東北大学SF研究会 読書部会
『火星のタイム・スリップ』 フィリップ・K・ディック

著者紹介

1928年アメリカ合衆国シカゴ生まれ。
 代表作は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、『流れよわが涙、と警官は言った』、『高い城の男』など。
 二卵性双生児として生まれたが、双子の妹ジェーン・シャーロットは生後40日後に死亡した。このことが、ディックの作品、人間関係、人生観に大きな影響を与えた。その後、一家はサンフランシスコに移るが、父親の単身赴任を理由に両親は離婚。離婚後は母親と各地を転々とし、バークレーの高校に進学。同級生にはアーシュラ・K・ル=グィンがいたが、互いを知らなかったという。(世の中とんでもない偶然があるものだ)
 高校卒業後はカリフォルニア大学バークレー校に進学、ドイツ語を専攻していたが予備役将校訓練課程(当時大学生は参加が義務付けられていた)を嫌がり中退。レコード店で働きながら純文学を書くが全く売れず、生活のために書いていたSF方面で才能を見出され、作家デビューした。
 ディックの作品の主題は「現実の脆さ」「アイデンティティの危機」であり、平凡な日常が虚構であることに気付き、現実が崩壊していくとともに、自分が何者であるかわからなくなっていくという悪夢的な感覚(ディック感覚)が特徴である。また、ディックは創作をドラッグ、特にアンフェタミンに頼っており、この『火星のタイム・スリップ』も例外ではない。自身が薬物を常用していることから、薬物濫用や精神疾患について扱う作品も多く、ディックの作品の重要な要素を成している。


主要登場人物

 ジャック・ボーレン
 火星で一番の腕をもつ修理工で、妻と息子の三人暮らしをしている。当初は会社勤めであったが、アーニーにその腕を買われ水利労組お抱えの技術者に転職。地球にいた時精神分裂症にかかり、逃げ出すように火星にやってきた。分裂症の再発におびえながら暮らしている。

 アーニー・コット
 水利労働者組合第四惑星支部長で、ルネサンス初期の僭主に身内贔屓の要素を足した、わがままな男。マンフレッドの、未来予知能力・事実改変能力に目を付け、土地投機で一攫千金を狙った。

 マンフレッド・スタイナー
 密貿易人ノ―バート・スタイナーの長男で、自閉症であるために一般社会から隔離されたベン・ガリオン・キャンプに預けられていた。ノ―バートの死後、アーニーに「雇われ」、アーニーの計画に参加することとなった。


作中用語解説

 自閉症
 マンフレッドが生まれつき抱える精神病。この作品では、自閉症は「自分の体感時間が非常に遅いことで、外部の時間の進みを非常に早く感じてしまう」精神疾患であるとされている。これによって、自閉症患者は外部の遥か未来を常に目にしながら暮らしているのである。また自分に関わるものの遥か未来、すなわち自分が死んだ姿や、いま目にしているものがすべて老朽化して崩れ落ちた姿などを常に見てしまっているため、未来に希望が持てず、自分の殻に閉じこもってしまう。

 分裂症(妄想症様緊張病興奮)
 ジャックの抱える精神病。ジャックは地球で当時働いていた企業の人事部長に呼び出された際、症状を自覚した。ジャックは機械でないものが全て機械であるかのように錯覚してしまうという症状である。ジャック本人曰く、完治したとのことであるが、周りの人物のいうところでは完治しないものとされている。

 ブリークマン
 火星の原住民で、人類が初めて火星に進出した際は初めての地球外知的生命体ということで大変もてはやされた。かつては火星中に運河を掘りめぐらすことが出来るような文明をもっていた。今となってはわずかな手道具を持ち、家族単位で水場を求めて火星の砂漠を歩き回るだけとなっており、人間より劣った種族として一部の人間からは「クロ」と呼ばれ軽蔑されているようである。しかし人類はまだ火星に完全に適用しているわけではなく、坑道の奥深くのような人類の立ち入れない環境で肉体労働に従事することもある。また、人類と共通の祖先をもつのではないかという説もあるらしい。


