一般ファンタジー作品における描写の悠里解釈

本項では、一般ファンタジー作品における描写の悠里解釈を書き連ねる。




概要

悠里に属さない作品に対して悠里の世界観や主義主張においてどのように論理的解釈がなされるか、ということはほぼ中核悠里勢であった古代悠里界隈の時より興味を持たれていた。アブソリュート・デュオや現代の異世界転生作品に対する悠里ネタを見る限り非常に古い時期からこの悠里解釈が行われたと思われている。これらは基本的に作品が悠里世界と創作思想の元に置かれることによって悠里の包容性と力が無尽蔵に存在するとするネタであったが、裏返してみると悠里があるジャンルの作品(例えば異世界転生など)を書き、その構成を考える際に非常な制限を掛けるようになった詳細設定部創作をさらに昇華させることによって作品の描写を認めることが可能になるという悠里文献学の始まりでもあった。ここでは諸作品の描写と照らし合わせて、悠里解釈を用いることによってどのような表現や設定が可能なのかということを考えていく。

解釈一覧

神/女神

いわゆる異世界転生物における地球人を転生させて、何らかの目的を達成させようとする(或いは何らかの報酬として、地球人を転生させる)存在。悠里世界では「神」としてトイター教の神アルムレイがKranteerl y io hahuliに登場したが、これに関しては「悠里に神は居ない」思想の元で議論となり、スカルムレイ・ケートニアー説などという荒唐無稽な説が出てきたりした。ここから鑑みるに、悠里において「神」や「女神」を設定することは不可能であり、大体の存在として何を置くかは様々な案があるが、異世界から抜き出すという観点から見てケートニアーが適当と思われる。以降、「神」的な立ち位置のケートニアーを「神のなりきり」と呼称する。

ステータス魔法と詠唱発動

これまた異世界転生物からの概念である。「ステータス!情報開示!グラスノスチ!外は嵐!」みたいなことを叫ぶと個人情報が開示され、自分のレベルや強さなどが数値化されて出てくるという魔法である。この時点でその世界群がだいぶ人間が恣意的に選んだような環境設定になってしまっていることは無視することにする。なにも、強さが数値化されることが悪いわけではない。悠里にもラメスト・テロのxelken.valtoalの襲撃数全てをを片付けられることを基準とするxelk.という戦闘力単位がある。問題は、「叫べば、魔法が発動して自分のデータが見れる」ことにある。これが問題なのは、ウェールフープが化学的・物理的現象であることに起因していて、つまるところ「叫んでも声がちょっと遠くまで届くだけ」なのである。これについては、ルーティン解決という答えが存在する。つい最近流行ったラグビーの良く分からない選手の慣習がこれのアイデアとなっており、ルーティンと同じように叫ぶことで何らかの精神・身体的準備状態を生み出してウェールフープを発動することが可能になっているとする説である。そもそもウェールフープを発動するときに良く分からない言葉を叫んだり(Kranteerl y io hahuli)、ウェールフープを習得していない人間が習得する際に叫ぶことで習得できてしまったり(欺瞞走駆のテクトニアーKranteerl y io xal)、危機に陥ることで習得できる例=精神的環境がウェールフープの発動に関与した(覚悟と責任)などがあり、その文献的にも認められ、理論的にも認められる結論としてルーティン解決が認められる場合が多い。次に問題の個人情報を数値化して、当人に表示するステータス魔法であるが、これ自体をそのままウェールフープの自然的な効果でエミュレートするのはほぼほぼ不可能である。「神のなりきり」が呼び出した人間に力をあたえるまではウェールフープ可能化剤という説明が出来るとして、能力をプログラムすることができるなどというエビデンスは今までの文献上では存在しない。よって、ステータス魔法が万一にその人間の能力に出来るとしても、必ずそれを習得するとは限らないのである。もし、「神のなりきり」が発動しようとした瞬間を見計らって、彼のステータスを瞬時に見抜き、計算し、対象に幻覚を見せることができると考えてもあまりにも無理がある。まあ、確かに人間、頭がおかしいほど天才なやつは居るものだが、そういう話ではなく。
結論としては、夕張とリパコール(かそれに準ずるキャラを作って)を使えというしかない。フィクション内で真理設定が順守されるかどうかは前述のとおり、悠里中核が書いた小説でさえそうでないのであり、許されることは許されるのである。小説執筆者なんて実現性など端から考えてるのかね。

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最終更新:2017年07月13日 12:36