東北大学SF研読書会 グレッグ・イーガン「祈りの海」Oceanic and other stories
byちゃあしう 2009.4.28
1・作者紹介
グレッグ・イーガン(ウィキペディア)
グレッグ・イーガン(Greg Egan, 1961年8月20日 - )はオーストラリアの小説家、SF作家。パース出身、病院のプログラマーなどを経て、専業作家に。ナノテクノロジー、量子論、認知科学等、広範囲な科学分野を題材としたSF作品を発表している。また、公式の場には一切出ない覆面作家としても有名。
先端科学で「わたし」を探すアイデンティティの作家。(アイデンティティ馬鹿とすら言われる)
2・作品別難易度
部会では★をつけた作品をメインに実施
難易度はあくまで自分の基準です
- 「貸金庫」★ 難易度:低 長さ:短 テクノロジ:やや難
- 「キューティ」★ 難易度:低 長さ:短 テクノロジ:易
- 「ぼくになることを」 難易度:低 長さ:短 テクノロジ:中
- 「繭」 難易度:中 長さ:短 テクノロジ:中
- 「百光年ダイアリー」 難易度:中 長さ:中 テクノロジ:やや難
- 「誘拐」 難易度:中 長さ:中 テクノロジ:やや難
- 「放浪者の軌道」 難易度:高 長さ:中 テクノロジ:難
- 「ミトコンドリア・イヴ」 難易度:低 長さ:短 テクノロジ:難
- 「無限の暗殺者」 難易度:中 長さ:短 テクノロジ:難
- 「イェユーカ」 難易度:高 長さ:中 テクノロジ:中
- 「祈りの海」 難易度:中 長さ:長 テクノロジ:やや難
3・各作品紹介
・「貸金庫」
「わたし」は日ごとに別の「宿主」に意識が飛んでしまうという名前のない人物。そのまま子供から大人へと成長した「わたし」はやがて、「宿主」訪問のパターンを調べるために町の貸金庫に記録を続けるのだが…
テーマ:非常に特異な人生 それでも「自分」を保つことはできるのか?
ガジェット:脳科学 脳はどれだけ失われても機能を維持できるのか? そこに何が生まれるのか?
脳腫瘍での外科的除去や事故による損傷で半分近い損傷を受けても日常生活を送るレベルまで回復した例は存在する。一方、血管一本切れただけで死亡する場合もあるわけで、脳は極めてデリケートな臓器である。
・「キューティ」
ぼくは赤ん坊が欲しかった。でも恋人には冗談じゃないと突っぱねられてしまった。ぼくは手に入れた「キューティー」キットで妊娠することにした。本作を見た編集者が「君はずっとSFやりなさい」と言ったというある意味でイーガンにとって記念碑的作品
テーマ:生命誕生(とほんの少しのパパのエゴ) 母性愛あふれるお父さんの話(某氏)
ガジェット:生命科学 疑似人間製造キット
コピーを購入する動機づけがそれでいいのか?(まぁ、「リアル」な少女で<<自主規制>>するよりマシか)
「キャベツ畑人形・キャベツ人形(Cabbage Patch Kids)」
http://www.cabbagepatchkids.com/
76年にジョージア州で作られ、80年代に欧米で流行したすこし独特な抱き人形 名称はモデルとなった人形を作った親に「どこで手に入れたの」と聞いたら「畑でだよ」とはぐらかされたからしい。製造工程上全く同一のものは存在せず、購入すると養子縁組であるとみなされ、出生証明書がもらえる(!)
修理工場病院もある 子供代わりに育てる(つもりになる)というわけ
この人形が作られたのは核戦争勃発後に誕生するミュータントに慣れておくため、という不謹慎な都市伝説がある。可愛くないからってそこまで言わんでも…
・「ぼくになることを
人々は生まれた時から宝石を埋め込まれ、宝石が十分学習を終えた時に「スイッチ」する。宝石は有機脳より丈夫で宇宙規模の災害にすら耐える。でも、ぼくは不安だった。ぼくが本当に僕のままなのかが。
テーマ:自己同一性
クローンに脳をコピーしたり、電脳世界に自分をコピーする話でも同様の過程が描かれることが多い。自分は「切り替えた」あとも連続な自分でいられるのか?
ガジェット:脳科学&精神のコピー 「宝石」
脳の「入力に対する出力」を記録し、ブラックボックスとして再現するシステム。
現在、マウスの脳をスーパーコンピューターで再現する実験が進められているが、ついに「仮想世界」に「仮想の体」を持つマウスのバーチャル脳が再現できているという(ただし処理速度は現実のマウスの1/10) あとは予算の問題だという。
・「繭」
バイテク企業で起こったテロ事件。狙われた研究対象「繭」の開発目的は胎児を外界の「毒」から守る有用なものに見えたのだが… 犯行は内部関係者が関わっている。いったいなぜ?
テーマ:「選択的」時代の到来の悪夢
ガジェット:生命科学 生命
現実世界だと、病気の原因遺伝子の特定が行われている。しかしこれには一部の反対意見がある。もし将来出生前診断&デザイナーベビー(遺伝子組換え)が実現するなら、重大な障害を持つ人間は誕生前に「殺される」?
ここではホモセクシュアルが外的因子によって誕生する可能性を言及している。厳密にはどうなるか分からないが。
・「百光年ダイアリー」
ハザード・マシン。宇宙のかなたの時間逆転銀河を利用した未来を知る道具。いまや人々は恒常的に自分の未来を知り、それを次の自分へと伝えていた。でもそれは人々が「自分の意思で動いている」と言っていいのかぼくは疑問だった。
テーマ:「未来」を知ることがデフォルトの世界 運命論?
