関係あるとみられるもの

伊吹萃香(東方萃夢想)
星熊勇儀(東方地霊殿)
茨木華扇(東方茨歌仙)

住所

日本の鬼の交流博物館 京都府福知山市大江町佛性寺909 北近畿タンゴ鉄道宮福線「大江山口内宮駅」下車。徒歩1時間。「大江駅」前より一日数便市営バスが走っている模様。
鬼嶽稲荷神社     京都府福知山市大江町北原     北近畿タンゴ鉄道宮福線「大江山口内宮駅」下車。徒歩4時間。日本の鬼の交流博物館からは徒歩2時間半。        
大江山山頂      京都府福知山市大江町北原
大枝山首塚      京都市西京区大枝沓掛町                            

大江山

※大江山山頂(豪雨)

 京都府の北部、日本海にほど近い与謝野町、福知山市、宮津市にまたがる山体。「鍋塚(標高763m)」「鳩ヶ峰(標高746m)」「千丈ヶ岳(標高833m)」「赤石ヶ嶽(標高736m)」の4つの山頂を併せて「大江山(連峰)」と呼ぶのが一般的だが、狭義では主峰の千丈ヶ岳のみを大江山と呼ぶこともある。「新・花の百名山」の一つに選定されており、早春から初夏にかけてマルバマンサク、ヒュウガミズキ、タンゴグミなど「大江山蛇紋岩植物」と呼ばれる植物の開花が順次見られる。山頂一帯は広々と高原的な雰囲気で、展望も開けている。ハイカー好きのする明るい山である。なお現在は大江山の名称で定着しているこの山も、時代によって「与謝の大山」「三上ヶ嶽」「御嶽」など様々な名前で呼ばれてきた。

 千丈ヶ岳の8合目付近にある鬼獄稲荷神社の手前には4~5台程度の駐車スペースがあり、ここまで自家用車で登ることが可能である。鬼獄稲荷神社から千丈ヶ岳山頂まではわずか1km程度で、多少山歩きに慣れた人なら約30分程度で到達する。これだとあまりにも登山した気分にならないので、神社よりさらに2.4kmほど手前の「大江山グリーンロッジ駐車場」から歩く人も多い。
 また、大江山のふもとにあたる場所にはWILLER TRAINS(京都丹後鉄道)宮福線の「大江山口内宮駅」があり、ここからおよそ4~5時間かけて登頂することも可能である。「大江山口内駅」付近には「元伊勢(もといせ)」とされる「皇大神社(こうたいじんじゃ)」と記紀神話に登場する「天の岩戸」であるとされる「天岩戸神社(あめのいわとじんじゃ)」が存在する。元伊勢とは、神代に伊勢神宮が現在の三重県伊勢市に鎮座するようになる以前、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る神社の総社だったことがあるという伝説を持つ神社を言う。元伊勢の伝説を持つ神社及び天の岩戸に比定されている神社は、この大江山山麓の二社以外にも近畿地方を中心に広く存在する。

 大江山の山域全体を含む丹後半島の海岸線から南の山間部一帯は、平成19年(西暦2007年)8月に「丹後天橋立大江山国定公園」に指定されている。その後平成27年(西暦2015年)3月に薩摩川内市(鹿児島県)の離島「甑島(こしきじま)」が国定公園に指定されるまでの間、日本で最も新しい国定公園だった。丹後天橋立大江山国定公園は「丹後半島の海岸、その背後にある高原、大江山連峰の山容と変化に富んだ表情豊かな公園」らしく(京都府のHPより)、その総面積は19,023ヘクタールにも及ぶ。これは東京ドーム約4068.63924杯分に相当する広大なものである(東京ドーム換算機より。超便利)。公園内には大江山のほかに日本三景の一つ「天橋立(あまのはしだて)」や浦島伝説を持つ「丹後半島の海岸」などの有名スポットも含まれる。

 小倉百人一首の第60首目に
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立 by小式部内侍(西暦999年~1025年)
と詠んだ歌が登場するように、「大江山」は古くからその名で呼ばれていた。ただし、ここで小式部内侍が詠んだ「大江山」は、厳密には現在大江山と呼ばれる山(本頁に記載する山)のやや北東にある「普甲峠」を指しているものと思われる。地理的に、平安時代の旅人が丹後地方から京に戻る為にわざわざ大江山を越える必要があったとは思えないので。このあたりの微妙な齟齬は、丹波と丹後の境界あたりに「大江山」と呼ばれる山が二つあったと考えるよりは、昔の京都人が丹後と丹波の間にある低山地帯をざっくりと「大江山」と呼んでいたのではないか考えた方が自然な気がする。ところがさらにややこしいことに、現大江山から数十キロ離れた京の都の西の端(現京都市と亀岡市の行政界あたり)に「大枝山(おおえやま)」と呼ばれる標高400m程度の低山も別に存在する。『万葉集』や『新古今和歌集』ではこの『大枝山』を指して『大江山』と表記されていることもある。一説によると古代の京都人の中で「大江山」と言えばこの「大枝山」を指して言う方がポピュラーであったとさえされる。このようにして、はからずとも大江山は複数の語義を含む言葉となってしまっており、過去の文献で『大江山』という表記が登場した際には「どこの山のことを言っているのか」という解釈論から思考しなくてはならないケースも決して少なくない。

