東北大SF研読書会
伊藤計劃「ハーモニー」

著者紹介

伊藤計劃 (いとう けいかく Project Itoh)
 1974年東京都生まれ。早稲田大学第二文学部、武蔵野美術大学美術学部映像学科卒。代表作に「虐殺器官」「ハーモニー」『The Indifference Engine』。
 言わずと知れた現代国内SF最高峰の作家、伊藤計劃である。
 06年、Webディレクターとして働きながら執筆した長篇小説「虐殺器官」を第7回小松左京賞に応募し、最終候補となる(受賞作無し)。このとき同じく最終候補作となった『Self-Reference ENGINE』を執筆した円城塔と知り合い、円城塔を誘って*1両作を早川書房に持ち込み、07年作家デビュー。「虐殺器官」は『SFが読みたい! 2008年版』1位を獲得し、日本SF大賞最終候補となる(受賞作は貴志祐介『新世界より』、アニメ『電脳コイル』)。
 翌08年、ゲーム『メタルギアソリッド4』のノベライズ「METAL GEAR SOLID GUNS OF THE PATLIOTS」、そして最後のオリジナル長篇「ハーモニー」を発表。「ハーモニー」は日本SF大賞、星雲賞を受賞し、英訳版はフィリップ・K・ディック特別賞*2を受賞。
 第4長篇「屍者の帝国」執筆中の09年3月20日、肺がんにより死去。
 処女作「虐殺器官」で日本SFの表舞台に立ち、第2作「ハーモニー」でその頂点に立ち、次作を期待されながらもこの世を去った。デビュー後の活動期間は2年に満たないものの、その死から10年以上が経った今でも強大な影響力を有し、今後もその影響は増大していくのではないかと思われる。
 ちなみに、小説以外の創作も手掛けており、映画や漫画なども制作している。もともとシネフィルであり、ブログ『伊藤計劃:第弐位相』では映画の感想を事細かく記している。また、ゲーム監督小島秀夫の大ファンであり、「小島秀夫原理主義者」と自称するほどであった。

解説

本節は「虐殺器官」レジュメの解説を前提としている。

続・伊藤計劃は嘘つき

 「虐殺器官」の部会で指摘した通り、「ハーモニー」においても最終盤の場面に致命的な嘘が存在する。
 伴名練*3や鯨井久志*4など京大勢が指摘する通り、本作の大嘘とは、エピローグの「これが人類の意識最後の日。」という記述である。
 ハーモナイズにはWatchMe のインストールが不可欠であるが、作中世界には、成長中のためWacthMe をインストール出来ない子供たちをはじめとして、WatchMe が身体に入っていない人間がかなり存在する。これは完全に計劃が意図的に仕掛けたものであり*5、これの存在によって、物語は多重的な意味をもつようになる。
 そもそも、本作はトァンの記憶を再構成する形で記述された作品であるので、信頼出来ない語り手であるトァンの語ることは十二分に疑ってかからなければならない。疑わずに率直に読んでしまった私を含む読者は、生半可な読みを反省するとともに、改めて本作の真の物語を考えることになる。

自由意志の耐えられない軽さ

 本作の題材は、自由意志である。本作が表でたどった道は、「人類が自由意志を返上し、ひとつの無意識に合一する」というものだった。作品世界では、その達成のためにWatchMe というガジェットを導入し、フーコーの生政治という概念を持ち込むことで理論づけを行った。また、作品世界において、かつてのミァハを含む自由意思をもたない哲学的ゾンビが実在することを提示することで、「自由意志の返上」というアイデアの説得力を強化することが出来た。これらによって、読者は、疑う余地のなかった自らの自由意志に対して疑念をもつようになる。そして、世界が少し変わって見えるようになる。これが、この作品の“センス・オブ・ワンダー”である。
 作中世界がこのあとたどっていくだろう運命は、非常に暗いものである。間違いなく、ハーモナイズされた人間と、されていない人間との間で戦争が起こる。もしくは、底抜けに明るいものかもしれない。ハーモナイズされた人間とされていない人間とは完全に隔絶され、別々の社会が構成されていくのかもしれない。
 これらのヴィジョンは、非常に新しいものに見えるかもしれない。しかし、これらは完全に新しいものであるということではなく、既に半世紀前のSFで語られたヴィジョンにその原型がある。要は、アーサー・C・クラークの「幼年期の終り」であり、星新一の「殉教」である。
 自由意志というテーマと結びつけたことと、「空気」「同調圧力」を背景とした説得力のある展開、魅力的なキャラクター、ガジェット群などの存在によって、人類進化という古典的テーマが現代的にブラッシュアップされた本作は、それだけで名作と呼ばれるに値する。事実、表側だけの評判によって、本作は国内SF長篇の最高傑作との評価を受けている。
 だが、それだけで済ましていいのだろうか。私は、この作品をもっと読み深められると思う。ここまでの解説の中で、etmlや「小説であることの必要性」を、私はまだ議論していない。
 自由意志を疑うことから、本作はさらに先へと繋がっていく。

