船は不安定なバランスで進んでいた。波は予想の三倍以上は荒れており、わたしは早
くも船に乗ったことを後悔した。たとえ後悔しても口から吐き出たミートパイやグリン
ピースの残骸は決して元に戻らないのだけれど。
「面白い顔をしているなリンス?」
長い髪を掻き上げながら、意地の悪そうな顔の男が、横からわたしを覗き込む。
――おかげ様で! わたしは無視して海に吐瀉する作業を続けた。
「フハハ。ぐうの音も出んか。だから言っただろう。女は都で大人しく待ってろって」
「うるはい」
相変わらず最低な男だ。ことに彼は女性をいじめることに関して恐ろしいほどの才能
を持っている。こんなのがうちの教授だと言うのだから手に負えない。
そもそも話を持ちかけてきたのは……
やっとのことで落ち着いた腹をさする。下を見ると既に吐瀉物の濁った黄色はかき消
され、濃密な白色が広がっていた。
「――あっ!」
瞬間、目の前を白い鳥が掠める。正確には鳥ではない。それは霧だった。
鳥の形をした霧の大群が船の進路から勢いよく飛んでくる。
「来たぞ――『白鳥海域(ミストスワン)』だ!」
わたしたちは慌てて船室に駆けこんだ。その際に教授が誰かの足に引っ掛かって転ん
でいたが、誰も手を貸さなかった。ざまあみろ。
始まりは一通の手紙だった。教授の旧友らしく技術者として働いている。彼が届けた
便りは、教授どころか、大学全体を熱狂させるくらいの内容だった。
それというのも、まずは『白鳥海域』に着いて説明しなくてはならない。
とある、地図にも載らない島がある。今日、未開拓の島など珍しくないのだが、そこ
だけは他と違う。何故なら、その島こそ今までに幾つもの人間の命を呑み込んできた、
死の島とも呼ばれ恐れられている場所だったからだ。
恐ろしきは島を守る無限の兵隊たち。
その島は、まるで親鳥が子を翼の中に隠し、守るようにして濃密な霧が全体を包んで
いる。そして巨大な雲のような霧から生まれ出る何匹もの白鳥。その霧の始まる場所か
ら一帯が白鳥海域と呼ばれている。
白鳥にぶつかってもそこまでの危険性はない。何しろ奴らの真の恐怖は船の動力部分
と衝突してからなのだから。詳しいことはわからないが、そこで運動する魔翌力に反応し
ているらしい。
魔翌力と触れた白鳥は一個の爆弾となる。
ドカン!――だ。
理論は不明。魔法で撃墜するのはもちろん前述の通り不可能。実体がないため武器は
通用しないし、相手は無限に精製されるのだ。あの悪魔の霧から。
霧の先には島がある。これは過去の、現代よりよっぽど発達していたあの時代の文献
から確認されている。しかし学会には、そこには何もない、文献は嘘っぱちだと言う人
もいる。その人は自分の息子を白鳥海域で失くしていた。
だからその島は地図に載らない。一文の『危険だから近寄るな』という警告があるの
みだ。
あるかどうかもわからない、霧で作られたような実体のない島。
そこに行く方法があるらしい。
「『蒸気船』ですか?」
「そうだ。よくわからんがアイツはそう言ってたな」
教授が言うには、例の旧友はなんとも奇妙な男で、自分を別世界から来たとか喚いた
狂人紛いだったらしい。偏屈な教授は彼に興味を持ち、そこからいろいろあったらしい
がわたしはよく知らないし知りたくもない。
「魔翌力を使わずに船を漕ぐ。そんな逆転の発想があったとはな! 確かに現代は過去の
栄華に追いつこうと先人たちが舗装した道ばかりを進んでいた。たまには寄り道もして
みるもんだ」
「だけど信用できるんですか? 魔翌力以外で船を動かすなんて、手漕ぎのボートとかな
ら聞いたことありますけど」
「実は過去にもそういう実験がされたことは証明されているんだ。文献をあされば幾ら
でも出てくる」
「文献ですか」
白鳥海域にしてもエンジンにしても、すべては先人がやったことの復習でしかないの
か。わたしたちは何時になれば、文献という劣等感を捨て、本物の未開拓の地を踏みし
めることができるんだろう。
「つい最近のことだがな、現代でもそういうのを勉強する学問が認められつつあるらし
いぞ。確か『錬金術』とかいう」
「御託はいいです。それで、どうしてその話をわたしに?」
ニヤリと口角を吊り上げる悪魔の顔。これだ。この顔は教授が心底楽しんでいる時の
顔で、そう言う時は大抵、わたしたち女が虐げられる場合なのだ。
「行きたいか?」
「別に……」
「本当か? いや嘘だ。目が泳いでる、鼻を触ったな――お、髪を弄る時は納得のいか
ない場合。ふふん、そんなに睨むなよ」
「何のつもりですか?」
なるべく語気は抑えたつもりだ。それでも、それでも!