 また、大江山(特に鬼獄稲荷神社付近)は「雲海」の名所としても知られる。雲海とは、ぶっちゃけて言うと平野部で発生した「朝霧」を山頂などの高所で上から見下ろしたものである。そもそも霧とは水蒸気を含む空気が冷えて露点温度に達し、空中をただよう水粒となる現象であり、①昼間と夜間の温度差の激しい②昼間の天気が良いことが多い③夜間に雲が少ない④風が弱いと言った自然条件が整うと発生しやすい。大江山の属する由良川水系では季節は晩秋から初冬の10月から12月の朝方にかけて非常に「雲海」が発生しやすく、かなりの高確率で遭遇できるようである。ただし大江山近辺は北陸地方的な日本海気候にあって冬場は豪雪地帯と化すため、12月にもなると大江山はちょっとしたどころでない冬山になっていることも少なくない。鬼嶽神社から山頂方面に向かうにせよ鬼の洞窟に向かうにせよしばらくは急峻な隘路が続くので、軽アイゼンくらいはあった方がいいと思う。萃香ちゃんと同じで、ちっこいからってなめたらいかんよ。

※霞がかる由良川水系

大江山の鬼伝説

大江山は古くより「鬼の住む山」と伝えられてきた。最も有名と言えるものが酒吞童子の伝説であるが、酒吞童子以外にも鬼の伝説は存在する。
※真冬の鬼嶽稲荷神社

①陸耳御笠伝説
 第10代崇神天皇の時代、現在の福知山と京都市の境にある「青葉山」の山中には「陸耳御笠(くがみみのみかさ)」が率いる土蜘蛛(つちぐも)の集団がいて、人々を苦しめていた。崇神天皇は兄弟の日子坐王(ひこいますのみこ)に、これを討伐するよう命じた。都を出立した日子坐王が丹後国と若狭国の境にさしかかると、大きな岩がプルプル震えながら光り輝いていた。その岩の形がまるで金甲(かぶと)のように見えたので、日子巫王は「将軍の甲岩」と名付けた。また、この変な岩の有った土地を「鳴生(なりふ)」と名付けた。青葉山にたどり着いた日子巫王は、陸耳御笠らに猛攻をかけた。陸耳御笠は青葉山から追い落とされ、逃亡をはかった。日子巫王はこれをさらに追撃した。陸耳御笠らは鬱蒼と繁る穀物の中に身をひそめた。日子坐王は急いで馬を進め、穀物をなぎ倒して回った。いよいよ捕えられそうになった陸耳御笠は雲を起こしてこれに乗り、南に向かって飛び去った。日子坐王が穀物を荒らし回ったことに由来し、この土地は以後「荒蕪(したき)」と呼ばれるようになった。日子坐王は追撃を止めず、蟻道の郷において陸耳御笠の匹女(陸耳御笠の部下あるいは共同統治者である女シャーマン)を殺した。この土地は以後「血原」と呼ばれるようになった。匹女を失った陸耳御笠は降伏しようとしたが許されず、日本得玉命(やまとえたまのみこと)が川の下流から追って迫ったため川を越えて逃げた。そこで日子巫王の軍勢は川岸に盾を連ねると、まるでイナゴが飛ぶかのように矢を一斉掃射した。陸耳御笠らの一団は矢に当たり、多くの者が死んで川に流された。この土地は以後「川守」と呼ばれるようになった。日子坐王は逃げた陸耳御笠をさらに追い詰めようと舟で川を下ったが、とうとう由良の港に至っても行方はわからなかった。そこで日子坐王はつぶてを拾い、占いを行った。これにより日子坐王は陸耳御笠が与佐の大山(大江山)に立てこもった事を知った。この土地は以後「石占(いしうら)」と呼ばれるようになった。

 以上は『丹後風土記残欠』による伝承である。青葉山一帯に勢力を張っていた陸耳御笠という豪族が朝廷の日子坐王の軍勢と激突し、防戦を繰り返しながら最後には大江山へ逃げこんだという内容になっている。話は上述の占いの場面で終わり、大江山へ追い詰められた陸耳御笠らがその後どうなったのかは伝えられていない。この『丹後風土記残欠』は、8世紀に編纂されたがその後時代とともに散逸してしまった地誌『丹後風土記』のうち、京都の北白川家に遺されていた一部分を、15世紀の僧侶「智海」が筆写した…という"設定"で出回ったものである。出所は文句のつけようがないほど超あやしいが、内容的に何ら恣意や思想性は感じられないし、地名の由来を事細かに記しているし、人民を苦しめた蛮族を討伐すると言う大義名分や女性酋長が登場する点などは現存する『風土記』の他の「土蜘蛛」にも非常によく見られるパターンだし、実は正真正銘の本物である可能性も否めない。ちなみに散逸した『丹後風土記』の一部を保有していた京都の「北白川家」は、地名の縁で北白河ちゆりとものすごく遠巻きに関係している。多分。
 土蜘蛛とは、大和国家の勢力が征服した人々を異族視してさげずんだ名称であり、陸耳御笠自体は本来人間であると思われる。『古事記』にもこの陸耳御笠について崇神天皇の段に「日子坐王を旦波国へ遣わし玖賀耳之御笠を討った」とのみは記されており、実在性はそれなりに高い。しかし、時に「土蜘蛛」が異形視され、怨霊や妖怪といった形で祟りを及ぼすことがあることをかんがみると、陸耳御笠にまつわる『丹後風土記残欠』の記載は、大江山を舞台とした「最古の鬼伝説」と言えると思う。

