第3話「だって、あなたが一番好きだから」
放課後――生徒たちは最後の授業が終わるなり荷物をまとめて、ある者は体操服に着替えて運動系の部活へ、ある者はカバンをもって家路に向かう。そして、ナムレは他の三人と隣のスリャーザ、そしてラーセマングの導きの下で部室に連れていかれようとしていた。
「よーし、我らが
スカルムレイ研究会の新入りよ、今日もスカルムレイ陛下のことについて論じようではないか」
いつもテンションの高いテルテナルは早速そう切り出して促した。依然としてナムレは鬱陶しそうな顔をしている。ラーセマングも時期に荷物をまとめ終わり、テルテナルに同調していた。
「ささ、行くよナムレ」
ラーセマングはナムレの背中を押す。もはや何らかの勧誘だ。だが、ナムレにはこの後予定――謎の声に呼ばれていたこと――を思い出した。時間も場所も何もかも同じなのだが。
「あ、そういえばナムレにはこの後予定があったな」
そう言ったのはラズィミエだ。さすがは気を利かせてくれる。テルテナルは残念そうな顔をした。
「えー、マジかよー。絶対来いよー?」
「わかった。分かったから」
彼らと別れの挨拶をしたのちに、別の方向へ歩き始めた。後ろに誰もいないことを確認した。そして、この後どうしようか考えた。あの声が提示してきた待ち合わせ場所はあの部室だ。だが、そんなことをすれば怪しまれることは明白だった。
だが、冷静に考えてみるといい。あの謎の声はまともなことを提案していなかった。『ラーセマング=カリーファテリーンの暗殺』といったか。仮にも姉と呼ぶことを強要されている、大事な人間を殺そうという、普通に考えて自分がやるようなことではないし、本人にはそんな意志も実力もないはず。そんなことをわざわざ自分にやらせるなんて、やはりおかしいと思った。
特に何もなかったことにしておき、ナムレはとりあえず部活に向かおうと考えた。あの謎の声も夢か何かだったのだろう。そうに違いない。自分に彼女は殺せない。足先を急に変えて、さも先ほどまで用事があったかのように、廊下で数秒無駄に時を過ごしてから部室へ向かおうとした。
「やはり来てくれたのね」
「!?」
昨日の帰りにも聞いた謎の声だ。まさかこんなタイミングで現れるとは思わなかった。
「集合場所にいたんだけれど、やっぱり彼らしか来なかったから、様子見に来たら、やはりそんなところで立ち往生していたのね…どうしたのかしら?」
「…あの部屋は俺の所属しているサークルで使うんだ。どうせ昨日の話の続きをしに来たんだろう?それをあんなところでできるか」
実体の見えない相手に対して必死に抗議している。誰かに見られていないかどうか心配だ。
「あら…あんなサークル、在って無いようなものだわ。妙な配慮をする必要はなかったのに…まあいいわ。昨日の提案について、やる気になったかしら?」
やはりそのことを聞いてくるか。ナムレはもちろんすぐには答える気にはなれない。当然ながら彼女を殺したくも、関係を険悪にもしたくはないが、相手の事情によっては自分が何かされるのではないかという危惧もあった。だが、余計な時間を使っている場合ではない。なるべく早めに応答した。
「俺はやるつもりはない。俺にあいつは殺せないから」
「そうでもないかもしれないわよ?」
その返答にナムレは違和感を覚えた。そうでもないかもしれない。自分に、彼女を嫌うような心理が働いていると、そういう深層心理があるとでも見抜いているのだろうか?だとしたら見当違いだ。
「どういうことだ?」
「ラーセマング=カリーファテリーン、彼女はあなたに対してとても人間の一生では償えないほどの禍根を残していった。あなたは以前の全てを失っているのよ。力も、財産も、家族も、彼女はあなたの全てを奪った。命でさえも」
「…何が言いたい?俺はあいつにそんなことをされた覚えはない」
「当然よね……」
