果てしなき流れの果に 読書会資料 byちゃあしう 東北大学SF研
1・作者について
小松左京 1931年大阪生まれで神戸育ち。本名小松実。星新一・筒井康隆とともに日本SF界「御三家」といわれる。
本格デビュー作はSFマガジンの短編「
地には平和を」(実は第50回直木賞候補作品。だが筒井と同じく結局は食い込めず)。
長編は『日本アパッチ族』。総合的作品から伝奇、ハードSFにショートショートとさまざまなジャンルのSFを書いている。
宇宙作家クラブ提唱者で顧問。2000年よりSF新人賞である小松左京賞が設立されている。
『果てしなき流れの果に』は1965年よりSFマガジンに連載され、翌年出版された。早川文庫JA第一号。
星雲賞受賞作品:継ぐのは誰か? 結晶星団 日本沈没(第27回日本推理小説作家賞も受賞) ヴォミーサ ゴルディアスの結び目 さよならジュピター
日本SF大賞受賞作品:首都消失
映画化作品:日本沈没(1973・2006) エスパイ(1974)
復活の日(1980) さよならジュピター(1984) 首都消失(1987)
2・あらすじ
研究員野々村は、N大の番匠谷教授に紀伊半島和泉山脈の白亞紀の地層から発掘されたあるものを見せられる。それは永遠に落ち続け、
止まることのない砂時計だった。その謎を解明しようとする人間は次々に姿を消してしまい、この事件は忘れられてしまったかに思われた。
しかしこれは時空を舞台にした壮大な戦いの幕開けに過ぎなかったのだ――
国内SFオールタイムベストで一位を光瀬龍『百億の昼と千億の夜』と争い続ける日本SFの到達点。
3・章別解説・考察
プロローグ
「±n」 この意味は直接には触れられないが、作品構造が分かればおのずと理解できるはず。白亜紀の火山のそばで奇妙な出来事が幕を開ける。
剣竜(ステゴサウルス類)は白亜紀に衰退したと見られているが、ティラノサウルス類のアジア起源説があることからみればこの恐竜描写はそう矛盾はないはず。
「黄金の電話機」に関しては突っ込み無用。携帯電話をSF作家が予想できなかったかについてはいろいろな考えがあるそうだが今回は触れない。
第一章 象徴的事件
オーパーツ「クロニアム」が和泉山脈付近から出土し、N大教授らが調査に乗り出す。パタフィジックとは教授の説明どおり、アルフレッド・ジャリによる
韜晦(とうかい つつみくらますこと)哲学の一種で「潜在性によって記述された対象の諸特性を象徴的に輪郭に帰する、想像力による解決の科学」と
定義される。劇中通り「空想的形而上学者」とするのが一番妥当だろうか。検証不可能だがまじめな学問というのが小松左京
のSFの目指す境地にもつながるところがある。のちの大泉・番匠谷教授らの会話は「知性の経済学」「半まじめ」と一般人にはついていけないところに来ている。
大学でもそういうお仲間がいたんでしょうか。
ちなみにこの砂時計のような構造物はラリイ・ニーヴンの「脳細胞の体操 ―テレポーテーションの理論と実際―」の中にも仮想実験として登場する。
もし位置エネルギーが保存されるなら砂時計として機能はしないはず。後の章によるとこの作品の宇宙の中ではエネルギーは保存されているようだが、真相はいかに?
第二章 現実的結末
砂時計をはじめとするオーパーツの秘密を追うメンバーたちは様々な事故や要因で次々と消されてしまう。第一章がミステリの開幕であるが、
こちらはホラーとしていったん話が畳まれてしまう。それゆえの「現実的結末」。(もちろん、ミステリとしてはまだ始まったばっかりである)
佐世子とのひと時のあとの野々村の夢?は「さよならジュピター」でも忠実に「映像化」されていた。(何)
オムニポテンテ=「全能の」 テンポリス=「時間・過去」 ここはさすがに元ネタをたどることは不能。
エピローグ(その2)
関係者の中で一人残り野々村を待ち続けた女、佐世子の一生。タイトルの通り「エピローグ(その1)」とつながる。
「均質な時間の広がり」というのがここからの話の展開のヒントである。一方で野々村の「時間と認識」の冒頭、そして佐世子の日本人的時間認識に
そっと触れられているのもお忘れなく。都市描写をはじめとして大阪空港のくだりも今では古くなってしまった。文章の電子化はかなりいい線いっているようにも思うが。
第三章 事件の始まり
男、ムッシュウ・Mは目覚めると記憶を失っていた。彼は「この世界では」保安省の諜報活動をしていたらしい。やがて軌道上にある研究所に案内された彼は
20世紀に開発された旧式のテレビに映る謎の顔を発見する。
時間をめぐる二つの勢力の争いがオーパーツの出現とかかわることが示唆される。軌道へ上る手段は軌道エレベーターというよりマスドライバー、もしくは
某軌道ロープウェイに近いようにも見える。番匠谷教授がなぜこんな登場なのかはちょっと分からない。これもクロニアムのような超未来技術の賜物か、高階梯のなせる技か?