②英胡(奠胡)・軽足(迦楼夜叉)・土熊(槌熊)伝説
 陸耳御笠が大江山に立てこもってから650年後、第31代用明天皇の時代。丹後の三上ヶ嶽(大江山)に英胡(えいこ)・軽足(かるあし。迦楼夜叉とも言われる)、土熊(つちぐま)の三人の鬼が棲みつくようになり、やりたい放題に暴れ回った。こいつらのせいで丹後がモヒカンの跋扈する核戦争後の世紀末世界みたいな感じになった。トサカにきた天皇は知勇兼備の麻呂子親王を大将軍に任命し、三鬼を討伐するよう命じた。麻呂子親王は、岩田・河田・久手・公庄らの豪傑をはじめ一万人の大軍を率いて三上ヶ嶽へ討伐に向かった。その途中、麻呂子親王が篠村という場所に立ち寄ると商人が死んだ馬を埋葬しようとしていた。麻呂子親王が「もし馬が蘇ったら、この遠征は成功する。」と言うと、土の中で馬がいななきはじめた。息を吹き返した馬を掘り出したところ、大変な俊馬であった。以後この地は「馬堀」と呼ばれるようになった。
 三上ヶ嶽にたどり着いた麻呂子親王は、一万騎の大軍をもって正面から攻めこんだが、これに対して鬼は自在に空を飛んだり雲を集めて雨を降らせたり、神出鬼没に現れたり消えたり、なんか超強かった。物理無効で、斬りつける事も矢で射る事もできなかった。また一説には、鬼たちはそれぞれ火・土・水を自在に操り攻撃してきたとも伝えられる。ロギア系だったんだろうか。「これはちょっと歯が立ちません」と思った親王は一旦三上ヶ嶽から兵を引き、対策を考えることにした。
 ふもとに舞い戻った親王が編み出した必勝法は、「鬼が使ってくる妖術に神仏の加護で対抗しよう」というものだった。親王は7体の薬師像を掘り、「鬼を征伐することができればこの国に七寺を建立し、この七仏を安置しよう」と祈誓した。すると老翁があらわれて、親王に白い犬を献上した。この白い犬は頭に鏡をつけていた。以後この地は「仏谷」と呼ばれるようになった。また一説では、老翁から犬を授かったのではなく犬自らが天から駆けてきたとも言われる。
 白い犬に導かれて親王らが三上ヶ嶽に再征すると、先の戦勝で味をしめた鬼らはまたしても妖術をもって幻惑しようとしてきた。そこで白い犬が躍り出て、頭につけた鏡を光らせた。するとたちまち鬼たちのあらゆる妖術は無効化した。このスキに親王らは突撃し、3鬼のうち英胡・軽足を打ち取った。しかし、残りの一人である土熊はドサクサに紛れて逃げ出したため、親王らは見失ってしまった。そこで、再び白い犬の鏡を使ったところ、土熊の所在がはっきりと映った。居場所がバレた土熊は、親王らに捕縛された。
 土熊は、一緒に生き残った鬼の手下達共々命乞いをした。これに対し、親王は「自分が作った七体の薬師如来像を安置するために、七つの寺が必要である。この土地を一夜のうちに開墾できたら、命だけは助けよう」と慈悲深いようなそうでもないような無茶ブリをした。鬼達は死に物狂いで働き、言われた通り七寺の土地を開墾した。鬼たちが約束通り一晩でやってくれたので、親王らは土熊を誅殺しないことにした。そのかわりに親王は、「自分が凶悪な鬼を退治した証を後世に残そう」と言い、鬼たちを丹後半島の先端にある立岩に二度と出られないよう封印した。ひどい。

 以上は、口伝や後世の書物に遺される英胡・軽足・土熊の3鬼と麻呂子親王の伝説である。麻呂子親王は用明天皇の第三皇子で、西暦500年代終盤から西暦600年にかけて活躍したとされる人物である。ちなみに聖徳太子の異母兄弟でもある。伝説の中で麻呂子親王が戦勝祈願のために建てることを公約した7つの寺については、現在、施薬寺(与謝野町)、清園寺(福知山市大江町)、元興寺(京丹後市丹後町)、神宮寺(京丹後市丹後町)、等楽寺(京丹後市弥栄町)、成願寺(宮津市)、多禰寺(舞鶴市)などが自らの寺の縁起としてこれを取り上げている。麻呂子親王が生きた時代は仏教が公伝して間もない時期であり、上記の伝説は丹後半島に仏教が浸透していく過程を読み解く上で非常に重要な話であると思われる。一方で、あまりにも都合よく出来過ぎた仏教SUGEEEE的ストーリーと言わざるを得ない部分もある。麻呂子親王は聖徳太子同様に非常に人気が高く丹後半島に70を超えるとも言われる伝説を残している人物なので、「麻呂子親王の人気にあやかり由緒をより格式あるものにしよう」という考えの下で伝説が利用されている、あるいは歴史が加上されている可能性も少なくはないと思われる。

③酒吞童子伝説
 麻呂子親王の活躍から約400年の歳月が流れた平安末期のこと。日本妖怪史上最強の鬼、酒吞童子が大江山に出現した。この頃、良家の少女が神隠しにあう異変が頻発するようになった。ある日、京でも名うての富豪だった「池田中納言くにたか(原文ひらがな)」の一人娘が忽然と姿を消す事件が起きた。姫を溺愛していた両親は狼狽(ろうばい)し、当時「最高の陰陽師」との呼び声が高かった「村岡まさとき博士(原文ひらがな)」に依頼して娘の所在を占わせた。村岡博士が巻物を取り出して占うと、姫は大江山の鬼にさらわれたが今のところまだ生きていることが判明した。これを聞き、中納言は朝廷に駆け込んだ。ちなみに姫の所在を占った陰陽師は村岡まさときではなく安倍晴明(あべのせいめい)であるという説もある。

 池田中納言は姫を取り戻すため、大江山の鬼の邪悪さと危険性を時の帝らに説いて回った。すると関白が帝に進言した。
「源頼光とその部下の碓井貞光(さだみつ)、卜部季武(すえたけ)、渡辺綱(つな)、坂田公時(きんとき)、藤原保昌(ほうしょう)ら一党は、鬼も恐れをなすそうです。」と。
そこで帝は源頼光を呼び出すと、大江山の鬼を退治するように命じた。頼光は大変な名誉であると喜び快諾した。ただ、これまでにも多くの鬼を退治してきた頼光は、鬼たちが変幻自在に塵や木の葉に姿を変えて姿を隠す事を知っていた。そこでまず神仏に祈願し、それから山伏に姿を変えて鬼たちに接近しようと考えた。源頼光と藤原保昌は、岩清水八幡へ、渡辺綱と坂田公時は住吉明神へ、碓井貞光と卜部季武は熊野権現へと参籠し、祈願を行って加護を得るといよいよ大江山へと向かった。

