もう何もないに等しい比呂美がいた部屋。
初めて入ったときの緊張感は残されていない。
そうであっても比呂美がいた事実は変わらないはずだ。
あいつのことを話したら、比呂美に怒られたこともあった。
『でもここにくれば眞一郎くんが見つけてくれる。
きっと明るい場所に戻って行けるって』
あのとき、比呂美は俺が見つけてくれたと喜んでいたのかもしれない。
最初は驚いた顔をしていたけれど、穏やかに部屋の中に入れてくれていた。
『そんなことを言うためにこの部屋に来たの?』
そうだよな、比呂美はあいつの話をして欲しくなかった?
俺は比呂美の好みではないと思っていたが、比呂美のために伝えようとした。
いけすかない男であっても女子から人気があるはずだ。
実際にクラスの女子からも羨ましがられていた。
『私、同じ家にいてぜんぜん眞一郎くんのこと知らなかったかもしれない』
俺もそうだ。
比呂美のことをあまり知らない。
引越しを手伝いながら比呂美の私物を確認していた。
所有する書籍やCDや家財などをだ。
比呂美は俺が絵を描いていることも知らなかったようだ。
話したこともなかったし、まだ見せられるほどのものではない。
あの比呂美の逃避行の後に、雷轟丸の絵本と平行して続きを描こうとしていた。
それにしても容易にあの絵を見つけられたな。
まさか、俺のいない間に入ったことがあったりして?
さすがに、ない……。
俺は首を振ってみる。
『僕の中の君はいつも泣いていて、君の涙を僕は拭いたいと思う』
比呂美が朗読する声は澄んでいて理想的だった。
それからしばらく見つめていた。
『はは……、それ』
俺は照れ臭くて白状しようとしていた。
「比呂美のことだ」
かすかに口から洩らしてみた。
比呂美が目の前にいても、うまく伝えられそうにはなかった。
『きれいな絵。こんな絵、書けるのね、眞一郎くん』
『私、同じ家にいてぜんぜん眞一郎くんのこと知らなかったかもしれない』
もしかして比呂美は俺が言うまでもなく気づいたのかもしれない。
文章と涙と長髪の女性。
その三点を結びつけれれば、できなくはない。
もともと創作活動は身の回りのものから発想する。
俺だってそうだが、俺は逆にそうしかできないかもしれない。
比呂美を守ってあげたくて、空想の世界だけでも救おうとしていた。
『でも……今はもう(涙)、望んじゃいけないことだから』
薄っすらと涙を浮かべる比呂美に声を掛けてあげたかった。
『比呂美、俺……』
俺は何と繋げようとしていたのかを把握できていなかった。
『行くわ』
比呂美が俺に一言を残して去って行った。
俺は固まってしまったが、比呂美の椅子に座って考えた。
比呂美にしてあげられることをだ。
『君の涙を僕は拭いたいと思う』
比呂美が朗読した俺の絵本にあった台詞だけを、頭に思い浮かべていた。
上着を着て、自転車で比呂美を乗せたトラックを追い駆けた。
それ以外は何も考えてはいなかった。
俺は自転車を滑らせてしまったが、比呂美が駆けつけてくれた。
ころんでしまった比呂美を俺は庇った。
本当に不揃いな形で身体を重ねていた。
『全部ちゃんとするから』
俺は具体的に言わなかった。
比呂美は俺が乃絵と好き合っているから去ったかもしれないし、
他の理由があるかもしれないからだ。
たとえば仲上家を守るために、以前の状態に戻したとか。
それとも自立をしたくて、最初からやり直そうとしたとか。
それからは言葉を少なくして、比呂美のアパートで引越しの手伝いをしていた。
しばらくして紅茶を飲んでから帰宅した。
家にいた三人には服装や怪我などを心配されながら、比呂美の様子を訊かれた。
さすがに比呂美と公道で身体を重ねたことは伏せておいた。
「俺はこれから何をすればいい?」
誰もいない宙に訊いた。
比呂美のためと言われても何かを断定できずにはいる。
重大なのは乃絵のことだが、雷轟丸の絵本を渡して不機嫌な顔をされただけだ。
とても別れ話ができる状況ではない。
それに比呂美にはあいつがいる。
今はどういう関係なのかをはっきりと知らない。
そういえばあいつとはあのバイク事故の夜から会ってない。
比呂美はあいつのことをどう思っているのかも不明だ。
逃避行でバイクに乗せてもらうほどに信頼をしてる?
さすがにないだろうが、俺に嫉妬させようと付き合ってる?
俺のように比呂美のためを思って、乃絵と付き合っていた交換条件のため?
はっきりとどれとは言い切れずにいる。
それにあいつが好きであるのを比呂美から聞かされている。
昔話のときのように嘘をついて言い逃れるくせが、比呂美にはある?
俺は比呂美が嘘をつけると思いたくなかった。
そういえばあいつの話をするときには雄弁だった。
今はもう関係ない。
乃絵と別れて比呂美に告白しよう。
比呂美があいつを選ぶかもしれないが、それでも俺には悔いがない。
昔話やあの抱擁や自転車での疾走でも、比呂美は嫌な顔をしなかった。
まったく可能性がないわけではなさそうだ。
あの自転車での疾走で迷いを断って全力を尽くす覚悟を決めている。
俺は比呂美の顔を浮かべた。
今日、登校したときには、なぜか黒縁のメガネを掛けていた。
クラスの女子が話しているのを聞いていたが、コンタクトが破れたらしい。
俺は比呂美の視力が悪いのさえも知らなかった。
「まずはメガネの話をしよう」
俺は口にしてしまった。
いきなり堅苦しい話をする必要はない。
学校にいるときはずっと笑顔だったし、訊かれても困らないだろう。
俺はあのふたりの思い出の場所である竹林に向おう。
うまくゆけば比呂美と会えるかもしれないし、
会えなくても比呂美のアパートに行ってみよう。
学校では俺たちは有名になりすぎているし、話しにくい内容もある。
特に比呂美が一人暮らしをする理由は配慮されている。
仲上家との折り合いが悪くなっているのではなくて、
比呂美が自立を望んで行っているとされている。
たとえ俺が知らない真相があろうとも確かめてみたい。
だが考えを改める。
「俺は比呂美と気軽に話してみたい」
比呂美が仲上家に来たときに思っていたことだ。
両親がいなくなって比呂美は表情を消していた。
学校では明るくても仲上家では。
『ううん(首を振りながら)。ときどきは嬉しいこともあったわ』
俺は少しずつ打ち解けてはいて、たまに廊下で雑談はできるようになった。
それなのに一年前の今の時期くらいだったか、俺から距離を置くようになった。
「もしかしてあの頃に……」
比呂美は母さんに俺がお兄さんであることを吹き込まれたのかもしれない。
もう終わったことだ。
母さんを恨むのをやめよう。
最近では比呂美を実の娘のように扱うようになっている。
『
言っちゃった……』
比呂美が俺に疑惑を教えてくれたときの台詞だ。
何かを託していたかもしれない。
だが俺は乃絵と付き合ってしまった。
『でも……今はもう(涙)、望んじゃいけないことだから』
それでも比呂美は俺に望んでくれているかもしれない。
だったら余計なことを考えずに比呂美と向き合おう。
もう一度だけ、部屋を見回す。
比呂美がいるのを思いながらだ。
今はいなくてもいつか戻って来てくれるのを信じて。
俺は比呂美の部屋を後にする。
今度、入るのは比呂美がいるときにだ。
まずはあの幼い
夏祭りの思い出の場所である竹林に行こう。