人々は来るべき大寒波に備えて暖炉にくべるための薪を買い求め、街は日没まで束の間活気に溢れる。
日は既に西に傾き、天高く聳える大聖堂の鐘楼から聞こえてくる鐘の音が、街の住人に日没が間近であることを知らせていた。
この国は大陸最北部に位置しているため、日が落ちるのが早い。
今年は北方の火山群が盛んに噴火したためか、人々は素晴らしい夕焼けを眺める幸運に恵まれた。
赤く巨大な太陽が、空を茜色に染めながらその巨体を地平の彼方に沈める姿は、息を呑むほど美しい。
暮れゆく太陽に照らされて赤く染まった街を、町外れの小高い丘の上から一人の青年がじっと見つめていた。
ボロボロの外套を纏い、ボサボサの髪の下から覗く蒼い双眸は、曇った鏡のように何も映していなかった。
彼は今、長らく留守にしていた故郷へようやく帰還してきたのだ。
だが、彼はこの街の雰囲気にまったく馴染みがなかった。
それも仕方のないことかもしれない。
彼が故郷を離れている間に、かつては排煙と降灰で汚れ、黒く煤けた街並みをさらしていたこの街は大変貌を遂げた。
あの屈辱的な敗戦以前と同じ、いやそれ以上の繁栄を謳歌するまでに復興していたのだ。
旅立った時とはまったく違う、穏やかで清潔な街の姿。
何故かそれが、彼の心を酷く動揺させた。
「…っ」青年は一瞬苦痛を感じたかのように顔を歪ませたが、すぐにもとの無表情に戻り、トレムレデールの街を目指して丘を降りていった。
夜中にドンドンと扉を叩く音でクレスは目を覚ました。
初めは空耳かと疑ったが、再度強い力で扉が叩かれ、自分が寝ぼけているわけではないことを確信した。
こんな時間に一体誰がどんな用だろう?不審に思いながら、扉の鍵穴から外を覗きむ。
今夜は満月だったためか、外は比較的明るく、相手の節くれ立った大きな手と、がっしりした大柄な人影が良く見えた。
…こんな時間に男?……まさか……
一瞬、ある予感が脳裏を掠める。
この街の治安は昔に比べれば随分良くはなったものの、まだ用心するに越したことはない。
「こんな時間に一体どちら様ですか?」
嫌な予感に身震いしながらクレスはそう訪ねた。
が、予想に反して、その男は彼女のよく知る人物だった。
「俺だよ、クレス。出来れば今夜一晩の寝床を借りたいんだが」
その声を聞いた途端、クレスは眼を大きく見開いた。
次の瞬間、彼女は扉を大きく開け放ち、近隣住民から苦情が来そうなほどの大音声で叫んでいた。
「やっと帰ってきやがったわね、ボリス!!!」
クレスはさあ、馬鹿たれを目一杯ぶん殴ってやろうと身構えたが、ボリスと呼ばれた青年は、扉が勢いよく開いた反動で吹っ飛ばされたのか、家の向かい側でぐったりしていた。
―――!
―――――――――!!!!
凄まじい絶叫と共に、ボリスは目を覚ました。
服が汗でぐっしょりと濡れている。
ボリスは震える手で、額の汗を拭った。まただ。またあの夢を見てしまった……
身体を半分起こし、辺りを見回してみると、懐かしい家の一室だということが分かった。
昨日のことはあまり良く覚えていない。
あの一戦を辛くも生き残り、長い旅の末にようやく故郷に辿り着いたが、帰ってみると家が無くなっていた。
年老いた母の行方も分からずじまいで、仕方無く昔馴染みの家に寝床を借りようと訪ねてみれば、
突然吹っ飛ばされ、気がつけばここにいた。
おそらく昨日のうちにクレスが自分を運び込んでくれたのだろう。
彼女は可憐な見た目に反して恐るべき怪力の持ち主だから別段驚かない。
それにしても寒い。寝床から這い出すのに苦労するだろうな、とぼんやり考えながら、ボリスは窓の外を眺めていた。
まだ日の光は弱々しい。柔らかな日差しの下には、きっと雪が積もっているだろう。
雪合戦をしているらしい子供たちの歓声が外から聞こえてくる。
束の間、ボリスは少年時代のことを思い出していた。あの敗戦を喫する前、祖国が未曾有の繁栄に沸き返っていた頃の事を。
確かにこの街はあの頃と見紛うばかりの復興を遂げた。そして今も発展の最中だ。
だが、この街は懐かしいあの頃の故郷とは違う。
いくら上辺だけ作り直してもダメなのだ。
自分の知っていたトレムレデールの街はもうない。
昔一緒に転げ回って遊んだ仲間、魔法硝子工房のお転婆娘カミラ、金細工職人の倅のガンデル、
ビール醸造所の親方の末っ子ボルフレン。それに一緒に旅立った一万もの若者達。
みんな、戦場で失った。
あの時の仲間で残っているのは、義勇軍に入らなかったクレスただ一人だ。
旅立っていった者たちの中で自分だけが生き残り、今こうして生き恥を曝している。
義勇軍に入った時、皆で約束したではないか。
『我ら生まれた時は違えど、同年、同月、同日に死なん!!』
『共に願わん、祖国の栄光を!!』
『共に誓わん、仇国の討滅を!!』
あの時の誓いは、今でも耳に木霊している。生涯忘れることはないだろう。
