東北大SF研 読書部会
「ビット・プレイヤー」 グレッグ・イーガン
著者紹介
グレッグ・イーガン (Greg Egan)
1961年オーストラリア西海岸パース出身。西オーストラリア大学で数学の理学士号を取得。この間に自主映画製作に手を染め、専門学校にも入るがすぐに退学。その後は病院付属の研究施設でプログラマーとして勤務していた。SFは子供のころから読んでいて、1950年代の黄金時代の作家から1960年代のニューウェーヴ作家までが守備範囲だったようだ。特に入れあげていたのがラリー・ニーヴンとカート・ヴォネガット。その後は主流文学に興味が移るが、グレッグベアの『ブラッド・ミュージック』でSFに再び惹かれる。覆面作家として知られ、その正体にはさまざまな説が唱えられている(美少女説、AI説、ただの白人のおっさん説など)。
現代ハードSFを代表する作家であり、主な著作として長編では『
ディアスポラ』、『
万物理論』、中短編では『
祈りの海』、『幸せの理由』などがある。
あらすじ
サグレダが目覚めると、そこは全てが“傾いた”世界であった。ガーサーと名乗る女性から〈大災厄〉という地球の重力が東向きに働くようになった〈変化〉があったことを告げられるが、既存の物理学と照らし合わせると様々な矛盾点が浮かび上がる。サグレダの粘り強い問答の結果、ガーサーはそこがデジタルなゲーム世界で、彼らはその端役〈ビット・プレイヤー〉であることを告白する。ガーサーの集落の端役たちはその出来の悪い世界と自らの境遇に諦念を示し、設定に従って生きることを選んでいたが、サグレダはゲームエンジンと設定の穴を突き、彼らの生活を改善することに乗り出す。
解説
無限小の領域では、加速度と重力加速度は区別できない(慣性質量と重力質量は等しい)という原理。または、慣性系で成立する物理法則は全て等価であるということ。「落下する(もちろん潮汐力の影響のない大きさの)エレベーターの中にいる人は、自分が無重力空間にいるのかただ落下しているだけなのか区別できない」という形で知られている。
2つの物体が落下しているとき、それらは同じ慣性系にあるので、互いに等速直線運動をしているように見える。つまり速度のベクトルが変化していないように見えるはずなのだ。これが作中のサグレダの指摘の論拠である。
時間並進対称性と空間並進対称性から外力のない系ではエネルギーと運動量が保存する。落下する物体が1周回って元の位置に戻ってくる(加速しながら)ならば、無限にエネルギーを取り出せることになる。そこで、地球-物体系の保存則を成り立たせるために物体が加速する分地球が減速すると考えると、エネルギーと運動量の保存から重い物ほど遅く落ちなければならなくなる。
所感
イーガンらしい新奇なアイディアの作品。イーガンの他の作品と比べると、数学的議論や詳細なナノテクノロジーのギミックなどもなく、要るとしても少しの物理的知識だけであり、初めて触れる人でも非常に読みやすくなっている。しかし彼の持ち味は決して失われていない。前半の状況証拠から仮設を組み立てて検討してを繰り返し、結果的に世界の真の姿を明らかにするのはハードSF的な面白さをシンプルに凝縮したもので、後半ではそれを倫理的、社会的問題と絡めて登場人物個人の苦悩を描いており、これはイーガンの得意とする展開だ。そんな訳で、これから人にイーガンを勧めるときはまず初めにこの短編を渡してみようと思う。
日本のサブカルに明るい人々にとっては、ゲーム的な設定の(出来の悪い)世界に転生するという展開はある種の作品群に対しての皮肉に思えるが、十中八九イーガンは知らないだろう(2014年にはそもそも異世界転生とかは流行ってなかったか)。しかし、登場人物達が現実世界のことについて語っていたり、矛盾のある世界設定だったりするのは、イーガンなりの(出来の悪い)ハイファンタジーに対するギャグなのかもしれない(人間以外の種族や魔法が古くから存在する世界ならば、現実の中近世のような文化だったり武器だったりがあるのは変じゃない?)。
最終更新:2019年10月09日 22:50