『ディアスポラ』著:グレッグ・イーガン 訳:山岸真
2006/1/13(Fri) 探検隊
【まえがき】
「わからないところはばんばん飛ばす」のが一番の攻略法だ、というのは大森望の言ですが、わざわざ読書会をやるのですし、可能な範囲で全員の理解を深めた上で意見を、という流れを今回はとってみます。とはいっても、物理と数学はどんどん飛ばします。その手の解説としては、
板倉充洋さんのサイト
を参照のこと。
【作者について】
まずは、作者の人となりについてです。断片的な情報をまとめてみました。引用元は参考文献に入れてあります。当然ながら、文責は私にあります。
1961年、オーストラリア西海岸の大都市パース(『宇宙消失』の冒頭の舞台、その他の作品でも登場)生まれ。西オーストラリア大学で数学の理学士号を取得した。この間に自主映画制作に手を染め、その後シドニーで専門学校にはいるが、四週間で退学。同市の病院付属の研究施設でコンピュータ・プログラマとして勤務後、パースに戻って同様の職に就く。この職場での体験は、作品に直接活かされているほか、専門知識集めにも大いに役立っているもよう。
SFはこどもの頃から読んでいて、すでに十台前半で、1950年代の黄金時代の作家から、1960年代のニューウェーブ作家までが守備範囲だった。十五歳当時、特に入れあげていたのは、ラリー・ニーヴンとカート・ヴォネガット。十代後半からは主流文学に興味が移るが、ふたたびSFに惹かれたきっかけは、1985年に発表されたグレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』らしい。
デビューは1983年。オーストラリアのファン出版社から、シュールレアルな要素を含む処女長編『An Unusual Angle』(未訳)が発表されるが、これは実際には十六歳のときの作品である。同年から短編も発表、最初はホラーを書く一方で、出版社に「ハードSF」を送って没になったりしていた。しかし、イギリスの<インターゾーン>誌編集長デイヴィッド・プリングルが『キューティー』を読み、全面的にSFに路線変更するよう助言した。(よくやった!)そうして1980年代末から本格的に作家活動を開始して今にいたる。
ここ数年来、大学時代に専攻した数学への情熱が高まっているらしく、2002年以来新作は発表されていなかったが、新作ノヴェラが2006年初頭刊行のアンソロジーに発表されることが決まった。(もしかしてヤチマ化か、と英米ファンならやきもきしていたかもしれないが、日本では、まだまだ年一回の単行本を楽しむペースは守られそうである。山岸真さん頑張ってください。)
公式の場には一切出ない覆面作家としても知られている。最近のインタビューもネットを介してのものなのだとか。サイトをたまに覗いてみると、政治的な発言をアクティヴに行っているようである。
ちなみに元々キリスト教徒であり、その価値観に少なからず影響されていることをインタビューで証言しているらしい。
■長編小説
An Unusual Angle (1983年)
『宇宙消失』 Quarantine (1992年, 創元SF文庫→1999年)
『
順列都市』 Permutation City (1994年, ハヤカワ文庫SF→1999年)
『
万物理論』 Distress (1995年, 創元SF文庫→2004年)
『ディアスポラ』 Diaspora (1997年, ハヤカワ文庫SF→2005年)
Teranesia (1999年,東京創元社刊行予定)
Schild's Ladder (2002年)
■短編集
Axiomatic (1995年)
Our Lady of Chernobyl (1995年)
Luminous (1998年)
『
祈りの海』 Oceanic and Other Stories (2000年, ハヤカワ文庫SF):日本オリジナル(山岸真編)
