The Witness考察

シアターの映像

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地下シアターの映像の字幕(および映像内のテキスト)をまとめたページ。
ここでは便宜上、左からn番目のパネルに対応している映像を映像nと呼んでいる。

ボイスレコーダーと同様に、各映像の字幕にもゲーム内には表示されない内部コードが設定されている。
なお映像3には字幕がないため字幕の内部コードもない。

  • 映像1(内部コード:burke)
    1978年のイギリスの科学教育番組『Connections』の第10回「Yesterday, Tomorrow and You」より。語り手は科学史家であるジェームズ・バーク。『Connections』には書籍版もあり、その邦訳版として『コネクションズ:意外性の技術史10話』も出版されている。
  • 映像2(内部コード:feynman)
    理論物理学者リチャード・ファインマンの映像。前半は1964年の連続講義『The Character of Physical Law』の第5回「The Distinction of Past and Future」より。リンク先にて、英語の書き起こし付きで無料公開されている。後半はイギリスのドキュメンタリー番組『Horizon』の1981年のエピソード「The Pleasure of Finding Things Out」より。
  • 映像3
    アンドレイ・タルコフスキー監督の1983年の映画『Nostalghia』より。
  • 映像4(内部コード:psalm46)
    ゲームクリエイターであるブライアン・モリアーティの、2002年のGame Developers Conferenceでの講演『The Secret of Psalm 46』より。BGMはJ.S.バッハの『フーガの技法』。モリアーティはThe Witnessのテストプレイにも協力している。
  • 映像5(内部コード:rupert)
    2011年のScience and Nonduality Conferenceでのルパート・スパイラの講話より。
  • 映像6(内部コード:gangaji)
    2006年にシドニーで行われたガンガジ(本名アントワネット・ロバーソン・ヴァーナー)のパブリックミーティングより。


映像1(内部コード:burke)

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うーん この解答も他とかわりばえしないようですね

結局 私達は何か学べたのでしょうか
この世界がなぜ 今日の姿に至ったのか考察することは

私達の未来に何か役立つのでしょうか?
もちろん無関係ではないでしょう

何かが変化した決定的要因を探れば 他についても重要なことが分かるはず
知識は どのくらいの速さで広まるのでしょう

過去において何か変化を起こした人というのは
その「知識の伝播速度」を熟知している人々でした
一介の職人であろうと 一国の王であろうと同じです

今日 その知識をもって
物事に変化をもたらし

人類が進歩する真の原動力となっているのは
科学者や技術者達です

異論のある方もいるでしょう
「ベートーベンやミケランジェロだって変革者ではないか」と
非難の嵐を覚悟しつつ ここで1つの見解を述べさせていただきます

人間の感覚に基づく生産物や行動… すなわち
絵画や造形 哲学 政治 音楽 文学などは

世界の解釈にすぎない と

彼ら彼女らが語るのは 世界そのものではなく
世界に関する自分達の解釈なのです

一歩後ずさって 世界を間接的に見ているわけですから
それらの作品を解釈し理解する際 あなたはさらにもう一歩後ずさることになります

例えば…

というか

一方…

「アミノ酸の集合体」

と言えば何でしょう?
色々なものがあてはまります

毛虫とか
ゼラニウムとか

あなた とか

こういった知識の方がすんなり理解できるのでは?

頑張って解釈する必要がないでしょう

注意:映像ではここは宗教画の方を見せながら話していて、“Understandable; got people in it.”(理解しやすいでしょう。人物がいますからね)と言っている。

本来これが科学的知識というものですが
意見やイデオロギーなど 人間味のある要素をことごとく排除し

世界に関する確実な真理だけをそっけなく述べるので
とっつきにくく感じるのです

この辺りの字幕の翻訳は誤解を招きそうな気がするので補足。ここでバークは
  • 人間の感性に基づいたものの方が理解しやすい
  • 科学的知識は、意見やイデオロギーといった心強い支え(reassuring crutches)を取り払っているので、理解するのが大変
ということを言っている。

また 多くの人々が科学技術から離れてしまう原因は
皮肉にも当の科学技術が明らかにした事実ですが

訳が不適切で意味が逆になっているように思われる。バークが言っているのは「多くの人々が科学技術から離れてしまう原因」ではなく「意見やイデオロギーといった支えを捨てよう(throwing away those crutches)と多くの人々が考えている理由」。

「この世はまだまだ分からない事ばかり」ということに
人々が気づき始めたせいでもあります

生きる上で出くわす様々な物事について
より多くを理解しようとするなら

「より多くを理解しようとするなら」というよりは「もっと思い通りにいってほしいなら」、あるいは直訳に近いが「何が起こるかに対してもっと発言権がほしいなら」でいいと思う。

あるいは自分達の能力を十全に開花させる自由を得たいなら

知識の助けは必要不可欠 ですが私達はまだ
そうした知識があると分かっていながら それを手にしていない状態です

書籍版の方にはよりはっきり書いてあるが、バークが言っているのは「人々は、極めて重要な技術革新が起こっていることは知っているが、それに関する決定に参加できるほどの知識は持っていない」というようなこと。

「ご自由にお使いください」と書いたコンピューターを
皆さんに配ったところで それは「知識の助け」とは言えません

では一体何から始めれば良のでしょう

ためしに
知識を知識のままにしておくのではなく
「適切な問い」にたどり着くために活用してみては?

皆様ご存知の通り
今は通信技術の黎明期です
知識を活用するのに 今ほど良い時代はないでしょう

もし そうした活用がなされなければ
爆発的に膨れ上がった知識は

そこにアクセスできない人々を置き去りにしていってしまう
目や耳 口を奪われたも同然の状態にしてしまうのです

それでもいい なんて人はほとんどいないでしょう

じゃあ何をすればいいんだ となると…
私には分かりません

ですが 「気づくこと」は
重要なはじめの一歩になるでしょう
あなたの中には 十分な説明を受けさえすれば

何でも理解できる能力が備わっていることに
気づいてください

そして臆せず 説明を求めにいきましょう

「何の説明?」とお思いかもしれませんね

ご自身の心に尋ねてみてください
「生きる上で 何か変えたいことはないか?」と

それが あなたのスタート地点です

要旨
  • 世の中に変化を起こすのは「知識」であり、現代において重要なのは科学的知識。
  • 科学的知識は急激に膨れ上がってきており、知識を持たない人が蚊帳の外に置かれてしまうことが懸念される。
  • 生活や社会に良い変化を起こすためには、我々は科学的知識を積極的に活用していかなければならない。

YESTERDAY
TOMORROW
AND YOU

written and presented by
JAMES BURKE

The BBC wishes to thank
NASA
STRATEGIC AIR COMMAND
UNITED KINGDOM ATOMIC ENERGY AUTHORITY
CENTRAL ELECTRICITY GENERATING BOARD
INSTITUTE OF CHILD HEALTH
WATES BUILT HOMES

映像2(内部コード:feynman)

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さて
喧喧囂囂 口ゲンカまがいの議論を経て

ある予測が立った… 炭素は782万ボルトで
そのような状態になる と

そして研究室で炭素を使った実験を行い
実際にそうであることが証明された

そうなると 他の元素からなる地球上の存在はすべて
この特殊な状態が炭素に存在するという事実と
密接な関係を持っているはずだ

けれど物理法則に照らしてみても
この特殊な状態が炭素のどこで起こるか

予想するのは非常に困難だ
12個もの粒子が複雑に相互作用して 起こる現象だからね

どうしてこんな話をしたかというと つまり
物理法則を理解したからといって

何もかも分かるわけじゃないってことなんだ
例えば この世界の意味とかね

しばしば 僕らが現実に体験する諸々の出来事は
基本法則とはかけ離れている

僕らは この世界に居ながらにして…

世界について論じる方法を編み出した それは
人によって表現は違うだろうけど 世界を段階的なヒエラルキーで捉える
つまり様々なレベルで語るという方法だ

ざっくりしたイメージを持ってもらえばいい
とにかく いろんなレベルがあるんだ

いくつか例を挙げて 説明してみようか
この「ヒエラルキー」について
何でもいいんだけど そうだな…

例えばヒエラルキーの一端には 物理学の基本法則が集合している

そしてそこに登場する概念を端的に言い表す
種々の言葉が定義されてきた
基本法則の観点からね

例えば「熱」 熱とは振動だ
熱いもの そして膨大な数の原子が
振動している状態を指す言葉だ

だから原理的に議論するなら 原子の振動を心に留めておかなきゃいけない

だけど現実はどうだろう 「熱」という言葉を口に出す時
原子が振動している事実なんか 皆だいたい忘れているよね

ちょうど「氷河」と言う時
それは六方晶氷の雪の結晶が降り積もって出来たものの事だ と
いちいち思い返したりしないように

他の例としては 食塩の結晶
原理的に言えば 結晶には
大量の陽子と 中性子と 電子が含まれる

だけど「食塩の結晶」という概念を持ち出したなら
そうした細かい 基本相互作用のパターンなどは
すでにすべてそこに包括されているんだ

圧力という概念も然り

さて ヒエラルキーを上っていこう
物質の性質を表すレベルがある

例えば「屈折率」
光が物体を通り抜ける際に どれだけ曲がるかを示す数字だ

あるいは「表面張力」
水は 水分子同士で引き合う性質がある

その程度が 数字で記述されるんだ

表面張力が原子の引っ張り合いであることを言うには
物理法則を何段階か経て より微視的な視点に立たなければならない

だけど「表面張力」という言葉を使う時 細かいことは意識しなくていい
その現象の内部構造について議論していく時は…
意識したり しなかったりするけどね

さあ ヒエラルキーをさらに上ろう

水と言えば 波という表現もある
「嵐」もあるけど これはもう
莫大な量の物理現象をまとめて表す言葉だ

「太陽の黒点」「星」…これらも事象の蓄積
いちいち根本に立ち返るのは上手い策とは言えないし 不可能ですらある

だってヒエラルキーの上に行けば行くほど
そこと基本原理の間にはいくつもの段階があって
各段階ごとに微妙なギャップがあり
すべてを総括する説は未だに登場していない

複雑なヒエラルキーの上の方にあるのは
カエル とか 神経インパルス とか

複雑な事象がハイレベルに絡み合ったものばかりだ
物理世界において 物質が組織を構成し
非常に精巧な複雑性を実現しているレベルだ

そしてもっと上に行けば 「男性」とか「歴史」とか
「政治的利益」とかの言葉 ないしは概念に出くわす
さらに進もう…

原文の“man”という言葉は「男性」ではなく「人間」と訳すべきだと思われる。この後で歴史と人間の心理(man’s psychology)の関係などに言及しているので、おそらくそのための布石。

概念の集合体のレベルだ
僕らが物事を 最も高いレベルで理解する次元

「悪」「美」「希望」…そんな言葉がひしめいている

では どちらの方向が「究極」に近いのだろう?
宗教的なメタファーを用いれば「神様」に近いのはどちらだろう?