 大江山に着いたあたりで、頼光一党は山人に出会った。頼光が山人に鬼の所在を問うと、山人は「峰を越えて谷を渡り、さらに峰を越えたあたりの岩屋です。決して人の近づかない場所です。」と答えた。頼光一党は、谷を渡り峰をよじ登って進んだ。しばらく行くと岩穴があり、その中に小屋がけがしてあって3人の老人がいるのが見えた。怪訝に思った頼光が何者かと尋ねると、老人の一人は「怪しいものではありません。」と答えた。聞けば老人らはそれぞれ津の国、紀の国、京の都付近の里の者で、酒呑童子に嫁や子供をさらわれたため、何とかして取り戻そうとやって来たのだという。頼光らが帝の勅命を受けて鬼退治に来たのだと察っした老人たちは、この小屋で一休みしていってはどうかと提案した。

 頼光たちは気を許し、武器や法具を隠している笈(おい)を下ろして休むことにした。頼光が都の酒を翁らにすすめると、翁らは逆に自らの持っていた酒を差し出して言った。
「大江山の鬼は酒好きなので酒呑童子と呼ばれているのです。この酒は神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)といって鬼の力を削ぐ効果がありますが、人間が飲めばかえって身体が強くなります。」と。
さらに翁は星兜(ほしかぶと)を取り出すと、「この霊験あらたかな兜をかぶって、鬼の首を切ると良いでしょう。」と頼光にプレゼントした。なぜかやたら役に立ちそうなアイテムを持っており、しかもそれをホイホイくれるこの老人達が並の人間ではないことは明らかだった。頼光は、この三人の老人がそれぞれ八幡、住吉、熊野の三社の化身であることを悟った。頼光らが一息つくと、老人らは立ち上がり、「鬼の元まで道案内をしましょうと」と提案した。頼光らは老人に従ってさらに山奥へ入っていった。暗い岩穴をくぐり抜け、細い川にたどり着いた所で、老人たちは「この川を上って行けば若い娘さんがいます。あとはその人に話を聞くと良いでしょう。鬼を退治する時には、我々も手伝います。」と言い残し、雲のように消えてしまった。頼光らは深く拝み、教えに従って川を上っていった。

 川を上った先には、老人の言った通り確かに若い娘がいた。頼光が「あなたは誰ですか?」と尋ねると、若い娘は「私は都の姫さまです。ある夜に鬼につかまって、さらわれて来ました。この一帯は鬼の岩屋と呼ばれる場所で、人間が近づくところではありません。あなたは何をしに来たのですか?私を都に還してくれませんか?」としくしく泣きながら訴えた。頼光が「あなたはどの家の方ですか?」と尋ねると、娘は「私は花園中納言の一人娘です。他にも若い娘さんが十何人さらわれています。今朝は堀河中納言の娘が血をとられたので、血に染まってしまった服を洗っているのです。」とまた泣きながら答えた。頼光が「我らが鬼を退治し、あなたを都に帰します。鬼の住処を教えてください。」と言うと、姫は大喜びして「この川のずっと上に登っていくと、鉄の築地に鉄の門構えで鬼たちが守りを固める屋敷があります。そこは瑠璃宝玉で飾られ、四方が春夏秋冬となっている豪華な宮殿です。これが酒吞童子の住処です。また、ほしくま童子、くま童子、とらくま童子、かね童子という鬼の四天王がおり、かわるがわる屋敷の番をしています。こいつらも糞強いです。」と説明した。また、「酒呑童子は色が赤くて大きくて、昼は人の姿で夜は鬼になります。お酒が好きで、酔って寝たら滅多なことでは起きません。だから酒吞童子に酒を飲ませて、酔ったところをヤッチマイナア!」と攻略法を授けた。

 花園中納言の姫の教えどおり川をずっと上った先には、大きな鉄の門があった。頼光らは計画通りあっさりと鬼の門番たちに見つかった。鬼の門番の一人は「人間がこんな所に来るなんて珍しい。駄目になるまでついてきなよ!」と言って飛びかかってきた。それを別の鬼が止めに入り、「待ちなさい。こういう時はまず大将に報告するのが筋でしょう。」とクドクド説教した。飛びかかろうとした鬼はそりゃ確かにと思い、他の鬼も賛同したので奥へ入って酒呑童子に人間がやってきた事を伝えた。すると酒吞童子はたいそう興味を持ち、「そりゃ珍しい。奥へ通しな。」と言った。こうして頼光たちは敷地内に入り込むことに成功した。

 頼光らが屋敷の縁側で待っていると、どこからともなく雷鳴がとどろき酒臭い匂いが漂いだすなど、もったいつけた演出と共に酒呑童子が姿を現した。酒吞童子は「うぃーっす。あんたら人間だろ?こんな山奥までどうやってきたの?空でも飛んできたの?聞いてやるから教えてよ。」と言った。これに対し頼光は「我々は山伏の一団だ。山中に分け入っては、人間だろうと鬼や神のたぐいだろうと分け隔てなく祈祷や施しをすることを修行にしている。羽黒の山の出身だが、都を一目見たいと思って山を下りたのが運のツキで、道に迷ってこんな所まで来てしまった。これも何かの縁だ。今晩泊めてくれ。良い酒もあるのだ。」と答えた。主に「良い酒もあるのだ。」の部分しか聞いてなかった酒吞童子は大喜びし、頼光らを泊めることを快諾した。

