平成23年度
受講者の方は、授業計画についてはシラバスをご覧ください
この授業は、次の3つの部分に大きく分かれます。
①まず、外国史概説の導入として、「歴史」についての、個人的な考え方を述べていきます。「これが歴史だ」というような決定版ではもちろんありません。「歴史とは何か」という問いは、これまで多くの歴史家の頭を悩ませてきました。それに対する答えは、その歴史家を取り巻く社会によって変わってくると思っています。現在における「歴史とは何か」。それが本講義で考えていきたいことです。
②
ギリシア・ローマ時代から第二次世界大戦までの時代の中で、現代の私たちにつながる制度、思想などについて学ぶ。現在、ヨーロッパが世界の中心ではなく、また過去においてもヨーロッパが先進的地域であった時代は必ずしも長くはありませんが、にもかかわらず、現在の社会を考える上で、知っておくべきヨーロッパの過去とその帰結があります。ただし、ここでいう「ヨーロッパ」とは不変ではありません。
③第二次世界大戦以降の現代史を学ぶ。これは、①の中でも、現在における「歴史」を考えるために不可欠な作業ですが、それに加え、受講者の皆さんが、現実社会と向き合うために必要な知識でもあります。
以上が大まかな流れです。これは授業全体にかかわることですが、この講義では、主に日本語で書かれた通史や概説書、教科書の叙述の変化に着目します。変化に目を向けることで、それが書かれた時代の社会について理解する一助になると考えるからです。
第1回
「歴史」とは何か
「歴史」とは何かについて考えます。私たちが、高校までで学んできた「歴史」とは、端的にいえば、過去に起きた出来事の中から選択されたことです。「歴史」という言葉は、「起こったこと」と「その叙述」の2つを含意しますが、前者と後者とのあいだに、「選択」という飛躍があることは言うまでもありません。
この「歴史」ですが、1980年代ごろから、新しい意味が加わったと言えます。すなわち、ピエール・ノラに代表されるような、「起こったこと」のその後における意味の研究です。言い換えるなら、それまでの歴史は、「起こったこと」の原因を探る営為でしたが、ノラの指摘は、過去ではなく、「起こったこと」以降の重要性に目を向けるものです。「歴史」のベクトルの変化がここには見てとれます。
こうした「歴史」の変化は、史料の範囲の変化も伴いました。その関連で挙げておきたいのは、歴史家自身も「記憶の場」になるという谷川稔の至言です。
歴史家も社会という環境の拘束を受ける存在であるとするならば、その作品もまた中立の立場に立ったものであることは不可能であることは言うまでもありません。
すなわち、「歴史」は、まさに歴史の中で変化するものであり、その意味で、現在の私たちにとっての歴史とは、過去に関する知の社会的表象であると言えるでしょう。
視点について考える
歴史を描くにしろ、認識するにしろ、ある一定の視点に立つことが必要になります。かつての歴史が、主に勝者の視点で描かれてきたことはよく指摘されます。それに対し、対抗言説としての歴史が、「
マイノリティ」の側で描かれ、共有されることがあります。これを「独占的」歴史から複合的歴史観への移行とここでは呼んでおきます。現在のヨーロッパ各国では、こうした複合的歴史観が主流となっています。
視点に関していま一つ重要なことがあります。歴史叙述には、常に2つの出来事が必要であると言われます。これはどういうことでしょうか。授業ではエストニアを事例にして説明します。
1940年8月6日にエストニアはソ連に「併合」されました。
ところがこの「併合」は1940-1991年(1941-44年を除く)には「編入」とされていました。それが、1991年8月の独立回復により「併合」という評価に変わったのです。すなわち、1940年に起こったことは、それだけでは歴史的な評価の対象にはなりません。その後、1944年にソ連がエストニアをドイツ軍から解放して、ソ連邦の一共和国としたことにより、「編入」という評価ができるのです。ところがこの評価は次の歴史的出来事(1991年の独立回復)を受けて、また変化します。
ここで言いたいことは、歴史的評価は、常に未来に向かって開かれているということです。もちろん、エストニアが再びロシアに併合されるなどということはもはやないと思いますが。
第2回
方法論
第1回でお話しした「視点」も方法論と密接にかかわりますが、ここでは、だ1回の講義後に受けた質問から、歴史家と歴史小説家に違いについて考えてみたいと思います。この違いについては、小田中直樹『歴史学ってなんだ?』(PHP新書)が分かりやすく説明していますので、それを引用したいと思います。小田中氏は、この2つの違いについて、史実かフィクションか、テーマか文体か、叙述か分析か、といった点から考察しますが、このいずれも両者を分けるのに十分ではないと判断します。そして最終的には、次のように述べます。