『
しあわせの理由』 Reasons to be Cheerful and Other Stories (2003年, ハヤカワ文庫SF):日本オリジナル(山岸真編)
『TAP』(河出書房新社刊行予定):日本オリジナル
■邦訳短編・インタビュー
『エキストラ』 The Extra (エイドロン 2 1990, IASFM1993/1) S-Fマガジン 1998/4 No.502 1994 Locus Award Short Story Nominee
『真心』 Fidelity (IASFM 1991/9) S-Fマガジン 1995/7 No.468
『チャルマーの岩』 Reification Highway (Interzone 1992/10) S-Fマガジン 1993/9 No.445
『ワンの絨毯』 Wang's Carpet (1995) S-Fマガジン 1998/1 No.499 1996 Locus Award Novelette Nominee
『ルミナス』 Luminous (IASFM 1995/9, 『90年代SF傑作選』 ハヤカワ文庫) 1996 Locus Award Novelette Nominee
『決断者』 Mister Volition S-Fマガジン 2003/8 No.568
『行動原理』 Axiomatic S-Fマガジン 2004/4 No.576
『
ひとりっ子」 Singleton S-Fマガジン )2005/4 No.588
『無限大から逆に数えて [インタビュー]」Counting Backwards from Infinity SFマガジン 1999年11月号
『つかぬことをうかがいますが・・・』ハヤカワ文庫NF パース在住のグレッグ・イーガンさんが答えているらしい
■本人のサイト
■学術論文
■ネットニュースへの投稿一覧
【登場人物】
ヤチマ:主人公。長身のアフリカ人のアイコン。
イノシロウ:金属質で白めの灰色で、手のひらから花がはえているアイコン。
本田猪四郎(いしろう)からとられているのでは、という説あり。
ガブリエル:金茶色の短い柔毛で有性のアイコン。《C-Z》住人。
ブランカ:黒い影絵のアイコン。《コニシ》住人だが、<ディアスポラ>には《C-Z》住人として参加。発展版コズチ・モデルを構築。
ラディヤ:ヤチマの先生。
ハシム:芸術家。イノシロウの友人。
オーランド・ヴェネティ:肉体人(男性、架橋者)トカゲ座の災害時に《移入》させられる。
リアナ:肉体人(架橋者、女性)オーランドの妻。
パオロ・ヴェネティ:伝統型完全人態のアイコンをとることが多い。オーランドの「息子」
カーパル:トカゲ座の異変に気づいたグレイズナー。その後《C-Z》へと移住。記憶の消去と人格書き換えを何十回も行った。
フランチェスカ・カネッティ:肉体人(架橋者)
エニフ:男性で真空適応型肉体人のアイコン。 四つ足の星子犬、オスヴァルなどと呼ばれる。
アルナス:オスヴァル。
メラク:オスヴァル。
レナタ・コズチ:理論物理学者。
エレナ:パオロの恋人。
ハーマン:体節のある虫から膝のついた六本の脚が生え、その先に肉体人の足があるというアイコン。
リーズル:様式化された人間の顔が、羽のそれぞれに金色の反転のように入った緑と紺青の蝶のアイコン。
マイクル・シンクレア:コズチの生徒。
【本編のあらすじ】
それでは年表
(資料1)を片手にヤチマくんの半生を辿ってみましょう。
*は注です。
[第一部]
挿入されているのは旅の果てにヤチマとパウロが振り返っている所。
1 孤児発生
ヤチマ生まれる。
いかにして、仮想現実世界の市民(以下「コピー」で統一)は生まれるのかを描いています。本編でも屈指の難解さですし、ここで投げ出してしまう人も多いのではないでしょうか。
要は『攻殻機動隊』のオープニングなのだ、と解釈すれば分かりやすくなるかな?