 頼光らが部屋に通されると、さっそく酒盛りが始まった。酒吞童子は「あんたらの酒もいいけど、まず私らの酒を飲んでみなよ。」と言い、手下の鬼に酒を持ってこさせた。酒吞童子自ら盃(さかずき)に酒を注ぐと、その酒には人間の生き血が混ざって真っ赤な色をしていた。ここでうろたえたら酒呑童子の機嫌を損ねると考えた頼光は、酒吞童子から盃を受け取ると顔色一つ変えずに飲み干した。続いて綱もこれをさらりと飲み干した。酒吞童子が「なんか酒のつまみなかったっけ?」と言った。すると手下の鬼達は人間の手足と思われる肉塊を、まな板の上に乗せて持ってきた。頼光は、腰につけていた小刀をするりと抜き、肉を一口大に切り取ってうまそうに食べたてみせた。綱も「つまみだなんて気がきいていますね。ありがたくいただきます。」と言って同じようにうまそうに食べた。これを見た酒呑童子は「あんたら人間なのに人間食うの?なんかひくわー。」と逆に怪しんだ。やっべやりすぎたと思った頼光は、「出されたものは残さず食べるをモットーとしている山伏だから。食いたくなかったけど美味そうに食べたのだ。」と、苦しいってレベルじゃない言いわけをした。しかし酒呑童子は信じて「食いたくないものを食わせてごめんよー。」と反省した。そこで頼光は必殺の神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)を取り出し、「今度は我々の持ってきた酒を飲もう」と言った。怪しまれないように頼光自身が毒見をし、それから盃を渡すと、酒呑童子はこれを一息に飲み干した。その酒の味はまるで甘露(かんろ)のようにまろやかだった。酒呑童子は大喜びし「お姫さまたちにも飲ませてあげよう。」と言って池田中納言と花園中納言の娘を呼び出した。さらに酒呑童子は、酒の肴にと聞いてもいないのに自分の出身についてあれやこれや話はじめた。

「私は元々越後で生まれて山寺で育ったんよ。だけど坊さんとケンカして、沢山殺したから追い出されたんよ。そんで比叡(ひえい)の山に住んでたんだけど、今度は伝教(でんきょう)とかいう坊さんに追い出されたんよ。で、この山へ来たんだけど今度は弘法大師とかいうのに封印されて高野山に連れていかれたんよ。だけど弘法大師が死んで自由になったから、この山に戻ってきて住み着いて、ぜいたくしてるわけよ。都からお姫さんさらったり、この屋敷を建てたりなあ。今は我が世の春よ。」
酒呑童子は上機嫌でベラベラと話したが、ここまで話すと顔を曇らせた。
「でも、一つ気がかりがあるのね。都に源頼光っていう奴がいて、その部下に定光・末武・公時・綱・保昌っていう連中がいるのね。こいつらがとんでもなく悪い連中で、この前の春なんて、私の部下の茨木童子が都へ行ったら綱とかいうゴロツキにいきなり斬りつけられて、片腕がとれちゃったんよ。まあその腕は何とか取り返したんだけど、怖いよね。そういうわけで、前と比べて都にはちょっと行きづらくなってしまったのよ。むかつくよ。そういえば、あんたら源頼光とその部下に顔が似てるね。」
へべれけの酒呑童子だったが、ここまで話すうちに、ようやくなんか変だと気付きはじめた。

 酒呑童子は山伏らにジト目を送り、まじまじと一行の顔を見た。そこでさすがに一行が山伏に化けた頼光たちであることに気付き、「あんたよく見たら残虐非道の頼光とその仲間たちじゃんか!出あえー!出あえー!ぶん殴ってやる!」と叫び、立ち上がった。袋の鼠と化した頼光らは肝を冷やしたが、ここでうろたえては終わりだと思い落ち着き払ってみせると、「他人のそら似やで。我々を食いたければ食って、どうぞ。」とたんかを切った。酒呑童子は「あ、他人のそら似でしたか。疑ってすんませんした。」と謝って座った。

 酒宴はさらにすすみ、頼光らは酒吞童子らに必殺の神便鬼毒酒を飲ませまくった。さしもの鬼らも酔いつぶれて判断力を失った。そこで酒吞童子の手下の鬼の一人が余興を見せると言って舞いながら歌を歌い始めた。

「都より いかなる人の 迷ひ来て 酒や肴の かざしとはなる おもしろや」
(①都からこんな山奥に人間が来て酒宴を盛り上げた。面白かった。②山奥に迷い込んだ馬鹿な山伏らをとって食おう。どちらの意味でもとれる。)

これに応じて綱が舞歌った。

「年を経て鬼の岩屋に春の来て風や誘ひて花を散らさん、おもしろや」
(鬼の岩屋にも春が来た。風が吹いて花を散らす様子は風情がある。という意味。お前らはここで終わりだがな!ざまーみろ、という暗喩。)

鬼たちは綱の歌に手を叩いて喜んだ。鬼たちの中に、歌の真意に気付く者はもはや誰もいなかった。

 宴もたけなわになる頃、すっかり酔いの回りきって眠たくなった酒呑童子は「ちょっと寝てくる。お姫さんたちはお客さんの相手したげて」と言い残し、奥の寝所へと消えて行った。頼光らが辺りを見回すと、他の鬼たちも完全に酔いつぶれてそこらへんでゴロゴロ倒れていた。好機を得たとふんだ頼光は、酒呑童子に酌婦を任された池田中納言と花園中納言姫に近づいて「我々は酒吞童子を成敗してあなた達を都に帰すために来ました。酒呑童子の寝所を教えてください。」と言った。姫は「嬉しいです。案内するのでさっさと支度してください。」と答えた。六人は笈(おい)に入れて隠し持ってきた鎧兜を素早く装備した。そして姫のあとに続き、酒呑童子のもとへと急いだ。しかし酒呑童子の寝所は巨大な鉄の扉で閉ざされており、とても入ることはできなかった。スキマから中をのぞくと酒呑童子が寝ていたが、さっきとはうって代わって身長が7mくらいもあった。髪も逆立ち、角が生え、そのあまりの迫力に頼光らはビビった。