てっぺんの「美」や「希望」か それとも底辺の基本法則か?

適切な答えはもちろん…
「事象の相互作用からなる構造全体を
我々は注視しなければならない」

連続するヒエラルキー…つまり

自然科学の全分野とすべての努力が そう 自然科学だけでなく
知的な努力の行われるところでは例外なく

ヒエラルキーの繋がりを目の当たりにすることになるだろう
美が歴史に影響を与え
歴史が人の心理を動かしてゆく

心理が変われば 脳の働きも変化する
脳の働き つまり神経インパルス

それは化学の分野に関係がある 他にも横の繋がりや
ヒエラルキーの上下層との関連もあるだろう

そして残念ながら今のところ
いくら信念深く取り組んだとしても
ヒエラルキーの上から下 あるいは下から上まで
すべての物事をきれいな線で結んで整理することはできないんだ

つまり 僕達はようやく「関連するヒエラルキーがある」
と見い出したばかりの状態だから

僕は どちらの端も「神に近い」とは言えないと思ってる

どちらか一方に立って そこだけを出発点として
ある方向に行けば完全な理解が得られると
そう信じて思考の海に漕ぎ出すのは
間違いだ

そして「悪」「美」「希望」の側に立ち
あるいは基本法則の側に立ち

その面をとことん突き詰めれば 世界全体のことを
深く理解できるだろう と思うのも間違いだ

だからある一方の側の専門家と
もう一方の側の専門家が
互いを軽視するなんて

実に馬鹿馬鹿しいことだ
(実際はそんなことないけど そうだという人達もいるんだ 残念ながら)

確かなのは
ヒエラルキーの中には 実に大勢の研究者がいて

一歩ずつ研究を進めながら
この世界への絶えず理解を深めていっていること

ヒエラルキーの端にいる研究者も 中ほどにいる研究者もね

そんなふうにして
僕らは少しずつ 物事の繋がりを理解していってる
この「世界」という とてつもなく大きなヒエラルキーの相互作用を

もし君が 科学というものは
「人類とは何か」「どこへ向かおうとしているのか」

「宇宙の意義とは」…なんて素敵な質問に対する答えを
すべて与えてくれると思っているなら

あっけなく幻滅させられることだろう
そして秘教の教えに走るのかもね

科学者が どうやってそんな神秘主義的な回答を受けつけるというのか…
魂の全体像だって解明されていないのに…

ま 余談はいいや いずれにせよ 僕には分からないけど
その人なりに思うところがあるんだろう

僕は 自分達のやっていることは「探索」だと思ってる
世界についてできるだけのことを見い出す探索だ

「あなたの目標は 物理学の究極の法則を発見することですか?」と聞かれることもあるけど
答えはノーだ 僕はただ 世界についてもうちょっとよく知りたいだけなんだ

それでもし 森羅万象の説明がつくような
シンプルかつ究極の法則が見つかったとしたら
まあ ラッキーだ 何かを発見するのはいいことだから

そうじゃなくて もしそれが何百万枚もの層を持ったタマネギみたいなものだと判明して
層をたどっていくのはもうこりごりだ といくら思ったとしても
それが現実だ

とにかくどんな形であれ その本質はそこにある
ありのままの姿で 現れてくる

だから調べる時は 予断を持っちゃいけない
自分達が調べているものの正体を 決めつけちゃいけない
「もっと知りたい」という気持ち以外は邪魔なんだ

でも君は「もっと知りたい」と思うにも
動機が必要だと考えるかもしれない

もし君が 深遠なる哲学的疑問に対する
答えを手に入れるために
研究を進めようとしているのなら
それはきっと 上手くいかない

自然の特質を1つ2つ明らかにしたところで
その疑問に対する答えにはならないかもしれない

でも それでいいんだ…

僕が科学に期待するのは ただ「世界をもう少し知る」ことだけだから
たくさん分かれば分かるほど良い

僕は発見が好きなんだ

謎の中にも 非常に注目されるものがある
「人間が 動物よりはるかに多くの事をこなせるのはなぜか」 
みたいに 多くの人の興味を引く謎が

だけどそうした謎を研究する時
僕はまっさらな心で挑みたい

だから そう 僕は作り話を信じない
全宇宙と人間との関係について とかね
信じられないんだ

だって…

そういう話はどうも…

シンプルすぎるし 作り手の意図が見え透いてるし

人類の事しか視野に入れていない! 偏りすぎてるんだよ!
大昔 誰が地球に来たって?

神様が何らかの形でこの世に来たらしいよ いいかい

今この世界の状況を見てみなよ どうひいき目に見たって…
神様の作品とは思えない

まあ 議論はよそう よしておこう

これで皆も 僕の科学的視点が 僕の信仰心とやらに
いくらか影響を与えていることが分かるだろう それだけじゃない

何が真実かを見極めるために

関係するすべての仮説をかき集めたとしよう
宗教が違えば それぞれの主張も違ってくる
種々雑多な説に囲まれて

君は途方に暮れるだろう 予想された通り
君は疑い始め 科学は真実かと問いかける

答えはノーだ 僕らは何が真実かなんて知りはしない
一生懸命模索しているけれど すべてが間違っているおそれもある

「すべてが間違っているおそれもある」…
こう唱えて 宗教を理解しようとしてごらん

たちまち君は深みにはまる
なかなか抜け出せない深みにね

そしてそれは 僕の父が持っていたような科学のイメージにも言える
何が真実で 何が真実でないか
科学は判別しなければならないという考え方だ

いったん疑い始めたら… どうも「疑う」という態度は
僕の魂の根幹を成しているようだ…
実際に疑ったり 質問したりすると

信じることはまた少し難しくなる

1つだけ言えるのは
疑念や不確実性 分からないことが生じても 僕は平気だってことだ
分からないまま生きていく方が 間違っているかもしれない答えにすがって生きるより
僕にはずっと面白いと思える

答えらしきものはある 信じられそうな説もある
そして様々な事象について それぞれある程度確かなこともある

だけど1つとして 完全な確信には至らない
それどころか 答えの見当すらつかない問いだって多い

「なぜ私達はここにいるのだろう」と聞くのは意味があるんだろうか とか
そもそもその質問はどういう意味なんだ とかね

ちょっとは考えてみるけど
どうにも分からなければ 僕はさっさと他のことに移る

答えを知る必要なんてない
物を知らなくたって 別に怖いことなんかない

この謎めいた宇宙の中 何の目的も持たずに
ただただ さ迷っている

それが 僕の言える範囲での 現実のありようだ
たぶんね

そしてそれは 別におののくようなことじゃないんだ

映像3

Dedicato alla memoria di mia madre.

Andrey Tarkovsky

映像4(内部コード:psalm46)

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a scheme by Professor Moriarty
The Secret of Psalm 46

諸君のうち 皆既日食を実際に観たことがある者は
どのくらいいるだろう?

いつの日か 月の影のただなかに立つ
それは私の 人生におけるささやかな目標の1つだ

目標達成に最も近づいたのは 30年以上前

1979年2月26日
日食が ポートランド市の真上を通過したのだ

私はバスの切符を買い求め 観測地点も見つけておいた
だが結局 その日に仕事を抜けることができなかった

まあ ポートランドに住む人ならこう言うだろう
2月に太陽を観測できるチャンスなど
皆無に等しい と

そうなのだ 事実あの日も ポートランドの空は
完全に雲に覆われていた どちらにせよ 観測は無理だったろう

抜けられなかった仕事というのは
レディオシャックのカウンター業務

マサチューセッツ州ウースター 美しい郊外に建つ古びた店舗が
新卒で就職した初めての職場だった

働きはじめた まさにその初日
配達のトラックが 店の前に停まった

運び込まれたのは大きな段ボール箱
上面の説明書きには“TRS-80”とあった

これこそ 世界初の大衆向けマイクロコンピューター
これはその店頭見本

TRS-80モデルI…
Z80プロセッサを搭載し クロック数は1.7メガヘルツ

メモリ容量は4,096バイト
白黒のディスプレイには64文字まで表示可能

使えるストレージはカセットテープのみ
「今ならたった599ドルのお値打ち価格でご購入いただけます!」

私の働いていた店舗は 傾きかけていた

かつては周囲に活気あふれる商業地域が
展開していたが

ニューイングランド地方の都市の御多分に漏れず
70年代初頭のショッピングモールの進出により
昔ながらの商業地は廃れてしまった

この問題についてウースターの人々は
断固とした姿勢で対応した

より正確に言えば 断固として
「長い物には巻かれよ」という姿勢を貫いた

街の中心地にブルドーザーが入り
いくつものブロックが更地にされた
家族経営の小さな店は次々に葬られ

その中には私の曽祖父がやっていた
薬局の土地も含まれていた

そうして出来たスペースに
映画館とフードコートを備えた
3階建ての巨大な商業複合施設が建設された

最後まで工事を免れたのは
ほんの数ブロックほどの うらさびれた場所だけだった

そうした場所の一画に 私の職場はあったのである

さらに 泣きっ面に蜂とはこのことであろうか レディオシャックは
そのショッピングセンター内に真新しいテナントを構えたのだ
私の店舗から わずか150m程の距離だった

常連客も その整然として華々しい店舗の方に移り始めた
警備もしっかりしているし 広々とした便利な駐車場もある
一方こちらは

怪しげな古いオフィスビルの中にある穴ぐらのような店
隣にはポルノ映画館があるときた

結果として私は 膨大な時間を持て余すようになり
例のコンピューターをいじり始めた

BASICプログラミングを独習し
Z80のアセンブリ言語も習得した
当初の目的はゲーム作りだったが

ほかに 自動で再生されるアニメーションも作った
夜 店の出入り口に立小便するアル中どもを教え諭すため
窓に一晩中映し出しておくのだ

だが不思議なことに 店を訪れる数少ない客は
このマシンに興味を引かれないようだった
16Kメモリへアップグレードされた後も である

実のところ
店の表玄関を通ってブザーを鳴らす人々のうちほとんどは
何か買いたい物があって来ているのではなかった

これは40年以上も 我々従業員の悩みの種になっていたが
彼らは「バッテリー月例会員(Battery of the Month Club)」の一員として
無料サービスを受けに来ているだけだったのだ