(資料2)こんな世界で物語は進行しますよ、と説明している訳です。
<創出>による、個体発生→情報処理教育(ライオン!)→市民に、といった流れで話は進みます。
さて、ヤチマが自分を命名するシーンですが、彼/彼女のアイコンは可愛い子ライオンに影響されているのだ、と誤読しておくと、後の理解がかなり容易になるかもしれません。『萌え単』理論!(資料3)
また、ここで無限遠にある星へと向かう志が刷り込まれていることにも注目したいです。
- 無秩序な混沌(パンデモニアム):pandemonium 『決断者』(SFマガジン 2003/8)にも「百鬼夜行(パンデモニアム)認識モデル」というものが出てきます。そこでの作者註によると、デネットの『解明される意識』およびミンスキーの『心の社会』を参照すると良いらしいです。心理学上の認知に関するモデルなのだとか。ヒトが並列処理をどう行っているのかに関連しているらしいです。本書でも二冊が参考文献として挙がっていることから、「孤児発生」での発達段階に関する記述もこの辺りの議論を元にしているのでしょう。
- 観境:市民のいる空間、環境。scape。三次元とは限らないのが次でのミソ。
2 真理採掘
ヤチマ、イノシロウとの同居を始める。
いきなり幾何学の話。2つの命題について議論されていますが、この辺を「とばせ」ってことなのでしょうね。一応、本人のサイトを見れば、模式図と説明がありますので、興味があれば。ただ、ここで出てくる次元の違いについての議論が、後のポワンカレに関係してくるのはおさえておくと良いかと。
この世界での「芸術」の一例も出てきますが、なかなか素敵です。
- <真理鉱山>:数学者は誰もがこの山を掘っていることになっています。また、真理への到達には地道な努力をする必要がある、というイーガンの考えもうかがえます。
- 価値ソフト:イーガン読者ならおなじみのものですね。何を快と感じ、何を不快と感じるのかを決めてしまえる、つまりは「しあわせの理由」となるソフトです。
3 架橋者たち
ヤチマ大地に立つ。
グレイズナーが登場します。これは《移入》してデジタル化されたいけど、肉体は捨てたくはない、と願った人たちの乗り物、またはその人格のこと。彼らは宇宙へ行き、SETIなどをやっています。
この章では、ヤチマ達がグレイズナーに乗り込む?ことで肉体人との交流を持ちます。遺伝子改変をやりすぎて深刻なディスコミュニケーションに陥った肉体人たち。それを繋ぎなおそうとする架橋者たち。この分散状況と現在とを繋ぐのが『万物理論』でしょうか。
「人格」を分けるかどうかで逡巡するのも、<ディアスポラ>への布石になっています。同様のモチーフとして、『宇宙消失』において、平行宇宙にいる無数の自分を消失させるのに悩む主人公が描かれています。更に、無限の命を持つことについても触れられていますが、これは『順列都市』で出てきた話ですね。といった辺りで、結構おなじみの命題でした。
- タグ:巻末に注もありますが、私なりに解釈すると、タグはあくまでデジタルな情報であって、「感覚」とはクオリアのことなのでしょう。経験が神秘的なものになる、ともいわれていますし。
- リヴィングストン:ヨーロッパ人で初めてアフリカを横断した人。
- ジェロニモ:アパッチ族の戦士 居留地から何度も脱走し、アメリカ軍と戦いぬいた。
- ハックルベリー:『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』 マーク・トゥエイン
- 肉体人:不変主義者、水陸両生肉体人、夢猿人、架橋者などなどいろんな派閥がある。
[第二部]
4 トカゲの心臓
カーパル、トカゲ座の異変に気づく。
一ヶ月も月面で寝そべっていられるグレイズナーのまったり具合がなんともいえません。
5 ガンマ線バースト
再びアトランタへ。そしてカタストロフ。
ナノウェアを用いて、肉体人をポリスへ連れて行こうとする二人ですが、それを肉体人自身の許可なしに実行することはできません。なぜならそれは、自由を侵害することだから。他人の権利を侵害する権利は存在しないってことでしょうね。私は、他人をポアする権利はないってことでとらえてみました。後は法学部の人に任せます。
ポリス人は英語をしゃべっていて、肉体人はラテン語です。あと、この章では生態系の改変についての描写がありますが、もともと数学の博士号の人が物理にも生物にも強いのですね。専門化の進んだ現代科学において、これだけ学際的であることは、ホントに凄い。
- メガタウ ギガタウ: 80メガタウは1日。半ギガタウは6.5日。
- 伝染性の強いパレスチナの有神論複製子群:上でも書きましたが、イーガンはもともとキリスト教徒です。
- 『時計仕掛けのオレンジ』の錯誤:暴力を行い得ないのは徳ではない、ということですね。
- ブラフマー、シヴァ:ここではヒンドゥー神話の方。『暗黒神話』ではないです。ブラフマー(創造者)、ヴィシュヌ(保持者)と、シヴァ(破壊者)で三位一体となります。
6 分岐(ダイヴァージェンス)
ヤチマ《C-Z》へ
5章での体験により、自身の弱さを認めるようなことをしなくなる複製子を走らせてしまったイノシロウ。「認めたくないものだな(ry 対比として、それでも前に進み続けるヤチマは<創出>にとって不要と判断されます。
そういえば確か、昔の会誌の名前が『divergence』でしたね。
[第三部]
パオロとヤチマの会話は続く。
<長炉>について。ブランカとガブリエルとコズチの三角関係!