 するとそこに、タイミングよく八幡、住吉、熊野の三社の神がかけつけた。三神の一人が「よくここまで来ましたね。鬼の手足は我らが鎖で縛っておいたんで。後は首を切っちゃってください。胴体はみじん切りにしておやりなさい。」と言った。さらに三神が「これ邪魔やな。」と言いながら気を送ると、鉄の扉が消え失せた。頼光たちは「そこまでやれるんなら、もうお前らで首とれよ。」と内心思いつつ神の加護に感謝した。頼光らは童子の寝床へと忍び込み、童子の頭の方に回り込むと「三社の神よ、我に力を!」と叫びながら童子の首を一気に切り落とした。首を切られた酒呑童子は目を覚まし、「ちょ、何すんだよ!あんたら頼光じゃないって言ったじゃん!嘘つき!卑怯者!」と怒りながら起き上がろうとした。しかし手足は三神が縛り上げているので、びくとも動かなかった。酒呑童子がぷんぷん怒って大声で叫ぶと、その凄まじさは雷鳴を呼び、天地を揺るがすほどだった。頼光の手下の五人が手早く胴体を切り刻むと、酒呑童子の首が高く舞い上がって、頼光に噛みつこうとした。しかし、すんでの所で三社からもらった星兜がこれを防いだ。最後の力を使い切った酒呑童子はついに息絶えた。

 酒呑童子を打ち取った六人が大庭へ戻ると、酒吞童子の怒号で目覚めた鬼たちが待ち構えていた。その中の一人で、酒呑童子の腹心だとも恋人だとも言われる茨木童子が「よくも大将を打ち取ってくれたな。かたき討ちだ!」と言いながら襲い掛かってきた。これに対し、綱が一歩進み出て「お前の手の内はもう知ってるぞ。今度こそ退治してやる!」と応戦した。茨木童子と綱は互角の戦いを繰り広げたが、やがて茨木童子が優勢となり綱を押さえこんだ。今まさに綱が討たれようとした所で頼光が走りより、「いつから一対一の勝負だと錯覚していた?」と言わんばかりに綱に全注意を向けていた茨木童子の首をばっさりと切り落とした。茨木童子が死に際に「こ…この私が低俗なサル野郎の人間に殺されるとはな…。ア…アタマにくるぜ。」と言ったかどうかは定かでない。ともあれ大将に続いて茨木童子まで打ち取ったことで頼光一行の士気は上がり、逆に鬼たちはガッカリ意気消沈した。頼光ら6人は余勢を買い、大江山の鬼たちをことごとく皆殺しにした(綱との決戦パートをハショり茨木童子だけは死線を脱出したと言う別話もある)。

 頼光が鬼らを全滅させたことを察知すると、牢獄につながれていた姫君たちは一斉に脱走を始めた。その人数はすさまじく、まるで堰を切ったかのような勢いで転がり出てきたという。屋敷の奥にもまだ人の気配を感じた頼光らが救出に向かうと、あちこちに人骨が散乱し、あるいは酢漬けにして保存されていた人肉などが目についた。その中に片腕と股から下の両足をそぎ落とされ、虫の息の姫君が一人いた。頼光が素性を尋ねると、堀河中納言の娘であると名乗った。恐らく頼光らが食べちゃった人肉はこの少女のものである。頼光は「我々は都から来た一行です。鬼を退治したのであなたを都に返します。」と告げた。姫はにわかに喜んだが、「ありがたいけど、もう結構です。こんな風になってまだ死にきれないでいることがうらめしい。私の黒髪と小袖を父母への形見に持ち帰ってください。あと、はよ私にとどめを刺してください。」と言った。これを聞いた頼光らは涙し、ついに堀河中納言の娘を手をかけることはできなかった。「きっと迎えの者をよこします。生きて帰りましょう。」と言い残し、動ける姫たちを引き連れて鬼の館をあとにした。頼光らは麓の「しもむらの郷」で馬を調達し、姫たちを無事都へと送り届けた。凱旋した頼光らを人々は取り囲み、大いに褒め称えた。群衆の中には娘を救出しようと朝廷を動かした池田中納言の姿もあった。二度と会えないと思っていた娘と再会した池田中納言は人目もはばからず、感涙にむせび泣いた。帝は頼光の功績に大いに満足し、沢山の褒章を与えた。こうして、この国には平和な時代が訪れるようになった。なお堀河中納言の娘の救出は間に合わんもよう(怪我の具合から言って置き去りにされたら助からないでしょう)。

 以上は『御伽草子』に見られる酒呑童子伝説の概要である。酒呑童子の物語は南北朝時代に作られたとされる『大江山酒天童子絵巻』において初出した後に『御伽草子』などによって広く世に知られるようになった。その過程で酒呑童子伝説は様々な補足・蛇足・外伝を生み、あらすじにも大小の違いをはらんでいった。特に酒呑童子の出生については主だったものだけでも越後説、伊吹山説、大和国説、比叡山説などの複数説が存在している。また、酒呑童子の副首領と考えられる茨木童子についても様々な伝説が付与されていった。ともあれ、都で悪さを働く鬼を稀代の英雄が「超偉大な神仏の加護」と知恵・武勇をもって退治するといった話の骨子は大体共通しており、仏教と武士階級のダブルageエピソードとして典型的な中世日本の妖怪退治談の様相をとっていると言えなくもない(要出典?知らんがな)。なお、酒吞童子伝説の内部には上述②の「英胡・軽足・土熊伝説」と共通する部分もあることから、この伝説を下地にしながらよりドラマチックに(悪役をより邪悪に、英雄をより英雄的に)仕立て直したものであるという見方もある。