自分の心を見透かされたことは構わない。それより、わたしは、こんな最低な男から
の招待でも、行きたかったのだ。現代を生きる人間は、まだ誰も見たことのない、神秘
の霧に包まれた島。そこの初上陸を踏む名誉がどれだけのものか!
「正直に言えば、考えてやらんでもないぞ」
大きく息を吐いた。
「行きたい、です。教授。お願いします」
教授はにっこり笑うと、
「やーだよっ」
ふざけんな。ふざけんな。
「いやぁ、お前が頭まで下げるとはな……よっぽど行きたかったんだな。よしよし安心
しろよ、俺がしっかりこの目玉に島の風景を焼きつけてくるから」
ふざけんな。ふざけんな。
「うんうん。俺はな、リンス。お前のそういう姿を見るのがたまらなく好きなんだよ」
ふざけんな。ふざけんな。
「だいたい俺が本気で連れていくと思ったのか?」
「ふざけんなあああああ――!!」
悲鳴が上がる。それは戦士たちの悲鳴だ。白鳥たちの泣き声だ。
「奴らお目当ての魔翌力がないもんだから混乱してやがるな」
そのおかげで船室にいる全員、悪魔に取り憑かれたような苦悶の表情で耳を抑えてい
た。教授は相変わらず飄飄としているが、現在、船はかなり危険な状況にある。
白鳥たちは見当たらない魔翌力ではなく、微弱ながらも匂うわたしたちの魔翌力に反応し
ていた。船室に我先にとぶつかってくる。
正直、島まで残りどのくらいで到着するのか。仮に到着できても、どうやって外に出
るのか。誰もその疑問は唱えずとも不文律として船室の空気に溶けていた。
「教授?」
「どうした。怖いのか。子守唄は歌ってやらんぞ」
「要りません。それよりですよ。もし……その、もしも、文献が嘘っぱちで、島が存在
しない、白鳥海域がただ霧の渦巻いてるだけの場所だったら、どうします?」
ふむ、と教授があごに手を当てる。外で床の割れる音がする。
「どうもしまい。霧を突き抜けて反対側に出るだけだ。まあ、出る前に船が沈むかもし
れんがな」
やおら教授が立ち上がる。外で煙突の折れる音がする。
「だがな。俺は島がないとは思わない。これは予感だけれど……何かを感じるんだ。こ
の霧の先に、仄かな明かりが宿っているような予感がな」
ニヤリと口角を吊り上げる悪魔の顔。あの時と同じ顔。
「ふふ。ですよね。わたしも心配なんてしません。持久戦です! 命尽きるまで付き合
いますよ!」
「嫌でも付き合わなくちゃならないんだがな」
教授が肩を竦める。船室に笑みが弾けた。
「教授っ!」
わたしは恥ずかしいことを言った。
わたしは泣いて教室を飛び出し、廊下を駆け抜け、階段のところで腕を掴まれた。そ
して優しく抱すくめられて、最低の男の胸で泣いた。
しばらくそうしていると不意に、ぶっきら棒に教授が言った。
「連れてってやるよ」
「連れてって下さい」
島に――絶対に連れてって下さいね。俺は船長じゃないけどな。島の実施調査の時は
ちゃんと舵を取ってください。お前に言われんでもわかってる。ですよね、約束しまし
たもんね。約束って何だ? 知りません。いやいや知らないってどういう
「お、おいっ!」
初めに気付いたのは誰だったか。少なくとも恥ずかしい言い争いを繰り広げていたわ
たしと教授以外の誰かのはず。船室には、既にわたしたちの会話の音しかなかった。
窓から眩しい光が顔を出す。船室から出ると、そこには無数の羽が散らばるばかり。
白鳥は見当たらず、悪夢が覚めたように霧もすっかり晴れている。広大な海がキラキラ
と光を反射している。
さてここはどこか。
霧の内か、外か、
わたしと教授は、ぼろぼろになりながらも進んだ勇敢な戦士の手すりを、労わるよう
に握り進路を睨む。
「教授……」
「ああ……」
「「おえーっ!!」」
青い海面を吐瀉で汚す。ざまあみろ。白鳥のいないお前らなんてこんなものだ。
口の端を拭う。しばらくすると、ずっと向こうに陸地が見えた。霧のように曖昧な姿
ではなく、堂々と、島は確かにそこにあった。
わたしは隣の男を見る。そして彼に泣かされたことを。あんな真似をしたのはきっと
素面でわたしを誘うことができなかったからだろう。ああでもして、さも罪償いのよう
に見せかけなければ、わたしひとりを誘うこともできない捻くれ者なのだ。
それでもいいと思う、こうして連れて来てもらえたのだから。
だけど泣かされた屈辱は忘れない。だからわたしは彼を見返さなければならない。
例えば――あの島の大地を最初に踏んじゃう、とか。
女の子を泣かせたんだからそれくらいの権利を譲渡するのは当然だ。
ふふふ。その時の教授がどんな間抜け面をするか、今からもう楽しみで仕方がない。
わたしはニヤリと笑った。 ~ fin ~
最終更新:2011年07月10日 21:46