バッテリー月例会員のアイディアはシンプルだ

客はマス目の印刷された小さな赤いカードを買い
月に1回 レディオシャックの店舗を訪れる

運の悪い店員だと年に12回も マス目をパンチアウトして
新品の電池を客に渡さなければならなかった
単4 単3 単2 単1 あるいは9ボルトバッテリー

もちろん客は電池のグレードを
自由に選べるわけではない

私が働いていた時分
配布する電池の性能には3つのレベルがあった

まず パワフルで長持ちするが 買えば高くつくアルカリ電池
それらは金箔で型押ししたプラスチックのケースに入っており
処方薬のように カウンターの裏側に吊り下げてあった

はっきり言ってしまえば バッテリー月例会員には
まず渡さない商品だった

次に 高性能な鉛蓄電池
これまた長く持ち 信頼できるバッテリーで 価格はそこそこ
いかにも「これが貰えますよ」というように

店の表に展示してあったが
まず渡さない商品だった

最後に残るは
スタンダードな鉛蓄電池

店頭からは見えない 裏手にこっそり置かれた樽の中に
それは乱雑に放り込まれていた
TVアンテナが並ぶ角の暗い場所だった

TVアンテナ…は死語かもしれないが

月一の無料電池を貰いに来た客は
店の中をぐるっと回って
そこまで行かなければならなかった

途中にあるCB無線やステレオヘッドホン
あるいはリモコン式のレーシングカー

いずれも客の興味を引くものではない

小さな赤いカードをちらつかせた客がやって来るのは
毎月1日の恒例行事のようになっていた

そのたびにプログラミングの手を止め
店の奥に案内する

カード料金である29セントの価値があるかすら
怪しい電池で

しかもその大半は半分切れかかっていたが
いずれもたいした問題ではなかった

客はとにかく来店し 無料で何か貰えればいいのだ
私の覚えている限り
ついでに何か買って行った客は ひとりもいない

私は営業下手な店員だった 若くて 頭の回転も鈍かった

ゲーム設計の勉強は
キーボードを叩いていれば十分だと思い込み

正面からやってくる教訓を見逃すところだった

幸運なことに その時代 マイクロコンピューターでゲームに夢中になっていたのは
私ひとりではなかった

同じような人間が 国のあちこちで新しいものを作ろうとしていたのである

例えばスコット・アダムスが書いていたコードは
ほどなく世界で初めて市販されるアドベンチャーゲームとなった

今となっては懐かしい話だ

後に私が転職するInfocomも創業された
今や伝説的な企業である
On-Line Systemsや Sirius Personal Software SSIもこの時期にできた

10代の若者が大金を稼ぎ出す

エキサイティングな時代だったのだ

ゲーム作りは簡単で元手もさほどかからない
全員に平等なチャンスが与えられていた

だが1979年 ゲーム業界最大のニュースは コンピューターとは無関係だった

秋分の日も近づいた9月20日の朝
新感覚の子供向け絵本が イギリスの店々に登場した

それは非常に風変わりな絵本だった

細やかに描き込まれた15のカラー図版が紡ぐ
月に宝石を届けるウサギにまつわる
短く奇妙な物語

裏表紙には本物の宝石で形作られた
走るウサギのカラー写真が載っていた

その大きさは13cmほどで 18カラットの金があしらわれ
ブルークオーツの太陽と月など 種々の飾りつけと共にぶら下げられていた

写真下の宣伝文にはこうあった
「このウサギが イングランドのどこかに埋まっています」

本の文章と挿絵を注意深く読み解くと
その場所の手がかりが得られる仕組みだった

宝は 誰であれ最初に発見した人のものになる

「仮面舞踏会」と題されたこの絵本は
発想力と茶目っ気に溢れた風変わりな職人
キット・ウィリアムズによって生み出されたものだ

数日のうちに初版が売り切れた
イギリス中が
このウサギに夢中になった

読者は定規とコンパス 分度器を持ち
張り切って絵の謎に挑んだ

手がかりを調査する雑誌の特集やテレビの特番が組まれ
仮説を垂れ流しては視聴者を浮き足立たせた
熱狂的なマニアの向こう見ずな行為も散見された

たまたま「ウサギの丘(Rabbit Hill)」という二つ名を持っていた
それまで無名だった公園は 勘違いした読者の掘った穴でボコボコになった

そのため著者らは「ここに宝のウサギはありません」という看板を
公園に立てなければならなかった

執着しすぎたハンターの中には 心療内科でカウンセリングを受ける羽目になった者もいる

ウサギフィーバーは大西洋を渡り
アメリカ フランス イタリア ドイツをも席巻していった

数か月のうちに発行部数は百万を超え 児童書としては
「ハリー・ポッター」が登場するまで
他に並ぶもののない記録を打ち立てた

外国向けの翻訳版も15万部以上販売された
例えば日本語では8万部…
英語で読まなければ解けない謎であったにも関わらずだ

実際に「仮面舞踏会」の宝の価値が何千ドルであるかは
たいした問題ではなかった

多くのハンターが何か月もかけて謎解きに挑み 時には実際に旅をした
そのコストは とうに宝の値段を上回っていたであろう

人々が求めていたのは 追跡のスリル
自分が 世界でたったひとりの発見者になるという可能性

宝探しやシークレットメッセージの解読 隠された謎といったものは
得てして抗いがたい魅力を帯びる

追求することはもちろん 話のネタとしても面白い

こうした人間の心理は
コンピューターゲームでは当初から利用されていた

いわゆる「イースターエッグ」と呼ばれる秘密の仕掛けだ

Atari社のスティーブン・ライトが この用語を作った人物として
雑誌“Electronic Games”第1号に掲載されている

大衆向けのコンピューターゲームとして初めてのイースターエッグは
初期のAtari 2600で動作する
「アドベンチャー」という何ともシンプルな名称のゲームに埋め込まれた

プレイヤーは 普通では考えられないような動きや分かりにくい操作を積み重ねて
ようやく隠し部屋にたどり着ける
そこには“Created by Warren Robinet(ワーレン・ロビネット作)”
という文字が光っているだけなのだが

イースターエッグと それを見つけるためのチートコードは
何十年もの間 ごく狭い領域内の産業として発展してきた

今やどの雑誌もWebサイトも
綿密に練り上げられたサプライズとその宣伝(discovery and dissemination)に利用されている

このような言い回しは コンピューターゲームを設計する際に使われる
基本的な語彙の範疇で ツールキットの一部とさえ言える

イースターエッグという呼び名を作ったのは
確かにコンピューターゲーム業界かもしれないが
作品に秘密の暗号を埋め込んだりすることは

画家や作曲家 その他あらゆる領域の芸術家達によって
何世紀も前から行われていた

一時停止機能を持ったビデオデッキや
レーザーディスク再生装置によって 数十年もの間隠されていた
ディズニー映画の官能的表現が暴かれたように

自らを「光の画家」と称したトーマス・キンケードは
Nという文字を作品に隠すことを好んだ

署名の脇に書かれた数字が その絵の中に
何個のNがあるか示しているのだ

ピカソ ダリ ラファエロ プッサン その他大勢の画家達が
数々の秘密をその絵にはらませている

群衆を描く際 その中に自画像や
家族 友人 同僚の似顔絵を紛れ込ませるのは 好まれた手法のひとつだ

犬が大好きだったエル・グレコに カトリック教会は
「宗教画には犬を入れるな」と命じたが

彼はそれを 天国の雲の輪郭などに紛れ込ませて描いた

ドミートリイ・ショスタコーヴィチは
ソ連文化省による政治的検閲の下で苦悩した作曲家だが

彼の交響曲や室内楽には 反体制的な主張や
意味合いが密かに込められていた
当時発見されていたらシベリア送りだっただろう

モーツァルトのオペラ「魔笛」も 古くからある秘密結社で
モーツァルト自身や師であるハイドンが属していた
フリーメイソンの儀式に関する示唆に富んだ作品だ

しかしイースターエッグの最も有名な使い手といえば
後期バロック音楽の大家にして究極の音楽マニア ヨハン・セバスチャン・バッハだろう

バッハはゲマトリアの研究者であった
ゲマトリアとは A=1 B=2 C=3のように アルファベットに数字を対応させる技法のことだ

数字の対比や配列といった操作によって
秘密のメッセージを埋め込むことができるのだ

バッハは 数字の14と41を特に好んだ

ゲマトリア的に言えばB=2 A=1 C=3 H=8で 14は彼の名前の合計値である

41は“J.S.Bach”の合計値だ

バッハの作品には この2つの数字が繰り返し出現する

よく知られた例の1つが
コラール「汝の御座の前に われ進み出で」である

メロディの1行目はきっちり14音
最初から最後まで数えると 全体で41音のメロディになっている

もう1つ バッハの好んだ「遊び」は パズルカノンだ

まずカノンというのは 1つの完成された旋律を
少しずつずらしながら重ねて演奏する様式のことで

元はフランス民謡の「グーチョキパーで何つくろう」や マザーグースの「漕げ漕げお舟」などは
多くの人に親しまれる 二声のカノンのシンプルな例である

もちろんカノンは二声に限らないし

各声部を同じように演奏する必要もない

何オクターブか上下させたり 調やピッチを変えたり
楽譜を後ろから演奏したり またこれらを組み合わせて用いても良い

重ねた時に美しく響くメロディーを見つけるのは容易いことではないが
バッハがその達人であることは誰しも認めるところだ

そしてパズルカノンでは
作曲者は 基本のメロディーと声部の数を指定するが
それらの重ね方については言及しない

各声部の調や始めの音の見当をつけ
反転 すなわち逆から演奏すべきかどうか考えるのは 「パズル」の解き手に一任されているのだ

バッハは数多くのパズルカノンを遺した
最も有名なBWV1076を含むカノンシリーズには 次のような面白いエピソードもある

バッハ研究者のひとりであるローレンツ・ミツラーは
音楽科学文書交流協会の創設者でもあった

これはエリート向けの招待制の研究会で
ピタゴラス学派の哲学の研究 および
数学と音楽の融合を旨とし

ドイツの主要な音楽家達はあらかた所属していた
ヘンデル テレマン そしてなんとモーツァルトまで

入会を申請するには
油絵による自分の肖像画と
新しく書き下ろした音楽作品が必要だった

後に協会員番号14を取得する某氏は ここぞとばかりにオタク心を発揮し
これらの入会要項をひとつながりの「作品」に仕立てようと目論んだ

彼はドレスデンの宮廷画家であったエリアス・ハウスマンに
肖像画を依頼した

この絵は現在ライプツィヒ市役所の
ギャラリーに飾られているが
現存するバッハの写実的肖像画としては唯一のものとされている

そこにはフォーマルなコートを羽織ったバッハが描かれているが
コートのボタンの数はぴったり14個であり 右手に持った楽譜には
6声のためのパズルカノンが記されている