 なお、なぜ大江山にこれほど多くの鬼伝説が残されているのかについては歴史学・民俗学的な見地からもしばしば論題となることがある。
その理由としては、
①大江山が京都から見て鬼門(乾=北西)の方角にあたり、古くから妖怪変化が住むと信じられてきた。
②朝廷に反抗的な土着の豪族が存在したことが物語化し、記憶として残った。
③丹後と丹波を結ぶ交通の要衝であった大江山(厳密には普甲峠近辺)は山賊の頻出地帯でもあり、しばしば旅人を悩ませていたことが伝わって妖怪伝説化した。
④大江山に豊富に埋蔵する黄銅や鉄鋼などの鉱物資源を狙って中央政権の侵攻があり、抵抗した土着の人々が妖怪として蔑視されるようになった。
⑤大江山近辺には古くから大陸の渡来人が居住し高い技術水準を持っていた。これが中央政権に武力で簒奪される過程で抵抗した人々が妖怪として蔑視されるようになった。
といった推測が立てられている。

※酒呑童子が住んだ山

余談 伊吹萃香は酒呑童子なのか?

萃まる夢、幻、そして百鬼夜行
伊吹萃香(いぶきすいか)
種族:鬼
住処:鬼の住むと言われる国(現在は幻想郷のどこかにいる)
能力:密と疎を操る程度の能力

幻想郷にはいないとされる鬼。彼女はその鬼だと言う。

鬼は一般的に陽気で酒好き、勿論宴も大好き、人間との真剣勝負が大好きで、
勝負事なら格闘だろうが呑み比べだろうが何でもする。気に入った人間を見つけると人間が用意したルールで戦おうとする。
そして、勝負に勝つとその人間を攫って行くのである。
鬼は楽しいと思ってやっていた事だが、人間はそれを楽しむすべを知らなかった。
どれも人間が敵うレベルでは無かったからである。本当は人間も鬼に勝つぐらい強くなれば、互いに楽しむことも出来たのだが、それもしなくなった。
そればかりか人間は、卑怯な策で鬼を一網打尽しようとした。

鬼が人を攫うのは、人間の恐怖心の象徴であり、それが鬼の存在理由でもある。
人間にとってもその恐怖心は必要だったのだが……それを、人間は全て自分達の都合で一方的に壊してしまったのだ。

鬼は、繰り返される卑怯な鬼の乱獲により、そんな人間達を永遠に見捨て人間の手の届かない場所に移り住んだ、と伝えられていた。
もう、鬼の姿を見ることは無かった。彼女はその鬼だと言う。

確かに陽気で酒好き、三日置きに宴会を行わせる位宴会好きである。
今回何故この様な事をしたかという話は、ゲーム中で語っているのでここでは語らない。
でも本当は、鬼と人間の信頼関係を取り戻したかったのである。では何故それが失敗したかというと……?
それもゲーム中で最後に語っている通りである。

性格は上で言っている通り陽気で酒好き。無邪気で非常に単純。大勢と一緒にいると場が明るくなるが、
二人っきりで長くいると段々とうざくなる。というか非常に子供っぽい。

能力は、密と疎を操る事が出来る。如何なる物も、集めたり散らしたり出来る。
人の想いを集めれば、宴会のようなものを開かせることも出来るし、自分を散らせば霧のような状態になることも出来る。
妖霧は非常に薄い彼女なのだ。新しく力を生むのではなく、その場に在るものを集めたり散らしたりするだけだが、
集めることで別の物に変化させることも出来る。それは特殊な創造の能力に近い。さすがは失われた鬼の力、と言われるだけの事はある。

身体能力も非常に優れており、力、スピード、妖力、全てにおいて人間を遙かに上回る。
唯一の弱点は、萃香のリーチのなさだが、彼女は様々な手段でそれを補う。人間との決闘が大好きなだけあって、
酒に酔っていてもめっぽう強い。と言うか酔うほど強い。と言うか酔ってない時が余りない。
『東方萃夢想』 おまけtxtより

 東方萃夢想のラスボスである伊吹萃香は、種族が鬼であることや酒好きであること、関連を匂わせるスペルカードがあることなどから、酒呑童子をモチーフにしたキャラクターではないかと言われてきた。その後『東方茨歌仙』第5巻第25話「渾円球の檻」において「伊吹童子座」のシルエットとして伊吹萃香の姿が描かれたことにより、少なくとも伊吹童子=伊吹萃香であることはほぼ確定した。「伊吹童子」は数ある酒呑童子伝説のバリエーションの一つ、奈良絵本『酒典童子』において酒典童子=酒呑童子の幼名として用いられる呼称である。これにより伊吹萃香=酒呑童子である可能性も極めて高くなったが、伊吹童子と酒呑童子が本来別の鬼であり、後に物語の中で混淆されるようになったという"仮説"も成り立ちうるので、確定とまでは言い難い。また、酒吞童子伝説に登場する鬼の中では副頭領の「茨木童子」が茨木華扇のモチーフに、四天王の一人「星熊童子」が星熊勇儀のモチーフになっているのではないかと考えられる。茨木華扇の「隻腕」は茨木童子が京都の一条戻橋において片腕を切り落とされたことを元にしていると思われるほか、星熊勇儀の登場する『東方地霊殿』3面道中のBGMに「華のさかづき大江山」が採用されている。なお、東方projectでは伊吹萃香、星熊勇儀その他2名の鬼らを総称して「鬼の四天王」と称されているが、酒吞童子伝説では頭領の酒呑童子、副頭領の茨木童子の下に「鬼の四天王」がいたとする設定が一般的なような気がする。

 御伽草子をはじめとする物語上の酒呑童子と伊吹萃香の人物像を突合してみると、酒好きであることや人間を攫(さら)うことなど多くの共通点が見られる一方で、異なる点も少なくない。