これも諸種の怪奇事件の延長だが、伏線として回収しそこなった?
第四章 審判者
先ほどのMの「自爆」で問題の物品は破壊されたが、それ以外にも多数の攻撃が行われている。指令に従い、Mは別の時空へと直ちに向かう。
そこでは太陽の異変で人類は滅亡の危機に瀕していた。そこへ異星人たちが救助にやってくる。「太陽系最後の日」的な破滅テーマ展開ながら話は意外な方向と進んでいく。
Mとの議論の中で、「自分たちこそが相手の創造の産物である」という説が示される。堂々巡りになるので、といってここでは切られるが、(もちろんそんなわけは無いが)三章以降
すべてが50年間昏睡だった野々村の空想の産物、だとするとそれはそれで恐ろしいこと。生き延びるために脱出するものと彼らのために残らざるを得ないもの。双方の心境を丁寧に
扱っているのは「
復活の日」のようなクライシス物に名作の多い先生ならではの描写。
水星の黄昏地帯は、水星が自転していないと思われていたころの名残(実は発見されたのは65年でちょうど連載中)
第五章 選別
異星人たちの意図を測りかねるまま宇宙船はどこかへと向かう。生き残った人々はそれぞれの想像をめぐらすが、実は出発の時点ですべては決まっていた。
到着する場所は地球に良く似た惑星だったが――
人間の時間認識の基本となる心理的相対時差に触れている。かのアインシュタインも一般講演で「かわいい女の子と一緒にいたら一時間は一分に、
熱いストーブの上では一分は一時間に感じるはず それが相対性なのです」と言っているとか。(「アインシュタイン・LOVE展」より)
でも、一年も経ってると感じるならまず日常生活の記憶がかみあわないはずだが。
異星人たちがわれわれ地球人をどう扱うかという問題も、これ単体でSFになってきたテーマ。
第六章 襲撃
松浦は何者かにテストを施され、ホモ・サピエンスを超えた存在へと変化したのちに超存在と融合させられる。一方では二大勢力の戦いの中、
歴史の狭間で逃げ回るN(実は野々村)という存在があった。
出てくる船はどちらもミシシッピ川での消失事件で行方不明。マリー(メアリー)・リーザーは有名な人体発火事件の被害者
(足だけ残ったのは別人との勘違いだと思われる 真相は寝タバコの不始末だそうな)。高速道路での自動車消失事件も当時噂になったとか。
オーパーツだけでなくさまざまな「過去の」怪奇事件が二つの「勢力」の争いの中で起こったことが示唆される。ただ、Nだけはうまいこと逃げおおせている。
階梯は一種のレベル。現代人が第2から3への途中。MやNは4でアイやルキッフはさらに高次の存在。知性持つものレベルを計る物差しは昔から学者から
SF作家まで多くの人間が議論しているが、ここでは文明の危機対処能力ではなくて個人の能力によるもののように見える。
超能力が発現する段階まで行くか我々は不明だが。
第七章 狩人たち
さらに激しい追跡が繰り広げられ、Mは執念深い捜査網を張る。Nの逃亡する舞台は「日本沈没」後の未来の冥王星第二衛星ケルベロスから
第二次大戦中の神戸、そして日本人の子孫たちの集落へと移り変わる。同じ日本人のさまざまな運命をNとMは目撃することになる。
そして謎の上司、ルキッフはNに伝言を託す。それは――
「ヤップ」のくだりは一部で「日本沈没第三部」といわれるが、実はこちらのほうがずっと先。そのため、今年出た第二部のラストはここに意図的に
つながるようにしてあるという。小松は戦争経験から彷徨えるユダヤ人、ならぬ日本人を常にテーマにしようとしてきたといわれる。
しかし移住日本人に対する「歴史的復讐」とは先生が某党出身とはいえくわばらくわばら。あえて「君が代」のままなのも作為的なのだろうか。「さくら」等ではなく。
ペルセポネは「冥妃星」と訳されることもある幻の第十番惑星。また冥王星の衛星は現在のところカロン(冥府の渡し守)・ニクス(夜の女神)・
ヒドラ(おなじみの怪物)と3つ確認されている。惑星で無いといって別に(以下略
(部会追記)
神戸のシーンで出てくる「異人さんの夫婦とその子供」はおそらくエルマ+誰か&野々村の小さいころ。野々村が孤児という設定も実はここに隠されている?