7 コズチの遺産
ガブリエル、ワームホールについて調べる。
さて、また難関がやって参りました。ここは話の根幹に関わるコズチ理論についてです。一応ディアスポラ数理研から孫引きしてみます。
{引用開始}
重力=空間の歪み、なので、重力の理論は空間を扱う話になります。この理論のなかでいろいろな素粒子も一緒に扱おうとすれば、空間と様々な素粒子がどのように影響を及ぼし合うかを考えないといけなくて大変です。しかし「実は素粒子ってのは空間に空いた穴で、様々な素粒子の種類は穴の空き方の違いで説明できる」ってことになれば、空間だけを扱えばよくなってすごく楽です。できるかどうか知りませんが。そのようなアイディアは物理業界で "matter without matter" とか呼ばれてるようです。架空のコズチ理論ではこれができるようです。
巻末の参考文献にある、 『ゲージ場・結び目・重力』 (Gauge Fields, Knots, and Gravity) by John C. Baez and Javier P. Muniain から訳して引用。
ワームホールとモノポールは理論物理において思弁の極北に位置し、SFと紙一重である。
..中略..
相対論研究者のジョン・A・ホイーラーは、ワームホールの「口」が電荷を持った粒子として振舞うという興味深いアイディアを提唱した。電気力線が一方の口に流れ込み、もう一方から流れ出すことで一方の口が負の電荷、もう一方が正の電荷を持つ粒子のように見え、その電荷は符号が反対で絶対値が等しい。もしワームホールの計量と、ワームホールを流れる電場(あるいはゲージ場)の相互作用を記述する理論ができれば、このようなワームホールが様々な安定状態をとり、それらが異なる世代の粒子に対応することを示せるかもしれない。さらに質量を計算することさえ出来るかもしれない。残念ながら、これらは現在のところ夢にすぎない。なぜなら..以下略
(コズチ理論とは)この夢が実現したという設定です。
{引用終了}
粒子を空間として扱う、というアイディアみたいですね。では、次行ってみましょう。
8 近道(ショート・カット)
<長炉>によるコズチ-ホイーラー・ワームホールの実現化。
7章の850年後になってついに、ワームホールが実現化します。しかし、端と端を「光より速く」つなぐ筈のワームホールからはシグナルが出てきません。実験は失敗。しかもその失敗はコズチ理論の改良を要求するようなものでした。水素原子のスペクトルの観察などから、古典力学が見直されたのと同様のことが行われている訳です。
また《コニシ》と《C-Z》の差異が「コピー」の身体感覚という軸で語られます。それに伴い、「コピー」にとっての「愛撫」も出てきます。
「コピー」達の時間が均一ではないことも明らかになります。でも、それが何の影響ももたらさない、という議論は『順列都市』ですね。
- 高速化:処理速度を落として、待ち時間の短縮をすること
- <長炉>:線形粒子加速器 1400億km(冥王星の軌道の十倍以上) ユニット一つの質量は1g以下。
9 自由度
<ディアスポラ>始まる。
ワームホールによる「ワープ」が不可能であることが分かったとき、《C-Z》ポリスの「コピー」達は、自分らのコピーを宇宙に向けて播種します。そして、舞台はフォーマルハウト行きの船。
価値ソフトの違いはいかんともし難いのですが、果たしてオスヴァル達を馬鹿にすることが賢明な判断なのかは疑問です。
さてついに、ブランカはコズチのアバターとの対話によって、<距離問題>を解決し発展版コズチ・モデルの構築に成功しました。
が、私は完全においてきぼりを食いました。ワームホールは距離を他の空間から奪ってくるから距離は短くなり得ない、だからショート・カットとしての役割を果たさないのだ、という最後のまとめを押さえとけばいいのでしょうか?