とてもユーゴック語が通じているとは思えない。なんだかこうやって虚無に対して話しかけているのも馬鹿らしい。
「それくらい、彼女が貴方に残した傷は深いわ。だから、私はあなたに力を授けて彼女を暗殺する術を与える。するとあなたは居場所を失うかもしれない。でも大丈夫よ。すべてを私の案に委ねるの。そしたら、あなたを助けに来る」
「何を言っているのかわからない。あんたは一体誰だ?」
あまりにも唐突な出来事。何かの教室の扉が開いたのだ。ゆっくりではなく、わざとらしく音を立てるように。開いた扉の先には、長い金髪の少女が立っていた。ナムレの知っている人間ではない。彼女はスカルタンでもなく、ペーセ人の民族衣装でもなく、ファイクレオネ風の軍服を纏っていた。その風貌はまるで
特別警察だった。
だが、彼女は鍔の非常に大きい帽子をかぶっていた。彼女の眼を確認することはできず、口角が軽く上がっていて笑みを浮かべていることしか分からなかった。白い手袋を身につけた彼女の右手は、胸ポケットを探って昨日と同じように何かが書かれた紙をナムレに示した。ナムレはそれを何も考える暇なく受け取った。硬い紙にまたしても何やら文字が書かれていた。
「…え?」
「自己紹介、私の名刺を受け取りなさい」
さっきまで聞こえていた謎の声と全く同じような声色だ。謎の声の正体なのだろうかと推測した。
ナムレが名刺を確かに手に持つと、少女は部屋の方に戻っていた。ナムレの方に手を振りながら扉が閉めた。音も気配も消え、さもそこには何もなかったかのようだった。怪しげに思ったナムレは再び扉に手を掛ける。通常通り、ロックがかけられ開けることはできなかった。職員室でこの部屋の鍵を借りることくらい容易だろうが、相手の正体が謎な分、現段階での深い詮索も意味を持たないと考えた。懐疑心を持ちながら一応用が済んだということになり、部室へ向かおうとした。
ふと、先ほど受け取った名刺を覗いてみた。しかし、名刺とはよく言ったもの。ラズ・ププーサ体で大きくReeunar(奪還者)と書かれ、その下の方にはラズ・アルムレイン体で「私を呼ぶときは美術準備室の前か三階渡り廊下、そして実験室にしなさい」とのこと。今後彼女のことを呼ぶことがあるのかどうか。なんだか彼女はどうも関わると面倒事に巻き込まれると思ってしまう。どうも違和感しかない思いを胸に抱きながら、部室の扉の前に立った。
扉を開けた。すると真ん中のテーブルに座っていた部員五人が一斉にナムレを見た。
「おっ、ナムレ来てくれたな。えらく時間がかかっていたじゃないか」
「ああ、ちょっと手こずってな」
「ナムレ!さあ早くこっちに座って!」
右手でナムレを招こうとするのはラーセマング。ナムレは先ほどまで、この今自分を読んでいる人間を殺す話を持ちかけられていた。そのインパクトが強すぎて、どうも接しづらかった。
ナムレが椅子に座ると、スリャーザが話を始めた。
「ちょうどよかったよナムレ。今からまた別にスカルムレイについて考察を入れようといろいろと資料を用意してきたところだ」
カバンから取り出してきたファイルをテーブルに出した。ファイルからは豪華絢爛で美しい装飾を身につけたスカルムレイの肖像画が飛び出してきた。
「今日ピックアップしたいスカルムレイは、このお方だ。ラズィミエ、名前は分かるか?」
「もちろん、彼女はスステ=スカルムレイだろ?」
「なんと!彼女はあの偉大なるスステ=スカルムレイ!!」
唐突に大声を上げたのは言うまでもなくラーセマング。そのリアクションに便乗するかのようにスリャーザも解説を付け加える。
「君たちの言う通り、言わずと知れたスカルムレイだ。彼女は997年にお生まれになり、その28年後にスカルムレイに即位なさった。彼女の時代、王国は派閥分裂による宗教戦争により内乱が悪化していた。内乱が起こりすぎて当然ながら経済は停滞し情勢は悪化していた。そこを救われたのが彼女だった」