ここでとっつかまってたら野々村君の存在はなくなってしまっていたところだ。
第八章 追跡
マツラは追跡のすえ、人類が地球を後にしたのち進化したげっ歯類が文明を細々と築く遠未来、そして過去の祖先たちと「交配」させられる4章の
「現代人」の末路を見る。第5階梯は下っ端扱いだそうだがこんなところに飛ばされることがあるとは監視員の悲喜こもごも。相手が責任取らされるため
とはいえ融合させられた松浦って実は運がいい方なのかもしれない。素質はあるにしても。
恒存則、とは保存則のこと。ここで出てくるのは全宇宙でエネルギーを一定と考えての保存則。これを回避するために別宇宙の存在を規定して、やりとりを考える
場合が多いのだがここではそうはしていない。ちょっと意外。
モノリスも真っ青の文明の「収穫」と「刈取り」を行う超知性体たち。強制的措置をするのはせめて第2階梯までは手早く成長させるためか?『サイボーグ009』にも
「過去への入植」で同じような話があるとか。近年の分子生物学的分析によればネアンデルタール人は現代人とは混血することなく離れて生活を続けていたというが、
いつの間にか滅亡しその系統は途絶えている。言語を有し、道具を使いこなす能力で上回ったため現代人が駆逐したのか。それともそこに何らかの手が加わったのか。その真相やいかに。
第九章 狩りの終末
Nは3世紀の日本から16世紀へ、そして45世紀へと逃亡を続け、Mもそれを必死に追う。最後の瞬間、逃げ場を失ったNはポンコツ航時機(いい響きの日本語だ)で最後の賭けに出る。
過去では大和時代や戦国時代の日本が登場。当時の人物たちすら手玉にとっての追跡劇が続く。また、時間旅行が可能になった未来になると、「干渉」はさらに積極的かつ直接的になって
ゆくことが示される。登場する「果心」とは室町時代、戦国武将の前で多くの幻術を使ったとされる「果心居士」のこと。司馬遼太郎の著作・時代物に忍者ものでも有名か。
せっかくのクロニアムがタダの通信機としての用途なのはちょっと残念だが、一方でクロニアムの構造が、野々村の目指す「未来のフィードバック」案に酷似している事には注目したい。
「やくたい」=整っていること 秩序のあること 「やくたいない」=くだらない
第十章 果てしなき流れの果に
階梯を上り詰め、認識の限界へと達する野々村とアイ+松浦。その先に進もうとする彼らの前に現れるのは――
ここまでの時間理論の集大成。野々村がこうも長い道のりをたどるのも当然だろう。宇宙自体の意識、さらに高次なる存在、ルキッフらの意図とその存在。
知覚できることとはこれぐらいのものだろうか。
イーガンの「
ディアスポラ」でも真理をとことん詰めた先にはというくだりがあったが、そこにたどり着かなかった後の行動はヤチマ達とは実に対照的。
ここで閉めてしまうのがイーガン、着地点が別にあるのが小松作品。
似た者同士と思っていた野々村と松浦の親子関係というのはおそらく野々村が松浦とエルマの子(逆は成り立たない 野々村と佐世子はしてないし、
出産したとの記述は無い)ことを示すはず。あと、アイがこうも上へと上っていくのは松浦の中の「人間の好奇心」を吸収したからだろうか?