- 星虹(スターボウ):亜光速で宇宙を航行するときに見えるだろう、とされている虹のこと。
- アバター:「コピー」ではなく、生前の資料を元に構築された仮想人格。
[第四部]
10 ディアスポラ
出発前のパオロの観境で。
11 ワンの絨毯
地球外生命体は千次元の世界にいた。
この章はヴェガ星系行きの船の中でのできごと。エレナとパオロアイコンは、肉体人のものですから、ブランカとガブリエルの接触とは異なります。
ここでメインとなるアイディアは、ワンのタイル=チューリングマシンというもの。(資料4)その上に、ヒトには認識できない千次元周波数空間の十六次元の切片などという概念が出てきます。これは、後のトランスミューターの「像」へと結実します。
9章に出てきたフォーマルハウト行きの船は木っ端微塵!などの事実も明らかにしつつ、ようやくポリスごとの立ち位置の違いが見えてきます。「現実」にどれだけの価値を見出すのか、ということですね。中でも現実重視で、他のポリスを「ひきこもり」よばわりしていた《C-Z》が惑星オルフェウスの「生命」を見つけてしまうという皮肉。イーガン節です。
ここで各コミュニティーの違いについて、少し整理してみます。「現実」へのこだわりで並べてみるとこんな感じでしょうか。
《カーター-ツィマーマン》ポリス 肉体人を市民にしようと、ネットワーク攻撃をしたりしている。「宇宙を理解し、尊敬せよ」が憲章。物質宇宙に一番こだわっている。<ディアスポラ>を実行する。
《コニシ》ポリス シベリアのツンドラの地下二百メートルに埋められている。外の現実への関心が薄い。
《アシュトン-ラバル》ポリス 爬虫類を「創造」したりするような仮想現実派の最右翼。
境界ポリス その他大勢の意?
蛇足的なおまけなのですが、なんと小倉百人一首もワンのタイルなのですね。(資料5)
- ダイソン球:恒星を卵の殻の様に覆ってしまう仮想上の人工構造物。
- カウフマン・ネットワーク:ライフゲームみたいなもの。
さて、10・11章をあわせると元々の『ワンの絨毯』になります。違いはポリスの説明が多少入っていることと、それに伴い「人間宇宙論」というものが語られている点。最後にパオロの心情吐露が入っている点です。
「人間宇宙論」というのは、もし物質宇宙が人間の思考によって創造されたのであれば、それを仮想現実より上に位置づける特別な理由はない、という《アシュトン-ラバル》の考え方。
パオロの述懐は「自殺」してしまう発想の元ともなっていて興味深いので、引用します。()は引用者。
「この不思議な、偶然の産物である美しさの何もかもが、人類と位相人類(「コピー」)が宇宙に向かって問いかけてきたあらゆる疑問に対するあらゆる答えの――問われることによって生み出される答えの――集合でしかない、ということがありうるだろうか?ありえない、とパウロはいまも信じていた――だが、その問いにはまだ、答えが出ていない。いまのところは」
[第五部]
12 重い同位体
惑星スウィフトの謎とは。
ここからはヴォルテール星系行きの船のお話。
オーランドという人は元肉体人なだけあって、「肉体」に対するこだわりが強いです。また、パオロを生んだのも元々の架橋者としての使命感からだ、ということが分かります。
- ヴォルテール:本名フランソワ・マリー・アルエ 「私はあなたの意見に何一つ賛成できないが、あなたがそれを言う権利は命がけで守るつもりだ」という言葉はあまりに有名。
- スウィフト:ジョナサン・スウィフト 『ガリバー旅行記』
- リサージュ図形:これを描けるものさしを皆さんは、見たことがあるのではないでしょうか?歯車をぐるぐるまわすやつ。
13 スウィフト
トランスミューターはいずこ?