あるいは物語でいっぱいのセカイ

 私たちが小説を読むとき、小説の中の登場人物はあたかも実在しているかのようにふるまう。しかしながら、私たちが小説から読み取ることが出来るのは、あくまで小説で陽に、または陰に描かれた情報に限られ、小説自体が嘘をついていた場合、それを見破るのは非常に難しい。これについては、これまでの解説でも触れてきた。ここで、本作の記述に特異なetmlという要素について考えていこうと思う。
 ここで議論したいのは、本作の登場人物たちは最初から自由意思がなかったのではないか、ということである。証拠として、自由意思なき人間だったミァハの存在と、作中の人物の感情表現がすべてetmlのみで記述されていること、登場人物たちの言動に意識があるとは思えないものが多いこと、そして登場人物たちの外見に関する描写が一切ないことが挙げられる。
 はじめにミァハについて。自由意思のない人間が実在することが作中で提示されているため、読者は登場人物がみなはじめから自由意思のない人間であるかもしれないということを考慮するべきである。伊藤計劃を相手にするならば、これぐらいの読みは当然なされなければならない。
 次に、etmlについて。本作のテクストがトァンの記憶に基づくものであるため、etml内の感情をトァンのものであると考えることだろうが、これは間違っている。etmlで記述される感情は、読者の感情である。読者が文章を読んだときに文字から浮かび上がる感情を表したのが、etmlである。作中の登場人物は、感情をもたないので当然感情表現をしたり、感情表現の描写が本文に出現したりもしない。感情のない登場人物たちが感情をもっているかのように読まれるために挿入された、信頼出来ない記述が、etmlなのである。
 本作には、矛盾する記述が数多く含まれている。特に目に付くのが時刻に関する矛盾で、トァンがキンシャサに真夜中に到着した後、その24時間後にランチを食べている場面さえ存在する。自由意思のある人間ならば、当然真夜中であることに気付くはずだ。計劃のポカミスということも考えられるが、作品全体にわたって散在することから、単純なミスとして退けるのも納得しがたい。もし登場人物全員に最初から意識がないのならば、うまく説明がつく。
 地味ながら、本作の一番異様な点は、登場人物たちに関する説明や描写が完全に欠如していることである。これについても、登場人物たちに自由意思がないので、描写しようにも出来ないということで説明がつく。これはetmlと並んで小説でなければ絶対に出来ない表現であり、「ハーモニー」という物語が小説で書かれなければならなかった理由にもなる。
 以上の事柄を総合して導き出されるのは、本作の登場人物はみな最初から自由意思をもっておらず、自由意思をもっているかのように感じていたのは単に私たちがそう思ったに過ぎない、ということである。私たちは、物語のない世界から勝手に物語を読み取っていたのだ。