エピローグ(その1)
第5章3でチョロっと触れられていた60年代の「アルプスの謎の遭難者」の正体が明らかになり、物語は佐世子が感じていたように、そして野々村が想像していた
以上に長い旅を終えて「元の世界」へと戻ってくる。構成の元になっているのは苦難の旅の末故郷へと帰るホメロスの「オデュッセイア」だが、
「いや、夢物語です――」というしみじみと感慨にふけるのはやはり日本人ゆえの物語の締め方と言える。
4・全体として
時空を平行世界・n方向問わず駆け巡る一般に「ワイドスクリーン・バロック」と呼ばれる小説にジャンルわけされることが多い。こういった想像力で映像化される「大」
世界観はやはり文字ならではのもの。そしてそれを力技で辞書以下の厚さに押し込めるのは相当な力量。天文学・歴史・生物から心理学・哲学までありとあらゆる
ジャンルを網羅するガジェットたちの中には後の小松作品につながるアイデアも多数詰め込まれている。それゆえ完成度よりも問題点の広い上げが重視され、
もう「文学的完成度」なんて点を気にせずに書いているかもしれないとは本人の弁。(回収されない伏線もある これは連載小説だから起こったことか?)
でもこれができるのもSFという「実験的文学」のふところの広さゆえ。
また、戦後というものをしょってきてしまった日本SFの脱却もここから始まるといってもいいかもしれない。(ただ、日本云々の描写はまた別方面で残ることになる。
これは「沈没」等へと発展する。)
今作品が日本SF界でいまだに金字塔となっていることを、「じゃあ現在までの日本SFのやってきたことってなんだよ?」と振り返る向きもあるが。しかしこれらの
作品などに触発された小松ファンから始まるその後の日本SFの系譜を見逃すことはできないと思うし、そのような結果になって当然なほどの完成度があると思う。
この作品のメインとなるのは「時間と認識」。人間は時間を認識する生物であるが、認識と時間はどう関係するのか?そもそもなぜ時間が存在するのか?
時間はなぜ不可逆なのか?人がこれまで考えてきた世界観、ならぬ「時間」観を。時間の経過を執筆中、想像によってあまりに広がるイメージにより自身が
参ってしまい、連載が無理になりそうだったというから、ある意味で「身をもって」認識の限界に挑んだ作品だといえるだろう。
そして知性体の行く先、はSFのメインテーマの一つであり、「
幼年期の終わり」から某ジャパニメーションまで様々な解釈とその果ての人類の変容に挑んでいるが、
限界を素直に認めて、あるがままを受け入れるという点も日本的。「人間の認識は広いが、それが変えられるものは少ない」という野々村の言葉もそれを端的に示している。
小松作品の傾向はこれ以後、73年の『日本沈没』以降→社会的・集約的、海外ブロックバスター的作品が多くなる。一方でこの作品でできなかったことを
目指す新シリーズとして始まったがいまだ未完なのが「虚無回廊」。
5・補足 疑問等
- 角川春樹は富野由悠紀監督で今作品を映画化する計画を立てたが、薬物所持による逮捕で流れたという。果たして「沈没」並みの大ヒット映画になったか
「ジュピター」を超えるネタになったか今となっては分からない。アニメだったんだろうか。
ちなみに「日本沈没」も松竹による1999年のリメイク計画があったがこちらは予算問題で流れた。結局その分は新撰組映画「御法度」に。
阪神大震災の経験からボランティア・ネットの活躍等が盛り込まれる予定だったとか。
- トップをねらえ!第六話 「果てし無き、流れのはてに…」
小松作品がガイナックス作品をインスパイアしたのが「トップ」であり、その逆をやったのが今年度の樋口版「日本沈没」であるというのは容易に想像がつく。
でも、やっぱりどうせやるなら小野寺君が生き残っても良かったのではないかと思わなくもない。ちなみに本編の内容は小松成分よりは東宝特撮分が多い。
他の話をはじめ「この地方に被害はない」等「日本沈没」からの引用は多いのだが。
- パラレルワールドを扱っていながら、日本の沈没や太陽爆発といった未来のカタストロフィーはあっても過去の歴史の転換点はそう目に付かない。
- 結局他作品に小道具として出てくる「落ち続ける砂時計」は分からず。 誰か教えてくださいな
部会メモ
最終更新:2019年03月24日 14:56