そして1974年 バッハの私蔵本が発見され
このカノンはあの「ゴルトベルク変奏曲」の主題に基づく
これまた14曲のカノンシリーズの13番目であることが明らかになった

この程度では飽き足らない とでも言うかのように
バッハは好んで作品中にメッセージを隠し入れた
例の 音を文字に関連付ける手法だ

彼の名前であるB-A-C-Hは ドイツ式の音名表記に則ると
Bフラット A C Bナチュラル という音の並びに置き換えられる

この主題が登場する部分としては
彼の遺作であり 1750年の死後まもなく発表された「フーガの技法」の
最後の数小節が最も印象的であろう

フーガ(fugue)という単語はラテン語のfugaから来ているが
これは遁走(逃走)という意味を持つ

したがって「フーガの技法」は「遁走の技法」でもあり
この主題と共に走り抜ける技法 とも読めるのだ

バッハは何百曲ものフーガを遺したが
この14曲に匹敵する崇高さを持つものは他にない

一連の作品中 最後のフーガは最も難解である
最初の主唱と次の応唱は通常通り展開するのだが

続いてあのB-A-C-Hが来たと思った途端
何の予兆もなく そこで曲が突然終わってしまうという
型破りな構造を持つ

彼には20人の子供がいたが その中のひとりである
カール・フィリップ・エマヌエルは
バッハはその数小節を書いた直後に絶命したのだと述べている

事実にしてはできすぎている話だが

バッハのイースターエッグは 主にバロック音楽を学ぶ者や教える者達に限って知られる
ひそやかな楽しみであったが

2002年3月 これに関する講演が初めて行われると
バッハのイースターエッグはクラシック音楽界全体の話題の的となり

その月のクラシック音楽売上チャートの上位には
ECMレーベルの“Morimur”というCDがランクインした

これはヒリヤード・アンサンブルの合唱に
才気あふれるバイオリニストでありながら当時はまだ無名だった
クリストフ・ポッペンの演奏がコラボしたものである

“Morimur”に収録された音楽は バッハ作「無伴奏バイオリンのためのニ短調パルティータ」の
ゲマトリア的分析に基づいている

分析はドイツの大学教授ヘルガ・テーネによって行われ
様々な要素が数値と関連付けられた
音価 小節数 パルティータのドイツ語音名による記譜

そうする中で教授は 音の中にいくつかの典礼に関する
完全なテキストが埋め込まれていることを発見したらしい

CDの音楽は オリジナルの曲の上に
その隠されたテキストを重ねる形で収録されていた

結果としてその曲には不思議な哀愁が漂い
陰うつだが妙に印象に残るものとなり 大変な人気を博した

だが音楽批評家からは少なからぬ批判を受けた

テーネ教授の分析は受け入れられず
「数秘術」を使ったせこいマーケティングにすぎないとされた

こうした批評にも 根拠がないわけではない

数秘術は実に怪しげな魅力を持ち
それまでに何人もの良識人を破滅へ導いていた

面白い逸話をひとつ 私の経験からお話しさせていただこう

あれは90年代初頭 インターネットもなかった頃
別の通信技術を使ったオンライン掲示板システムが人気を集めており
Prodigyはその中の1つだった

私はProdigyのアカウントを買い
興味のあるグループに参加したり
国のあちこちに住むメンバーと噂話を楽しんだりしていた

ある日 新規のメンバーが私達の掲示板に現れた
すぐさま私は これは困ったことになる と直感した

そいつはGaryと名乗り
ナンセンスな黙示録的主張をまくし立て始めた
世界的な陰謀がどうの 秘密結社がどうの 悪魔崇拝が云々…

はじめ 私達は丁寧に応対しようとした

彼にその説の出典を尋ねたり 彼の歴史観を修正したり
論理的に反証したり 教養のある大人の対応を心掛けた

だが彼はおとなしくなるどころか 私達の注目を集めてますます調子に乗った

彼の「これは陰謀だ!」という書き込みはますます緊迫性を帯び ほとんどヒステリーに近かった
自分に賛成しないメンバーへの脅迫も行い始めた
強調のため 投稿に大文字を多用するようになった

だが彼が最も声高に主張した警告は
同性愛者やユダヤ人 ロックフェラーやイルミナティとは無関係だった

Garyによると 人類最大の敵は、サンタクロース

反キリストの化身らしい
Garyは 様々な異論をものともしない「証拠」…秘密の数式を
自分は握っているのだと言い放った

つい興味をそそられ 私達はその式を明かすよう Garyに迫った
ついに彼の罠に向かって歩き出してしまったわけである
彼が自分の書いた本を売りつけるつもりだとは思ってもみなかった

罠にかかった 私は15ドルを彼に送った
1週間もしないうちに その本は届いた

ワシントン記念塔を撮った不気味な写真の真上に
本書のタイトルがくっきりと刻まれている…「666: 最終警告!」

494ページにも及ぶ自費出版本の中で
Garyが明らかにしていたのは 単純なゲマトリアの式だった
彼によると 古代シュメール人によって編まれた式らしい

この式では アルファベットの各文字に
6の倍数を当てていく A=6 B=12 C=18 などだ

これを「サンタクロース(Santa Claus)」に当てはめた時の
私の驚愕をご想像いただけるだろうか
数字を全部足すと666 聖書にある獣の数字になったのだ!

私はProdigyに行き
茫然としているグループメンバーに
「Garyの言うこともまあ 一理あるよ」と伝えた

古代シュメールの英知によれば
サンタクロースは反キリストであることに
一片の疑問も挟む余地はない

そこで私が次にしたことは Garyの式に当てはめた時
合計が666となる単語をどんどん挙げていくことだった

「セントジェームズ(Saint James)」「ニューヨーク(New York)」
「ニューメキシコ(New Mexico)」…

すぐに掲示板は 皆の「発見」でいっぱいになった
「コンピューター(computer)」に「ボストン茶(Boston tea)」…
「カラオケに行く(sing karaoke)」などはさすがに悪ふざけが過ぎたのだろうか

Garyはほどなく姿を消した まあ15ドルの価値はある体験だった

だがもちろん 秘密のコードを聖書と関連付けたのは
Garyが初めてではないだろう

それどころか人類は 何百年にもわたって
聖書にイースターエッグを探してきた

ゲマトリアの手法を適用すれば
モーセ五書 すなわち旧約聖書の初めの5書において
ヘブライ語によるカバラの神秘主義的な教えだって見いだせるだろう

コンピュータが登場して
数秘術を聖書に当てはめる試みは
ますます加速し 効率的になった

最近行われている聖書に関する数々の探索には
元「ウォール・ストリート・ジャーナル」記者のマイケル・ドロズニンが1998年に出版した書籍が
多大な影響を与えている

「聖書の暗号」と題されたその本では 「スキップコード」という手法を採用している
ある文書を決められた文字数だけ飛ばして読めば ひとつのメッセージになるというものだ

ドロズニンの主張によると この解読法を旧約聖書のヘブライ語原典に当てはめたところ
第2次世界大戦をはじめ
ホロコースト 広島への原爆投下
イツハク・ラビンとケネディ兄弟の暗殺

月面着陸 ウォーターゲート事件 オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件
ビル・クリントンの当選 ダイアナ公妃の死
そして 木星への彗星衝突が予言されていたという事だった

その他にも彼は 終末の10年の間に
ロサンゼルスで巨大地震が発生し 地球に隕石が衝突し 核兵器による大戦が勃発するとの
予言を見い出している

「聖書の暗号」は何週間もベストセラー入りし
いくつもの続編や模倣本を生み出した

聖書は確かに 巷にいるちょっとおかしな層の人達を魅了してきた

だが筋金入りのエッグハンターにとっては
「あの話」ほど創意工夫に富み 粘り強く研究が重ねられ
頑固なまでの熱情で探求者を惹きつけてきたものも無いだろう
それは 文学史上最大の謎

これまでに多くの資金が投じられ
健全で聡明な文学者達にキャリアを投げうたせ
狂気の一線を超えさせた 中毒性有りとも言えるほどの難題

「シェイクスピア別人説」である

この謎に関しては 大きな図書館がいっぱいになるほど
多くの論文や本が書かれた

この件の記述ばかりを集めた図書館も複数存在するのだ

この複雑怪奇かつ危険なほど興味がかき立てられる話については
ほんの1時間弱の講演を聞くだけで
軽くお腹いっぱいになるだろう

シェイクスピア別人説を知らないという方のために
要点を数段落ほどにまとめてみよう

実はシェイクスピア個人について 確実に分かっている事柄と言うのは
コースターの裏にでも走り書きできる程度の量しかないのだ

ウィリアム・シェイクスピアという名の男が
1564年 ストラトフォード=アポン=エイボン付近で生まれたことはご存知だろう

彼は妻をめとり 少なくとも3人の子供をもうけた
ストラトフォードに土地を買い

近しい人々の裁判沙汰にちょいちょい巻き込まれ
1616年 52歳で没した

そのような人生を送る男がいた一方
ロンドンの劇団に シェイクスピアとか何とかという男がいて
俳優業をつとめており
やがて複数の劇団の共同経営者にまで上り詰めた

さらにまた同じ頃
シェイクスピアという名前で数々の素晴らしい詩と戯曲が書かれ
ロンドンで上演されていた

問題は本当に
ストラトフォードのあの地主と
似た名前を持つロンドンのあの俳優は
同一人物なのかどうか ということだ

問題は本当に
あの詩や戯曲を
本当に自分(達)で書き上げたのだろうか

私達が知っている事実は
あの詩や戯曲が 創作時から400年を経て
西洋文化の金字塔と目されるに至ったということだけである

シェイクスピアの手によるとされる作品は
神話や古典文学 遊戯や運動 戦争やそこで使われる武器
船と航海法 法律と法律用語

宮廷でのマナー 政治的手腕 園芸学
音楽 天文学 医学 タカ狩り そしてもちろん演劇と

ありとあらゆる事について造詣の深い
男性 あるいは女性でなければ

書くことができなかったであろう

そこが問題なのだ

住民の大部分が読み書きすらできない辺鄙な村で
農家の息子として生まれ 高等な教育を受けたわけでもなく

実質まったく取るに足りない男であったような人物がなぜ
溢れんばかりの訴求力とウィット

深大なる英知と人間理解をもって
百科事典のごとき知識を巧みに操れたのか?