いつも通りのスリャーザの解説である、と思われる。なにしろナムレはまだ、スリャーザのこういう姿を見てからまだ二日なのだ。スリャーザの熱弁は続く。今度は話し方を変えてきた。
「当時派閥の乱立と言うものはとても重要な意味を持った。信仰はもちろん行政、経済など、生活にいたるところに
シャスティの派閥と言うものは大きな意味を持ち、この国を支配していた。それをすべて解体して中央集権とされたのだ。それ以来スカルムレイは指揮官からこの国の全権限を握り、トイターの遺産と神の意志を受け継ぐ最高権力者として見せたのだ」
ナムレ以外すっかり熱くなった研究会メンバー。同じようにラーセマングも解説を加えた。
「さすがは歴史的なスカルムレイ。彼女が始めたこの体制を以来スステ政治と呼ぶのよ」
このことは
ハタ王国の人民にとってはもはや常識中の常識。なぜ海は青いのか、なぜ鳥は空を飛ぶのかといったことと同じであった。ナムレもそのことは散々教えられてきた。
「その通りだ、ラーセマング。それにしても、君は新入部員なのにずいぶんと知識が豊富だなあ?」
「馬鹿にしないで、イルキスの出身なのよ」
まるで決め台詞のように言った。そんなことを言われてしまって、ナムレにも矛先が向いた。
「へえ、じゃあナムレのやつもそれなりの知識があるというのか?」
「いや、ナムレはまだ勉強中よ。私の教育カリキュラムによれば来年にはもうすごいことになっているわよ。この学校の国史で学ぶ内容なんて朝飯前のレベルね」
その発言を聞いてスリャーザはすこし遊びたい気持ちになった。
「ほほう、国史の内容が朝飯前……それはラーセマング、君自身もそうであると言いたいのかな?」
「…そうよ、それが何か?」
「全く、この私、パシュ=スリャーザの国史に関する知識をなめてもらっては困る。これでも実家はイルキスなんだ、そこらの高校生とはわけが違うぜ?」
「たいそうな自身だこと、何なら勝負してみる?」
「もちろんだとも、次の定期考査の国史の点数で勝負しようぜ」
思わぬ戦火の蓋が切られてしまったようだ。
「もちろん、ただし条件があるわ」
「ん?なんだ」
ここでラーセマングは恐ろしい追加ルールを提示してきた。
「もし私が勝ったらこのスカルムレイ研究会の部長に就任させてもらうわ」
またしても予想外な条件である。次回の定期考査の結果でスカルムレイ研究会の代表まで変わってしまう恐れがある。ツェッケナルもラズィミエもテルテナルも目を大きく開けて驚いた。
「な、なんだと!?」
「いや、いいだろう。部長たるもの、もっとも歴史に通じるものでなければならない。では、私が勝ったらラーセマングの放校処分とする」
スリャーザの提示した条件はより場を混乱させた。
「な…!?」
ラーセマングが驚いたのは言うまでもない。
「お、おいおいスリャーザ!それはまずいぞ!ラーセマングが俺らの学年の間でどれほどのアイドルとして認知されているのかわかっているのか!?そんな子を放校なんてしちまったら……」
「そうだ、俺らはこの学校の男子から猛反発を受けるぞ!第一、アンタ一体どうやってそんなことをするんだ!?」
「策があるんだよ、私には。スカルムレイ研究会部長の権限をなめないでくれよ、部員たちよ」
そんなに怖い部活だったかとナムレは冗談交じりに突っ込んでいた。ただのサークル代表が、なぜそんなことまで支配できるのか。スリャーザお得意の誇大妄想ホラ話かもしれない。ラーセマングを除いた多くがそう思った。
――
その日の夜、ラーセマングは家に着くなり大量の書類をナムレに見せてきた。寝る直前まで。夕飯を食べている間でさえも。風呂場であっても、謎の書類をナムレに見せ続けた。
「おい、スリャーザとの勝負の事なら分かったから、俺を巻き込むのはやめてくれよ」
布団にもぐりこむナムレ。しかしラーセマングは小さい明かりを付けながら、寝ているナムレの顔を覗き込んで書類を見せ続けた。その書類とは、長い長いハタ王国――より正確に言うと
