東北大学SF研究会 短編部会
『しあわせの理由』 グレッグ・イーガン

あらすじ

 「ぼく」は12歳の誕生日を過ぎると四六時中楽しい気分でいるようになった。嘔吐を繰り返し、まっすぐ立てなくなった事から髄芽種が判明。楽しい気分は悪性腫瘍の働きで異常生成されるロイエンケファリンによるものであった。シャントをインストールするなどの治療が行われたが、両親がセカンド・オピニオンで見つけた「腫瘍細胞のとりついた細胞を全て死滅させる」新治療を行い、無事髄芽種は完治する。しかし、今度は楽しみを全く感じられなくなってしまっていた。「ぼく」の見立てによると新治療によってロイエンケファリン受容体までもが死滅させられ、「楽しみ」を受容することが出来なくなってしまったからだと考えた。ついに「楽しみ」に応じて働く脳の部位は死んでしまうのだった。
 30歳になったある日、ケープタウン大のドクター、ドゥラーニから「脳内に疑似神経として作用できるポリマーを注入する」技術を紹介され、治験に参加する。その技法は「四千人のニューロン接続を合成的に再現し、そこから各反応に対する接続を選択的に切断し一次的なものに近づけていく」ものであった。施術後、「ぼく」は人々の表情一つにも数多くの意味合いを見て取り、さまざまな芸術作品のひとつひとつにも至上の喜びを得ていた。しかしそれは「幸せを感じる要因が、四千人の合成としての普遍的なものになってしまい、自分特有の、独自の嗜好を持った『人間と呼べるもの』に戻ることができなかった」事を意味していた。「ぼく」は義神経の無効化を要望するがドゥラーニ医師は「プロセッサーを使用して神経接続の有効無効を『自分の意志で』操作する」事を考案し、「ぼく」はそれを試みる。
 「ぼく」は社会生活を送れるまでに回復した。初めての社会生活を送りながら、「ぼく」は「幸せそのものを人生の目標としてしまってはいけない」こと、「幸せの意味は「ぼく」の祖先をはじめとした過去の人々が積み重ねてきたもの」を感じ取り、そしてジュリアとの交際、破局を通じて「ぼく」は自分の経験をもとに自分を構成することの意味を理解し、自分自身の嗜好を大きく操作することをやめるのだった。

用語説明

髄芽種

 神経細胞とグリア細胞(神経系を構成する神経細胞ではない細胞の総称)に分化する前の未熟な細胞に由来する悪性腫瘍であり、90%が小脳虫部に発生し、他には小脳半球に発生する。

ロイエンケファリン

 エンドルフィン(脳内モルヒネ)の一種で、δ受容体と呼ばれる部分に作用する「プロエンケファリン」の一種で、麻薬に近い効用をもつ。

多重露出

 写真用語で、2~10コマ程を重ねて写しこみ、一枚の画像として記録するもの。アナログでは加算(全ての露光結果をそのまま重ねあわせる)のみが可能であるが、デジタルカメラにおいては加算平均(一回ごとの光量を減らす)、比較合成(明るい部分や暗い部分を選んでそれぞれを合成する)などが行える。

作者紹介

 オーストラリアの西オーストラリア州パース出身。幼少よりSFに興味を持つ。西オーストラリア大学で数学の理学学士号を取得し、映画の専門学校へ進学するも退学。病院付きプログラマーなどの職を経て専業作家へ。
 代表作に短篇集「祈りの海」、「しあわせの理由」、「プランク・ダイヴ」、長編『順列都市』、『ディアスポラ』、『万物理論』など。現代ハードSFの代表的作家であるといえよう。
 覆面作家として知られ、性別人種容貌家族構成などなど多くが不明である。そのためAI説、美少女説、宇宙人説、普通の白人のおっさん説などが囁かれるが定説となるに至っていない。

所感

 この作品で印象的なのはやはりラストの悟り(?)である。つまり人類がその「心」を持つにあたり、その半分は自己の人生における経験、半分は人類、自分の祖先が積み上げてきた経験によるものである、ということである。その意味で、自分自身の嗜好の半分を、自分自身の過去の経験に由来する半分が支配するというのは斬新な設定であると同時にその考えをよく反映できていると思う。また、四千人の「心」の重ね合わせが発現して……というくだりは現在の様々な声から最大公約数的な部分が最も膨張し、なおかつそれから除外された部分の声も世界に拡大し続けるという現代的なSNSに通じる部分があって、1997年に発表されたとは思えないような目新しさが(改めて)あったと感じられた。
最終更新:2017年12月28日 23:18