はじめの150年間は 誰も疑問に思わなかった
詩人の個人史は 伝承のまま鵜呑みにされていた

そして18世紀後期 ストラトフォードからほんの数km離れた場所に住んでいた
名高い研究家であるジェームズ・ウィルモット牧師が
この著名な劇作家の伝記を書こうと決意した

ウィルモット博士は シェイクスピアのように教養豊かな人なら
広大な書庫を持っているに違いないと思い込んでいた
だがシェイクスピアの遺書では 本や原稿に関する言及は1冊たりとも行われていない

何年もの間 博士は
蔵書の一部は地元の図書館などに寄贈されたのだと考えていた

この実直な博士は イギリスの田舎地方を訪ね回った
ストラトフォードから半径約80km内にあるすべての図書館の全図書を調べ上げたが

ウィリアム・シェイクスピアの書庫から寄付されたような本は1冊もなかった

それどころかシェイクスピアの書いた
あるいはシェイクスピアについて書かれた書簡すら見つからなかったのである

ここで1つ付け加えておくと シェイクスピアの作品には
ストラトフォード地方の民話をにおわせる記述 あるいはその地方特有の言い習わしや方言などは
まったく登場しない

苦心惨憺たる研究を4年続けた後
ウィルモット博士は失意のうちに結論付けた

ストラトフォードのシェイクスピアと同時代に生き
あのような詩と戯曲を生み出すだけの
幅広い知識と傑出した才能をあわせ持つ人物はひとりしかいない と

それはマルチリンガルな作家であり 哲学者 政治的指導者でもあり 経験哲学の祖
エリザベス女王とジェームズ王のもとで大法官も務めた
フランシス・ベーコン卿その人であった

字幕ではジェームズ王(ジェームズ1世)に関してジェーム「ス」という表記揺れが多いが、ここではジェームズに統一してある。

ウィルモット博士はあえて この説を公にはしなかったが
息を引き取る前 友人のジェームズ・コーウェルにこっそり打ち明けていた
そしてジェームズ・コーウェルは1805年 イプスウィッチ哲学学会の会合でこれを発言した

案の定学会員達は怒り狂い
このスキャンダラスな議題は無かったことにされた

だが1857年 ストラトフォードの
(と言っても米国コネティカット州のストラトフォードの)女性が
“Philosophy of the Plays of Shakespeare Unfolded
(シェイクスピア劇の哲学を紐解く)”と題する本を出版した

本書の中で 著者であるデリア・ベーコン女史は
(ベーコンと言っても先述のフランシス・ベーコンとは無関係)
シェイクスピアの作品は
密かに集まったイギリス人貴族達によって書かれたものだと主張した

例えばサー・ウォルター・ローリー サー・フィリップ・シドニー
そしてもちろん フランシス・ベーコン卿である

デリア・ベーコンの本は 文学界を震撼させた

シェイクスピアの出自あるいは正体を巡り 「ストラトフォード派」と「ベーコン派」が対立した

証拠を議論するための文学会や学術誌が複数誕生し

何百部もの小冊子 新聞記事 そして論文が書かれ
身分の保障された学者にありがちな 自分本位の攻撃で
自らの支持する側を擁護し
反対者の愚かしさをまくし立てた

議論の的となった自著を携え
デリア・ベーコンはストラトフォード=アポン=エイボンまで旅をした
そしてなんと シェイクスピアの墓を開けて良いという 公式の許可を取り付けたのである

しかし 墓石を持ち上げようというまさにその時
デリアの自己疑念が 致命的な神経衰弱を引き起こした

後に彼女は精神病院で 一文無しの状態でその生涯を閉じることになる

1888年頃 事態は思わぬ方向へ進み始める

アメリカ下院議員であった ミネソタ州のイグナティウス・ドネリーが
シェイクスピア論争に興味を持ったのだ

ある日 1623年に出版された「ファースト・フォリオ」の複写に彼が目を通していたところ
歴史劇の53ページ目 そして喜劇の53ページ目に
「ベーコン(bacon)」という単語があるのに気がついた

彼はまた フランシス・ベーコン卿は
暗号作成法に関してかなりの文章を書いていることに注目した

ドネリーは 早速「解読」に取り掛かった
行を数え ページを数え 文字を足したり引いたり
文に線を引いては
単語を丸で囲み あるいは斜線で消す

浮かび上がってきたのは複雑で 実質理解不能なアルゴリズム
彼はそれを 「ファースト・フォリオ」に秘密のメッセージを埋め込むため
ベーコンが発明した手法なのだと主張した

西洋文明の歴史において最高峰のイースターエッグハントが始まった

少しばかり ややおかしなエピソードをご紹介しよう

デトロイトに住んでいた オービル・オーウェン医師は
“Wheel of Fortune(運命の紡ぎ車)”と名付けた奇妙な研究ツールを開発した

それは幅61cm 長さ305mほどのキャンバス生地を
2本の巨大な木製リールに巻き付けたものだった

生地の上に彼は ベーコン シェイクスピア マーロウ グリーン ピール スペンサーらの
全集から抜き出したページを一枚一枚
バートンの“Anatomy of Melancholy(憂鬱の解剖)”と共に糊付けしていった

それからリールを左右に回すことで
ページ間を素早く参照でき
手がかりや相互言及を見つけやすくなるというわけだ

彼は秘書と速記者を多数雇い
エリザベス女王時代のイングランドのもう1つの歴史
そして複数の新しいシェイクスピア劇とソネットを

完全に明らかにしたと宣言した

隠されていた詩に耳を傾けてみよう
この詩はシェイクスピア自身が書いたと思われ
オーウェン医師に「運命の紡ぎ車」の着想を与えた一篇でもある

ナイフを手に取り すべての本をバラバラにせよ
一葉一葉 大きく頑丈な紡ぎ車に貼り付けよ

紡ぎ車は回る 回る 移り気な回転が投げかける
運命をその目でしかと見よ

女神が隠していた運命 丸い石の上に立ちのぼり
揺らめき 気まぐれに回る
たゆまぬ変化を生み出しながら

…と いうような駄作を分厚い本にして第5巻まで出した後
オーウェンは「チェプストー城近くのワイ川に
ベーコンのオリジナル原稿が埋められている」と読める
アナグラムを発見した と発表した

彼はボートで作業する人員を雇い 15年の歳月と何千ドルもの資金を費やし
爆薬まで使ってその場所の川床を掘削したが

死ぬまで何も見つけられませんでしたとさ

アレンズバーグという男にいたっては
ベーコンの母親の墓にある「怪しげな」ひびの特徴を分析し
それに基づく本まで書いた

多少まともな取り組みが始まったのは 1957年のこと

暗号分野に馴染みがある読者にとっては
ウィリアム・フリードマンという名はほとんど説明不要だろう

第二次世界大戦中 大佐であったフリードマンは
米軍の暗号解析局の長を務めていた

彼は 日本帝国の相当に精度の高い軍事暗号を解読したことで
知られていた

戦後 大佐はこの専門技術を シェイクスピアの暗号研究に
応用してみようと思い立った

この分野の専門家に何人か話を聞き
より詳細で科学的な分析をしようと準備した
この話は 彼の著書“The Shakespeare Ciphers Examined
(シェイクスピアの暗号を検証する)”に載っている

どれほどの成果があったのかって? 一言で言えば 皆無だ

標準的な暗号科学では
シェイクスピア作品の中から一応「見つかった」とされていたメッセージの中のただ1つすら
浮かび上がってこなかった

そうしたメッセージをテキストから抽出する際に適用されたルールと言うのは そう厳密でなく
多分に主観的で 解読した本人以外には再現できないようなものだったのだ

以前の解読者達が意図的にズルをしたと言っているのではない

彼らはまあ 自分の予想する方へ 言うなれば導かれてしまっただけなのだ

妄想の迷宮に迷い込み 混沌の中から秩序を見い出さんとする作業の中で

諸君は「フリードマンの結果は残念だったけれど それを理路整然と発表すれば
解読者気取りの変人達を一度に黙らせられるんじゃないか」なんて思っているだろう

甘いな 書籍にテレビ特番 Webサイト
会合や博士論文が 続々と世に出てきている

忘れてはならないのは「シェイクスピア別人説」は
何も奇人変人のお遊びで出てきた説じゃないということだ

相当数のまともな作家 そしてシェイクスピア研究者が
戯曲の出自に対して真剣に疑義を呈している

ナサニエル・ホーソーン ラルフ・ワルド・エマーソン ウォルト・ホイットマン
ヘンリー・ジェイムズ マーク・トウェイン ジークムント・フロイト オーソン・ウェルズ
そしてジョン・ギールグッドといった そうそうたるメンバーである

存命中の懐疑派としては シェイクスピア・グローブ座のアート
ディレクターであるマーク・ライランス
マイケル・ヨーク デレク・ジャコビ ケネス・ブラナーらが名を連ね また

現代のシェイクスピア俳優として最も尊敬され 理知的な頭脳も持つ
キアヌ・リーブスまでも懐疑的な見方をとっている

現在最も「シェイクスピアだったのでは」と言われているのは エドワード・ド・ヴィアーだ
第17代のオックスフォード伯爵であるが

これは1920年 イングランド人教師の
J・トーマス・ルーニーが唱えた説だ

しかしどうしてバッハや聖書 シェイクスピアの作品が
これほどまでに熱心に研究されるテーマとなるのだろう?

チョーサーやキーツの詩に暗号を探す人は誰もいない

ワーグナーやベートーベンの曲で 秘密のメッセージを合唱に乗せてヒットしたCDもない

その疑問に答える前に 我々は
聖書やシェイクスピアが担っていた
西洋文化の発展における独特の役割を認識しなければならない

ジェームズ1世の後押しを受け
1611年に出版された聖書の翻訳本ほど
現在の英語に影響を与えている
文学作品は1つとしてない

ジェームズ王聖書は 傑作という言葉の意味を体現してみせた

それは英語による散文の 最も気高い不朽の業績
まさに英語における最高峰の功績と呼ばれてきた

詩人に 劇作家に 音楽家に そして政治家や演説者に
何世代にもわたってインスピレーションを与え続けてきた

どんな家にも聖書だけは1冊あり
数え切れないほどの人々が そこに書かれたフレーズを繰り返し読んで学んだ

我々の憲法や法律文も
その律動や修辞表現に大いなる影響を受けている

しかし46人もの編集者が携わったジェームズ王聖書の
その永きに渡る栄光も
エイボンの白鳥(=シェイクスピア)が放ったまばゆいばかりの作品群の前ではかすんでしまう

シェイクスピアの作品から生まれた語彙は15,000語を下らず
これはジェームズ王聖書のそれと比べて3倍
そして彼に最も近いライバルであったジョン・ミルトンの2倍である

彼の詩や戯曲は 辞書や類語辞典を引きながら書かれたものではないのだ
そもそもその当時 辞書の類は存在していなかった すべては彼の頭脳から生み出されたのだ

エリザベス女王時代の英語では表現しきれない着想を得た時
シェイクスピアは 言葉を創った

オックスフォード英語辞典は この詩人が作品の中で創作した
何百もの基礎的な単語やフレーズをリストにしている

Addiction(依存/中毒/熱中)Alligator(アリゲータ/アメリカワニ)
Assasination(暗殺)Bedroom(ベッドルーム/寝室)Critic(批評家/評論家)
Dawn(夜明け/幕開け)Design(デザイン/設計)

Dialogue(対話/会話)Employer(雇用主/雇い主)Film(フィルム/薄膜)
Glow(ふわっとした光/柔らかく輝く)Gloomy(薄暗い/憂鬱な)Gossip(ゴシップ/噂話)
Hint(ヒント/手がかり)Hurry(急ぐ/慌てる)

Investment(投資/出資)Lonely(寂しい/孤独な)Luggage(旅行かばん/手荷物)
Manager(マネージャー/経営者)Switch(スイッチ/切り替える)Torture(拷問/苦悩)

Transcendence(超越)Wormhole(虫食い穴)Zany(道化師/ひょうきん者)

ハムレットだけでもこれら40近くの新語を含んでいるのである

驚きを通り越して呆れすら覚える このような大発明をする人間が 現代社会に存在するだろうか?