トイター教――の歴史書の一部である。
「違うのよ、知識と言うものは、ただ覚えるよりも人に教えたほうがより正確に理解できるのよ。だから今私は今までに得た知識とこれから知る知識を組み合わせて、あなたに教えることでさらに理解を深めようとしているのよ。すべては、部長になるために」
「あんな部活の部長になったところで、お前にはイルキスがあるだろうが」
「うるさいわね。いいから私の話を聞いていなさい」
「もっと他にいるだろう、なぜ俺を選ぶ?寝かせてくれよ。俺は日頃の旧暦の暗記作業で十分疲れているんだ」
ナムレはラーセマングを断って布団を閉じてしまった。相手をしてもらえなくなったラーセマングは布団に少し近づいて軽く囁いた。
「だって、あなたが一番好きだから」
さすがにナムレもドキッとしたが、それが悟られないように返した。
「なら先に寝かせてくれ」
「ナムレも私のこと好きでしょ?」
嫌いではない、何もできないナムレのことを何かといつでも気にかけてくれる彼女は、確かにナムレにとっては大事な存在であった。しかし、そういった恋愛感情を抱くほどではない――いや、それは言い訳だ。本当は充分に好きである。積極的なアプローチに潰されるのも時間の問題かもしれないが、それでもナムレには意識があった。だが、自分に嘘をつくことだけは、一応イルキスの養子という肩書に誓って避けねばならないと考えた。その結果、ナムレの頭が布団から出てきた。
「……少しだけだぞ」
だがナムレは目の前に光景に驚いた。ラーセマングはすでに書類を持ったまま座りながら寝ていたのだ。本当にどうしようもない、と甚だ呆れた。だが、さっきの反応を聞かれていなかったのは少し救われたのかもしれない。
だが安心してナムレは布団にそのまま身を預けて寝ようとした。しかし、そうしようとした瞬間に、腹を誰かに殴られるというか、何か重たいものが自分の腹に圧し掛かる感覚を覚えた。
「グホッ……!」
ついつい変な声が出てしまった。急いで起きて確認してみると、座りながら寝ていたはずのラーセマングがナムレの方に倒れていた。
――
いつもの朝の後である。ナムレとラーセマングの二人は忙しなく階段を駆け上がる。彼らは今日珍しく遅刻したのだ。だが予鈴には十分間に合う。教室に入りいつものメンツが確かに椅子に座っていることを確認しようとした。
「あ、カリーファテリーン達だ」
「遅刻か~?絶対ナムレがやらかしただろ~」
なぜわかる、とナムレは小さくつぶやいた。ラーセマングはナムレに倒れながら先に熟睡してしまったが、ナムレの方はというとあまり眠れずにいた。登校途中もこのことを執拗にラーセマングに問い詰められていた――彼女の事なのだからそんなことがあったら絶対に聞いてくるに違いないと彼は予想していた――が、ナムレは一向に答えようとはしなかった。
理由は単純で、例の特別警察の服を着た少女の話である。ナムレよりは確実に年下なのだが、ナムレ自身よりははるかに大人びていた。寝ようとしても、何度となくその少女が現れてナムレに問いかけるのである。彼女は今寝ている、あなたが今までにされてきた仕打ちを今ここで晴らせと。
何度も彼が言っている通り、彼にはそんなことをされた記憶はない。やれといわれてやるわけもなく、だからといってやらなければ向こうが何をしてくるのかもわからない。そんな葛藤を続けながら、いつの間にか彼女はその場からいなくなっていた。それからしばらくしてラーセマングが起きたのだから、彼女がそれを知る由はない。
何度かうとうとしていたとはいえ、熟睡できたわけでは決してない。通りで彼にはまだ疲れがはっきりと見て取れるのだ。
「遅いな、ナムレ」
「本当なの!この子ったら全然眠れなかったとか言ってさ~、理由すら話してくれないのよ?」
「へぇ~?」
「気を付けたほうがいいぜ。ナムレのやつ、結構おとなしそうな顔しているがちゃんと男の本能は備えてやがるからなあ」