根拠がない場合には、「わからない」と述べるか、あるいは「これはあくまでも仮説である」と断らなければなりません。これは歴史書の限界でもあり、いちばん基本的な特徴でもあります。いうまでもなく、歴史を書く歴史家だって、すべてがわかっているわけではありません。 ただし、根拠があることと、根拠がないことは、きちんと区別しなければなりません。そのうえで、根拠がないように見えることについて、ほかの史料や先行研究を読み直し、新しい解釈を考えることによって、本当に根拠がないと断定できるか否かを問い続けなければなりません。(同書37-38頁)
・・・と引用したのですが、とくに中世についての歴史概説書や啓蒙書を
読んでいると、必ずしも、根拠のあるなしを明確に分けていない箇所に出会うこともあります。研究論文ではそうしたことはないとは思いますが。そうすると、歴史家も、一般向けの文章では、厳密さをある程度犠牲にして、面白さ、わかりやすさを優先する場合もあると言えるのかもしれません。
歴史観
第1回でお話ししたように、「歴史」は社会の中で常に同じように理解されているわけではありません。以下の話は、「歴史とは何か」に第1回とは別の観点から答えようとするものです。
歴史観は、ギリシア・ローマ時代の「円環、循環」的歴史観から、キリスト教の影響を受けた直線的歴史観へと変化してきました。ただし、ギリシア・ローマ時代であっても、ユダヤ教は、始点と終点のある歴史観をいだいていましたから、時代で区分するのは適当ではありません。
さて、このキリスト教的直線的歴史観が、その後のヨーロッパに長く受け継がれます。ヘーゲルやマルクスの進歩史観もこの系列にあるといってよいでしょう。すなわち、近代ヨーロッパの歴史観は、ギリシア・ローマ時代の歴史観を受け継いでいるわけではありません。とはいえ、近代ヨーロッパが直線的歴史観で完全に覆われていたわけかというと、そういうわけでもありません。ヴィーコ(近世ですが)、ブルクハルトらの歴史観を上げてこのことを説明した野田宣雄『歴史をいかに学ぶか』(PHP新書)がこの点では参考になります。
この授業で考えたいのは、こうした直線的歴史観が現代においては意味をもたない中での「歴史」の意味です。この点については、後の講義で考えますので、ここでは踏み込みませんが、冷戦後の世界では、「大きな物語」、すなわち、何らかの目的に向かって進む歴史という捉え方は失われました。それでも私たちの集団としてのアイデンティティを支える核としての歴史の意味は、いい意味でも悪い意味でも失われていないと、私は考えています(大沢真幸『「正義」を考える』が生きにくさの理由として、物語としての歴史の喪失を指摘していることにも目を向ける必要はありますが)。それをここれでは「公共の歴史」としておきましょう。この歴史は様々な要素によって構築されます。その一つの、ただし重要な要素が歴史研究です。他方、この歴史研究も、「公共の歴史」の拘束を受けます。なぜならば、歴史研究を行う歴史家自身もまた何らかの集団への帰属、そして時代という文脈から逃れられないからです。こうして歴史研究と「公共の歴史」の関係には、循環・往還が見られることになります。この具体例については、後日お話しすることになります。
第3回
方法論続き
今回は、19世紀に成立した近代歴史学の方法論について簡単にまとめたうえで、それがどのように変わってきているのかについて考えます。
19世紀の歴史学といえば実証主義史学です。これは、徹底的に史料を渉猟し、虚心に史料に臨む態度を要請する立場であると言えます。実証主義史学は、歴史学の科学性を強く意識したものです。したがって、史料に対し、正しい作法で接するならば、おのずと正しい歴史的真実が得られると考えられていました。もちろん、こうした実証主義史学に対しては、同時代人からの批判もなかったわけではありません。とはいえ、歴史学内からの本格的な批判は、いわゆるアナール派から出てきました。
ジャック・ル・ゴフは、「すべての歴史は、原史料と呼ばれる記録の生産と解読のなかに存在していると言えます」と述べています(『中世とは何か』47頁)。一見するとこれは実証史学の立場に近いように思えますが、実は違います。彼は、アナール派の師から、「史料を作り出すのは歴史家であるということ、痕跡に、残存物に、原史料としての地位を与えるのは歴史家であるということを学びました」とも述べているのです(同48頁)。
ル・ゴフについては、もう一つ付け加えておきたいと思います。彼は、「近現代史は、その研究手法を再検討し、新しいアプローチの技術を構築するべきだと思いますね。違った問題意識を採用するべきだと思います」と言っています(同61頁)。これを、史料として扱い得るものの範囲が、無限に広がっている中で、現代史は特に、新聞、統計資料、行政文書、日記、手紙、果てはインターネット上の言説まで、とてつもない史料群を前に、問いかけねばならない歴史家に、歴史叙述の方法の再考迫った言葉と、私自身は受け止めます。私自身のアプローチについては、ここではアルトーグの『歴史の体制』に影響を受けているとだけ述べておきたいと思います。
第4回
ギリシア・ローマ1