彼に匹敵する造語能力を持った英語の書き手と言えば
やはりひとりしか思い浮かばない…フランシス・ベーコン卿だ

近代であれば チャールズ・ドジソンが候補に上がるだろう
「ルイス・キャロル」のペンネームで知られ シェイクスピアの次に
あちこちで引用される英語の名文を生み出した人物である

誰もが ジェームズ王聖書とシェイクスピアの造った型に
多大なる影響を受けている

好むと好まざるとにかかわらず
これらの偉大な作品群は 私達皆が世界を見る時の眼鏡であり

近代英語の思想を紐解く際の一次資料となる文書であり
私達の知性のスタイルガイドなのだ

これら雄弁なる英知という宝石の輝きを見つめていると
ある特殊な感情が湧き上がってくる

人生をひっくり返されてしまうかもしれない
類い稀なる力強い熱情

家族をも顧みず
キャリアも評価も投げうって
持てる物をすべて捧げ 心のままに進んでいく そこに疑問の余地はない

感嘆と恐怖の甘美なる融合 魂まで痺れるような抗いがたき魅力
畏怖 畏敬とも表現されるこの感情は

芸術が目指す究極のゴールだ
ヒトが持てる感情のうち 畏怖ほど生々しく 力強く 変革の可能性を秘めているものはない
他人に畏怖の念を抱かせることは 他のどの感情より困難で

それを達成しているような作品は
人の手によるものの中には ほんのわずかしか存在しない

畏敬の念に襲われたからこそ とあるユダヤ教の律法学者は
一生を費やしモーセ五書からヤハウェ(旧約聖書における神の呼び名)を見つけ出した

ギザのピラミッド グアダルーペ メッカを毎年訪れる
何百万人という人々の原動力となっているのも

哀れなデリア・ベーコンが破滅に追い込まれた原因も すべて畏敬の想いだ

おっと「畏怖されるほど素晴らしいゲームを設計するにはイースターエッグを埋め込めばいいのか」
なんて考えて 続きを聴くのを止めないでくれよ!

平凡なゲームに不自然なイースターエッグを放り込み チートコードを流したところで
プレイヤーにバッテリー月例会員と同じ思いをさせるだけだ

欲しいものを手に入れるために
店の裏手までとぼとぼ歩かせることになる

超能力が欲しいなら ゲームの中でぐらい 自由に使わせてあげればいい

私達の想像力は 小手先のマーケティングに頼らなければ
プレイヤーの興味をゲームに留めておけないほど
貧弱なのか?

畏怖されるほど素晴らしいものは おまけの力などに頼らない

畏怖されるほど素晴らしいものは 豊かで人を喜びに沸かせる

それが肝心なことなのだ

ある日の午後 私はあの古びたレディオシャックの
カウンターにひとり座っていた
上司は諸用で出かけていた

年配の婦人がひとり 正面ドアからやって来た

おそらく限られた収入しかないのであろう
うちに来る客の大半と同じく 彼女は貧相な身なりをしていた

バッテリー月例会員か と私は思った

だが彼女は赤いカードでなく ポータブルラジオをカウンターに置いた

そのラジオは各メーカーがいくつのトランジスタを内部に組み込めるかで
争っていた頃の年代物で

薄汚れた白い医療用テープでぐるぐる巻きにされていた

彼女は私を見て「直せるかしら?」と言った

私はゆっくりと テープを剥がしにかかった
何層にも巻かれたテープを取り除くと ラジオの裏ぶたがぽろっと取れ
そこには赤い埃の塊がくっついていた

本体の内部は 電池から漏れ出した液と腐食でぼろぼろだった

私はラジオを見て 婦人の顔をうかがい
もう一度ラジオを見た

私は後ろに手を伸ばし 処方薬のようにぶらさがっていた
高価なアルカリ電池を手に取った
金箔押しのプラスチックケースから 光り輝く9ボルト電池を取り出す

そして店の箱から真新しいトランジスタラジオを持ってきて
アルカリ電池を入れ 使い方を教えながら彼女お気に入りのラジオ局に合わせた

婦人は1セントも支払わず 一言の挨拶もなく立ち去った

畏敬の念に打たれる とはある意味こういう事かもしれない

バッハはその感情の源泉について非常に明確な意見を持っており

B-A-C-Hとは別に 2つの略語を
彼の音楽と関連付けている

曲の中に隠すのではなく
楽譜の 誰もが見られる場所に
走り書きしたのだ

その語とは SDGおよびJJ

SDGはラテン語の「ただ神にのみ栄光を(Soli Deo Gloria)」を略したもの

JJも同じくラテン語で「主よ御救いを(Jesu Juva)」を縮めたものである

バッハの数々の名曲は
「永遠なる存在の一解釈として(ラテン語:sub specie aeternitatis)」書かれたという

彼はスポンサーを喜ばせたり
大衆の人気を集めたりするためだけでなく
賛美の心を表すために作曲をしていたのである

彼はかつてこう書いている
「音楽の目的とは 主の栄光を表現し
魂に安らぎを与えることに他ならない

そのことを忘れた音楽は真の音楽でなく
うっとうしくわめき立てる騒音と相違ない」

大切なのは あなたの心を動かした気持ちを何と呼ぶかではなく

心が動かされた事実そのものだ

畏敬の念は 宗教の基盤である

人がひとりでできることの限界を突破する 唯一のモチベーションである

それがなければ フーガの技法も生まれなかった

コンピューターゲームの歴史は まだ40年ほどにすぎない

確立された基礎用語もわずかなものだ

まだまだたくさんの概念が 言葉にされるのを待っている

道は誰にでも開かれている

そう遠くない将来 おそらく私達が生きているうちに
新しいゲームデザインが彗星のごとく現れ
私達の文化に影響を与えるだろう

登場すればすぐに分かるはずだ

それは呆れるほど奔放で大胆な創作力をもって作られる

学者らは何十年 いや何世紀もの間 厳しい評価をつきつけるだろう

それでもそれは 素晴らしいものだ

同時に恐ろしくもあり

畏敬の念に満ちたものでもある

数年前 私はロンドンでの集まりに招待され スピーチをすることになった

妻と共に 観光もしようと1日休みをとった

ロンドン観光ではなく イングランドで2番目に旅行客を惹きつける場所
ストラトフォード=アポン=エイボンを訪問するためだ

電車が着いた時 外は寒く 雨も降っていた

だが幸運なことに 目当ての場所の大半は 駅から少し歩くだけの所にあった

私達は 毎年何百万もの旅人を惹きつけるメインストリートに沿って
シェイクスピアの生誕地や お洒落な古い家屋を訪ね歩いた

ただし シェイクスピアが本当にそこで生まれたことを示す証拠は何もない
それどころか この辺りに住んだことがあるかどうかも定かではない

シェイクスピアが読み書きを習った学校の側も通った
これもまた そこに彼が通っていたことを証明する資料は何もないが

シェイクスピアの妻であったアン・ハサウェイの別荘も訪れた
彼女はこの素朴な農園で 少女時代を過ごしたという
そういう名の住人がいたことを示す記録は何もないのだが

最後に私達は こればかりは疑いようのない シェイクスピア関連の場所に向かった
エイボン川のほとりにあるトリニティ・パリッシュ教会
ここに 彼が埋葬されている

教会までたどり着くには長い小道を歩く必要があったが
道の両脇には 古びて草木に覆われた墓石が並んでいた

玄関のドアは驚くほど小さい
カメラの持ち込みは禁止されている

中は暗く 静かだ
他にバス旅行の団体客がいるにもかかわらず
そこには静寂と気品が満ちていた

何人かが礼拝堂のベンチに腰掛け 深い祈りを捧げていた

側廊を上ると教会の中心に行ける

祭壇の左側が明るく照らされ
壁の上の方には 羽ペンを持った件の詩人の胸像が掲げられ
穏やかに旅人の群れを見つめている

真下の床には 花束に囲まれた墓石がある
デリア・ベーコンから正気を奪った ウィリアム・シェイクスピアの墓石だ
そこには重要な注意書きが書かれている

「親愛なる皆様
決して周囲の地面を掘らないでください
永遠の眠りを静かに見守ってくださる方に祝福を
私の骨に手を掛けるような輩には呪いを」

毎年 300万人ほどの旅人が世界中からやって来て
畏れ多い としか言いようのない一連の作品群を遺した男の
墓に近づき 肖像をじっと見つめる

反対に 祭壇の右側は暗くて 見るべきものも何もないようだ

誰か重要な人物が葬られているわけでもない

興味を引くとすればただ1点 濃色のオーク材を彫刻して作った
木製のシンプルなケースだろうか

ケースの中には分厚いガラスが張られ その下に
大きく開いた本が収められている

ケースに置かれたプレートを読めば分かるのだが
これはジェームズ王聖書の第1版である
出版されたのは1611年 シェイクスピアが46歳の頃だ

祭壇の右側までやって来る旅行客は少ない

来ても大半の人々は 聖書をちらっと見て
プレートの説明を読み さっさと次に行ってしまう

観察力のある少数だけが 次の事実に気づくのだ
開かれている聖書のページは 旧約聖書の詩編第46篇

どうしてここが開かれているのか 説明書きは言及していない

もっとも イースターエッグハンター達に説明は不要だろう

もしあなたが好奇心旺盛なタイプだったり 真っ当な英文学や歴史に興味を抱いていたり
あるいは心の平安を重んじる人ならば 悪いことは言わない
ここで読むのをやめた方がいい

1900年 ある学者がジェームズ王聖書翻訳本の詩編46篇を読み
「それ」に気づいてしまった

同時に恐ろしくもあり 同時に素晴らしいことでもある…

詩編46篇の最初から46番目の単語は“shake(シェイク)”で

最後から46番目の単語は“spear(スピア)”だったのだ

考えられる可能性は2つ

全世界の文学史上最もナイスな
単なる偶然

もしくは 必然か

地球が公転するのは太陽の周りだけで 月も1つしかない

月は太陽の400分の1ほどの大きさしかないが

太陽と地球の距離は たまたま 月より400倍ほど遠い

そして地球から眺める空において 太陽と月の軌道は見かけ上
月に2回交差する

長いが完全に予測可能なインターバルで
月の影が時折 太陽の面をすべっていくのだ

ぎりぎりのところで数分だけ 太陽を覆い隠しながら
素晴らしく 同時に恐ろしくもある数分間

ナイスな偶然ではないか なあ?