ガジェット:時間逆転 人類規模の巨大『未来日記』 ただし書いているのはずっと未来の「自分」!
ちょっと前の宇宙論では、宇宙が収縮し始めると時間は逆転すると信じられていた。それがメインのアイデアにある。なお、日記に書いていない行動をした場合「それを日記に記録しない」という選択肢が発生する
・「誘拐」
妻が誘拐されたという連絡を受ける「わたし」。だが妻は普通にアトリエにいた。手の込んだいたずらか?だが脅迫は繰り返される。人々の多くが自分のコピーを仮想世界に持っている時代、この犯罪の意味は?
テーマ:仮想世界の実現による人生と犯罪の新たな形
ガジェット:仮想世界 仮想の意識
仮想世界における人格コピーとのその挙動 は日本だと「マトリックス」ばかりだが、現実との垣根があいまいになってくることで解釈は大きく変わって来る
・「放浪者の軌道」
ぼくはフリーウェイを歩いていた。「メルトダウン」以後、精神の壁は取り払われた。同じ思想というものが一種の領域を作り出し、強固な思想は他の弱い思想を淘汰して巨大化していく。ぼくは自由な自分を守るため、固定された生活をやめ、安定した軌道を求めてさまよい続ける。
テーマ:思想(もしくは世界観)の可視化 一定の思想の集合= 一種の「力」?
ガジェット:複雑系科学 ストレンジ・アトラクター
本来のストレンジ・アトラクターは力学系が一定期間後に収束する集合の中でも複雑系を用いないと分からないものをさす。
・「ミトコンドリア・イヴ」
ミトコンドリアの遺伝子は母型からのみ遺伝する。つまりこれを調べていけば人類の母親である「ミトコンドロイア・イヴ」にたどりつける?やがて人種間・地域間で起きる大論争が世界を覆っていく。
テーマ:遺伝子解析と結果を都合のよい方にしか取れない人々
ガジェット:生命科学 祖先をめぐるミトコンドリア
人類起源をめぐる狂想曲。ガジェット的にもある種バカっぽい雰囲気的にも「道徳的ウイルス学者」(『しあわせの理由』収録)に近いかも。日本で同じガジェットと言えば瀬名秀明『パラサイト・イヴ』が有名
・「無限の暗殺者」
自分の都合のよい世界を求めて「夢」をみるS常用者はやがて物理的に世界を侵し始める。並行宇宙を乱すS常用者を抹殺するため、わたしは別の宇宙へと転移し、それを追う。
テーマ:パラレルワールドと無数の自分 やがて気が付く皮肉な事実
ガジェット:並行宇宙
並行宇宙の自分のバリエーションというのもイーガンでは結構お馴染みのガジェット。一つの決断をする、ということはこれから宇宙が一意に決まるということであり、他の選択をした自分は消滅(ある意味では死亡)するという見方もできる。
・「イェユーカ」
ウガンダで奇病「イェユーカ」を追うぼく。体内への有毒物質の侵入を防ぐ「指輪」と「ヘルスガード」の普及は医者に仕事とその意義を減らし続けているからだ。ぼくは現地の人々を救い、腫瘍を摘出するために尽力するのだが、やがてイェユーカをめぐる意外な事実を知る。
テーマ:「医療発達と「現実的」な壁 健康を「実現できる」社会とそうでない社会
ガジェット:生命科学 健康管理モニター
最近だと、人々が健康であることを強要され、一定年齢を超えればナノマシンを埋め込まれる健康至上社会を描いた小川一水『
千歳の坂も』と伊藤計劃『
ハーモニー』という傑作健康SFが日本にもある。本作はいうなれば今流行の医療漫画的。医療における汚い現実が語られる。
・「祈りの海」
惑星コヴナントに移住した人類の子孫たち。彼らは海での生活と陸への生活へと別れ、生殖も独特なものとなっていた。海で「奇蹟」を体験して入信し、その後海洋生物の研究を進める主人公マーティンだったが、やがて海と人々の間の皮肉な関係が明らかになる。そのとき、彼はなにができるのか。
テーマ:奇蹟 や宗教が科学でばっさり説明されてしまったら?それを知った主人公は?
ガジェット:生命科学 特殊なライフスタイルの実現 思想とその到達点
コヴナント: 約束・条約・契約のこと。Haloに登場する人類への敵対種族(複数種族が宗教で連合している 人類を彼らの神への冒涜とみなして宇宙からの抹殺を至上命題としている)の名前でもありますね
クリフォード・シマック『人狼原理』はテラフォーミングではなく、現地の環境に人間を合わせるという題名通りの原理が適用される人類の未来の話。また未来の人間の行く末を描く画集『マン・アフター・マン』でも、これまでの「人類に環境を合わせる」ことで破壊してしまった地球環境に調和するため、己を改造して自然の中に生きる人類が出てくる(植物を消化できるようにする・気温に衣服なしで対応する・あらぬことを考える知性を持たないetc)。
新たなるライフスタイルが現地の生態系とリンクして、新たな宗教を成立させる。このあたりは日本人にはマネできないでしょうなぁ
4・流れ
イーガンの面白さを端的に気伝えるのはなかなか容易でない。まかり間違って長編から手をつけてしまうとその人は一生イーガンを読まなくなる可能性すらある(何)
というわけでイーガンの入り口は短編から なのだがそのなかでも「詰まった」ラインナップと言えるんじゃないだろうか。徐々にレベルアップしていきながらイーガン作品の神髄に触れていけるわけで。読んでいて詰まったらいつでも止めて戻ってもいいし、ニュース記事を検索してみてもいいだろう。単なる入門からイーガン中級者を目指す人へぜひ。
最終更新:2009年05月14日 22:16