作曲家です


 
| + | "S"だ "S"が正体を現すぞ | 
バキッバキッ
   ミーチャ・ラヴキス・エロニウス❤❤☭☭☭☠☠☭☭☭❤❤ 
 
 
 
 
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| + | ハイパー・作品目録 | 
ハイパー・作品目録
   全ては愛すべきマネモブのために… 
 
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おめでとう!お前は立派な"新6.5タフ再生"になった…
なぜ…?
| + | アーノルド・シュワルツェネッガーがお好き?結構、ではますます好きになりますよ | 
さあさどうぞ 交響曲第7番です
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| + | ペテルブルク出身ショスタコーヴィチ、ただのアニメには興味ありません | 
この中に私の曲を劇伴に使っているアニメがあったら紹介しなさい 以上
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| + | 三木くん君がショスタコーヴィチに固執するのは"羨望"からなの?それとも"嫌悪"? | 
"愛憎"です
 加門さんあなたなら解ってるはずだ 
 
ショスタコーヴィチの音楽を聴くのは自傷行為に通じるもんがある
 わざとらしい喧噪や生きているのも嫌になる絶望を受け入れて情緒をズタズタにし、確かめるように満足げに眺めるのだ──"私には心があった"と 時折一部の曲を指して"メタル"と形容されることがあるが、単にエレキが似合うみたいな音楽的特徴だけでなく、激しいパトスと引き換えに寿命を削るような様はまさにメタルと呼ぶに相応しい 
彼の音楽の全体を支配する息苦しさや閉塞感はS連邦が"閉じた国"なのが大きいだろう
 芸術はいつも"必要"から生まれるもの…史上初の社会主義革命を果たしたS連邦は自国のイデオロギーがどれほど優れているか国内外ともに喧伝する必要があった S連邦の支配者たちは耳から入ってくる"音"が人の身に及ぼす作用を理解していた それはモーツァルトの"トルコ行進曲"がなぜトルコ行進を想起させるのか考えればすぐ分かるだろう 過去の諸外国がそうしたように、S連邦の芸術家は社会主義の理想に合致する作品を創る限りにおいて生存を許されたのだ 
これはただ作曲家たちが嫌々国のプロパガンダに乗っかったという話ではない
 思考は言語に左右されるという話がある…日本に住み日本語を話していると日本語というフィルターを通してしか外界を把握することはできない 人は自分を取り巻く環境と生き様が固く結びついているものだ それは作曲家とて例外ではない 矛盾と欺瞞だらけの思想の上に成り立つ国家体制の下で生きてたらそら作風も歪むわのォ 
 
ショスタコーヴィチを代表する作品として15の交響曲が挙げられる
 なぜなのか…それを理解するには彼の手掛けたジャンルを俯瞰する必要がある ハッキリ言ってショスタコーヴィチの作風はメチャクチャ広い しかも楽器編成や曲調のみならず思想の強さまでバラバラなんだから話になるーよ 思想丸出しバカ映画の劇伴をいくつも担当しているかと思えば、室内楽曲やピアノ曲といった分野では驚くほど深い機微を見せてくれることがある なぜなら思想の強さとはすなわち"公"の強さ…"私(ショスタコーヴィチ)"を出さなくていい劇伴ではいくらでもバカになった曲を書けるし、逆に塞ぎ込んで自我を抉りだすような曲は"音楽のための音楽"でしか表現し得ない 彼はその両方を楽しんでいたフシがある 確かにこれほどのメンタリティがなければS連邦で生きるのもままならないだろう 
それで交響曲がなぜ代表かというと"公"と"私"が最もよいバランスで融合しているからだ
 規模的に大人数の演奏者と聴衆が揃うし音量も出やすい交響曲は作曲家にとっても政府にとってもメインとすべきジャンルだった 作曲家は当然"私"を込めたくて苦心するがあまり癖が強いと一部のマニアしか寄り付かない なので"公"の心も汲み取ろうとする すると不思議なことにそのどちらの要素も強まるような気がする 相反する2つのものが高め合っていく…弁証法を提唱したヘーゲルも喜ぶだろう こういう葛藤との闘いが音組織に見出されるのでそれに私たちは日頃の苦悶を勝手に重ね合わせて感動しているというわけだ 
さらに大事なことはその葛藤との闘いが勝利や解放にのみ終わるわけではないということ
 人は物事が全てはそう上手くいかないことを知っている…ショスタコーヴィチもそうだった 彼の曲は良い意味で"空虚"なのだ S連邦やその国民たちがそうであったように あえて引き合いに出すがベートーヴェンの第九──間違いなくこの世で最も喜びに満ちている歌は、その歌声に包まれてなお傷を深くする捻くれ者の性根だけは肯定してくれない ショスタコーヴィチは欺瞞を隠さない 一見英雄的な曲が二枚舌に聞こえるのはそのせいだ 捻くれ者は得てしてショスタコーヴィチの仕込んだ毒にかかり、"毒を以て毒を制す"とばかりに傷口をさらに広げるような真似をやりだすだろう 
 