ようやく、第一部の冒頭の会話に出てきたトランスミューターが出てきます。普通忘れていますよね。文明はあるのに見つからない。《移入》したのか、<ディアスポラ>したのか。実は別の「宇宙」へ出かけていたのです。そして、その鍵がスウィフトに大量に存在する中性子でした。
細かいことですが、車から車へとテレポートするのを「コニシ式」と呼んでいるのはいいですね。
- トランスミューター:transmute 変質、変化させる。
transmutation 錬金術で卑金属を貴金属に変化させる、あるいは核反応によって元素を別の元素(あるいは同位体)に変化させる。
14 埋めこまれたもの
中性子に埋め込まれたデータは?
解読過程で、トカゲ座なんて目じゃないニュートリノ・バースト(コア・バースト)がやってくることが分かります。どうやらトランスミューターはそれから逃げ出したらしい。その方法として更に解読されるのが、ワームホールの形を制御すること。実は「長い中性子」はマクロ球の中で触媒として働いていたらしいです。ここは作品の肝で避けては通れない議論のような気もしますが、スルーします。
そして、上位宇宙へ!
[第六部]
15 5+1
マクロ球もしくはU*は5次元の世界だった。+1は時間のこと。
「コピー」の走っているポリスの外側が3次元の「現実」ではなくなってしまったら、そのときオーランドが寄って立てるものは?という問いが出てきます。
- エキゾチックな現実:兎にも角にも、エキゾチック物質というのがワームホールには必須なのです。
16 双対性
@惑星ポワンカレ
時間表記がはずれます。五次元空間の描写は圧巻ですね。全くビジュアルはわかないけど、これぞ活字SFでしか表現できないイメージです。
さて、肉体人から始めて我々読者と作品世界とを架橋しているのがオーランドなのですが、ついにファーストコンタクトを行います。このヤドカリとの下りは、モンティパイソン的笑いなのではないか、という話題をみかけたのですが、私は悲しき性のように感じてしまいました。
[第七部]
17 1の分割
つまりは、ここで分割された存在をもう一度戻そうとせざるをえないオーランドの強迫観念は悲劇的だ、と思うのです。
18 創造の中心
トランスミューター以外の知的生命体の存在も描かれつつ、宇宙についての語り。
[第八部]
そして問い。パオロの行動原理とは何だったのか。
19 追跡
<ディアスポラ>によっていくつかの「宇宙人」とのコンタクトをとげた時代。
パオロとエレナの「分岐」この宇宙の探求と違う「宇宙」の探求。
20 不変性
そして、旅をしても変わらなかったもの。
ヤチマは精神発生のときに、ここまで来ることを宿命づけられていました。たどりついた二百六十七兆九千四十一億七千六百三十八万三千五十四レベル(偶数なので三次元)で気づくトランスミューターの「像」と「旅」の終わり。パオロとヤチマの「分岐」すなわち、自分の外にある可能性の追求の終了。
パオロとヤチマが「分岐」してしまうのは、自分の内にある可能性(数学)に没入できるかどうかの違いですね。本来「架橋者」であったパオロにはそれができなかった。
- ヤン-ミルズ:C.N.ヤンとリチャード・ミルズ。量子色力学の人たち。
【まとめ】
1.Philosophy Fiction(by坂村健、竹田Pじゃないよ)として
「意識と現実をとり去ったら、あとにはなにも残らない」という言葉からも伺えるように、イーガンはその二つの関係の話ばかりしています。これには「主観的宇宙論」そして「シミュレーション」という二つの軸がある、と思います。坂村健は「記述」への欲望を書いていますけど、私はそれを行おうとする主観の方を問題にしたいです。