「おい煩いぞテルテナル、自重しろ」
「はっはっは、冗談だっての。仮にも
パンシャスティであるお前がそんな不敬を侵すなんて、トイター教徒の俺らが本気で考える訳ねえだろ?」
「本当だ、チェクセル確定だな」
口々にラズィミエもコメントを残す。そこにラーセマングが静けさを以て口にした。
「確かにそんなことしたら神の怒りに触れるわ。でも、それは相手の同意を得ているのならば全く疑われることはない……それはこの地上に半永久的に神の言葉を広めるために必要な行為だから」
何かを含ませるような言い方。これもナムレには分かった。
「おら、この子と一緒に半永久的に神の言葉を広めてこいよ」
「断る」
連中は一斉に笑った。ラーセマングはいつもの表情――すなわちよくわからないニコニコした顔でいた。その笑い声の中に、ナムレは何かが一つ欠けていることに気付いた。
「そういえば、ツェッケナルは?」
「ああ、なんかさっき電話で休むって連絡があった」
あのツェッケナルが学校を休むとは珍しい。というのも、ツェッケナルは今まで皆勤だったのだ。風邪などひいたことはないと豪語するし、学校にはかわいい子がいっぱいいるとか言っていたし、サークルでの活動に手は抜けないとも言っていた。
「休む?何故?」
「そこなんだよな」
テルテナルが表情を変えた。すでに事情を聴いているような顔をしているラズィミエが話し始めた。
「あいつ、今日から二週間旅行に行くらしい」
「旅行!?どこにだ?」
「PMCFだよ。ついこの前連絡があった。ツェッケナルが撮ったのか知らないが天神《マカティ》の写真がメールで送られてきた」
天神、PMCFの都市の一つである。まさか本当に行っているのか。
「今あいつと連絡は取れないのか?」
「今のは
ウェールフープ転送だ。とっくに携帯は圏外だし、もうしばらくは通信はないだろう」
残念だ、といえるのだろうか。一種のムードメーカーであるツェッケナルがいないとなると、かなり寂しいことになる。あいつが学校に来ていないこと自体異例の事態だ。
やがてチャイムが鳴り生徒は席に着いた。最初の授業は国史だった。国史のテスト勉強のためにラーセマングはいち早く席について授業を受けようとする。別にそんなに勉強しなくても学校で得られる知識なんて限られているだろうに。隣の席だったナムレが着席すると、先生がまだ来ないのを確認してから言う。
「別にそんなことしなくても、国史の授業内容はもう理解できているんじゃないの?」
「甘いわナムレ。姉たるもの、弟に恥は見せられない。先生が学校で教えた範囲のみからテストを作成するとは限らないんだから」
まあ確かにそうだが、と思った。だがナムレが本当に心配しているのはそこではない。授業で教えられるのはせいぜい授業で扱う範囲のみだ。それ以上は興味で先生に訊いてみるとかしないと先生はおそらく帰るのだろう。元来のハタ王国の教育スタイルをよく継承している。
「このあと先生のところに行くの?」
「ええ、どんな命題でもかならず聞くべき点と言うものはあるはずよ。知識を深めておかないと、あの男には勝てないわ」
一瞬あの男とはだれを意味するのか分からなかった。だが、すぐに推測はついた。昨日彼女に宣戦布告してきたあのスリャーザの事だろう。あまりにも急な賭け事で、しかもスカルムレイ研究会の命運もかかっているらしい。あまりナムレには実感がないが、他の部員にとってはそれほどにまで重要な勝負なのである。
「そう、まあがんばれ」
当然ながらナムレは自分には関係ないと思っている。そうこうしている間に教師が到着した。
――
やがて授業が終了する。内容はハフリスンターリブ勃興と勢力拡大である。