 
ショスタコーヴィチの特徴のひとつに"引用"というものがある
 単なる省エネか使い回しの場合もあるが、自分や他人の曲をモチーフとして使用することで含みを持たせることができるという 過去のあらゆる音楽を貪欲に取り入れるのは近代に生まれたからこそ為せる業である 
この引用のせいで時々分からなくなる…ショスタコーヴィチの"芯"は一体どこにあるのか?
 民謡や革命歌ひとつ取ってみたって"あっこの旋律を書いたのは私じゃないから…"と卑怯なことに予防線を張っているのだ まるで猿渡哲也先生の言葉を借りてパーソナリティを隠しているマネモブのようだ 全体主義的でお客さんには排他的なのも似ている とにかくショスタコーヴィチは何重にも仮面を被っているせいで素顔を探るのが難しい危険な男なんだ もっとも仮面を全部剝がそうものなら雲散霧消してしまう玉葱みたいな人なのかもしれないが 
 
仮面を被っているのは引用をしているときに限らない
 バレエや映画のように舞台背景のある作品に顕著だと思われるが、彼の作品には人形をカタカタと操るかの如き趣がある S連邦に限らずR国の音楽にはどうやらそういう特徴があるようだ チャイコフスキーの"くるみ割り人形"なんかはまさに人形の曲だしな 戦争でもチェスの駒を動かすように兵隊を戦地へ向かわせるじゃないか 音楽の響きは楽しくてもこれほど恐ろしいものはない 常に誰かの支配下にあるというお国柄が無機的でどこかドライな音楽として現れるのはおもしれぇな 
ところでそういう規則的な音楽はバッハに通じているという指摘もある
 アレッサンドロ・スカルラッティは"音楽とは数学より生まれた娘である"とよく口にしていたらしいが、バッハには確かに近代の製造設備が轟々と作動するのと似た"計算尽くめの美"があるのだ 通じないかもしれないが…幾何学図形の美しさが分かる人ならば彼らの持つ魅力も分かるはずだ 人工的で冷たいと思ってしまいそうな音の並びの中にふと自然美と人の心が感じられる瞬間は彼らの音楽のなかでも最上のものだからな 
 
"死の中に生が存在し 虚偽の中に真実が存在し 闇の中にこそ光が存在する"なんて言ったのはマハトマ・ガンジーだっけ
 弱いから強いんだ 絶対に抗えない運命があると知っているから徹底的にそれに向き合う 逆説的に人間の強さを描き出そうとする "平穏無事こそが何よりの幸せ"と考えているうちはわからないだろうがな 
ラジオで流せる曲は時間の都合上限られる しかしこれだけは覚えていてほしい
 ショスタコーヴィチの曲は"美しい"ということを ときには威圧的で猛々しく、抑圧的で寒々しく、露悪的で醜く、それゆえに"美しい"ということを 
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◇日本で最もショスタコーヴィチに詳しいサイト(Dmitri Dmitriyevich Shostakovich, 工藤庸介)
も大いに活用しろ…鬼龍のように
                                
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