1977年6月 発想力と茶目っ気あふれるひとりの職人が
イギリスのアンプトヒル村にある丘を登って行った

丘の上には細長い十字架がある
ヘンリー8世の最初の妃 キャサリン・オブ・アラゴンを記念するものだ

太陽は南の空高く昇り
草むした丘の中腹に十字架の陰を投げかけている

正午 彼はポケットから棒磁石を取り出し
N極が南を向くようにして
十字架の陰の下にそれを埋めた

2年後 自分の制作した初めての本が出版される数時間前
真夜中に彼はあの丘に戻った

方位磁針を使い 埋めておいた磁石の場所を見つけ出す

同じ場所を掘って地面に穴を空け 陶器の容れ物をその中に据える
容器にはこのような言葉が刻まれている…

「永く待ったが よくぞ見つけてくれた
『仮面舞踏会』宝石の番人より」

Presented 23 March 2002
Game Developers Conference
San Jose, California

Music of Johann Sebastian Bach
Die Kunst der Fuge, BWV 1080 (1751)

Narration recorded by Bruce Mattson
Instrument modeling by Modartt

Copyright © 2002, 2016 Brian Moriarty
All rights reserved

映像5(内部コード:rupert)

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自分が開かれ 空(くう)であり 光に満ちた「気づきの意識」であることを知りなさい

「開かれている」というのは
心と身体 そして世界のすべての現象を
無条件に えり好みせずに受け入れるということです

あなたの心は まっさらな空間のように
どんな現象も拒まないようにできています

わざわざ努力しなくとも
これは すでにあなたの中にある状態です

「空(くう)である」というのは もちろん私達は覚醒した意識を持ち
考えたり感じたり 何かを知覚したりしますが
「空(くう)」は思考や感覚 知覚の結果として存在するのではなく

認識や気づきが存在する という事実のみに立脚します

そして「気づきの光」とは まさに太陽のようなイメージです 分かりやすく言えば
すべての物を照らし 見えるようにする光です

だからあなたや私 この開かれて空(くう)である存在は
すべての体験を認識することができるのです

実際には 私達は太陽によって照らされたもの自体を
見ているわけではありません
太陽の反射光や変調光が幾重にも折り重なった
様々な色を 物として認識しているのです

同じように 私達は心と身体 世界といったものを
ありのまま見ているわけではなく
認識を通して捉えたイメージを見ているのです

私達が知っていることのすべては 認識を通して経験したものであり
あなたはその認識そのものです

私達が知りうる事柄は「認識する意識」が見せる様々な相なのです
意識が自ら姿を変え 思考 感覚 知覚などになり
心や身体 世界であるかのように感じられます

けれども実際には私達は 心や身体 世界と考えられているものを
本当の意味では知りません
ただ 自分の認識によって作られる世界を知っているだけです

この認識は 私達の体験の実体ともいえます
唯一の実体と言っても良い これこそが「真の自己」なのです
私達が知り得るのは この真の自己のみです
認識し得る以上のことは知りようがありません

自分が開かれ 空であり 光に満ちた「気づきの意識」であることを知る

それは 特別なことではありません
「気づきの意識」となるために
心を操作する必要もありません
何もしなくてよいのです

「真の自己」であるこの「気づきの意識」は
普段から「私」と呼ばれるもので いつもここにあります

自分の体験と照らし合わせてみてください

私が今夜 皆さんにお話ししていることは
すべて今ここで 皆様が直接体験された事柄に
照らし合わせることができるはずです

今回の講演は 特別な知識を与えるものではありません
私には これを広めてやろうというような
知識の蓄えなどはありませんから

私はただ 言葉の限界を感じながらも 現在の体験を
述べようとしているだけです

あなたは「今」以外のことを認識できますか?

「今ではないもの」を体験しようとしてみてください
まずは「過去」から始めましょう

過去を追憶することは簡単です
でも その思いの対象である
実際の過去を体験することはできるでしょうか

過去を体験しようとしてみてください

過去に戻ることはできますか?
一瞬のうちに過去に戻ったり
未来に行ったりすることは可能でしょうか?

過去にも未来にも 思いをはせる事はできますね
でも あなた自身は?

本当に行こうとしてみてください
これはただの哲学的な小話ではありません

過去や未来は体験できないという事実を
しっかりと噛みしめてください

過去や未来を実体験することは不可能で
できるのは それらについて思考することのみ
そしてそれを思考しているのは 常に「今」

過去や未来が体験できないという事実は
「時間」について ある知見をもたらします

実存しない過去と実存しない未来との間を
移動するのが時間である

これは理論です 必然的かつ有効な理論ではありますが
私達の実際の体験については説明されていません

誰も時間を体験することはできません
「誰も」というのは 認識を行う唯一の意識
つまりあなた自身を指します

私は先週 ロンドンからワシントンD.C.へ
飛行機で移動し 今日ここへ来たのですが

迎えに来てくれた友人は私に尋ねました
「フライトはどうだった? 何時間かかった?」

その時 私は自分の思考が 古びたモーターを回す時のように
軋みながら動き出すのを感じました

いったい自分は何時間飛行機に乗っていたのだろう…
思考の歯車が回り始めようとしていました

私の体験の中では どの瞬間も「今」だったからです

私はロンドンを去ったのではなく
ロンドンが私から去ったのです

私は飛行機に乗ったのではなく
私の感覚と知覚により「飛行機に乗っている身体」という
概念が作られ 流れ込んできたのです
私の中に

私はワシントンD.C.に着いたのではなく
ワシントンD.C.が私のほうにやって来たのです

あるいは少なくとも
私の思考が「ワシントンD.C.」と総称する認知の集合体が
私の方にやって来たのです

同じように
あなたが この部屋に入ってきたのではありません
あなたが 椅子に座ったのではありません
あなたが 私の話を聞いているのではないのです

様々に色づいた感覚や知覚が意識の中に現れます
でも意識自身は どこかへ行ったり 何かしたりはしません

意識はいつも「今ここ」にあるのです

実在の場所や 具体的な時刻の事ではありません
「今ここ」にある私達の意識には 次元も時間もないのです

気づいているかはともかく これこそが私達に起こっていることなのです

これを聞いてあなたの心は やや抵抗を覚えているかもしれません
「確かにそうかもしれない でも私の体験には紛れもなく
連続性があるではないか

この紛れもない連続性こそが 時間が存在することの証明なのでは?」と

この連続性の感覚はどこからくるのでしょうか

私達が自分の心について分かるのは 今現在の思考やイメージのみです
それらの思考やイメージは断続的なものです

身体は感覚を通して認知されます
感覚も断続的なものです

世界について私達が知り得るのは
視覚 聴覚 味覚 触覚 嗅覚により知覚したもののみです

事実 私達が普段「世界」だと思っているものを
ありのまま体験した人はいません

知覚を通じて知ることができるだけなのです
そして 知覚もまた 断続的なものです

私達が心や身体と呼ぶものに連続性がないなら
連続性を感じるものの正体はいったい何なのでしょうか?

「もの」と呼べるなら それはただひとつの「もの」による作用です
それには確かに連続性があり いえ 正しくは連続しているのではなく
私達の体験に常に付きまとう「今」です
つまり「気づきの意識」である私達自身なのです

「気づきの意識」は 常にそこにあると分かっている
ただひとつのものです

心はこの意識については何も知りません
心に分かるのは明白な物事だけだからです

だから あなたの心が体験にフォーカスして
なぜ連続性を感じるのか探ろうとしても

本当の答えは見えません
それで心は「時間」という実体を持ち出して
体験の連続性を語ろうとするのです

時間の連続性とは 言うなれば 心という狭い枠組みの中から
永遠を見ているようなものです

心という狭い枠組みから見ると
意識の 次元に縛られない「無限」という本質も
永遠を見ているようなものです

連続性も永続性も「真の自己」である意識の
永遠かつ無限という本質を
何とか 心のレベルで説明できるように
したものにすぎません

「真の自己」について 実際の体験から他に何が分かるでしょうか?
今この場で 自分自身について確実に言えることは何でしょう?

思考が生み出した自己像ではなく
今この瞬間 実際に分かっている
ひとえに体験から導かれる真の自己とは何でしょう?

開かれ 空であり 気づきの意識であるあなた自身に 何か働きかけることはできるか
考えてみてください

思考 感覚 そして身体に働きかけることはできます
世界に働きかけることもできます ですがあなた自身はどうでしょう?
存在している心と身体 世界を認識するあなた自身

つまりこの 開かれ 空である存在は 何かによって動かされるでしょうか?

想像してみましょう たった今 あなたは…

これはもちろんイメージにすぎませんが…
あなたは この部屋の空いている場所のように 開かれたまっさらな空間です

この部屋にあるどんなものも 空間を動かすことは
できません

今 皆さんは静かに座っていますが もし皆さんが立ち上がったり
ダンスや喧嘩を始めたりしたら
この部屋の空間はそれによって動揺するでしょうか?

そういうことなのです
私達 つまり「気づきの意識」は 邪魔することも動揺させることもできないものなのです

努力して冷静沈着になれ と言っているのではありません
真の自己は元々ゆるぎなく
心の状態によって左右されるものではないのです

今この時も あなたの意識は 何者にも動かされません
その意味で 私達の真の自己は「平穏」と同義です

平穏は 真の自己が持つ性質ではなく
真の自己そのものです

これは心の平安とは違います 心は多かれ少なかれ 動揺するものです

心とは別の この「理解を超えた平穏」を得ようと

探し求める必要はありません
体験の後ろに隠れているものではないからです

表面的にはどんなに動揺しうる体験であっても
それを見て聞き 理解する意識それ自体は
どのような状況下でも光り輝く平穏そのものなのです

考えてみましょう
「気づきの意識」であるあなたに 何か欠けているものがありますか?
思考や感情に基づけば 何かが足りないと言えるかもしれません
でも あなた自身はどうでしょう?