医学用語解説

 自閉症
 実世界における自閉症は、1943年にアメリカで最初の症例が報告された。医学的には「自閉症」という診断名は存在せず、「広汎性発達障害」の中に「自閉性障害」という診断名がある。イギリスのウィング(医師、自閉症研究者、自閉症児の母)の示した代表的な特徴は以下のとおりである。
 第一に、社会性の障害であること。いわゆる「空気」が読めなかったり、「常識」が分からなかったりすることが多く、人に合わせて行動したり、集団で行動したりすることが苦手である。また、基本的に他人に対して興味関心をもたない傾向にあり、他人と視線を合わせることを嫌う。
 第二に、コミュニケーションの障害である。話し言葉の発達が遅く、幼少時は「オウム返し」がみられることがある。言葉を字義通り解釈するため、比喩や冗談が分からないことが多い。
 第三に、見えないものを推測する力である想像力の障害である。目の前にないものを想像することが苦手で、先の見通しが立てられず、見通しがつかない状況での不安が強い傾向にある。また、一つの物事に対する執着が強く、ある特定の方面に特異な才能を見せることもある。[1]

 精神分裂症(統合失調症)
 精神分裂症は古い言い方で、日本では2002年から統合失調症と診断名が変わった。症状は複雑で、人によって出現する症状が異なる。一般的には、感情や思考が上手くまとまらなくなったり、外部とのかかわりなどの障害が現れたりする。
 具体的な症状としては、集中力がなくなったり、妄想や幻覚にさいなまれたりするほか、感情が平坦になったり、何かをする気力がなくなったりすることがある。[2]
 作中で分裂症と自閉症が似たものとして言及されているが、現代においても自閉症・統合失調の識別は難しく、ディックがこの作品を書いた1964年当時は今よりも研究が進んでいないために、混同されていた可能性がある。


あらすじ

 水不足の火星植民地で絶大な権力をもつアーニー・コットは、ある日、広大な不毛の山岳地帯一帯を何者かが超高額で買い上げる計画を耳にした。この情報をもとに一攫千金を狙うが、土地は既に地球の投機家、レオ・ボーレンに買い占められた後であった。
 一方火星一番の腕利き修理工ジャック・ボーレンは、修理先への移動中にブリークマンが砂漠で遭難しているとの通報を受け、救助に向かったところでアーニーと出会った。その場でアーニーの感情を逆なでする言動を行い、アーニーに目をつけられてしまう。
 土地を先取りされてしまったアーニーは、自閉症児マンフレッド・スタイナーのもつ未来予知能力・現実改変能力に目をつけ、これを使ってレオよりも先に土地を取得することを目指す。また、現状では意思疎通の望めないマンフレッドとコミュニケーションをとる機械を作成するため、ジャックを雇い入れる。
 アーニーはマンフレッドと共に、ブリークマンの聖地である〈汚れた瘤〉を目指す。聖地での儀式の後、アーニーは念願のタイムスリップを果たすが、タイムスリップした先はマンフレッドの自閉症によって歪んだ虚構の過去であった。
 アーニーは虚構の世界から目を覚ましたが、自身に強い恨みを持っている密貿易人オットー・ジットに銃撃され、現実を認めきれないまま「幸福のうちに」死亡した。マンフレッドは、一連の事件の後、一緒にいて居心地のいいブリークマンを仲間として、彼らと共に厳しい火星の砂漠へと旅立っていった。ジャックは帰宅後、ダブル不倫状態となっていた妻と和解し、分裂症の恐怖も克服し、レオも交えて一家団欒の時を迎えていた。
 そのとき、突然隣のスタイナー家に悲鳴が上がった。スタイナー家に入ると、そこには大勢のブリークマンと、未来からやってきた、変わり果てた姿のマンフレッドがいた。彼は感謝を伝えにやってきたのであった。


所感

 初めて読んだ際、「火星」「タイムスリップ」とありふれた要素からよくここまで独創性のある作品が出来上がったものだと、非常に驚いた。精神病を一種の超能力のように扱い、自身の薬物体験などをふんだんに散りばめ、作中の視点が頻繁に入り乱れるこの小説はディック以外に真似できない芸当であると感じた。
 物語は主にジャック、マンフレッド、アーニーの三人を中心に描かれており、三人とも結末はハッピーエンドとなっている。ジャックは分裂症を克服し、幸福な家庭生活を取り戻した。マンフレッドは、母親の胎内にいた記憶に固執し閉じこもっていたが、安心できる仲間を見つけ、仲間と共に厳しい火星の砂漠で立派に生き抜いた。アーニーは、自分の思い通りになる世界の内に自分はいると信じながら死んだ。ディック作品の中では、爽やかに読み終わることの出来る傑作である。
 この作品は、ディックの持ち味である「現実の崩壊」と、話の筋の通り具合が丁度いい塩梅でバランスを保っており、ディックを読み始めるには最適な作品だと思う。


参考文献

[1]シードブック教育心理学 本郷和夫・八木成和 建帛社
[2]ブリタニカ国際百科事典10 

下村
最終更新:2017年11月07日 15:07