 その中でも最も大きな違いは、「人間の攫い方」についてだろう。物語上の酒呑童子が問答無用に姫君を攫っているのに対し、伊吹萃香は勝負を挑み負かした相手を攫っている。攫うことだけが目的の物語上の酒呑童子にとっては、いかにも対抗力の弱そうな京都の姫君こそ"格好の餌食"であるが、勝負を楽しむことをも目的とする伊吹萃香にとって軟弱な貴族の姫君は"歯ごたえのない相手"でしかない。むしろ、姫君よりも腕に覚えのある強者や術士を攫う相手として好みそうなものである。もし伊吹萃香が姫君を狙ったとするならば、人間社会をより大きな動揺でつつみ、沢山の「怖れ」が得られるようにと考えたとか、あるいは姫君を奪還に来た英雄との対戦を期待していたからということになるだろう。姫君はあくまで"釣り餌"である。伊吹萃香自体が見た目も中身も子どもなので、屈強なおっさんよりは自分に近い"釣り餌"との方が気があったろうけど。

 次に、「人間を攫う理由」についてもわりと大きく異なる。まず物語上の酒呑童子は、身の回りの世話をさせるために姫君を攫い、時として食用にもしていた。これに対し伊吹萃香は「怖れ」を得るために攫い、攫った人間を無理やり宴会につき合わせるという悪事を働いていたようである(アルコールハラスメント)。伊吹萃香が酒呑童子同様に人間を食料としていたかは定かではない。攫うこと自体によって「怖れ」を得るのが目的だったときちんと明記されているため、食用に供していた可能性の方が低い。物語上の酒呑童子にしても、かたや堀河中納言の姫君を無残に切り刻んで「つまみ」にしている一方で、同じく捕虜となっている池田中納言や花園中納言姫らには酒をふるまい、客人の接待を任せるなど一種のダブルスタンダードが見られ、単なる食人鬼として描写されているわけではない。食人のくだりは、酒吞童子伝説が生成される過程で、酒吞童子の恐ろしさを誇張し源頼光の勇敢さをひきたてるために"脚色"された感がもっとも強い部分の一つである。

 また、物語上の酒呑童子は英雄「源頼光」によって退治されるが、伊吹萃香の人物紹介には「源頼光に退治された」とは明記されていない。それどころか、「卑怯な手段で鬼を乱獲する人間に愛想を尽かして、異界へと移住した」と書かれており、東方projectの公式には伊吹萃香自身が源頼光はおろか、人間に退治されたという描写すらない。そもそも伊吹萃香が源頼光に殺されたのならば、伊吹萃香が今でも元気に幻想郷で生きてること自体矛盾するし。伊吹萃香は鬼符「大江山悉皆殺し(おおえやましっかいごろし)」という物騒な名前をつけた投げ技を使うが、これも自分の凄惨な過去を自嘲気味に言っているというよりは、「自分たちが退治されたという話がでっち上げられていた。人間は嘘つきだなあ。」という皮肉の意味が込められているのかもしれない(あくまで推論です)。

 仮に酒呑童子と伊吹萃香が同一人物であると設定されているとするならば、なぜ物語上の酒呑童子と東方projectの伊吹萃香の人物像には大小の差異が見られるのか。ありていに言って「食人」「暴虐」というセンセーショナルな記号を持つ酒呑童子は、東方projectにおいて伊吹萃香として再描写される中で「暴虐」さはそのままに「無邪気な」「明るい性格の」「本当は人間好きな」「寂しがり屋な」という記号を付与されている。つまり、主に負の側面しか持たない酒吞童子とは異なり、より豊かな「人格」を与えられていると言える。倫理感の異なる時代に生成されたキャラクターを現代風に再利用しようとする時、負の側面をオブラートに包んで(社会に)受け入れられ易くしようとする試みは、東方project以外の作品においてはありがちなことである。しかし、東方projectにおいてはルーミアさんなり美鈴なりお空なりが包み隠す事もなく食人をほのめかしているし、世間のイメージよりも若干ゲスい方面にわざわざ書き直されている尼君豪族の方々もいらっしゃる(個人の主観です)。ゲス上等(個人の主観です)の幻想郷で、萃香ちゃんだけ特別まろやかに仕立てる必要は別段無いわけである。よって、伊吹萃香のキャラクターは外部的な要因で形成されているのはなく、あくまでも製作者の「こういうキャラにしたい」という明確な希望をもって形成されていることは、おそらく間違いないだろう。

 そもそも①普段庶民を見下している貴族階級の人々が痛い目に遭う②勇敢でたくましい武士が妖怪を退治する③偉大なる神仏が武士に加護を与えるといった物語の骨子は、「酒呑童子伝説」が生成された南北朝~室町時代のプロパガンダや価値観を反映するものであり、大江山に酒呑童子が跋扈していたとされる時代より300年以上の開きをもって大成されたものである。つまり物語としての酒呑童子伝説もまた「事件」の発生よりも遥か後の時代になって、その時代の都合に合わせて作られたことは疑いない。よって、なぜ酒吞童子と伊吹萃香との間に性格の差異が存在しているかについては、「物語上の酒呑童子像は後世に創作されたものであり、脚色されていない本当の酒呑童子の姿こそ伊吹萃香である」という"設定"で伊吹萃香というキャラクターが作られているのではないかという空想解も述べておきたい。

※大江山の山中で2010年頃よりたびたび目撃されるようになった萃香ちゃん。写真は2013年撮影のもの。誰かが動かしているのか自分で動いているのか、目撃される場所が頻繁に変わる。
+ タグ編集
  • タグ:
  • 東方
  • 聖地
  • wiki
  • 大江山
  • 大枝山
  • 伊吹萃香
  • 星熊勇戯
  • 茨木華扇
最終更新:2015年07月29日 07:37