるべき土砂や、配管や、ビルの基礎などといったものは一切見当たらない。まるで磨き上げた巨大な椀の中にいるようだった。底に近づくにつれ、はっきりとはわからなかったが、何か気体というか、気配のようなものが沈殿しているように感じられた。
青青魚魚は、その王を含めてすべて蒸発してしまったのだろう。レインコートの効果か、あるいは物語爆弾による何かの影響を恐れたのか、0犬の姿も見えない。
周囲はメギ曜日特有の、深い静寂の中にあった。
クレーターの内側、おそらくアーケードがそこに存在していたと思われる空中のあちこちに、残像に紛れ、ぼんやりとした影のように固まった人影をハルカはいくつも見た。
カナタと35人のメギの組に違いなかった。
物語爆弾が炸裂したとき、彼らに関係したあらゆる「物語」が、姿形や名前、住んでいた家や場所、それをあらわす文字までが、すべて破壊され、実質的にこの世から消え去ってしまったのだ。
それは物理的な破壊とは全く違う、おそろしい現象だった。
数えてみると、影は全部で34あった。影も残さず蒸発してしまったのか、あるいはひょっとして、誰か生き延びていてくれればと思った。
カナタも。
だがクレーターの底で、ハルカはカナタを見つけた。
あの日、物語爆弾を手に掲げたその姿のまま、空間に漂うあいまいな黒い塊になってしまったカナタが、そこにいた。
ただ存在だけを残して、全ての物語を破壊されたカナタが。
顔がなかった。
目も鼻も口も耳も指も、なかった。
思い出そうとしても、思い出せなかった。
ハルカは彼を抱いた。接吻しさえした。
「キクコ」
振り返るとフトシがいた。
フトシはパジャマを着たままだった、顔に大きなあざがあった。よほど苦労をして、ここまでやって来たことがうかがわれた。
見ると、フトシは自転車を持ってきていた。フトシには大きすぎる、ここまで押してきたようだ。
様々な装備品が装着された、黄色いマウンテンバイク。カナタのあの自転車だった。
少し涙が出た。
「キクコのものだ。キクコは28ダイだから」
フトシは言った
差し出されるように、ハルカの方に預けられたハンドルを握りながら、ハルカは答えた。
「違うよ、フトシ。私はハルカ。
カナタにかわって、メギの組の28代を継ぐ」
フトシは復唱した。
歌うように、祈るように。自分の記憶に新たな一節を刻み込むように。
「ハルカはカナタにかわって、メギの組の28ダイを継ぐ。メギ曜日のハルカ。
ハルカはフトシと『とおくのまち』に行く。カナタと35人のメギの組を助けるために。
そこに行けば、『すべてのすくい』はもたらされるなり」