思考や感情を振りほどいた時 あなたの中に
今の状態を排除し 今ではない何かと取り換えたくなる
そんな気持ちはわずかでも起こるでしょうか?

あなた つまり「気づきの意識」には 今を排除したい衝動や
排除できる可能性などまったくないことが確認できるでしょう

今に対する抵抗がまったくない
この状態を何と呼ぶでしょう?

ここにあるものをすべて受け入れ ここにないものを求めない
そのような状態を 普通何と呼ぶでしょう?

そう「幸福」です

幸せな時 私達は「今」に抵抗したり
過去や未来に逃避したいと思ったりはしません

ここでいう「幸福」は もちろん
心や身体が心地よい状態を指すのではありません

そうではなく 真の自己がここにあるものに抵抗したり
ここにないものを探し求めたりする必要がまったくない状態を言うのです

ですから「幸福」も「平穏」も 真の自己と同義なのです

幸福も 自己が持つ性質ではなく 真の自己そのものなのです

真の自己について 今体験していることから
他に何か掴みとれるでしょうか?

一昨日 サンフランシスコ国際空港から
車でここに来る途中のことでした

私は助手席のサイドミラーに何気なく目をやり
鏡の下の方にこんな言葉が書かれているのに

気づきました
「鏡の中のものはあなたが思っているより近くにある」

これは 非二元の本質を突いた言葉です

意識の鏡に映しだされたものは
自分で思っているより近くにあるのです

鏡に映ったものは 鏡のどれだけ近くにあるのでしょう?

そこには「鏡に映ったもの」と
「鏡」の 2つのものが
あるのでしょうか?

それとも あるのは鏡だけ?

現存する心について私達が何か分かるのは
すべて 思考の働きによるものです
そして思考は 真の自己 あなた自身の気づき
すなわち意識から生じたものです

現存する身体について私達が何か分かるのは
すべて 感覚の働きによるものです
そして感覚は 真の自己 あなたの気づきから生じたものです

現存する世界について私達が何か分かるのは
視覚 聴覚 触覚 味覚 嗅覚といった知覚の働きによるものです
これらはすべて 真の自己 あなたの気づきから
生じたものです

つまり 私達は
心や身体 世界を本当には分かっていないのです
これらの呼び名も 深い体験に重ね合わせて思考が形成した
抽象的な概念にすぎません

唯一実際の視点である
体験そのものの観点に立つと
体験とはもっと親密で距離が近いものです

あまりにも近いので 自分自身の意識と
意識する対象という
2つのものは区別できなくなります

これでもまだ抽象的かもしれませんが
思考や感覚 知覚というものが意識の中にあり

意識自体は何も発生させないという考えを
半分でも理解できれば 今後の足掛かりになります

すべての経験の唯一の実体 思考や感覚 知覚の唯一の実体は
意識として すでにここにあるのです

知っている主体と知られる客体

その2つが分離されていない状態とはどんなものでしょうか

ここで「聞く」という体験について考えてみましょう
例えば 空調の音を聞いてみます

「音」や「空調」という概念は忘れてください
現存する空調設備に対して 今私達にできるのは
音を聞くという体験だけです

聞くという体験は近くで起こっていますか?
5m先? それとも 10m?

思考が語る音についての知識ではなく
自分の体験だけを頼りにします
聞くことはどこで起こっていますか?

近いでしょうか? どこか奥の方?

聞くという体験において
聞く側と聞かれる側の
2つの要素を
区別できますか?

自己自身という実体の奥深くで完全にひとつになってはいないでしょうか?

この部屋についてはどうでしょうか?
思考に基づけば 私という主体が
部屋という外の世界を眺めているのだと思うでしょう

でも 体験は何を語るでしょう?
現存する部屋に対して私達ができるのは 見るという体験だけです

見ることをやめれば部屋は消滅します
これは 私達が部屋を知らないのと同じです
分かっていたのは 見るという体験だけだったのです

見ることはあなた自身から 5 10あるいは15m先で起こっていますか?
それともそれは あなたと一体ですか?

見る体験において 見る側と見られる側の
2つの要素を区別することはできますか?

それともそれは つなぎ目のない一体化した実体でしょうか?

すべての体験において絶対的な一体感を持つことを 私達は
何と呼び習わしているでしょう? それは「愛」と呼ばれます

愛は 私達の知る中で最も身近な体験です
ここにある自己の感覚と あちらにある対象物や世界との境目が
崩壊し溶解する状態が愛です

分離や距離 他者性「私には関係ない」という感覚の崩壊
それが愛なのです

愛は非二元と同義です

非二元と呼ぶと これに関心を寄せる人は
世界中でも数千人しかいないでしょう

でもこれに愛や平穏 幸福という名を与えると
世界70億の人々の関心を呼びます

では 愛や平穏 幸福がすべての体験の自然な状態であり
すべての体験の根幹であるなら 私達がそのように
思えないのはなぜなのでしょうか?

それは意識のうちに生まれ 意識のゆえに生み出される
ひとつの思考に由来します

意識にも 思考や感情 感覚のような
限界があるという考えです

鏡に映し出せるものの限界が 鏡の限界であると
考えるようなものです

ただその思考の故に
私達自身であり いつもここにある無限の意識にも
身体と心のような明らかな限界があるように
勘違いしてしまうのです

映画のスクリーンに映る映像が あたかもスクリーン自体の限界を
決めるように思えるのと同じです

このように 自分自身を小さく弱いものと思い込むことで
本来無限であり永遠である意識は 身体や心に取り込まれ
愛や平穏 幸福といった性質は一見覆い隠されてしまいます

この思い込みは 自分自身にそうした性質がないと思わせ
当然の帰結として 想像の産物にすぎない

「失われた愛 平穏 幸福」を求めて
想像上のものにすぎない「外の世界」を
さ迷わせる原因ともなるのです

しかし当然ながら 思い込みで一線を引いて分離させた自己が
探し求めている愛を外側の世界に見つけることはできません
なぜならその時 愛は覆い隠されているからです

分離した自己は飽くなき愛の探求を続けます けれど
正確に言えば 探求しているのではなく
今の状態を拒み 今の状態でない何かを求めているのです

この探求の目的は愛であるにもかかわらず
愛はこの探求が終わり 外の世界と内側の自分を隔てる線が
崩壊することなしには見つからないのです

言うなれば 愛を探し求める分離した自己は
炎に焦がれる蛾のようなものです

蛾は炎を欲し それに近づきたいと思う
でも 炎は蛾が触れることのできない唯一のものです

なぜなら 炎に触れると死んでしまうからです
それでも蛾は 触れることでしか炎を知ることができない

触れた途端 蛾は炎になります
分離した自己も 愛を見つけると その中で崩壊し
消滅します

愛を体験することは 分離した自己が崩壊し
消滅することなのです

ですから気をつけましょう
ただ開かれ 空であり 光に満ちた「気づきの意識」でいましょう
そこには本質的に愛と平穏 幸福があるのです

愛と平穏 幸福は
体験の後ろに隠れているものでも
求めて得られるものでもなく

すべての体験の中心で 全貌を明らかにして光り輝いているものなのです
そう 平穏とか幸福と呼ばれる実体こそ
体験の本質なのです

映像6(内部コード:gangaji)

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お伝えしたいことは
実に単純明快です

かつて私が師に言われたことでもあり
未だに心の奥深く 鳴り響いてやまない言葉でもあります

「欲しい物を探すのをやめなさい」…これだけなのです

諦めて自分の気持ちに嘘をつき
欲しい物を探すことをやめて心を閉ざしてしまう人もいますが
そのようなことを推奨しているのではありません

後腐れなく堂々と手を引くのです
明日それが手に入ってからでなく 今この瞬間に

欲しい物が何であれ どれほど平凡または非凡であれ

この瞬間 一瞬のうちに
その執着心を捨ててください

そうすることで 望み以上のものが手に入るのです
なぜなら あなたという人間以上に 重要な探しものなどないからです

単純すぎて掴みどころのない話に思えますか?
けれどこれは絶対に また完全に 実現可能なことです

大胆な仮定ですが もし自分の欲しい物が
「もうちょっと考えれば」「あれをすれば」「明日には」

「次に彼氏/彼女ができたら」
「もう少し学べば」「これを経験したら」

手に入るのでは…と すがりつく心を
すすんで手放すことができたら…
難しい事ではありますが 成功すれば人生に大きく影響します

私は皆さんをこのような方向に導くため オーストラリアに遣わされる
という幸運を得ました 具体的な目標を示すわけではありません

本当に単純なことなので すぐに頭から抜け落ちてしまうでしょう
折にふれて思い返してください

もしそれをいろいろな形で何度も繰り返せば
いずれ意識しなくとも…

真理が浮かび上がってきます
単に新しい学びとしてではなく 人生を塗り替えるようなものとして
「新」ではなく「刷新」

あなたという人間は年を重ねても
常に生まれ変わっています

自分で考える「自分」というものは 古く すでに死んでいます
それなのに私達は考える 少しでもよく考えようとして
生を浪費しています

お分かりいただければ

良いのですが
というのも これこそが私の助言の基礎だからです

教え ではありません
信念体系でもありません

人生の送り方をガイドするわけでもなく
具体的な禁止事項を挙げるつもりもありません

「これをやめれば富と名声を得て
世界中から愛され もう二度と
悲しむことはない」とも言っていません

決して そういうものではないのです

仮にあなたがこのことを信じず 身に付けようとせず
それどころか何ひとつ学ぶことはないと感じたとします
あなたは自ら調べたくなるでしょう

人間の心が元来持つ好奇心による
純粋な探求心を発揮して

自分を納得させるためだけに問いかけます
「探し求めるのをやめたとき

何がどれだけ残るのか?」
「この試みはどのように始まり どこで終わるのか?」

そして「私はそれを信じたいのか?」と
非常に骨の折れる過程となるでしょう

その話は一旦置いておいて


ここまでの話について何か質問や
もう一度説明してほしいところはありませんか?

あなたはすでに完全な自分になっています
ただそれは 自分の望み通りの形ではないかもしれない

この「望み通りの自分ではない」という
思いがあるため あなたは自分がすでに完全であることに
気づかないのです

ですから今夜 実験してみてください
「あれが欲しい」「幸せになるためにはこれがないと」
といったあらゆる思い込みを

ただ 手放すのです!
相手はただのイメージ 思考の産物です

スピリチュアルな考えだったり 世俗的な考えだったりするでしょう
あるいは人間関係 仕事… ただ忘れるのです

その瞬間 想像も思考も及ばなかったものが そこに現れます

どうですか?
悪くなさそう? それは良かった
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