長旅で疲れ切った身体はまだ睡眠を要求していたが、またあの悪夢を見る羽目になったらと思うと、もう一度眠る気にはなれなかった。
ボリスがもう一度眠るべきか思案していると、いきなり部屋の扉が音を立てて開き、顔を強張らせたクレスが入ってきた。
「ボリス、大声出して一体どうしたの?」
おそらくさっきの叫び声を聞きつけたに違いない。だがボリスは、そのことをクレスに深く追求されたくなかった。
だから普通を装うことにした。
「おはよう、クレス。」
「え?あ、おはよう。ちょっとボリス、さっきの悲鳴あんたでしょ?何があったのよ。」
「大丈夫だ。ちょっと悪い夢を見ただけだよ。」
「…本当に?あんた凄い悲鳴上げてたわよ?」
「いや、本当に大丈夫だ。それよりクレス、昨日はありがとな。」
「別に。友達がぼろぼろの姿で戸口の前でのびてたら、大抵の人は一晩の宿くらい貸すでしょうよ。」素っ気なく返された。
こういうトコは昔から変わらないよな、とボリスは心の中で呟きつつ、クレスに一番気がかりなことを訪ねた。
「…ところでクレス、一つ聞きたいことがあるんだが。」
「なに?」
「お袋がどこにいったか分かるか?昨日帰ってみたら家もお袋もどこにもいなかったんだ。」
「あぁ……それは……」
クレスは何かに迷っているような様子で再びボリスを見据えた。
「…何か?」嫌な予感がした。
「…おばさまは亡くなったわ。」
「!?」何を言っているのか分からなかった。
「半年くらい前にね、前からちょっと元気ないなぁとは思ってたの。でもほんとに急だったから驚いたわ。あんたが街を離れてからずっと寂しがってた。」
「………」
「でも多分一番の原因はあの話がこの街まで届いたことかしら。」クレスのその言葉に、ボリスは心臓を掴まれたような気分になった。
「市民広報に載ってたわ。八か月くらい前にね。『ギムリアース民兵団、
レヌリア帝国領ファルム雪原にて潰滅。生存者は確認されていない』って。」
「………………」
「多分あれがおばさまには耐えられなかったんでしょうね。」
「あぁ。」ボリスの声は僅かに震えていた。たまらない。俺は戦友も家族も故郷も全部失ったのか…
「あんたが生きてるってこと、もう少し早く伝えられたらよかったんだけど…」
「…なあクレス、俺を軽蔑するか?」ボリスはそっと呟いた。
「どうして軽蔑するの?」
「ただ一人の肉親ほったらかして義勇軍に入った挙句、死にかけて、親まで失っちまったんだから、俺は最低の」
「馬鹿なことを。わたしがそんな間抜けに見えるわけ?」クレスの思いがけない強い言葉に、ボリスはたじろいだ。
「親友の生還を喜ばない人間がいると思ってるの?だとしたらボリス、あんたは相当イカレてるわ。
おばさまだってあんたが生きてることを願ってたのに。それじゃあんまりじゃないの?」
「…すまん、悪かった。ちょっとどうかしてた。」
「分かればいいのよ。あんたが生きてることを軽蔑するような奴は頭の腐った軍人くらいなんだから、胸張って生きれば良い。」
クレスはそれだけ言って黙り込んだ。目は相変わらずボリスを睨み付けたままだが。
何か聞きたそうな顔をしているが、じっとボリスを見つめるだけでなにも聞こうとしない。
だが、やがてその沈黙に飽きたのかクレスは再び口を開いた。
「………ねぇ」
「なんだよ。」
「……汚い。」
「なにが?」
「…アンタ、最後に身だしなみ整えたのって、いつ?」
ボリスは、クレスが何を言いたいのかを即座に理解した。クレスはいつだって単刀直入な女なのだ。
「ええと、多分二ヶ月くらい前だな。」
「なるほど、通りでね。」
クレスは鼻をひくつかせると顔をしかめた。
「どうやら身体の方も丸洗いの必要がありそうね。」
「…そんなに臭うか?」
そう言ってボリスは、着ていたシャツの匂いをかいだ。別段変な臭いはしない。
「たぶんもう慣れっこになって臭いを感じなくなってるのよ。今のあんたの体臭なら下水の臭いと良い勝負ね。」
クレスはそう言ってクスリと笑った。
「失礼な所は昔と全然変わんねぇな。」ボリスはやれやれという風に肩を竦めると、寝台から起き上がった。
「石鹸とタオル貸したげるから、その垢まみれの身体洗ってきなさい。」
クレスはそう言って戸棚から石鹸とタオルを取り出すと、ボリスに放って寄越した。
ボリスは受け取ろうと、反射的に右手を伸ばした。が、石鹸とタオルは空中で受け取られることなく、虚しく床に落ちた。
ボリスは苦笑してそれらを拾いあげた。……左手で。
「あんた、腕が……」その時になってようやくクレスはボリスの異常に気が付いた。
彼には、右腕がなかったのだ。肩の部分からバッサリと。
「ファルムの雪原で切り落とされた。」それだけ言って、ボリスは足を引きずるようにして部屋を出ていった。
最終更新:2011年12月13日 21:43