そして気がつくと、私は真っ白なセカイにいた

 私は、文庫旧版の「ハーモニー」が好きだ。
 真っ白なカバーに包まれた本の中に、私たち読者は物語を読み取った。白銀のカフカ―ス山脈で、人類の意識は最後の日を迎え、語り手の意識が途切れて真っ白になっていくと同時に、その物語を載せた紙面も真っ白になった。真っ白な紙面に載った黒いシミに、私たちは物語を読み出だしたのだった。
 しかしながら、その物語も結局、最初から真っ白だったものに、私たちが勝手に投影して勝手に読み取った物語に過ぎなかった。「ハーモニー」は最初から真っ白であり、ハーモナイズされていた。
 気づけば「ハーモニー」のセカイは真っ白になっていた。私たちは、真っ白な世界を好きに彩ることが出来る。私も筆を執ってみたが、なかなか難しい。その一方で、少し楽しく感じはじめてきていることもまた確かなことだ。

開かれたテクストと、その敵

 私が「ハーモニー」を読み深めるにあたって参考にした文章を紹介する。
 まず、「ハーモニー」への回答として書かれたSFとして、飛浩隆「自生の夢」、伴名練「美亜羽へ贈る拳銃」、神林長平「いま集合的無意識を、」が挙げられる。これらは超一流の読み手による回答であり、これらの作品を読むことで「ハーモニー」のさまざまな側面に迫ることが出来るだろう。小説だけでなく、円城塔*6、飛浩隆*7、伴名練*8などの伊藤計劃評も数多く存在する。
 一方、計劃本人の文章*9では、創作の姿勢や物語に対する態度を率直に語っている。入手は困難だが、なぜかSF研には実際の冊子が現存しているので、それを読むといいだろう。
 神林長平の書く通り、文章というものは、いったん世に出てしまえばあらゆる読み方にさらされる。完璧な読みは存在しないが、間違った読みを修正して読み深めていくことは出来る。テクストを繰り返し読むことはもちろん、他者の批評を読んだり、感想を自分でまとめたり、SF研で他人と感想を交わしたりしていくことで、読みは深まっていく。作品を読む上での敵は自分ひとりであり、読み深めるのも読み誤るのも自分次第。私はそこに面白さを感じている。

所感

 ハーモニー。伊藤計劃の事実上の遺作となった現代SF最高の作品のひとつである。
 「虐殺器官」の部会のレジュメで語った通り、私は「虐殺器官」から続けてこの作品を読むことになった。私がSFを再び読むきっかけになった作品として、私はこの作品に対して非常に大きな思い入れがある。しかしながら、ここまで読み深めたのはごく最近になっての話だ。それも半分程度までは他人の読みに導かれたものであり、自分自身の読みによるのは後半部分だけになる。
 私が好きな部分は、もう解説で語りきってしまった。それでも強調しておくと、私が「ハーモニー」を好きなのは、なぜ「ハーモニー」は小説で書かれなければならなかったのか、という問いに対して、「ハーモニー」がその作中で完璧な解答を与えてくれたからだ。「ハーモニー」は、映画化や漫画化など到底不可能なはずの物語なのだ。
 他の人がどうかはわからないが、私には計劃への期待や喪失感はない。死後10年目にして、私は計劃の作品を通して計劃を理解出来たし、「ハーモニー」の先になにがあるのかは気になるが、気になるなら自分で考えればいい話だ。

(本レジュメには壁石九龍の創作「解説」を寄せてもらったが、同作が来年春刊行される同人誌『伊藤計劃トリビュート』に掲載される運びとなったためwikiには転載しなかった。)

下村
最終更新:2019年12月25日 14:19

*1 円城塔が伊藤計劃を誘ったとも。諸説あり。

*2 アメリカで発表されたペーパーバックのSFでもっとも優れたものに贈られる賞。特別賞は次点に当たる。

*3 ハヤカワ文庫SF『伊藤計劃トリビュート』作者あとがき、創元SF文庫『拡張幻想』の「著者のことば」

*4 https://hanfpen.hatenablog.com/entry/2019/03/23/000000

*5 傍証は大量にある。詳しくは前述の鯨井久志のブログ参照。

*6 『SFマガジン』伊藤計劃追悼号

*7 同じく、『SFマガジン』伊藤計劃追悼号

*8 「最後の謝辞――伊藤計劃先生へ」、同人誌『稀刊 奇想マガジン』号外

*9 「人という物語」、水戸芸術館ACM劇場機関誌『WALK』56号掲載