「主観的宇宙論」とは、究極の唯我論ともいえましょうが、要は個人の「観測」が世界を変える力となってしまうような宇宙論/観のこと。もともとの『ワンの絨毯』にあった「人間宇宙論」の前提となっています。この点については本作には出てこないので、割愛します。三部作の中では、一番読みやすい「宇宙消失」から入ってみるのがオススメです。
シミュレーションに関しては、ヒトにまつわる問いとして、いくつかに分けられます。
1)ヒトが「コピー」へと《移入》するかどうか
2)《移入》した後での身体と「コピー」の差異
3)シミュレーション上でのアイデンティティの問題
4)シミュレーションで価値基準を自由に調節できる人格は、永遠の命を手に入れたとき何をするのか、という問い
4’)それをそのまま現実世界に持ってくるのが「しあわせの理由」へと繋がる「理由」への問い。これは同時に、《移入》の可否へとも繋がるような円環構造を描き出している、と思います。
さて、他のイーガンの作品を読んだことがある人ならお分かりの通り、これらの問いは彼の作品の中で何度も反復されています。おそらく、その度に進化/深化しているように思うのですが、それに対する考察は、今の私には手に余ります。揺さぶられることについての指摘は多くても、それを比較・検討するような評論は、寡聞にして読んだことがないです。
ちょっとわき道へ4)は輪廻と解脱の問題へとも繋ぐことが可能かもしれません。パウロが最後に行った選択は何であったか?実はゲーテルのお陰で、ヤチマには無限の可能性が残されていたりするんですけどね。あと、脳のチューニングという話は鶴見済との共通点もあるように思います。
2.SFとして
上述の問いを必然的に孕んでしまうような状況設定の上手さ。「天才詐欺師」(by大森望)という称号はまさに彼にふさわしいものでしょう。先にも触れましたが、科学知識に関する造詣の深さは、当代随一です。
そして、時には嫌悪感しか覚えない/生理的にうけつけない、といわれてしまう一つの状況を徹底的につきつめる辺りも流石です。
3.読みにくさ
最近おもしろいエントリーを見つけました。(資料6, 7)
結局、SFの部分は多少分からないところもあるけれど、PFのところは万人に開かれているのだ、ということなのでしょう。問題はSFの部分をどこまで理解するかということと、PFを理解するために必要となる想像力です。ここが、SFという言葉を知らない人にアピールできるかどうかなのですが、難しいですね。この点で皆さんの読後感はどうでした?
4.作品全体を通じて
この作品はつぎはぎのパッチワークとしてある側面は否めませんが、だからといって通低するものがないわけではありません。私は「行動原理」の違いから「分岐」してしまう人達というディスコミュニケーションの物語として読みました。確かバクスターの『タイム・シップ』にも出てきていたことですが、リソースがほぼ無尽蔵にあるなら、それをめぐっての衝突は基本的に起きないのですよね。だから、繋ごうとする架橋者たちは失敗する。(焼豚くんから指摘がありましたが、『順列都市』では計算リソースをめぐって衝突が起きていましたね)
ただ注意しておきたいのは、この主張をそのまま現実へ持っていくことはできません。前提となるリソースの問題があるから。でも、これを「宇宙」規模のひきこもり物語として読んでしまいたい欲望もあったりなかったり……。
【資料】
2. イノセンスの情景
3. 京大SF研究会 「workbook 79」
【参考文献】
Wikkipedia
はてなキーワード
最終更新:2019年03月27日 00:35