ハフリスンターリブとは、かつてハタ王国の北部、すなわちイザルタ地方よりも北の地方で栄えた反王国思想を持つ勢力である。発端は当時国内で深刻化していた宗教差別である。かつてトイターがスケニウとハグナンおよびディスナルとテリーンを支配下におさめた後、さらに勢力を北に伸ばすべくしばらくテイカ=スカルムレイ政権は軍を動かして北上政策をとっていた。その結果イザルタやアカーノを手に入れたわけであるがイザルタよりも北を攻める前に国内情勢を整える政策に転換してからハフルはトイター教徒や
ウィトイターが長らく混在する地域となっていた。時代は下りイザルタがその境界となる最北端になった。
やがてファイクレオネから移住してきたファイクレオネ人がハタ王国北部に出現し始めた。彼らは巨大な都市を求めて南下したのだが、スステ政治の影響により宗教政策ははるかに強化されていた。ウィトイターは市民として認められず、移民たちは宗教差別にさらされた。この現状を拭い去るべく立ち上がったのがララータ=ハフリスンターリブであった。彼は周辺の被差別民を結束させて運動を起こす。それがやがて組織の形をとり組織的なクーデターに発展していったのがハフリスンターリブの大まかな経緯だ。のちに彼らは反王国勢力かつ国家転覆をたくらみスカルムレイでさえも打倒しようとする。彼らについてはカリアホととあるディスナルのシャスティの助力により
デュイン戦争で鎮圧された。
予言していた通りラーセマングは立ち上がった。その時の体勢の変化で、微妙に髪が肩から落ちていくのを直しながら。
「さっ、行くよナムレ」
「え、あんただけでいいだろ」
「馬鹿なこと言わないで。パンシャスティたるもの、祖国の歴史をよく理解して神の言葉を広める努力に役立てないといけないのよ」
ナムレに一切物事を喋らす隙を与えぬまま、ラーセマングは彼の右腕を掴んで強引に引っ張った。そのまま引っ張られるわけにもいかずナムレは仕方なく立ち上がって半強制的に教卓まで連れて行かれた。先生はその異様な光景にすぐに気が付いた。
「ああ、カリーファテリーンの二人か。どうしたんだ?」
「先生、今日授業で取り上げられたハフリスンターリブの勃興の事なのですが」
「はい」
ラーセマングはノートを開いて示した。それはハフリスンターリブの家系図である。
「これは私がノートに記したハフリスンターリブ家の家系図です。ここにハタがいるとしますと、ここには誰が入りますか?」
ナムレは当然ながらなぜそんなことを訊くのかと首をかしげたが、これも知識がどうこうという話になるのだろう。ノートの図をまじまじと見る先生の顔はとても余裕のある表情をしていなかった。
「それは……ユーナリア=ハフリスンターリブだな」
「あ、そうなんですか?」
「確かそうだ」
明らかにハフリスンターリブ家が好むような名前である。というのも、これは以前ラーセマングから聞いた話なのだが、かつて王国北部で大量に発生した反王国派勢力通称「ハフリスンターリブ」の指導者ハフリスンターリブ一族は後継者に王国と密接に関係する古めかしい名前を付けようとしていたらしい。初代ハフリスンターリブ指導者のララータ=ハフリスンターリブは該当しないが、その息子のチャルズはまさに有字の字母の名前だし、その息子のハタなんて国号を出してきている。これについては様々な説が提唱されており未だに国史における議論の的になるという。そんな背景での「ユーナリア」という名前である。
「でも彼、明らかにおかしな家系図を作っています。どうしてですか?」
「それは俺も知らないな…説はいくつかあるがもっとも濃厚なのは拉致説だ」
「拉致説?」
ナムレは一応二人の話を聞いていた。
「もうそろそろ俺も次の授業に行かないといけない。詳しい話は放課後にしよう。君の部活は?」
「私たち二人ともスカルムレイ研究会です」
そういうと、先生は奇妙なリアクションをとった。
「スカルムレイ研究会……?始めて聞くサークル名だ」
ナムレは何を言っているのかわからなくなった。
最終更新:2016年11月10日 22:46