◎現代とのつながり:ヨーロッパ人が自らの起源とみなすのはどのような社会か。とりわけ、民主政、市民権、キリスト教の誕生と展開などについて見ていきます。
ギリシア・ローマ時代を、ヨーロッパの人たちは、自分たちの直接の過去としてとらえていると言ってよいでしょう。このことに関し、歴史家の樺山氏は次のように書いています。
ローマの知的文化の祖であるギリシアは、こうして、全体としては、ヨーロッパの祖源であると観念される。それは、率直に言って誤解というべきであろうが、その後、現在にいたるまでのヨーロッパ人の歴史観の基礎をなしている。ギリシアは「ヨーロッパの古代」という名目をおびて、復活されたのである。
ここで興味深いのは、そうした、ギリシア・ローマの捉え方が、これらの時代についての歴史学的解明にも影響を与えてきたことです。
考えてみれば当たり前のことですが、「歴史」は、古い時代から順番に解き明かされるわけではありません。むしろ、古い時代について、新しい考古学の技術などによって、最近になってわかったこと、発見されたことなどもあります。その中でも重要な発見の一つとして、線文字Bの解読があります。
線文字Bとは、ミケーネ文明時代(~紀元前1200)に使われていた文字です。この文字が、ようやく1953年になって、ヴェントリスという建築家によってギリシア語であることが分かり、解読されたことにより、ミケーネ時代についての研究は新たな進展をみることになりました。
線文字Bで書かれたものは、歴史や文学ではなく、いわゆる公文書のようなもので、職務遂行上のやり取りが記録されています。そこからわかったことは、ミケーネ文明は基本的にはオリエントの専制国家と共通する性格を有刷る王国であるということです。
こうした例を見ても、古代史にもまた今後書き換えられる余地があることを忘れるわけにはいかないことがわかります。ミケーネ文明の終焉についても、かつてはギリシア人の一派であるドーリア人の侵入による破壊によって説明されていましたが、近年では、「海の民」のような外敵の襲来に加えて、国内対立や気候変動による飢饉などの内的要因が重視されていることも、そうした書き換えの一例でしょう。ただし、書き換えについては、新たな史料等が発見されたことによるものと、社会のあり方がが変わった影響を受けてのものがあることも指摘しておきます。
ギリシア・ローマ2
前1200年から前8世紀は、「暗黒時代」と呼ばれ、社会的に混乱していたものの、けっして、その間ずっと、またギリシアの全域にわたって、そうであったわけではないようです。ギリシアというと、アテナイとスパルタが典型であるような誤解がありますが、必ずしもそうではありません。この時代のことは同時代の文字史料が皆無で、考古学的研究に多くを依存しているわけですが、後代に書かれたものではアテナイについての史料が圧倒的に多く残っており、そのことが、我々がアテナイについて多くを知る(そのためにバランスを欠く)理由になっています。
ところで、私が高校で学んだころは、ギリシアといえば「ポリス」でした。ポリスは都市国家と訳されますが、むしろ、領域的なまとまりというよりは人的まとまりと言えそうです。現在では、これに加えて「エトノス」というまとまりの存在も知られています。「エトノス」は「ポリス」よりも緩やかなまとまりで、中にポリスを含んでいる場合もあります。
それでは簡単に、アテナイの政治体制の変遷について見てみましょう。前8世紀前半から現れたポリスの中で、アテナイではおおざっぱには、貴族政→財産政治→僭主政→民主政と変遷します。
貴族政は、階層化された社会において、貴族が政治を独占している状態です。とはいえ、貴族と平民の間に支配・被支配という人格的関係は存在しませんでした。これが、平民の一部が財力を得て、戦争に参加することが可能になると、財産に基づいて政治への参加が可能になる財産政治に変わります。それがソロンの改革です。ソロンは借金に苦しむ市民の債務の帳消しや奴隷となっていたアテナイ人の救済を行い、同時に土地を基準とする財産額に応じて市民を4つの等級に分け、政治への参加の度合いを財産によって決める制度を作りました。
僭主政は、有力貴族間の争いが絶えない中で、それを勝ち抜いて台頭したのがペイシストラトスである。僭主というとあまり良いイメージがわかないが、このペイシストラトスは、法に依拠した政治を行い、国力の増進に寄与した。しかし彼の死後、再び、貴族間の抗争が激化し、スパルタの介入もあった。そうした中で、市民の支持を得て政争に勝利したのが、クレイステネスである。アテナイの民主制の基盤を作ったのは、このクレイステネスである。民主制(デモクラシー)という言葉の下となった「デーモス」(基本行政単位)が導入され、このデーモス単位に、(評)議員が選出された。クレイステネスの下で、僭主となる可能性のある人物を記して追放する陶片追放(オストラキスモス)も制度化された。
市民の政治参加が拡大した背景には、ペルシア戦争等での船の漕ぎ手の必要による市民の発言権の高まりがあった。
最終更新:2011年11月28日 22:33